70話
秋ですねー。
『蛇に睨まれたカエル』というのはこのことか、としたくもない実感を味わい、わたしは全身の血の気がサァッと一気に引いて固まる。
下から冷めた目でロードル侯爵が見ており、わたしはその視線から逃げることもできずに小さく足を震わせていた。
真っ白な頭の中の思考が回復したのは、そんなロードル侯爵がテーブルの上に置いてある呼び鈴を鳴らしたからだ。
「さて、逃げてみるかね? 一人なら逃げ切れるかもしれないぞ」
そんなわけないでしょっ!
挑発されるまでもなく、わたしに一人で逃げるなんて選択肢はない。
全部聞いたし、この人が黒幕だってことが分かったからもういい。後先考えずに、今だけを――――逃げることを考えよう!
そう決めたわたしはすぐに椅子から飛び降り、隣の部屋へと走る。
かっこ悪いけど――――本当にかっこ悪いんだけど、正義のヒーローみたいに窓枠ぶっ壊して登場とかできず、扉を乱暴に開いて乗り込む。
バンと扉を開けば、ロードル侯爵が細めていた目をわずかに開く。
「……バカかね」
「悪かったわね!」
ロードル侯爵が呆れるのも無理はない。
今のわたしは勢いだけで動いている。踏ん張った足も、力を入れた手も体も実は震えている。
「カイン様を返してもらうわ!」
「それはできん相談だ」
くっと意地悪く笑ったロードル侯爵に、わたしは威嚇のつもりで両手に火を纏わせる。
「ほぉ」
興味深そうに細めた目をして、笑みを深める。
「脅しじゃないんだから!」
わたしはロードル侯爵の座る長椅子のほうへ、両手に纏わせた炎の塊を投げつける。
と、同時に「フーちゃん!」と叫んで、カイン様の元へ走る。
ロードル侯爵の前に放った炎が目くらましとなっている間に、カイン様を抱えてフーちゃんで飛んで逃げようと考えていた。
ガシャーン!
それは、フーちゃんが窓ガラスを割って室内に飛び込んできたのとほぼ同時だった。
カイン様の肩に手をふれた時、何かが横から投げつけられた。
炎を通り越して投げつけられたそれは、マオスで見つけた針金のボール。そう、精霊が閉じ込めらていた、あの禁忌の魔法具。
驚くわたしの前で、針金のボールがキラキラと輝く何かを出す。
「あっ」
次の瞬間、目の前を真っ白な猛吹雪が襲う。
「きゃああ!」
カイン様の肩を掴むどころか、その場で両手を中心に氷がわたしの動きを拘束する。
気が付いた時は、わたしの足、というかドレスが氷によって床に固定されていた。
「ちょっと、これって」
焦るわたしの近くで、ロードル侯爵が笑っていた。
「火を感じて防御に出たか。弱っているとはいえ、さすがは精霊だ」
「なんてことをっ!」
わたしは動けないが精一杯睨んで怒鳴る。
マオスで見つけた精霊だけではないとは思っていたけど、まさかこんなことに使うなんて!
おそらく最後の力を発したのだろう。針金のボールの中からは、もうわずかな力しか感じられない。
「旦那様」
入ってきた扉のほうから、落ち着いたしわがれ声の男性の声がする。
執事服を着た太った老人が頭を下げ、その後ろ、つまり廊下には私兵の姿が何人も現れる。
「広間へ戻る。こやつらを地下へ」
「かしこまりました」
たるみ過ぎて首がない老人が顎をしゃくると、私兵がいっせいに入ってくる。
すぐに私兵の一人がわたしの腕を掴もうとしたが、バシッと何かが彼の手を叩く。
「ふ、フーちゃん!」
まるでわたしを守るかのように、フーちゃんがブンブンと柄を振る。
「だめ、逃げて!」
必死で叫ぶも、フーちゃんは奮闘むなしく私兵二人に取り押さえられる。
ジタバタもがくフーちゃんを見て、ロードル侯爵が声高々に笑う。
「ははは、さすが“緋炎の魔女”の一族の魔法具だ。おもしろいものを持っている。あとで研究させよう」
「フーちゃんを離しなさいっ!」
怒鳴るわたしなんて全く目に入れず、ロードル侯爵は立ち上がると、太った老執事に何かを伝えて広間へと戻って行く。
私兵がカイン様を担ぎ上げる。
「ちょっと! カイン様を離しなさいよぉおお!」
可能な限り暴れるわたしに、老執事はため息をもらす。
「うるさいお嬢様だ。まぁ、いい。先に旦那様へ狼藉を働いたその男を地下へ。ホウキも縛り上げて持って行け」
「「「はっ」」」
数人の私兵がカイン様とフーちゃんを抱えて部屋を出る。
残ったのは私兵二人と、老執事。
「押さえろ」
老執事の命令で、わたしは両肩を私兵二人からがっちりと固定される。
「は、離しなさいっ! 離せっ!」
「元気なお嬢様だ。まぁ、これなら多めにとっても心配なかろう」
そう言いながら、老執事は何か茶色い箱を胸元から取り出して近づいてくる。
茶色の箱を開けると、そこには注射器と細長い小瓶が入っていた。
「暴れると痛いぞ」
「ちょっと、嫌よ! なにするのよ!!」
「安心しろ。わしは専属医師から習っておる」
「バカ言ってんじゃないわよ!」
注射器と小瓶の中身が空ってことは、わたしの血をとるってことでしょ!?
渾身の力を込めて暴れようとするが、さすがに私兵二人に抑えられて氷の束縛もあればどうにもならない。
あっという間に老執事に腕を取られ、チクッとした痛みを伴って血が抜かれていく。
歯を食いしばって睨みつけ、もう一度火を出して反撃してやろうと思ったが、視界の隅に針金のボールがうつる。
この三人を黙らせ、この氷の呪縛をとくような火を使えば、わずかな力を発して必死に生きている精霊が無事でいる可能性は低い。
結局、二回血を抜かれてしまう。
わたしの腕に止血の布を巻き、箱に注射器と血の入った小瓶を戻して、老執事は胸元へとしまう。
「さて、お前も行こうか」
黙って睨むわたしを私兵の一人が後ろ手に拘束し、もう一人が剣の柄で床と固定している氷を叩き割る作業に入る。
そこへ私兵の一人が何かを手にして戻ってくる。
「お前の魔法は厄介だからな」
そう言って老執事が兵士から受け取ったのは、そこで転がっている針金のボールと同じ、精霊を閉じ込めただろうものが二つ。
「あんた達っ」
「あぁ、魔法を使ってはいかんよ。使えばあの精霊のように弱ってしまう。なんならアレも一緒に連れて行こう」
針金のボールを持ってきた私兵が、弱った精霊の針金のボールを拾う。
「地獄に落ちろ!」
「ジゴク? なんのことだ」
そうだ、地獄なんてここにはなかった!
だけど、そう言わなきゃ収まらない(言っても収まらないけど)怒りもある。
凍ったドレスと両肩をがっちりつかまれ、ものすごく歩きにくい恰好でわたしは地下へと引きずられて行った。
。・☆。・☆。・☆。・☆。・☆
埃っぽく薄暗い、床はごつごつした石がむき出しで、錆があちこちにある鉄格子。そんな部屋が向い合せに四つある地下牢へと入れられる。
用心のために、針金のボールも一緒に。
「泣くんじゃないぞ。女の鳴き声など耳障りだからな」
しっかりと鍵をかけ、老執事は立ち去る。
地下牢とそこへつながる階段の扉が閉まる音がして、わたしは目の前の鉄格子にしがみつく。
「カイン様! フーちゃん!」
目の前の牢屋には、倒れたままのカイン様と縄で縛られ、鉄格子にくくりつけられている。
むくりと起き上がったフーちゃんは、必死で倒れているカイン様へ穂先を伸ばす。
かろうじて届いた顔の部分を何度が穂先で叩くと、ようやくカイン様がピクッと動く。
「……うっ」
「カイン様!」
がばっと勢いよく床に手をついて上半身を起こすが、気持ち悪いのか「うっ」と小さくうめいて口を押える。
「だ、大丈夫ですか!?」
「……どうして君がいるんだい」
この状況よりわたしが先ですか!?
青い顔をしたカイン様が、きれいな緑色の目を細める。
「着飾って抱きかかえて馬でゆっくり、カサンドの町を一周して許そうかと思ったけど、どうやらそれ以上のことが必要みたいだね」
「!?」
なんですか、その羞恥プレイ!
そんなことされたら、あっという間に噂になります。指差されます。恥ずかしすぎて、パン売れません! またいろんなお店から呼び込みされちゃう!
「あの、その……」
あわあわと言い訳しようと考えるも、全然言葉が出ない。
そんなわたしをカイン様はしばらく見ていたが、やがてゆっくりと息を吐く。
「まぁ、いい。ここを出られたらいろいろ考えて追加しよう」
追加するんですか!?
しっかり顔に出たわたしを見て、カイン様は当然とうなずく。
「しかし、困ったことになった。一応今夜中に戻らなければ、イパスが動いてくれるが」
そしてカイン様は気づく。
「アリス、その腕は?」
「あ、これですか? さっき血を抜かれたんです」
「血を?」
眉間に皺を寄せるカイン様に、わたしはついでとばかりに近くの針金のボールを手にして見せる。
「見てください、これ! あの侯爵ろくでもないやつです。わたしが魔法を使わないようにって精霊を人質にしているんですよ!!」
許せません! とわめくわたしに、カイン様は何かを考えるように黙る。
「カイン様?」
「……アリスの血を取ったというのが引っかかってね」
顎に手を当て考えるカイン様に、わたしは首を傾げる。
「血の意味ですか? 何も言っていませんでしたけど、言われてみれば気味悪いですね」
「何も意味がないということはないと思うが……」
「それより、ここから逃げることを考えましょう、カイン様!」
「そうだね。ここだといろいろじっくり考えられそうにない」
「…………」
なんでかな? 今、とっても藪蛇な質問だった気がする……。
ま、まあ、それはさておき。
気を取り直して、わたしは頼りない小さな灯りしかない牢屋を見渡す。
何もないせいか声も響くし、地下と言っていたからひんやりとしていて肌寒い。ふと後ろを見れば薄汚れた布が一枚、ぐしゃりとおいてあるだけ。
暖を取ろうにも火の魔法を使えば、閉じ込められ警戒している氷の精霊が暴走する可能性が高い。
「アリス、その精霊達に言い聞かせてもダメだろうか?」
「わかりません。ただ、人への不信感はすごいと思います」
「……無理か」
はぁっとカイン様はため息をつき、ジタバタと暴れるフーちゃんを見る。
「お前も無茶をしたな。魔石もない意志のある魔法具など、異常研究者がこぞってやってくる。この牢屋に魔力制御の仕掛けがあるかもしれないが、とにかくあの魔女に念を送ってくれ」
言われてフーちゃんはジタバタするのをやめ、ピッと毛先を一束持ち上げて「了解」とばかりにおとなしくなる。
その後はわたしもカイン様も、無言のまま座り込む。
アンソニー様が気が付いて探してくれているかもしれないけど、さすがにここには気が付かないだろうなぁ。しかも大っぴらに探すことなんてできないだろうし。
言いつけ守れば良かったとは思うけど、守っていたらカイン様のこと知らずに余計に公開していたと思う。
…………うん、やっぱりこれで良かった。
捕まってしまったのは悔しいけど、カイン様と一緒になら頑張れるはず!
グッと拳を握りしめて、一人で「よしよし!」と気合を入れる。
と、そこにキィッと鉄のきしむ音が響く。
ハッとして顔を上げたわたしと、視線だけ向けたカイン様。
薄暗い廊下の先から灯りが近づいてきて、若い男の人が姿を現す。
襟足まである黒髪をしっかり後ろになでつけ、神経質そうな顔がさらに眉間に皺を寄せて近づいてくる。
わたしを一瞥した後、彼はカイン様のほうを向いてため息をつく。
「……どうして次から次へと面倒を起こすのですか。くれぐれも混ぜ物を飲むなと言いましたよ」
その言葉で思い出した。
この人ファービー子爵のフィレイジー様だ!
「まったくだ」
悪びれる様子もないカイン様に、フィレイジー様はため息をこぼす。
「今のわたしにできるのは牢屋の番人に多少の薬を盛り、こうして伝言を受け取るくらいです。鍵も見つかりませんでした」
「十分です、子爵。感謝します」
カイン様は立ち上がり牢屋の鉄格子へと近づく。フィレイジー様も耳を傾向け、伝言を受け取る。
小声でさっぱりわからなかったが、顔色を変えずフィレイジー様は鉄格子から離れる。
「……無茶を言いますね」
「頼みます」
呆れるフィレイジー様は、それ以上何も言わずうなずく。
「あと、こんなものしかありませんが」
そう言ってポケットから白い布に包まれたものをカイン様へ渡す。
「どうします? 入りますか?」
「ええ、頂きます」
何かをカイン様に渡し、フィレイジー様は一歩下がる。
「では行きます。わたしも睨まれている立場ですからね。そろそろ薬でうとうとしている番人を起こさないと」
「そうですね。まだあなたには動いてもらいたいので」
「……勘弁してください」
うんざりした顔でフィレイジー様は深いため息をつき、またわたしを一瞥して黙って歩きだし、振り返ることもなく消えた。
「……あのぉ、フィレイジー様は味方ですか?」
「そぉだねぇ。まぁ、本人に父親の尻拭いをさせているだけで、本人は嫌がっているよ」
でしょうね。ものすごい嫌々感がでていましたもの。
そしてさっき渡されたものを聞こうと口を開こうとしたら、しっと口の前に指をたててカイン様が止める。
ギィッとまた錆びた鉄の音がして、番人と思わしき私兵が一人様子を見に来た。
わたしとカイン様の牢を明かりで照らし、無言でうなずくと去って行った。
「……あの、カイン様」
そっと話しかけたわたしに、カイン様は微笑む。
「もう少し様子を見よう。まぁ、そう長く待つ必要はないだろうけど。アリスはとりあえず、その精霊達を近くに固めておいて」
「はい」
わたしは繋がれてもいないので、投げ入れられた精霊の閉じ込められた針金ボールを拾い集めて隣に置く。
お願いだから暴走しないでね!!
読んでいただきありがとうございます。