一話
──ただ己の思うままに。
二年。それが言葉と基本的な魔術を学ぶのに費やした時間だ。
例えようもないほどに辛い時間だった、と真人は今でも思う。そもそも言葉も自分が学んでいるのはライナシアと共に住んでいる遺跡があるタリガルクス王国の言葉である。ライナシアの話によれば、この世界に共通語なんてものはないらしく、これからも様々な国の言葉を覚えなくてはならないらしい。
聞き、真人は思わずため息をついた。
言語を学ぶのは簡単ではない。話すだけであれば比較的短い期間でもどうにかなるが、読み書きもできなければならない。
その上、どうやらこの世界は意外と技術が発達しているようだ。
普通は中世から近世くらいではないのか、と思ったがそれはそれで利用できることはわかっている。この世界の人たちは魔力という、地球で言う電気のような様々なエネルギーに変換可能なエネルギーを使って日々の生活を営んでいるのだ。
だから既に産業革命後くらいの技術は持っているようだ。加えて、戦争が多いため兵器の技術が突出して進歩している。魔力を動力源とした飛行船、潜水艦や鉄道があるとのこと。
……是非見てみたいものだ。
元の世界とどの程度違うのか、非常に興味がある。二年この世界で暮らしたわけだが、ライナシアと共に人が訪れないような場所に住んでいたせいでさっぱりこの世界のことはわからないのが現状だ。
しかし、それもこれまでだ。
言葉も一応は身に付け、ライナシアからやっと王国に行く許可が出た。
「明日か……」
真人は荷造りをしながら呟く。
旅立ちだ。とは言え、ライナシアもついてくるためさほど心配があるわけではない。最悪、彼女に頼れば言葉はどうにかなる。男しては情けないものがあるが、そんなことを気にしていてはもう生きてはいけない。すでに衣食住、人間として最低限必要な物自体彼女に頼って生きている身だ。
それに、これからこの世界で成り上がっていくために彼女の力は必要だ。
「どうした? 準備は順調か?」
真人の呟きを鋭い聴覚で捉えたのか、ライナシアは問いかける。
「あまり順調とは言えないけど、街に行くまでそんなに時間がかかるわけでもないし、最悪街で買えばいいからな」
うむ、と彼女は頷き、
「普通に歩けば何日もかかるだろうが、私がついていればすぐに着く。最低持っていかねばならないものだけ持っていけば良いだろう。足りないものは買えばいい」
その通りだ、と真人は胸の内で同意した。
……ついでに計画の方も問題はない。
この二年で計画は練りに練った。
社会で幅を利かせるには何らかの力が必要だ。権力、財力、暴力、何でもいい。他を圧倒するだけの何らかの力があれば良い。そうすれば国だって己のものにできる。
そして自分は既に彼女という圧倒的な力を手に入れている。暴力で成り上がるのは簡単だ。しかし長続きしない。この世界を出られないならせめて自分が死ぬまでは折角成り上がった場所から落とされたくはない。
とすれば、他の力が必要だ。中でも手に入れることが比較的簡単なのは金だ。権力は金を十分に手に入れてからでも遅くないし、寧ろそのほうが容易いだろう。
金を稼ぐ。だが、一般的な稼ぎでは到底足りない。小さな国を一つ買えるぐらいの金だ。とは言え、実はそれももう達成しようと思えばできる。ライナシアの住んでいるこの遺跡は金目のものが多くある。彼女自身は金銀宝石といった価値のあるものにさほど興味はないので、彼女が蓄えたわけではないが、十分すぎるほどにある。
しかし、できればそれは使いたくない。
突然金持ちになればいらぬ厄介事を引き込みかねない。厄介事自体はどうしても避けようがないことはわかっているが、財宝によって一気に稼ぐやり方はともすれば権力側を敵に回しかねない。
すると、何らかのイノベーションによって稼ぐのが最もリスクが少ない。狙われるのは開発者と製品くらいであろうし、敵に回るのも同業者くらいだ。少なくとも権力側を敵に回す確率は低い。
金を稼ぐまでは権力側を敵に回すのはマズい。彼女がいれば身の安全は確保できるが、最悪王国を滅ぼすことになってしまう。それでは意味がないのだ。
異世界人である自分ができる限り短い時間でそれなりの立場になるためには、今ある体制を崩すわけにはいかない。そのためにも、
……早く街に行きたいなあ。
人々の営みを見れば、何が足りなくて何が必要なのか分かるだろう。それがわかればイノベーションを起こすのも可能になる。自分のこの異世界人という異なる視点はそういう意味では強みだ。
何せ、元の世界にあってこの世界にないものをつくり上げるだけで良いからだ。問題は、
……誰に作ってもらうか……。
ちら、と真人はライナシアを見る。
「何だ?」
彼女は問いかけてくるが、真人は何でもないような声で、
「いや、何でもない。ただ見ただけだ」
正直、ライナシアは当てにならない。彼女に期待できるのは、その並外れた戦闘力と言葉になれない間の通訳くらいか。
どうしたものかなあ、と真人は思う。
最悪、企業に概念だけ伝えてアイデア料とかで稼ぐか。
考えても仕方がない、とそこで思考を打ち切り、再びライナシアに視線を移してみれば、彼女はじっとこちらを見ていた。
「……どうかしたか?」
「君を見つめているだけだ」
「そうか……」
少し不気味だな、と思った。時々彼女はこうやってじっと見つめてくる。それがどうにも気になるのだ。
どうにもライナシアの感情は読み取りづらい。
彼女が決して悪意を持っているわけではないのはわかっているのだ。それはこれまでの二年でわかっているし、きっと保護した人間を見つめる優しい気持ちなのだろう、とは思う。それなりに好意を向けられているのも知っている。
……ただ、どうにもなあ……。
慣れないものだ、と真人は胸中で呟く。もう少し感情を露わにして欲しいと考えるのは欲張りなのだろうか。
いや、そんなことはないだろうと頭を振る。もうここを出る。そろそろ転機だろう。だから言った。
「なあ、いいか?」
「ん、どうした?」
提案した。
「もっとさ、気持ちをはっきり表してほしいんだけど。今のままだと何考えてるかわからなくて少し怖い」
☆
ライナシアは衝撃を受けていた。
……怖い、だと……!
自分は全く怖くないのだと声を大にして叫びたい。全然怖くない、寧ろ無害、超人畜無害。
それにしても、と思う。そんなに気持ちが分かりづらかっただろうか、と。
自分はかなり感情表現豊かだと思っていただけにかなりショックだ。真人への気持ちを常に行動で表し続けていたのだが。
はっ、と気付く。
……もしかして見つめ続けていたのが悪かったのか……?
見つめ続けていたのを気持ち悪いと思われていたのかもしれない。それを遠まわしに告げられたのか。
だが、仕方がないではないか。好意を寄せている相手を少し目で追ってしまうくらい多めに見て欲しいものだ。
聞いた話では、気になる相手をつい目で追ってしまうのは普通だということらしい。今まで経験がなかったことだからどうにも勝手が分からないが、経験者がそう語るということは正しいのだろう。
……まあ、その経験者は人ではないし、しかも振られ続けていたが……!
突如として不安が押し寄せてくる。
今まで聞いた話は役に立たない経験者の体験談だし、自分は初心者だ。何か間違いを犯していても不思議ではない。
いや、間違いを犯していて当然だ。
拒絶されたらどうしよう、と思う。自分のことをどう思っていても構わない。ただ、自分が傍にいることだけを拒絶しないで欲しい。それだけが自分の望みだ。だから、
「すまない。どうやら君には不快な思いをさせたようだ」
謝る。
すると、真人はうろたえた様子で答える。
「え、え? ──いや、俺の方こそ言い方が悪かったみたいだ。すまない」
ん? とライナシアは顔を上げる。
「俺はただもっと色んなライナシアの顔が見たかっただけなんだ」
……何だと……!?
ということは、
「私を嫌いになったわけではないのか?」
ライナシアの言葉に、真人は、ははっ、と笑うと、
「そんなことあるわけないだろ。俺はライナシアに助けてもらって感謝こそすれ嫌うなんてありえないよ。寧ろ、ライナシアのことは大事に思っているさ」
「……大事……」
体が熱い。
どうしようもなく体の内からこみ上げてくるものがある。これは、嬉しさと恥ずかしさの入り混じった言葉では言い表せない感情であり、熱だ。
原因は真人の言葉だと分かりきっている。
何よりも、彼の大事な存在であると言われたことに耐えられそうにない。今にも叫びだし、動き回りたいほどだ。
でも、彼の前でそんなはしたない真似はできない、と自重する。
爆発しそうだ。熱が体中を巡り、否応もなく高まり続ける。発散させろ、と体は疼くが、同時にライナシアは心地よさも感じていた。
「わ、私も君のことがだ、大事だとも!」
「あ、ああ。ありがとう」
思わず大きな声を出してしまったが問題ないだろう。
……言ってしまった。遂に言ってしまった!
彼の目がなければ両手を頬に当て、叫んでしまうところだ。
ふと脳内に憎たらしい知り合いが“歳を考えろ!”と登場したが、一瞬で惨たらしく痛めつけて退場させた。
しばらく想像の中で悶えていたが、ふと我に返る。
そして部屋を軽く見渡し、真人の荷物が視界に映り、ライナシアは言った。
「本当に街に行くつもりなのか?」
「そうだ。今更どうした?」
真人は少し首を傾げて疑問を発した。
「正直心配なのだ。ここにいれば真人はずっと安全だ。だが──街に出れば必ずしも私が守りきるのも難しい。何が起こるかわからないのは不安だ」
「でも、俺は決めたんだ。ここにいればそりゃ全部保障されているよ。だけどそれは何かおかしいと思う。それにやりたいこともあるし、な」
「そうか……。決心は固いようだな」
まあな、と真人は笑う。
先程までの熱は既に失われていた。
ライナシアは怖かった。何かがあって目の前のこの大事な人を失うのを。だから、
「だが、一つ絶対に約束してくれ。何があっても私から離れないでくれ」
☆
ああそうか、と真人は悟った。
ライナシアは自分を心配しているのだ、と。
まるで過保護な母親のようだ。
そうと考えれば全ての辻褄が合う。度々自分を見つめてきたり、妙にちょっかいをかけてきたり、様々な知識を無理矢理覚えさせようとしているのも全て過保護な母親と考えれば納得がいく。
つまり向けられていた好意も母親が大事な子供に向けるものと同じものだということだ。
そして間違いなく子供に甘い母親だ。
子供の我が儘を拒絶できないに違いない。
計画を実行する前にわかって良かったと思う。大事な計画だ。読み違いは計画の崩壊を意味する。
ほう、と息を吐き、真人は答えた。
「ああ、約束するさ。ライナシアも何があっても俺から離れるなよ」
「当たり前だ」
いつもの無表情顔でライナシアはそう言った。いつもと変わらぬ表情だが、きっと彼女にとってそれは真剣な顔であるに違いない。
彼女のその無表情顔を見つめながら真人は、
「もう一度誓って欲しい」
そう言った。
これから自分はこの世界でどこまでいけるか試すことになる。もしかしたらどこまでも落ちぶれるかもしれないし、中途半端なところで止まってしまうかもしれない。
ただ、成り上がるために努力をする、ということだけは心に決めている。そして、
……本気になれる場所がある……!
地球では夢がなかった。停滞と諦念に支配された社会でひたすらにルーチンワークをこなしていただけだ。ルーチンワークに夢も希望も必要はない。根気と無関心と諦めだけがあればいい。だから、
……やっと本気になれるのだ。
自分自身の全力を出すことができる。どこまでも自分を試し、進み、上り詰めることができるのだ。
ライナシアは静かに頷くと、口を開いて、
「死が二人を分かつまで共にいることを私の名にかけて誓おう。たとえ何が起ころうとも君の傍で君を守り、君の味方でいることを誓う」
言った。
真人も姿勢を正し、
「俺も死ぬまで君の傍にあり続けることを誓うよ」
二人は黙って互いの顔を見つめ、微笑。それが就寝の合図だった。