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世界で一つだけの反乱

作者: 珠藻

少女と少女の純粋すぎる友情の果てにあるものを書きました。中学、高校生くらいの少女の、麗しい友情の中に秘められたドロドロとした執着心が好きです。

君の元に向かう。ただ片道分の切符だけを持って。帰りのことなんて考えない。ただ君に会いに行く。夏の早朝のホームは静まりかえっている。それも当たり前だね。私が乗ろうとしている電車はどこまでも田舎に向かっていく電車なんだから。夏とはいえどもさすがに朝は涼しく、少し肌寒いぐらいだ。

 日が昇る頃にはお母さんも私の脱走に気付くだろうか。そうしたらきっと大騒ぎになってしまうだろう。申し訳なく思うけれど、それでもこの行動に後悔はしていない。ごめんなさい、お母さん。今度はちゃんと帰るから。

 やってきた始発の電車はがらがらで、その車両には私しか乗っていなかった。ぼんやりと窓の外を眺めながら電車の揺れに身を任せながら考えるのは君のことばかり。私たちが最後に会ってから、もう一年になるんだね。君に会えることは楽しみで、だけど少し怖くもある。一年前から私は変わってしまっただろうか。君は私が私だとちゃんと見つけてくれるだろうか。そんなことを取り留めもなく考えてしまうよ。下らないって君は笑うのかな。そうだね、下らないことだった。君ならきっと私を見つけてくれるのだろう。

 車窓から見える風景はまだまだ都会のビル群だよ。そろそろ東の空が色づいてきたみたいだ。君の町までまだまだかかるね。朝早く起きたから眠いよ。ああ、眠いなあ。少し眠ってもいいかな。いいよね。きっと君の夢を見るから。私たちのあの夏の日と同じこの電車の車内にあって、君の夢を見ないはずがない。

 ねえ昴。今会いに行くから。


 あれは一年前の八月三日。二人で地域の小さな花火大会に出かけた日のこと。人ごみが苦手な私に君は合わせてくれて、打ち上げている場所からかなり離れたところにいたから花火はあまり大きくは見えなかった。下の方でしか上がらない花火にいたっては全く見えない。だけど音は違う。お腹を内側から大きく揺さぶる重低音はどん、どんとリズミカルに私たちの心を揺らしていた。

「花火って綺麗だよねえ。」

「そうだね。」

「あんなにあっけなく消えちゃうのがもったいないよね。」

 私がそう言うと昴は、それはどうかなと肩を竦めた。仕草の示すところがよく分からずいると、昴は、

「花火は散るからこそ綺麗なんだよ。」

 と呟いた。そうなのかな。私は単純に綺麗なものや楽しいことは長く続いてほしいと思ってしまうけれど。

「潮奈。」

 昴は遠くに上がる花火を見ながら改まった口調で、つらつらと考えていた私を呼んだ。

「どうしたの。」

 そう尋ね返したけど、昴からの返事はない。昴はそうして時折自分自身だけの世界に閉じこもってぐるぐると思考を巡らす癖があったから、その時即座に返事がなかったことを私はあまり気にしなかった。それからしばらくして花火もクライマックスと言う時になって、昴は先ほどの続きを口にした。

「二人だけでさ、革命しようよ。」

 一瞬昴が何を言ったのかを私は捕らえ損なう。かくめい。それはあまり日常生活で耳にする言葉ではなかったから目を丸くしていると花火から一切視線を動かすことなく昴は繰り返した。

「革命、ではないな。潮奈。二人で一緒に“反乱”しよう。」

 相変わらず昴の言うことはよく分からなかった。革命にしろ反乱にしろ、昴が何に抗いたいのかが分からない。だけど改めて私に向けられた目がいたく真剣だったから、思わず頷いてしまった。

「いいよ昴。」

 私はこの時に限らず、あまり深く物事を考えない人間だった。特に昴がしたことで私は傷つけられたことはなかったから、昴からの誘いがよく分からないながらも何だか楽しそうなものに思えたから、私はその反乱に参加することをあっさりと決めた。私と昴はいつだって二人で一緒だったのだ。昴が嬉しい時は私も嬉しかったし、昴が悲しい時は私も悲しかった。昴がしたいというのなら、私もそれをしたい。小さな頃から、それこそ小学校に上がる前から私たちはずっと二人で一緒にいた。そのうちいつしか感覚までも二人で共有していたみたいだ。

「いつから革命するの。」

「革命じゃないよ、反乱だ。」

 昴はそう言って再び視線を空に戻す。その白い頬を花火の閃光が照らした。

「明日、朝四時に迎えに行くよ。」

「何を持っていけばいいの。」

 そう尋ねると昴はわずかに考え込んで、

「何もいらない、かな。ああでも電車に乗るから、その運賃ぐらいは欲しい。」

「分かった。」

 電車に乗って、昴は私をどこへ連れて行ってくれるつもりなのだろう。遠くまで行くのかな。それとも反乱なんて私をからかっているだけで、本当は隣町に遊びに行くとかなのかな。分からないなあ。でも昴と一緒なのだからきっと楽しいに決まっている。お母さんに知られたら勉強しろってうるさく言われるのがおちだから、明日はこっそり家を出よう。

「潮奈、帰ろう。」

 明日のことを考えて胸を躍らせていると、昴に声をかけられた。どうやら花火は終わっていたらしい。先を行く昴の手を遠慮がちに握ると、昴は優しく握り返してくれた。それだけですごく嬉しくなる。明日の反乱が楽しみだった。

 そして翌朝、

「おはよう。」

四時きっかりに迎えに来た昴に私は声を潜めて呼びかけた。昴は何もいらないと昨日そう言った通りの軽装だ。

「反乱って、何するの。」

「逃げるんだよ。」

「逃げるって、何から。」

 駅までの道で尋ねると昴は小首をかしげながら、自分でもよく分かってはいないという風に答えた。

「何から、なんだろうね。」

「昴にも分からないの。」

「分からないな。」

 苦笑気味に昴は「それでも潮奈はついてきてくれるんでしょ。」と続けるから、私は何度も首を縦に振った。当たり前のことだ、そんなの。

「どこまで切符を買えばいい。」

 駅でそう尋ねれば、一番遠くまでと返される。始発の電車を駅のベンチに腰掛けて待つ。

「潮奈はさあ。」

「なあに。」

「どこまで行きたいの。」

「どこまで行くのって、さっき私がそれを昴に聞いたんだよ。」

「そうだったね。」

 困ったみたいに昴が笑う。

「じゃあ潮奈はさ、これから逃げたいっていうようなものはないの。」

「逃げたいもの、かあ。」

 そう言われて咄嗟に思いついたのは中三の夏、現在真っ盛りである、

「受験勉強から逃げたいかな。」

 勉強自体もそんなに好きなものではないけど、何が嫌だって幾ら勉強しても高校は昴とは同じところに行けないということだ。直接昴から聞いた訳ではないけれど、私はうちのお母さんとお父さんが話しているのを聞いてしまっていた。曰く、「昴ちゃん、高校は全寮制の有名な私立に行くんですって。」「なんで。」「さあ。でもあそこのお宅教育熱心だから。昴ちゃんがどう思っているかは知らないけれど、まあそういうことでしょ。」「昴ちゃんがいなくって潮奈はちゃんとやっていけるのか。」とのことだった。お母さんの不安も最もだ。何せ小中と今まで友達と呼べる友達は昴以外に存在していなかったのだから、私だってとても不安だ。

 だけど私は昴と高校について話したことはなかった。昴が地元から離れた高校に行くということだって直接昴から聞いた話ではないのだし、いつか昴が私にきちんと話してくれるだろうからその時まで何も言うつもりはない。いや、たとえ昴からそう告げられたとしても私は何も言わないつもりでいる。そりゃあ昴と一緒でないのはさみしいし辛いし不安だけど、それを昴に言ってはいけない気がする。昴の高校の話をうっかり両親がしているのを聞いてしまった時は部屋で散々泣いて翌日会った昴に目が赤いことを本気で心配させてしまったけど、その時からじっくり考えた結果私は昴が好きだから昴の足を引っ張りたくないという結論に達したのだ。だから幾ら昴の決断がショックでもそれを昴にだけは話さないと決めていた。今まで何年間も私は昴におんぶにだっこだったのだ。今度こそ昴の一番の友達として昴のことを支えたいと思った。

「潮奈は単純だなあ。」

 私の答えを聞いて昴が楽しそうに笑っている。昴がこんなに楽しそうにしてくれるのは私が相手の時だけなのだから、と昴が高校で同級生となる顔も知らない人々に対して軽い優越感を覚えた。

 来年の夏休みには私たちも高校生で、昴が地方の学校の寮に入ってしまうならこうして一緒にいられる時間はもう少ないかもしれない。だからこそ、この中学最後の夏休みは昴と一緒にいたいと思ったのだ。

「暑いねえ。」

電車を降りた私たちを歓迎してくれたのは大きな声で響く蝉時雨だった。蝉自体はビル群だらけの町にもいたが、こんなにも沢山の蝉が一斉に鳴いている声を聞くのは初めてだ。駅には改札は一つしかなく(それも自動ではない)、夏の高い空と鋭い太陽の光は私たちが住む町と比べて眩しさを増しているようで私は天を仰いで目を細める。

「ほら潮奈、行こう。」

 生命力に満ちた空気を胸いっぱいに吸いこんでいると昴に呼ばれたので、慌ててそれに続く。駅には何もなかった。本当に何もない。ごちゃごちゃと駅の中にお店だってないし、そもそも人がほとんどいない。だけど私にはその何もないことが魅力的に思えた。駅は駅として最低限の機能を周囲の自然と調和しながらしっかり果たしている。その周りとの一体感に惹かれる。歩き出す昴の背中を追いかけながら私は未練たらたらに駅から視線を前に戻した。まあいいや。帰りにじっくりと見ればいいんだから。今は昴を追いかけよう。

 真っ直ぐに昴が歩いて行った先にあったのは細い坂道だった。一応コンクリートで舗装されているけど、きっとこの道を車が通ることなんて月に一度あるかないかだろう、と思わせるような道だった。その証拠に両脇に生えている沢山の木々の枝は健やかに伸びて道まで浸食しているけれど伐採されていない。車が通るようならばこんなに自然の状態にはないだろう。自分たちが創ったものを効率よく使うためになら、人間は何を犠牲にするのも厭わないからだ。

「ねえ昴。」

 坂道を登りながら、先導してくれている昴に疑問をぶつける。

「昴はここに来たことあるの。」

「ないよ。」

 あっさりと昴がそう答える。

「え、でも昴さっきからぐんぐん歩いてるよね。」

「ああ。」

 昴がちらりと私を振り返って苦笑した。

「この道案内は全部当てずっぽうだよ。」

 そう昴に言われるまで、昴はここに来たことがあるのだろうと思いこんでいた。だってあまりにも足取りに迷いがないんだもの。

「なんだあ。私は昴があらかじめ目的地を決めているのかと思ってたよ。」

「目的地は決めて来た。」

 そこでふっと日陰に入った。この坂を登り始めてからというもの、直射日光の鋭さと木漏れ日の眩しさの繰り返しだ。

「どこなの、その目的地って。」

「一番上、だよ。」

 なんとも抽象的な言葉で昴が言う。

「ここは見ての通り山が多いでしょ。だからこうして坂道にしろ何にしろ、登っていたらいつか一番上に行けるんじゃないかって思って。」

 一番上、かあ。結局昴と私が何を目指して歩いているのかは全く分からなかったけど、その言葉の響きには胸が躍った。一番って、なんかいいな。私は目立つタイプじゃないし、何かそう大きな特技があるという訳でもないから、一番になる機会なんてほとんどない。だから今昴と一緒に一番になりたい。

「うん一番上にきっと行けるよ。頑張って坂を登りきろうね。」

 私はまたもや深く考えずにそう言った。そもそも私はこの中学三年生にとってかなりの遠出である今回の反乱のことを実のところちょっとした遠足ぐらいにしか考えていなかったのだ。昴と一緒に遠くまで来られて嬉しいなと、そのぐらいのことしか考えてなかった。そんな適当な私の内面には気付かずに昴は目を細める。

「そうだね。」

 と、優しい声で一言言って。


 蝉時雨の騒がしさはあの時と変わっていない。それから、太陽の光の厳しさも。高い青空を見上げてみてその光の鋭さに僅かにではあったけれど立ちくらみを起こす。倒れてしまわないように自分からしゃがみ込んでやり過ごした。こんなところで倒れてしまう訳にはいかない。私は君に会いに行かないといけないんだから。

 一年前と同じ道を歩いていくと、昴と共に懸命に登って行った坂道に行き当たった。かばんの中から日傘を取り出す。出来ることならば全身に太陽からの光を浴びていたいけれど、この体調ではそれは少し厳しいから。人工的に作り上げた日陰の中に納まって長い長い坂道を登り始めた。ちらりと腕時計を見ればもう八時過ぎだ。いくらローカル線とはいえ、ここまで来るのに二時間以上かかったことにはちょっと驚いた。これからどんどん気温も上がっていく。空は一年前にこの坂の入り口で見上げたのと同じ見事な青空で、それなのに雨が降るなんてことそうそうないだろうからこれから午後になれば地面からの照り返しもきつくなる。そうなる前にアスファルトのこの坂は登りきってしまいたい。速度を上げて行く脈拍は無視して、足をひたすら機械的に動かしていった。

 八時かあ。ということは私の失踪はもうお母さんたちにも知られているのだろう。一応書置きを残して来たけれど、それに気付いてくれたとしてもきっと大騒ぎになっているだろう。私も本当は、今回のことを自分でも無謀だと思ってるから。こんな体力の落ちている時に長時間電車に乗って、厳しい日光の下で山登りをしようだなんて無茶以外の何物でもない。でも私はなんとしても今日行かないといけなかった。今日、八月四日。一年前と同じ日にここに来ないといけなかった。そうでなければ意味がないと思ったんだ。

 君はきっと私のこの無謀な冒険を呆れるだろう。呆れを隠しもせずに溜息をついて、そうすることで君の優しさから溢れた私への心配を、包み隠してしまうのだろう。ねえ、昴。私は今まで何度も言ってきたよね。昴が優しいことなんて知ってるんだって。そんな風に隠したって全部無駄なんだからって。

全く。いつだって君は不器用な人だったよね。優しい心の持ち主であったのに、君のそれは周囲には知られていなかった。私だけが知っていた。君は慎み深い人だったから、好意の押し売り、お節介と呼ばれるものを焼くなんてことは決してしなかった。何かあれば常に一歩引く。ぐいぐいと入り込んできたりしない。それが昴だものね。きっと面と向かってこう言えば君は真っ赤になって照れて、それを隠すためにわざとぶっきらぼうに否定するのだろう。そうだよね。いつだって君は簡潔で飾りのない、無駄のない言葉で話す。人によってはそれを無愛想だと言うけれど、私にとっては違うよ。短い言葉の中に溢れんばかりに詰め込まれた君の思い。それが優しさであることを私はよく知っている。ああ、皆はかわいそうだな。君のその照れ隠しのところだけを聞いて、それで君を無愛想だなんて思いこんでしまうのだから。別にいいよ、そうしたら私が君を独り占めするだけだから。

だけど時々思うんだよ。そうして君を独り占めして、それは君のためにはならないんだなって。君とずっと二人でいる。それは確かに私にとっては間違いなく幸せの一つ。君にとってももしかしたら幸せの一つではあるかもね。でも昴、昴はもっと世界を広く捉えてもいいと思う。高校のことだってそうだよ。昴と違う高校に行くこと、私はさみしいけどそれは決して君には言わないって決めていた。だって自信もあったから。昴が高校でどんな人と出会ったとしても、昴にとって一番の親友は私に違いないって。だから昴。私は君が遠くの学校に行くことを止めはしたくないんだよ。君が大切だから、今までずっと一緒に生きてきてまるで自分の半身であるかのように君のことを思っているからこそ、君の未来の可能性を潰したくないと思える。昴はさすがに頭がいいから私みたいに猪突猛進ではなく、どちらかといえばむしろ広い視野で物事を考えることが出来る。だから昴の世界が本当はひどく狭いものであるということを昴はきっと納得しないだろう。私は一年前、昴に本当はもっと上手に話さなければいけなかったのだ。昴に昴の内面に肉薄した話が出来るのは、誰よりも昴の隣に居た私だけだったのだから。


ちりんという涼やかな音が聞こえたのは風が吹いたからだった。昴にくっついて坂道を登り続けることに相当疲れていて俯き気味になっていた顔を上げると、そこには商店があった。軒先には風鈴がぶら下がっている。

「うわあ。」

 店先で氷水に浸されて冷やされているラムネがあまりにおいしそうで思わず感嘆の声を漏らすと、少し前を歩いていた昴が自分の腕の時計を覗き込んだ。

「もう十二時か。ちょっと休憩しよう。」

「うん。」

 ラムネと、それから適当におにぎりを買って、二人で店の傍にあった石段に腰を下ろして頬張る。朝の四時以来何も口にしていない身体はそれでも空腹を感じないと思っていたら、どうやら空腹を通り過ぎていただけだったみたい。よく冷えたラムネの炭酸が喉を心地よく刺激する。

「嫌な空模様になってきたな。」

 空を見上げて昴が呟く。私もそれにならって上を見ると、確かに灰色というより黒い雲が徐々に空を覆い始めていた。

「急ごう。ひと雨来るかもしれない。」

 昴がラムネを飲み干して立ち上がる。そのままビンを返そうとするから慌てて遮る。

「待って昴。」

「何、潮奈。どうしたの。」

 空ビンを昴の手から取る。それからビンの口についているキャップを外して、中でころころと揺れているビー玉を取り出した。きょとんとした顔で私の手元を見ている昴に、私は私のビンから取り出したビー玉を手に握らせた。

「おそろいだね。」

 薄青の硝子越しに覗いても分かるほど、昴の顔は真っ赤に染まっていた。顕著な反応が見られることは嬉しいけれど、それをあまり表に出しすぎると照れ屋な昴は怒るから、私は二人分のビンを店先に返しにいくことでにやつく顔を昴から隠す。あんなちゃちなビー玉だけで、こんなにも喜んでくれるなんて。

 ビンを返して昴のところに戻ると、昴はビー玉越しに坂の上の更に上を見ていた。

「あと少しでこの坂が終わったら、次は山道だ。」

「一番上まで行けるといいね。」

「行けるよ。」

 昴が断言する。

「何て言ったって、私と潮奈なんだから。」

 それから目を頭上の雲から私の瞳に向けて、力強く昴は続けた。

「私たちに不可能なことなんてない。」

 と、強気に言った後はにかみながら囁くみたいな音量で昴は言った。

「潮奈のビー玉越しに見た空は、すごく綺麗だったよ。」


 軒先にぶら下がっている風鈴を見て懐かしさに目を細めた。まだ店はやっているのか、それともやっていないのか。それはここに来るまで分からないことだった。一年前の段階ですでに店をやっていたおばあさんは相当な歳のようだったから、もう店を畳んでしまっているかも知れないと思っていたのだ。

「すみません。」

 あの時と同じように店先で氷水の中で冷やされているラムネを一本手に取って、店の奥にいるおばあさんを呼ぶ。おばあさんはすぐに出てきて、私が手に持っていたラムネについた水滴を丁寧にぬぐい取ってくれた。

「一本下さい。」

 言われた金額を渡し、受け取って店先の石段に腰掛ける。ここまで登る間に随分と息が上がってしまっていた。一気に炭酸を飲み干すことは今の私には少し辛いので、ゆっくりと口に含んで嚥下した。ポケットに突っ込んであった携帯電話を見てみれば、着信が四十八件も入っていて目を丸くする。発信源を確認してみるとどれもこれもお母さんとお父さん、そして病院のものだった。幾つか入っていた留守電のうちの一つを聴いてみる。

『潮奈、どこにいるの。昴ちゃんに会いに行ってくる、ってどういうことなの。早く、帰って来なさい。それと』

 お母さんの声が今にも泣きだす直前といったような悲痛なものだったため、それ以上聞き続けることは出来ず、言葉はまだ途中であったが携帯電話をもう電源ごと切った。どれほど心配をかけることになるのか、自分では分かっていたつもりだったのに。私はやっぱりまだまだ子供だった。相手の気持ちを考えたつもりになって、それで浮かれているだけ。貧困な想像力しかないから本当に思いやり深い人にはなれないのだ。

 もう一口ラムネを飲む。思っていたよりも炭酸が弱い。これなら一気に飲み干しても大丈夫かもしれない。口の中で弾ける炭酸は痛みを伴わず、比較的優しいしゅわしゅわとしたものだったから安心する。荒れる呼吸を整える意味でももう少し休憩していたいけれど、あの時よりもここに到着した時刻は遅い。これからの山道だって、恐らく一年前ほど早くは登れないことを考えると早く出発しなければ。空には真っ白で大きな入道雲。空気は乾燥しているし、積乱雲があるとはいえ雨は降りそうにないからこのまま道中ずっと暑いままだ。体力のことを除いても条件は一年前よりも厳しい。ラムネを出来るだけ一息に飲み干して、まだひんやりとしているビンを首筋に当てて体温を下げる。深呼吸して、出発しようと立ち上がってから忘れてはならないことを思い出す。

「そうだ。」

 ビー玉を取り出してからラムネの空きビンを返した。このビー玉を忘れるわけにはいかない。昴への大切なお土産だ。

 あの時の昴のように試しにビー玉越しに空を見上げてみた。空の青を透かして輝くビー玉は確かに綺麗ではあったけれど、私はこうして丸く切り取られた空よりも自分の目で見る無限の空の方が好きだなあと思った。だけど昴がこの空を愛した理由はなんとなく分かる気がした。後で昴に会ったならこのことについても聞いてみたい。そして私が昴の気持ちに対して立てたこの予想が果たして正解なのかどうかを確かめたい。

「よし、行くか。」

 ビー玉もポケットに突っ込んで、そして昴が待つ山の上へと向かう道を歩き出した。もうすぐ会えるね。と、胸の中で昴に呼びかけながら。

 山道では先ほどまでよりも蝉の声がよりいっそう賑やかになった。目につくところにも何匹も止まっている。そういえば聞いたことがあった。田舎の虫はあまり人を知らないから、人に対して警戒心を持たないのだと。それが本当かどうかは知らないけど、でも確かにこんな道滅多に人は通らないのだろうなあと思う。人が歩いたことで創られた通り道、とでも言えばいいのだろうか。舗装されている訳でも、急な坂に手すりが付いているわけでもなくただ人が踏みしめた地面だけ色が変わっていて、そこを歩いて行く。途中何度も足を滑らせそうになりながらもなんとか踏ん張って堪えた。

 昴の後にくっついて行けば良かったあの時とは違う。私が歩きやすいように地面を硬く踏みしめてくれていた昴は今はいないのだ。私は自分の力だけでこの山を登りきらなければらない。あの時出来なかった代わりに。

 そう考えて足を更に前へ運んだ瞬間、ふっと眩暈がした。視界がぐにゃりと曲がってブラックアウトしそうになる。先ほど感じたものよりも強いふらつきを感じる。こんな場所で倒れてしまったら一気に真っ逆さまに下に転落してしまう。先ほどと同じように自分からしゃがみこんで倒れることは避けた。日差しは坂道を歩いていた時よりは楽になっている。この山道はさっきよりも沢山木が植わっているため日陰が多いのだ。だけど気温は確実に上昇してきている。軽い熱中症みたいになっているのかもしれない。少し頭痛もする。

 だけどそんな痛みは無視して私は歩き続ける。昴の待つ山の上まで、ただひたすらに。


「昴、速いよ。」

 ずっと黙って我慢していたけれどこれ以上は無理だった。もう昴のペースには付いていけない。私が本気でそう嘆いていることが伝わったようで、昴は振り向いて多少呆れた顔こそしたものの、速度を私が歩きやすい速さにまで落としてくれた。

「なんでそんなに焦っているの。」

「さっき潮奈も見たはずだよ。あのひどい曇り空。」

「ああ、うん。」

 何だか嫌な気持ちになる空だった。ただの曇りだったら山登りに涼しくて丁度いいのだろうけど、あんな真っ黒な雲は怖い。

「こういう天気の時はね、降り始めたら一気に来るよ。」

 と昴が言い終わるか終らないかのうちに、地面がポツリと濡れた。あれ、と思い昴の方を伺うと、

「これは大変だ。」

 昴は深刻な顔をしていた。それを見て私は更に不安になってしまう。どうやらそれが表情に出ていたらしい。昴は私の頭を撫でながら、いつもよりも硬くて険しい声で言った。

「潮奈やっぱり急ごう。こんな不安定な山道で雨に遭ったら危ない。」

 そう言っている間にも次から次へと雨滴が空から降って来る。ごろごろと遠くの方で雷が鳴るのも聞こえてくる。地面はもちろん舗装なんてされていないから土がむき出しだ。こんなところに沢山雨が降ってきたら土砂崩れにでも巻き込まれてしまうかも知れない。だってバケツをひっくり返したみたいな雨だ。そうならない保障なんてどこにもない。そう思い当って私は恐ろしくなった。

「す、昴。」

 前を行く背中を震える声で呼び止めた。焦っているようで若干苛々とした顔で昴は振り向く。そして泣きだしそうな顔をしている私を見て目を丸くした。夏草のむせ返るような青い匂いが鼻につく。

「どうしたの潮奈。」

 本気で昴が私を心配しているのが分かる。泣き出しそうな私に、そんな場合ではないのに、おろおろと動揺しているのが分かる。昴は数歩先を行っていたけれどすぐにこちらに駆け寄ってきてくれた。昴の目を真っ直ぐ見ながら私は頭に浮かんだことをそのまま口にした。

「昴、昴。」

 私は気付けなかったのだ。それは決して言ってはならないことだったのだと、気付けなかった。ただ雨が怖いから。雷が怖いから。甘えたな私は早くこの恐怖から逃れたいというその一心だけで昴に言ってしまったのだ。

「昴、もう帰ろうよ。」

 それを言った瞬間昴の顔は凍りついた。

「もう今日は十分楽しかったよ。こんな遠くまで来て冒険出来てすごく楽しかった。昴とのいい思い出になる。だからもう帰ろうよ。」

 昴は凍りついたまま、何も言わない。昴はそのままの状態で固まっている。更に言い募ろうとしたその時だった。眩い閃光が空を縦に切り裂いた。そしてすぐに轟音。どこかに雷が落ちたのだ。段々段々恐怖が現実のものへと近づいてきて私はもうパニックだった。昴の手から逃れるように首を横に振って、昴から一歩思わず後ずさる。

「昴帰ろうよ。こんな雨が続いたら危ないよ。雷だって鳴ってるんだよ、落ちたんだよ。」

 それでも昴はショックを受けた顔をして立ち尽くすばかりで何も反応を示さないから、私は焦りから次第に苛々してきた。そして更に言ってはならないことを言ってしまう。

「昴がよその高校行くことは知ってるよ。今日のこれはその思い出づくりの一環だったんでしょ。もう十分だよ。また今度別のところに行って、もっと思い出作ればいいじゃない。」

「潮奈。」

 呟いた昴の声は震えていた。

「今日のことそんな風に思ってたの。」

「思ってたよ。こうして昴と夏休みを過ごせるのも今年で最後になっちゃうからなんだろうなって思ってた。」

「そもそも。」

 再び、空に閃光が走り轟音が鳴る。心なしか先ほどよりも近くなってきているようだ。それに怯えてびくりと震えた私に労りの眼差しを向けながら、昴は続ける。

「私がよその高校に行くかも知れないってことをどうして潮奈が知ってるの。誰にも言ってないのに。」

「昴のお母さんがうちのお母さんに話して、それで知ってるんだよ。本当は昴の口からその話をされるまでは黙っておこうと思っていたけど。」

 思わず勢いで言ってしまったのだ。私が言葉を濁していると昴は一歩分開いていた私との距離を詰めて、私の両手を握りしめた。

「知ってたのに、知っていたならどうして潮奈は私を引き止めてくれないの。潮奈は私と一緒にいたいのだと思ってた。だから今日こうして反乱しているのに。」

「反乱って言っても。」

 今日こうして私と昴が山を登ることで一体何が変わるっていうの。心の中で呟く。私には昴の考えていることが分からない。困惑していると昴は更に語気を強めて話を進めた。

「一言でも潮奈が言ってくれたら、『行かないで』と言ってくれたら私はずっと潮奈の傍にいる。今日ここに来たのは思い出作りなんて、そんな生ぬるいことのためじゃない。潮奈とこれから一緒に戦っていくためだ。」

「大げさだよ。大体、戦うって何と。今日の昴は訳分からないよ。」

 初めから、昨日昴から反乱しようと言われた時から相手なんて分かっていなかった。でも気にならなかった。昴と一緒だから。昴と一緒なら、楽しいに決まっているから。だけど今になって昴とこうして言い争っているうちに、私はこの反乱に参加すると自らが宣言したのだということを忘れてしまっていた。

「昴は反乱って言うけれど、私は昴が何に反乱を起こしているのかだって聞かされてないんだよ。」

「潮奈はそんなこと知らなくていいよ。ただ私と一緒にいてくれればいい。」

 そう言うと昴は抗う私の力など全く影響ない様子できつく私を抱きしめてきた。

「今までだってずっとそうしてきた。潮奈は知らなくていい。私が知っていて、それを潮奈に教えてあげるから。」

 益々強くなる雨。大粒の滴が痛いぐらいに私たちを叩く。ごろごろという不吉な雷の音も大きくなってきている。怖い。もし何かあったらどうしたらいいのだろう。お母さんに今日は何も言わずに出てきてしまった。きっと心配している。それでもしもこんなところで何か事故にでも巻き込まれてしまったら、そう思うと今すぐにこの山を駆け下りて、かんかん照りだった坂道を下って電車に乗って帰りたくなる。だけど私は身動きが取れない。昴が力いっぱいに私を抱きしめているからだ。

「放して、昴。もう帰ろう。」

「嫌だ。帰らない。」

 かたくなに昴は首を横に振る。

「お願い。ねえ潮奈。『行かないで』って言ってよ。たった一言、それだけでいいから。そうしたら私はまたこれからも潮奈と一緒にいるから。」

 昴が必死な顔で繰り返すのを私は半ば茫然と見ていた。取り乱した昴なんて私は知らない。私が知っている昴はいつだって冷静で何でも知っていて、不器用な優しさを私にくれる昴だ。私を守ってくれる昴だ。

「潮奈、ねえ言ってよ。」

 私に回されている昴の腕は震えていた。その震えが私にも伝染してきて、私の身体もがくがくと震えだす。私たちはずっと一緒にいた。小さい頃からずっと友達なんてお互いだけだった。だから私たちはいつしか感覚すらも共有するようになっていたのだ。昴が悲しければ私も悲しい。私が嬉しい時は昴も嬉しい。だけど今、何故だろう。この激しい雨と雷のせいなのだろうか。私には昴の心が全く見えない。昴が何を思っているのか分からない。

「潮奈。」

「昴。」

 雨が怖い。雷が怖い。だけどそれ以上に自分の知らない昴が怖い。

「私には言えないよ。『行かないで』なんて言えない。」

 震える声でそう呟くと昴は激昂したようで激しい口調でまくし立てた。

「何で。潮奈だって私と一緒にいたいでしょ。なのに何故言ってくれない。潮奈が言ってくれたら何だって私は出来るのに。」

「昴。」

 もうお願いだからやめてほしい。昴がそう繰り返せば繰り返すほどに頭ががんがん痛む気がする。昴の一言一言が悲痛な声で私の胸に突き刺さる。そんな痛み、私は堪えられない。

「私、昴がよその高校行くこと知ってた。」

「それは聞いたよ。」

 昴が続けて口を開く前に私は自分から話を始めた。

「だけどその時から決めていたんだ。昴がなんと言おうとも、私は昴を引き留めないと。」

 昴の目が限界まで見開かれる。虚ろな声が、嘘だ、と呟いた。その姿に一瞬言葉を失ったけれど、地面を叩く雨の音に負けないように私は言う。

「昴のこと大好きだよ。だから足を引っ張りたくないの。昴の一番の人として、ちゃんと私が昴の決断を支えたいと思ったから。」

 思い返してみてほしい。今までどれだけ昴が私を支えていてくれたのかを、自分の胸に手を当ててしっかりと考えてみてほしい。昴が私にしてくれたことは沢山ありすぎて、だけどそのどれもが私にとってかけがえのないエピソードなんだよ。昴にとってだってそうであるはずでしょう。

「昴と離れることになると知って、それでようやく今までずっと昴に甘えすぎていたのかもしれないなって気付けたんだ。だから今回はそうありたくない。」

 自分の中で今までずっと隠してきた素直な思いを自分に言い聞かせるようにして呟いた。私は昴のこと大好き。だから昴の邪魔にだけはなりたくない。昴と一緒に、高校に入ってからもずっと今日のように二人で居られるのならばこんなに嬉しいことはないけれど、でも昴にとっては違うだろう。不器用な昴。他に類を見ないほど優しい心の持ち主の昴。昴は私の面倒だけ見てくれているけれど、それはひどくもったいないことだよ。

「昴は昴の望むことをした方がいいよ。私のお守は一時休んでさ。」

 たとえ別々の高校に入ったとしても昴の一番の親友は私でしょう、そう続けようとした声は昴に遮られた。

「どうして今更そんなことを言うの。私は自分で望んで潮奈の傍にいるのに。潮奈以外の誰かなんていらない。」

 回された腕の力が強くなる。昴は渾身の力で私を抱きしめていた。まるでそうしてきつくきつく抱きしめていれば融け合って一つになれると信じているかのように。

「私は潮奈だけがいてくれればそれでいい!」

激しい雨の音にも、雷鳴にも負けずに叫び続ける昴の腕から逃れようと私は全力でもがいた。とにかく怖かったのだ。雨も雷も、それから昴も。恐怖とそれから寒さでがくがくと震える身体だから満足に押し返すことは出来ない。だけど必死に暴れているうちに、昴を軽く突き飛ばすような形でようやく私は昴から解放された。

「あ。」

 その時こぼれた声は私のものだったのだろうか。それとも昴のものだったのか、あるいは二人のものだったのか。時間にしてわずか一瞬。だけど不思議と景色は鮮明だ。どこかでまた雷が光っている。そのフラッシュで切り取られた一瞬、世界が音という音を失ってしまったのかと思うほどに静かだった。足が空を踏んだ。昴を突き飛ばすようにして彼女の腕から逃れた私はその慣性の法則に従って逆方向への加速をすることになったのだが、その方向がまずかった。昴は山のぐしょぐしょに濡れた地面に尻持ちをついた。だけど私は違った。左足が柔らかくなった地面を滑り、右足はたたらを踏んだ。

「潮奈、」

 昴が私に右手を差し出してきた。宙を搔きながら私も手を昴の方に伸ばす。だけど私は昴の手を掴まなかった。

 そしてそのまま重力の加速に従って私は落下していく。景色がまるで四倍速で再生した映画みたいにとてつもない速度で流れていくのを走馬灯のように見送って、

「昴。」

 泣かないで。落下する直前に見た顔を思い呟いた瞬間。全身を衝撃が襲い、私は意識を手放した。朦朧とした意識、ブラックアウトしていく景色の中で、昴の呼ぶ声が聞こえる気がする。だけどそれも激しく降り続ける雨音にかき消されてすぐに聞こえなくなった。


 重い重い瞼を持ち上げて次に私が目を覚ましたのは地面の上ではなく、清潔な純白のベッドの上だった。窓からは橙色の光が差し込んでいる。雨は、雷はどうなったのだろう。それにここはどこ。昴は、どこにいるの。何がどうなっているのか分からなくて、身体を起こして周りを見回そうとする。けれど力が入らずにそれは叶わない。仕方なしにそのまま空を見上げていると、静かな音と共にドアが開いた。億劫であったけれど、首をそちらに向ける。

「潮奈。」

 入って来たのはお母さんだった。お母さんは瞬きをする私を見て、掠れた声で呟いた。手に持っていた荷物がどさりと音を立てて落下した。だけどそれには目もくれずただ呆然と私を見つめている。

「お母さん。」

上手く声が出せないことに戸惑う。ただこうしてお母さんを呼ぶということだけで何故かひどくしんどかった。

「ここは、どこ。」

「潮奈。」

 やっとの思いで搾りだした私の声には答えずにお母さんは駆け寄ってきて、そして横たわっている私を震える手で抱きしめた。

「どう、したの。」

 お母さんは泣いていた。私の頬に温かい滴が触れる。不快、ではなかった。むしろ心に沁みいっていくようで胸が熱くなる。部屋は暑くはなかった。寒くもなかった。けれどどこか冷たく無機質な印象を受けるこの部屋の中で、お母さんの涙は私の心を震わせた。それからしばらく私たちは二人で静かに泣き続けた。そしてやがてやって来たお医者さんから、私は私と昴の反乱の顛末を知る。

 昴もあの後、どうやら山から転落してしまったようだ。土砂崩れを心配して山を見に来た地元の人が地面で血を流しながら倒れている私と昴を偶然発見してくれて、救急車を呼んでくれたらしい。私の荷物の中に入っていた携帯電話から個人の特定がなされて、そして私と昴の両親に連絡がいき、私たちが意識不明の重体であることを知らされたのだそうだ。下の地面が雨で相当柔らかくなっていたからだろうか、私たちは二人ともそこまで外傷はひどくなかったらしい。まあとはいっても血は出ていたし雨で身体は冷えていて大変な状態ではあったようだけど。だけどその外傷が癒えても私たちはずっと目を覚まさなかった。あの反乱の日から約一年。再びめぐって来たこの夏に私が目を覚ますまで、私たちは一年間眠り続けていたのだ。

 目覚めてから一週間はとにかく検査の毎日だった。それが終わってようやく私に自由が与えられてから、私は真っ先に昴が眠る病室に向かった。私もそうだが昴ももちろん個室にいた。昴のご両親は今回のこの怪我の責任は全て昴にあると言って、私の医療費を大分負担してくれたらしい。昴の家は相当裕福だからきっとそれくらい痛くも痒くもないのだろうし、私は本来それに感謝するべきなのだろうけれども何か釈然としない。だってどうして昴が全て悪かったと決めつけるのだろう。昴も悪かったけれど、私だって悪かったのだ。倒れていた私と昴を発見してくれた人は昴が自ら飛び降りたところを見た訳ではないのに、昴の両親は昴が自分の意志で飛び降りたものだと思っている。そして私は昴の自殺に巻き込まれたものだと、そう考えている。なんて突拍子もない考えなのだろう。だって昴が自殺をする理由なんてない。なのにそれをよりにもよって昴の味方でなければならないはずの昴の両親が言っているだなんて。それとも昴の両親は、昴が自殺をするほど何かに思いつめていたと確信していたとでもいうの。私ですら気付かなかったのに。私は昴が高校のことであんなにも思いつめていただなんて全く気付いていなかった。そしてその原因をつくったのは他ならぬ昴の両親だ。だから昴は自殺だと思ったのだろう。自分たちが昴を追い詰めていた自覚があったから。

昴は私を助けようとして足を滑らせたのだと思う。昴の性格を考えれば、私が落ちた後そのままでいられる訳がないから。きっとすぐに助けようとしてくれた。昴が私を独りにしておけるはずがない。それはきっとどんなに危機的状況にあっても同じことだろうから。

 昴は眠っていた。数日前までの私と同じように、清潔な白いベッドに横たわって。私が会いに来たらもしかして目覚めるのではないだろうか、などとロマンティックな想像をしていたけれどそれは所詮ただの夢物語であったようだ。私が会いに行っても昴が目覚めることはなかった。あの反乱の日に私たちはバラバラになってしまったから。二人で一つの景色を見て、二人で一つの感覚を共有し得たあの奇跡のような歳月は終わってしまったのだ。決して目を開けようとはしない昴が、私は悲しくて悲しくて堪らなかった。あの日私は昴を裏切ってしまったということを、そうして思い知らされた気がした。帰ろうよ、だなんて言ってはいけなかったのだ。昴はただ私と一緒にいることしか考えていなかったのだから。差しのべられた手を私は拒んではいけなかった。今までその手に縋ってきたのは私なのだ。君を拒絶するなんてそんなこと、してはならなかったのに。落下する直前、雷のフラッシュに照らされて一瞬見えた昴の表情が頭に焼きついて離れない。差しのべられた手を握らなかった私を見て、君はひどく傷ついた顔をしていた。もしもあそこで私が昴の手に縋りついていたら、きっと私たちは二人で一緒に真っ逆さまだった。昴を巻き込みたくなかったから手にすがりつくことが出来なかったんだよ、と今になって君に言ってもそれは結局言い訳にしかならないのだろうけれども、だけど昴にはどうしても言いたい。私は昴を拒みたかったのではないのだということを。

 今になって昴が反乱という言葉にこだわっていた訳がようやく分かったよ。革命はそれによって世界を変えられる。だけど反乱は違う。反乱とはやがては制圧されるもののことだ。一時世間を賑わせ、そしてすぐに忘れ去られてしまうもののことだ。私たちの反乱が何も生み出さないことをきっと昴は初めから分かっていたんだね。あの夏の日の冒険が私たちの未来に希望の光を灯すことはないのだと、昴、君は分かっていたんだ。ねえ、あの日無邪気に笑う私を見て君はどう思っていたのかな。反乱という言葉に君が秘めていた重い思いに何一つ気付かず、ただ楽しげにしていた私はなんて愚かだったのだろう。ごめんね、昴。ごめん。眠る昴の隣の椅子に腰を下ろし、私はただ声を押し殺して泣いた。あの日私が言った言葉に嘘はなかった。昴の言った言葉にも嘘はなかった。「行かないで」というその一言が言えなかったのはね、決して昴を拒絶したいからではなかったんだよ。私は昴が好きだから昴にもっと広い世界を見てほしかっただけ。そして昴は私が好きだから臆病な私を守ろうとしてくれていたんだよね。ただそれだけだったのに。こんな単純な思いの行き違いがあの夏の日を残酷に終わらせた。

 ねえ昴、世界ってなんだか知ってる?私もよく分からないけどね、多分ずっと俯瞰で見下ろすものではないんだよ。観察対象じゃないの。昴が参加して、そうして初めてそれは昴の世界になるんだよ。私と昴の世界にはお互いしかいなかった。ずっと長い間、他の誰とも深く交流することなく私たちは二人だけの絆を暖め続けていた。だけどやっぱりそれじゃあ駄目なんだよ。一筋の光さえない暗がりの中でずっと手をつなぎあっていたら、相手をきっと頼りにすると思うんだ。だって他に選択肢がないんだから。私と昴の関係はそれに似てると思う。広い世界にいかないと駄目だよ。そうでないと私たち、これから先もお互いだけになってしまうよ。そんな狭い世界の中で君を見つけられても私はあまり嬉しくない。もっと沢山の、億千の人が生きているその中で私は昴を昴は私を、お互いにお互いを選びあって親友になりたい。私と昴。二人でいれば確かに不可能なことなんて何もなかった。私たちの世界には私たちで解決できない問題なんて存在しなかったから。だけど違った。実際にはまだ中学生で自分だけでは生活も出来ない、人の稼ぎで生きている私たちには、むしろ出来ることの方が本当は少なかったんだ。

きっと昴はそれに反乱を起こしたのだろう。不可能なんてないと、証明したかったのだと思う。子供の私たちは自由じゃない。家族や友人との関係や規則やモラルが私たちを硬く硬く縛りつけている。だけど唯一思想だけは自由だから。きっと昴は思想の、想いの力だけで何を変えられるのか知りたかったんだ。変えられないことなんておそらく昴は分かっていたのだろうけど、だからこその反乱という言葉なのだろうけれど、それでも試さずにはいられなかったのだろう。私たちの、幼いが故に純粋な友情が、絆が何を成し遂げられるのかを昴は大人に証明したかったのだろう。他のことはどうしようもなくてもこれだけは誰にも譲れないもの。今回の場合は私との繋がり。それを何の武器も持たずに、ただ願いの力だけで昴は守ろうとしてくれていた。人より裕福な家に生まれた君はお金の持つ力を知っていたから、形がない目には見えない曖昧な絆なんてものを信じたくなったんだね。

昴にとって唯一の誤算だったのは私と昴の間にあったのが友情ではなくただの依存し合いであったことだ。純粋を目指して他を排除し続けた結果生まれたのは尊い友情ではなく、歪んだ依存し合いだった。私、思うんだ。友情とは支えあうものだと。もしもあの時、激しい雨の中で私が君に「行かないで」と一言告げていたらこんなことにはならなかっただろう。君は今も私の隣で元気にしていてくれていたのだろう。だけどもしもそれを言葉にしていたら、その瞬間に私たちの間から友情という尊い名の繋がりは消え去っていただろう。私は昴に依存していた。私と昴の間にあったのは支えあいではなかった。私たちはゆがんでいたよ。対等な関係では決してなかった。その歪みを無視して、私たちはこの関係を友情と呼んでいたんだ。ねえ、昴。私たち、歪んでいたんだよ。あの時君に私がもしも頷いていたら、その歪みは決定的なものになっていたんじゃないだろうか。辛うじて薄氷一枚分踏みとどまっていた歪みが、今とはまた違う形で表に現れてしまっていたんじゃないだろうか。

私たちどこで間違えてしまったんだろうね。始まりは正しかったはずなのに、気付いた時にはもう遅かった。君は目を覚まさない。私は後悔するばかり。あの時昴は山に登ってどうするつもりだったの、と尋ねることすら出来ないんだ。だって君はここにいないから。

そう考えた時閃いた気がした。そうだよ。昴はここにいない。ここで眠っているのは、きっと昴の抜け殻なんだ。昴の心は一年前からずっとあの山の頂上にいるんじゃないだろうか。あの時昴が目指していた一番上で、誰かが迎えに行くのをきっと待ってる。そしてその誰かは私以外にありえない。昴はあそこで私を待ってるんだ。

決心はすぐについた。昴が待っているというのなら私が迎えに行かないと。一年前のあの日と同じ八月四日、病院を脱走してあの日と同じルートを辿って昴に会いに行く。大丈夫だよ、きっと。私の体力はまだ戻っていないけれど、少し歩くだけで眩暈がするけど、でもまだ後二週間もある。その間にきっとなんとかなる。リハビリを一生懸命こなすよ。大丈夫。絶対になんとかしてみせる。たとえそれがギリギリの状態だったとしても、八月四日に昴に会いに行けるように身体が目覚めたのだとしたら、それはきっともう運命なのだろう。


そして私は計画を決行した。八月四日。天気予報が快晴を告げていたこの日、始発の電車に乗って、君と私の反乱の地を目指す。一年前からあまり変化のない景色を見ながら、一年前とは違い独りで道のりを歩いて行く。思い返すのは昴。君との思い出ばかりだよ。何だか笑えてしまうね。そもそも高校のことがきっかけで私たちは諍いを起こしていたのに結局私たちはどちらも高校に通えていないんだから。本当ならば高校一年生のはずなのにね。まだ中学までの記憶に囚われたまま、私たちは歩き出せずにいる。

君を迎えに行くよ。君の心を迎えにいく。宙を漂う君の心を捕まえて、そして君が目覚めたら一緒に歩き出そう。むせ返るような夏草の匂い。目に突き刺さる空の青。弾けるラムネ。陽炎揺れる坂道では、笑い声が聞こえた気がした。

長い長い山道ももうすぐ終わりだよ。君が行きたいと望んでいた一番上に私は着く。もうすぐ君が私と見たいと望んでくれていたものが見られるのだと思うと自然と足取りも軽くなる。相変わらず眩暈は時折するけれど、ただひたすら足を動かし続ける。早く君に会いたい。一年前から私は変わってしまっただろうか。君は私が私だとちゃんと見つけてくれるだろうか。ねえ昴。私はまだ君が好いてくれていた米倉潮奈でいられているだろうか。それだけが不安で不安で堪らない。

そしてようやっと山頂へとたどり着いた。それまでの狭くうねうねと曲がる道なき道とは違い、いきなり景色は開けている。そして開けているが故に太陽からの光もこれまでの道のりとは比べ物にならないぐらい鋭いものだった。見晴らし台のようになっているところまで歩いていって、私はしゃがみ込んだ。吹き抜ける風が気持ちよくて目を細める。火照りきった身体がクールダウンしていくのを感じた。深呼吸してその風を身体の中にも取り入れて、そして私は呼びかけた。

「昴。」

 久しぶり。

「会いに来たよ。」

 誰からも返事はない。ただ時折木々が風にざわめくだけだ。そのさざめきがまるで君の声かのように思えてしまう私はどこかおかしいのかも知れない。

「一年ぶりだね。」

 だけど続ける。ここまで登って来る人などまず間違いなくいないだろうから、私は堂々としたものだった。いやたとえここが都会の往来であったとしても私は何も気にしなかっただろう。周囲の視線なんて目に入らない。今は昴と話をすることが何よりも大切だから。

「あの時は心配かけてごめん。」

 一年間ずっと眠っていたからなのかも知れないけど、あの時意識を失う直前に君が見せたあの泣きそうな表情は鮮明に覚えている。差しのべられた手も、忘れない。

「私はね、あの時昴が手を伸ばしてくれたことが嬉しかったよ。」

 その直前まで私たちは出会ってからしたことがない言い争いを激しく行っていたというのに、君はあの不意打ちの出来事の時に咄嗟の判断で私に腕を伸ばしてくれた。限界まで伸ばしてくれた。深層心理の現れるああいう場面で君は私を助けようとしてくれた。嬉しかったんだ。とても、とても。

「だけど嬉しかったからこそ、あの瞬間に私は昴の手を取ることは出来なかったよ。」

 優しい昴。私には昴に自分と一緒に落ちてもらうことなんて選べなかった。もしも私があの場面でいつもの甘えたを発揮して君の手を躊躇いもなく掴んでいたら、あんなにぐしょぐしょとした地面で踏ん張りがきくはずはないし、本当ならば君一人は助かるはずが二人共助からないという結果になってしまうところだった。君が嫌だったのではないよ。君に何かもしものことが起きてしまうことが嫌だったんだ。

「昴、私ね、今日はあの時話していたことの続きを話したくて来たの。」

 一年前から、私たち結局けんか別れみたいになってしまっている。ちゃんと落ち着いて話し合えば私たちだから大丈夫だと思うんだ。私は昴の話に納得出来る部分を見いだせるだろうし、その逆にしても同じことが言えるだろう。

「一年前の昴に比べて、私はあまりにも幼すぎたよね。」

 花火を見ながら君が反乱しようと言った時、私は何も考えていなかった。夏の道を君と二人で登りながらも、私はその言葉の意味について深くは考えていなかった。私がようやくそれについて考えたのは二週間前、意識が戻ってからのことだった。

 昴はきっと負けると分かっていた。それでも戦いたかったのだ。理不尽な束縛の数々をそのまま受け入れることがどうしても出来なくて、それで抗おうと思ったのだろう。結果は端から分かっていた戦いだった。私たちが二人でずっと山の上で暮らしていくなんていうことはどう考えても不可能であるし、ということはつまりいずれはどこかでこの反乱を切り上げて私たちは自分の家に帰らなければならないはずだったのだ。そんなこと、もちろん昴は分かっていたはず。

 だけど私は言ってはならなかったのだ。「もう帰ろうよ。」なんて言ってしまっては、それはきっと自ら降伏を宣言するようなもので、徹底抗戦を望んでいた昴にとってそれはありえないことだったのだろう。昴にとって私は唯一の味方だった。その味方が突如として雷雨が怖いから、などという理由で降伏を宣言したらそれは昴も腹を立てる。

「昴、ごめんね。私だけ戦うことをやめてごめん。」

 君はあんなにも全力で、私と一緒にいるために戦ってくれようとしていたのに。それを私が裏切った。

「だけどね、昴。私も昴に言いたいことがあるんだよ。」

 たとえば高校のこと。確かに君が違う高校に行ってしまうのは寂しいし、やっていけるかどうか不安にはなる。昴は知らないだろうけれど、私は昴が違う高校に行ってしまうと聞いた夜ずっと泣いていたんだよ。あの時ほど色々なことを深く考えたことはなかった。今までは昴の後をただ付いていくだけだったけど、今回ばかりはそうはいかないから。昴が行くことになるだろう高校は家から離れていて寮に入ることになるし、何より私の頭には難しすぎる。だから私が昴の後を付いていくことは出来ない。昴と一緒に歩いていこうと思ったら、昴に私のレベルまで降りてきてもらうしかない。だけど一晩寝ずに考えて思ったんだ。そうやっていつまでも昴に合わせてもらっていて、それで本当に昴の友達と言えるのだろうかって。昴のことを考えるなら、いつまでも私が昴に縋りついていることは決して良いことではない。私が昴の足を引っ張る。昴は私を甘やかす。この無限ループを断ち切らないと私たちは駄目だったんだ。

「昴のこと好きだよ。だから昴には昴に合った高校に行ってほしいと思ったんだよ。」

 風が吹き、木々が揺れる。葉と葉が擦れ合わさる音はまるで君の声のようだ。昴が苦笑している時の声に似ていた。私が馬鹿なことを頼んだ時に返される、少し呆れ交じりの「分かったよ。」という声に似ている。やっぱり昴はここにいたんだね。一年間ここでこうして風になって私が来るのを待っていたんだ。

「私たちは今までずっと一緒にいたよね。だからここらで一度離れてみようよ。」

 そして狭まりきった視野を広げてみようよ。私と君しかいいない狭い世界での反乱はもう終わったんだよ。私と昴。世界で二人だけの反乱は呆気なく仲間割れという形で消滅した。昴。私たちは負けたんだよ。だから一度くらい敷かれたレールに沿って歩んでみようよ。高校の三年間を離れて過ごしたら、私も昴も自分を取り巻く世界が格段に大きくなると思う。もちろん広がった世界は今までとは違い私と昴で共通のものではない。だけど重なり合う部分は確かにあるよ。全て一緒でなくてもいいじゃない。大切なところで同じものが見えるなら、私は昴と違う世界に住みたい。もしも昴が困った時、そうして昴の知らないことを私が知っている方がきっと助けになれると思うから。

 私は目を細める。柔らかい風が火照ったままだった私の頬を優しく撫でた。君がいつもしてくれていたように髪がそっと撫でられる。それが君の答えだというのなら、嬉しい。つまりこの清浄な風、昴も納得してくれたということだよね。何も反論がないから、そうとるからね。

「昴。私はずっと待つからね。」

 今はまだ眠っている昴。君がまだ休みたいというのなら休んでくれていていいんだからね。それが一年後でも五年後でも、それこそ十年後であったとしても私は君がまた目を開けてくれる日を待ち続けるから。お医者さんに聞いたけど、君は何故眠っているのかが分からない状態なのだって。肉体の傷はもう完全に癒えているのに何故か目を覚まさないのだそうだよ。私は知っている。君は少し疲れてしまったのでしょう。私が初めて真剣に自分の心と向き合ったあの夜のような時間を、君は今夢の中で過ごしているんだよね。それはもちろん早く昴に会いたいよ。元気な昴が見たいし、その目に私を映して笑ってほしい。だけど無理はしないでいいよ。ゆっくり休んでほしい。会いたくなったら私がまたここまで来ればいいのだから。君がまた目を開けてもいいと思えるその時までは、この場所を吹き、そして世界を巡っていく風でいて。

 

それからしばらくはその場に腰を下ろして吹き続ける心地のよい風を全身で感じていた。風は草の青い香りを運んでくるけれど、それはむせかえるようなものではなかった。ただ純粋に夏の匂いがした。目に突き刺さる空の青は近くまで来てみれば何て事はない、澄み切った快晴。弾けるラムネ。そのビー玉で空を眺める。丸く切り取られた空は狭いけれどその代わりに硝子の反射でキラキラと輝いて見える。昴の愛する空だ。陽炎揺れる山道では蝉が大合唱をしていた。そしてそれは今も続いている。この場所にいると全身で夏を感じるね、昴。夏は暑くて過ごしにくい。けれど生命力に溢れる尊い季節である夏を、ここはここにある全てで歌っている。君はここできっと今命の輝きに包まれているんだね。

やっぱり今日ここに来ることが出来て良かった。目が覚めてから今までずっと抱えてきた鬱々とした想いが昇華された気がした。ポケットから携帯を取り出し、深呼吸。間違いなく怒っているお母さんの携帯にかける。それはたった一度の呼び出し音で繋がった。

「あ、もしもしお母さん。」

「潮奈、今どこにいるの。」

 お母さんはこれが電話であることを忘れているみたいに大きな声で怒鳴った。慌てて受話器を少し耳から遠ざける。

「あんな書置きじゃあ何が何だかさっぱり分からないじゃない。」

 だけどお母さんの怒鳴り声に薄らと涙が交じっているから私は何も言えずに黙ってそれに耳を傾ける。今回の脱走事件は全面的に私が悪いので何を言われても甘んじて受け入れようと思う。一年前からずっと、お母さんには心配をかけっぱなしだなあ。

「昴ちゃんのところに行くとあったから、そちらの病室にお邪魔しているかと思ったらいなくって、それで私たちが皆どれだけ動揺したか分かる。」

「ごめんなさい。」

 予想通りではあるけれど私の脱走はお母さんの手によって色々な人の知るところとなっているようだ。そんなに大事にはしてもらいたくなかったけれど仕方がない。帰ったらお母さんやお父さんだけではなく、お医者さんからもたっぷりお説教されるのだろう。

「それで今どこにいるの。」

「一年前の場所だよ。」

 私がそういうとお母さんは何かを言おうとして、そしてそのまま口を噤んだ。何やらお母さんにも思うところがあるようだ。今日が私と昴が反乱を起こした日であるということをお母さんはもちろん知っている。だからこそ私が何かしでかすのではないかとこんなに心配しているのかも知れなかった。電話なのに二人で黙っていると、何やら不意にお母さんの側が騒がしくなった。

「ちょっとこのままにしておいて。」

 とだけ言ってお母さんは電話を置く。幾らもしもし、と呼びかけても誰からも返事がこない。待っているように言われたのでそのままぼんやりと待っていると、

「もしもし潮奈。」

 再び電話に出たお母さんは何やら興奮しているのが隠し切れていなかった。相変わらずお母さんの後ろは騒がしいままだ。

「はい、もしもし。」

「あんた今すぐに帰って来なさい。絶対よ。」

 息まいて何やら泣いているような笑っているような不思議な声で話すお母さんが珍しくて目を丸くしていると、

「喜びなさい。」

 そう言ったお母さんの声音はもう泣き笑いなどというかわいいものではなかった。興奮のあまり裏返っている。

「何があったの。」

 一瞬の沈黙の後、お母さんは言った。

「昴ちゃんの意識が戻ったって!」

 聞き間違いかと思った。

「え。」

 私が固まって何も返事をせずにいると、焦れたように電話の向こうの声は繰り返す。

「だから、昴ちゃん。宮園昴ちゃんが、目を覚ましたのよ。」

 今までにないくらい強く風が吹いた。

「昴が……。」

「早く帰って来なさい。昴ちゃんの第一声はね、あんたの名前だったんだから。」

「――うん。」

 昴の意識が戻った。昴の心がこの地を離れて自分の肉体に帰って行った。これでやっと昴の目を見ながら昴と話せるんだ。

 一年前あんな風に別れたのに、君は私を呼んでくれたんだね。今日ここで私が君を呼んだように、君も私を探してくれたんだ。嬉しい。それ以外の言葉なんて見つからない。昴、私自惚れてもいいのかな。君が今日目覚めたのは、私がここまで来て君を呼んだからだと考えてもいいのかな。自己満足に過ぎないかも知れないと思っていた今日のことがもしも、もしも君のためになったというのなら、こんなに嬉しいことはないよ。

「すぐに帰るから。」

 電話を切って、慌てて下山を始める。身体は疲れ切っていたけれどそんなの関係ない。昴、昴。君が待っている町へ私は道を急ぐ。話したいことが沢山あるよ。君に聞いてもらいたいんだ。君のことも沢山聞きたい。あの日昴が考えていたことをもっと知りたいよ。世界で二人だけの反乱の終わりにきっと私たちは大切なことを学べたはずだから。

 二人だけの世界は一年前に終わってしまったけれど、私と昴なら大丈夫だよ。自分たち以外のものに触れてゆっくりと世界を広げていける。そして目まぐるしく変わっていく環境にもしも疲れたら、その時は「少し疲れたね」って笑い合おう。

 ねえ昴。まずは何から話そうか。何から話すにしても一言言わなきゃ気が済まないよ。

「待ちくたびれたよ。」

 早く君の笑顔が見たい。そして夏の青い匂いに負けないくらい青臭い時間を、まだまだ続く夏の時間を一緒に過ごそうね。


4年以上前に書いた作品なので今読み返すと恥ずかしくなってきますが、少しでも誰かの琴線に触れれば幸いです。

少女が大人になって、これからの二人がどうなるのか。爽やかな友人関係になるのか、再び執着心が故の破滅の道をたどるのか。そこまで書ききる力ができた時に、またこの2人について書きたいものです。

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