第3話①
六月になり、梅雨とかいう最悪な季節に入った。長雨が続くこの季節の間だけでも、ヨーロッパに帰りたくなる。あぁ、地中海沿岸にいた頃は最高だったなぁ。
私は、一階奥の四畳半間で制服のままでゴロゴロしていた。六月に入り、半袖開襟の夏服になっている。袖と裾の部分に緑色の二本線が入っていて、胸ポケットにも緑の校章が刺繍されている、結構かわいい夏服。スカートは冬服と同じ柄だけど。
「みやびー」
店の方から、真人の声がする。
「そろそろ夕飯の買い物行かなくていいのかー」
「はーい」
返事だけして、ゴロゴロを続ける。
「みやびー、店閉めるの手伝ってくれー」
「はーい」
ゴロゴロ。
「みやびー」
「はーい」
「起きろ」
真上に、こちらを見下ろす真人の顔。
「はーい」
起きないけど。
「お前、本当にこの時期は何もしないな」
「だってー」
よっこらしょ、と上半身を起こして、結露の浮いたコップを手に取り麦茶を一気飲みする。
「雨、嫌いなんだもん」
そう、私は雨が大嫌いなのだ。いや、私に限らず猫全般に言えることだと思う。猫は濡れるのが嫌いなのだ。それに。
「人間になって初めて気付いたんだけど、髪の毛が、もうやばくってやばくって」
私の髪の毛は、いわゆる猫毛だ。普段はふわふわで、ショートカットにして何もしなくてもボリュームがあるように見えるし手入れも楽だからお気に入りなんだけど……。
「まぁ、その気持ちは分からんでもないが」
真人が、憐れんだ目でこちらを見る。
「いや、分からんでしょ」
癖毛の「く」の字もない真人に、この時期はどう頑張っても毛先がくるっとなってしまう私の気持ちなんて。
「まぁ、世の中にはスチールウールみたいな髪をした人もいるわけだし」
「フォローになってないし」
「じゃあ、帽子でも被れば」
そう言ってなぜか廊下の壁にかかっていた麦わら帽子を差し出す真人。
「私はアルプスに避暑に来たお嬢様かっ!」
手近にあった座布団を投げる。
「アルプスで避暑か。懐かしいな」
難なくキャッチした真人の思考は、既に一万キロの彼方、多分スイスかオーストリアあたりに飛んでいっていた。
「せめて軽井沢くらいには行きたいな。そんなに遠くないし」
「物理的には近くても我が家の金銭的には遠いんですっ!」
魔力と一緒稼ぎに稼いだ富まで手放してしまった真人。もう少し考えてくれていたら、私が日々スーパーで頭を悩ます必要もなかったのに。
「ていうか、避暑じゃなくて湿気だよ、湿気。もー、ほんとどうにかなんないのこれ」
「太平洋気団に頑張ってもらうしかないな」
「そんなどうしようもないことを言うなっ!」
座布団をもう一枚投げる。
と、その時。
「たのもーっ!」
不意を突かれた真人は、座布団をキャッチし損ねた。
「何だ?」
「何なに?」
私も真人も声のした店の方を向く。
「店閉めたんじゃないの?」
「いや、まだ看板を中に入れただけ。とりあえず、行ってみよう」
踵を返した真人を、慌てて立ち上がって追う。
これが、梅雨のイライラなんてすっかり忘れさせてくれた大迷惑な事件の始まりだった。
「宣伝しといたから」
少し時間を遡って五月末のある日の昼休み、親友の小林爽が突然言った。
「何を?」
「みやびちゃんのお兄さんの、お悩み相談所」
「あぁ」
妹の奏ちゃんと愛猫クロの一件以来、爽は登下校時など、何かと柳瀬川古書店に顔を出すようになった。
「あぁ、って。みやびちゃん、宣伝する気あるの?」
「無くはないけど」
実際のところ真人は大したことはしていないのだけれども、どうやら爽は何か感じるところがあったらしい。「真人さんって、カウンセラーか何かの資格持ってるの?」と訊いてきたところから考えると魔法の存在は信じていないみたい。まぁ、あんな些細なので気付かれても大変だけど。
「やる気ないなぁ。ま、とりあえずウチの部員たちに宣伝しといたから。悩みでも愚痴でも聞いてもらったらすっきりするよ、って」
「それはどうも」
あき子先輩、そして爽。最初の二人が結構辛かったので、実のところやる気が失せつつあった私。発案者として申し訳ない。
「それに、真人さん、カッコいいし、すぐ人気出ると思うよ」
「はぁ」
そうですか。
そんな爽の予言は、ある程度現実のものとなった。それまでは閑古鳥も鳴かないくらい誰も来なかったのに、一日一人もしくはひと組ペースくらいでお客さんが来だしたのだ。爽の人望、凄い。
といっても、あき子先輩や爽のような重い相談はなく、九割方興味本位でやってきました、というお客さんだった。そんなお客さんたちに対しても、真人はめんどくさがらずにいつもの感じで応じるものだから、そのうちの何割かはリピーター的なものになりつつある。ほんと、女子高生はミーハーなんだから。
そんな感じで大したことも起こらないでいたものだから、完全に気を抜いていた。
「たのもーっ!」
二回目。
「はいはいはい、少々お待ちくださいねー」
そう言いながら店に向かう真人の背中を追う。そして、お店への段差を降りた真人越しに、声の主の姿を見た。
一見すると、どう見ても小学生。頑張ってお世辞を言っても中学生。長い髪を右側頭部で一つだけ結んでいて、それも容姿を幼く見せる要因の一つになっている。だけど、今の私の姿と同じ、緑山女子高校の夏服を着ているということは、高校生なのだろう。リボンの色から判断するに、一年生。左肩には学校指定のスクールバッグ。右手には滴の滴る透明なビニール傘。
そんな少女はくりくりしたかわいらしい目でこちらを思いっきり睨みつけている。……、全然怖くないけれど。八重歯の覗く歯もきつく噛みしめていて、どこからどう見ても怒っている。一体、なぜ? というか、何者?
「いらっしゃいませ」
こんなわけのわからない小動物を前にしても動じない真人は凄いと思う。
「本をお探しですか? それとも、お悩み相談ですか?」
「おい、貴様らっ!」
見た目通りのかわいらしいソプラノ声で、小動物が叫んだ。
「一般人の分際で魔法使いを騙るとは、一体どういう了見だっ!」
「えっと……」
これにはさすがに固まる真人。アドリブ力のない私は当然口をポカンと開けたまま何も言えないでいる。
「どういう、ことかな、お嬢さん?」
「お、お嬢さんだとっ!?」
急に頬を赤らめる小動物。
「そ、そんな手を使ったところで、私は騙されないからなっ!」
あれ、なんか面白いぞ、この小動物。
真人に頼まれたお茶を淹れて戻ってみると、腰を下ろした小動物は多少は落ち着いていた。相変わらずかわいい目で真人を睨みつけてはいたけれど。
「はい、お茶どうぞ」
「ひっ」
真人を睨み続けるあまり私の存在に気付いていなかった小動物は、目の前に出てきたお茶に驚いて身を竦めた。
「い、いきなり何をするっ!」
「お茶、どうぞ」
視線が、カウンターに置かれたお茶に移る。六月だけど雨が降っていて暑いような寒いような微妙な気候だったので熱い緑茶にした。
「あ、ありがとう……」
素直に礼を述べ、湯呑みを両手で大事そうに持って一口啜る。かわいいな、この子。
「で、そろそろ名前くらい教えてくれないかな?」
こちらも私の淹れたお茶を一口啜った真人が、カウンター越しに座る小動物に話しかけた。
「いつまでも睨んでいたら何も始まらないよ?」
「うぐ……」
睨みを継続しながら、口をもごもごさせる小動物。そして。
「し、潮見、みみ子……」
「「みみ子……」」
あまり聞き慣れない名前に、真人も私も一瞬反応に困る。すると。
「お、お母様が付けてくださった名前を馬鹿にするなっ!」
ばんっ、と両手でカウンターを叩いて立ち上がるみみ子。立ち上がっても座ったままの真人と同じくらいの身長だけど。
そしてさらに肩を怒らせながら、叫ぶ。
「「み」が三つ続くからって馬鹿にするなーっ!」
いや、してないし。
わーわー喚くみみ子。
「み、みみ子ちゃん、落ち着いて、ね?」
真人がカウンター越しに細い肩を抑えつけて、なんとか座らせる。
「ふーっ! ふーっ!」
今にも噛みついてきそうなみみ子。
「パス。みやび、頼んだ」
「え、ちょ、ちょっと待ってよ」
いきなり立ち上がり、そう言って奥に引っ込もうとする真人。
「さすがにここまで敵視されてたら話が進まないからな。女の子同士、上手いこと何か聞き出してくれよ」
すれ違いざまにポンと肩を叩かれる。そんなこと言われても……。
狭い店内に猛獣と二人きりで残されてしまった。
「えっと……」
とりあえず真人が座っていた椅子に腰を下ろす。
「私は柳瀬川みやび。よろしくね」
「よろしくされるつもりはないけど、一応よろしく」
お、話ができる?
「み、みみ子ちゃんは、緑山女子の生徒なんだよね?」
「私がコスプレをしてるんじゃなかったら多分そうでしょうね」
そして、またかわいらしい双眸でこちらを睨みつける。
「それから、そのみみ子「ちゃん」っていうの、やめてくれない? 子供扱いされてるみたいでなんかムカつく。みみ子でいいから。みんなそう呼ぶし」
そう思う時点で十分子供なんじゃ……、と思ったなんて口が裂けても言えない。とりあえず、私とは会話をするつもりがあるらしいので一安心。
「私もあんたのことみやびって呼ぶから。それでいいでしょ?」
「あ、うん、分かった」
なんか納得できないけど、しょうがない。
「それで、み、みみ子……?」
「何?」
薄い胸の上で腕を組んで偉そうに応じるみみ子。
「うちに、何をしに来たのか、教えてもらえるかな……?」
「はぁっ!?」
目を真ん丸にして驚くみみ子。
「最初に言ったじゃん! 何聞いてたの!?」
「えっと……」
言ったっけ? 必死で記憶を漁る。
「あ、そういえば、魔法使いを騙るなとか言っていたような……」
「そうっ!」
本日に二度目のカウンターばんっ。心臓に悪いからやめてよ、もう……。
そんな不服顔の私を無視して、いきり立ったみみ子は鼻息荒く叫んだ。
「この緑山で、私に無断で魔法使いを騙るなっ!」
右側頭部のサイドテールを振り乱す。
「緑山の魔法使いは、お母様だけなんだっ!」
目には涙を浮かべている。
「お前らみたいなエセ野郎共が、魔法使いを騙る資格なんて無いんだっ!」
以下、私の要約。
みみ子のお母様とやらは、魔法使いだったらしい。「だった」というのは、悲しいことにみみ子が小さい頃に無くなってしまったからだ。先日、緑山女子高校で勉学に励んでいたみみ子のもとに、とある噂が舞い込んだ。なんでも、学校の近くに「魔法使いのお悩み相談所」ができたらしい。それを聞いて、みみ子は激怒した。それはもう怒髪天を衝く勢いで激怒した。そのお悩み相談所は若いイケメンがやっているとかいうことも、みみ子の怒りを増長した。みみ子にとって、「魔法使い」はお母様との大切な思い出なのだ。その思い出に土足で踏み込まれる思いがした。
「えーっと……」
一気にまくし立てて息も絶え絶えなみみ子に、私はなんと声をかけたらいいのか分からなかった。
「どーせ、どーせ若い女子高生といちゃいちゃするのが目的なんだろっ! そんな不純な動機で魔法使いを名乗るなっ!」
「いや、真人はそんなつもりはないと思うけど……」
言いだしっぺは私だし。
「何、あんた、あの男の肩もつの!?」
「だって、妹だし……」
「信じられない」
頭を振るみみ子。そして、すとんと椅子に腰を下ろし、ぬるくなったお茶を一気に飲む。
気まずい無言。真人、助けて。これは私のキャパを越えた事案です……。
「お二人さん、話はまとまった?」
ナイスタイミングで、真人が戻ってきた。
「き、来やがったなっ!」
再び臨戦態勢に入ろうとするみみ子。
「まぁまぁ、みみ子ちゃん。落ち着いてよ」
「みみ子ちゃん言うなっ!」
「で、みみ子ちゃん、今日のところはお引き取り願えないかな?」
「だから、みみ子ちゃん言うなって!」
「お引き取り願えないかな?」
そう言って、パチンと指を鳴らす真人。
「わ、分かったよ、今日は帰る」
一瞬で態度の変わるみみ子。自分でも気持ちの変化に戸惑っているのがありありと分かる。……、魔法を使いやがったな、真人め。
「ま、また来るからなっ!」
「はいはい。お待ちしてます。足もとに気をつけて帰るんだよ」
「子供じゃないしっ! 余計なお世話だっ!」
傘を開いてから、わざわざ振り返る。
「あ、明日は用事があるから来れないけど、絶対来るからなっ! 待ってろよっ、って、うわっ!」
店の前の段差に躓く。ギリギリ耐えて、コケずに踏みとどまる。
「うー……」
横顔が真っ赤に。そしてみみ子は、雨の中、ダッシュで消えていった。
開きっぱなしの硝子戸から、やや強めの雨音だけが聞こえてくる。
「今日の晩ご飯」
どっと疲れがやってきた。
「お弁当でいい?」
幕の内弁当の鮭の皮をはがして、身を口に運ぶ。出来合い品は高いからあまり買いたくないのだけれど、今日は仕方がない。小さな台風が柳瀬川古書店だけピンポイントに襲ってきたようなものだったし。
「ここの弁当、なかなかうまいな」
「おいしいよね。たまにお総菜買ってるところなんだ」
「へぇ」
もぐもぐ。
……、じゃなくて。
「あのさ、真人」
「何?」
「今日のアレ、なんだったんだろう……?」
「アレ、ねぇ……」
真人はちょっと湿気ったエビフライを口に運び、咀嚼し飲み込んでからこう言った。
「頼んだよ」
「はい?」
真人の言葉の意味が分からず、私は間の抜けた返事をした。
「何言ってんの?」
「だから、頼んだよ、みみ子ちゃんのこと」
「いや、意味が分かんないんだけど」
食事の手を止め睨みつける私を見ずに、真人は説明してくれた。
「調べたんだよ、さっき」
「何を?」
「みみ子ちゃんの、お母さんのこと」
「いつの間に」
「みやびにみみ子ちゃんを任せている間に、協会に連絡したんだ」
協会、というのは、日本魔法使い協会(英略はJWA)のこと。日本全国に散らばっている魔法使いは基本的に属している組織だし、もちろん真人も属していて、私も使い魔登録されている。
「それで?」
「みみ子ちゃんのお母さん、確かに魔法使いだった。潮見香織さん。あの子が言った通り、もう亡くなっていたけれど」
「そう、だったんだ」
子の名前に比べて普通の名前だ。関係ないか。
「うん。あまり魔力は強くなかったみたいだし、普段は魔法使いとして働いていたわけでもなかったらしい。緊急時に召喚されるだけの、いわゆる予備魔法使いだね」
「へぇ」
そんなのがあったのか。知らなかった。というか。
「それと私がみみ子のことを頼まれることと、どう関係があるの?」
本題はこれだ。
「みやびはまだまだだなぁ」
ようやくこちらを見る真人。整った顔でニヤリと笑い、言った。
「あの子は、どこからどう見てもうちの「お客さん」じゃないか」
「……、はい?」
持ったままになっていた箸を落としたけれど、気にせず訊ねる。
「どういうこと?」
「みみ子ちゃんは、どっからどう見ても人には言えない悩みを抱えた女の子だったじゃないか、ということ」
言うべきことは言ったという風で、真人は自分のお弁当に戻っていった。一方の私はというと。
そ、そう言われましても……。
頭にこびりついたみみ子の行動を思い出す。
……、悩みを抱えた女の子?
考えてみたけれど、結局お弁当の残りが冷めてしまうという結果くらいしか出なかった。
「みやびちゃん、数学の授業中、何したの?」
昼休み、親友の小林爽がお弁当を持ってやってきた。
「ずっと窓の外眺めてたじゃん」
「えー、あー、ベ、別に。授業がつまんなかっただけ……」
「そう」
特に気にしたようでもなく、爽は空いていた私の前の席に座り、私の机でお弁当を開いた。
「いただきまーす」
私もバッグの中から登校中に買ったサンドイッチとペットボトルのお茶を取り出す。取り出しながらで、爽にばれないように溜め息をついた。
数学の時間、窓際の私の席から外を眺めていたのはもちろん授業がつまらなかったからではない。
校庭に、あの小学生と見まごうべき小さな姿を見つけたからだ。
昨日の夕食の後、お茶を飲みながら真人は私に言った。
「とりあえず、学校でのみみ子ちゃんの様子を見てきてよ。それで、なんでもいいから、教えて」
「はぁ……」
真人の意図は分からないけれど、しがない使い魔の私が魔法使い様に逆らえるわけもなく(文句は言うけど)、さてどうしようかと悩んでいたところでみみ子発見というわけだ。
私は爽の話に適当に相槌を打ちながら、体育をするみみ子の姿を思い出していた。
梅雨の晴れ間の本日、一年生の体育はテニスのようだった。授業が始まってすぐにみみ子の姿を捉えた私は、準備運動の段階からみみ子の姿を追った。ダボダボのジャージに、膝まで隠れそうなハーフパンツ。頭の右側には相変わらず一本の尻尾が踊っていた。
みみ子のクラスでの立ち位置は、すぐに分かった。
体育教師からのストレッチの合図で、めんどくさそうに二人一組を組んでいく女の子たち。そして、案の定というかなんと言うか、一人余るみみ子。おろおろしていたかと思えば急に地団太を踏み始め、それに気付いた体育教師が手招きして一緒にストレッチを始めた。
……、なるほど。
その後、試合のために四人一組を組むときも最後まで余っていた。授業が終わってぞろぞろと教室に戻っていくときも一人だった。たぶん、今も一人でお昼を取っているのだろう。
いじめとかそういうのではないと思うけれど、なんと言うか、……、めんどくさいんだろうな、クラスメイトたちも……。
「……ちゃん、みやびちゃん!」
「え、あ、あぁ、何?」
授業後、肩を落として一人とぼとぼ歩くみみ子の姿を思い出していたら、爽に肩を揺すられた。
「どうかしたの? サンドイッチ持ったままぼーっと口開けて」
「あ、そんな間抜けな顔してた?」
「うん」
両手で頬を挟む。
「ごめん、ちょっと考え事してた」
「だと思った。何かあったの? 話せることだったら聞くけど」
そう言って、おいしそうな卵焼きを口に運ぶ爽。何気ない風を装ってはいるが、私のことを気にしてくれているのが十分に分かった。
「うん、あのね」
一人で考えていても何も始まらない。何せ、全くと言っていいほど情報がないんだから。
「潮見みみ子って子、知ってる? 一年なんだけど」
「B組の潮見さん? 知ってるけど」
「ほんとに?」
「うん」
いきなり当たりだ。爽、凄いな。
「なんで知ってるの?」
「有名だよ、苦学生潮見みみ子の話」
「苦学生、潮見みみ子?」
あの傍若無人なみみ子と苦学生という言葉が結び付かない私は首を傾げた。
「あの、みみ子が、苦学生?」
「あれ、みやびちゃん、潮見さんと知り合いなの? みみ子って呼んでるけど」
「いや、そういうわけじゃないんだけど、あー、でも、知り合いと言えば知り合いだけど、なんというか、えっと、とりあえずみみ子について知ってること教えてもらえない?」
「うん、いいよ。噂話くらいしか知らないけど」
挙動不審な私を前にしても落ち着いて対応してくれる爽は本当にいい子だ。
「剣道部の後輩から聞いた話だから、あんまり正確かどうかは分かんないけどね。
他人のプライベートな話だからか、爽は前のめりになって顔を近付けてきた。
「潮見さんって、ウチじゃ珍しい特待生らしいよ」
「特待生? そんな制度あったの?」
「ウチって、進学校でもスポーツ校でもない普通の女子校だけど、入試の成績が優秀で経済的理由があれば申請できるんだって」
「へぇ」
知らなかった。我が家は少ない貯蓄から満額払っている。
「で、潮見さんは今年度の入試、断トツで一番だったんだって。入学式でも代表で式辞読んだらしいよ」
「凄いね」
あの小学生みたいなみみ子が学年トップの特待生とは。全く実感は湧いていないけど。
「それに加えて、一人暮らししてるらしいよ」
「そうなんだ」
「うん、なんでも、両親はお亡くなりになってて、中学までは施設にいたらしいんだけど、高校になってからは学校の近くで奨学金をもらいながら一人暮らししてるんだって」
「へぇ」
お母さんの香織さんが亡くなっていることは知っていたけれど、お父さんもとは。凄いというか感心というか、どんな言葉も陳腐に聞こえるくらい、素直に立派だと思う。
「これが、苦学生みみ子と呼ばれている由縁らしいよ」
「うん、これはどこからどう見ても苦学生だ」
みみ子のこの境遇を苦学生と呼ばずして誰を苦学生と呼ぼうか。
「だけど、いい噂はここまでかな」
「え?」
突然、爽は声を潜めつつもう一段階顔を近付けた。おでこがくっつきそうな距離に爽の整った顔がある。。
「潮見さんって、一年生の間で凄く評判悪いみたいなんだよね。見た目は可愛いでしょ、……って、見たことある?」
「うん」
確かに、高校生として可愛いかどうかは置いておいて、綺麗な長い髪とかくりくりした目とかちょこっと覗く八重歯とか、見た目はかなり点数の高い女の子だと思う。
「あの見た目だから、初めのうちはクラスメイトたちも話しかけたりしてたんだって。でも、潮見さんは、誰が来てもまともに相手しなかったんだって。見下したような、馬鹿にしたような態度を取ったりして。しまいには急に暴れ出したりしたとかしてないとか……」
そこまで言って、爽は顔を離して椅子にちゃんと座りなおした。
「はぁ」
そして、一息つく。
「やっぱり、よく知らない人の噂話って、あんまり気持ちよくないね」
凛々しい眉をハの字にして、爽が言った。
「あ……」
なぜ今まで失念していたんだろう。漸く私は爽の生真面目な性格を思い出した。
「ごめん、爽」
「ん? 何が?」
こうは言ってくれるものの、私は土下座したいくらいの申し訳なさだった。
「えっと、その、なんて言うか……」
私が口ごもっていると、爽の方からこの話を終わらせてしまった。
「ま、困った時はお互い様だよ。何か大事なことなんでしょ? 個人主義者のみやびちゃんが一年生のこと気にするくらいなんだから」
「こ、個人主義者って、別にそんなんじゃないよ」
優しく微笑む爽の前では、それ以上何も言えなかった。
「苦学生みみ子ねぇ……」
昼食のパンを口に詰め込んでお茶で流し込み、爽に中座を謝った上で私は一年生の階にやってきた。
「あの姿からは想像もできないな……」
見慣れぬ来訪者にチラチラ視線を感じはするけれど、特に声をかけられることもなく一年B組の教室に辿りついた。
「さて」
開けっぱなしの扉から顔をのぞかせ、こっそり教室を覗いてみる。
リボンの色が違うだけで二年生とはほとんど変わらない一年生の中に、二つの意味で目立つみみ子の姿を見つけた。
一つはその小ささ。椅子に座っているけれど、足先は床に届かずぷらぷらさせている。なんか可愛いな。
そしてもう一つ。みみ子のまわりには、ぽっかりエアポケットのような空間ができていた。
「うわぁ、予想通り……」
昼休みも半分以上過ぎているというのに、みみ子は机に広げた小さなお弁当箱の中身を口に運んでいた。その姿は「一生懸命」という四字熟語が似合うくらいには小動物然としていた。
「こうやって遠目で見る分には可愛いんだけどなぁ……」
ゆっくりとお行儀よくお弁当を食べる姿はからは、なんとなく育ちの良さみたいなものが感じられた。ついつい魚の骨とか皮を手で取ってしまう私とは大違いだ。
……、施設で躾けられたのかな、それとも、亡くなったご両親からなのかな……。
訊けるはずもない疑問が頭をよぎった。
そうこうしているうちにみみ子は漸く昼食を食べ終え、丁寧にお弁当箱を包んでバッグにしまった。そして。
「あ」
不意にこちらを向いたみみ子と、ばっちり目があった。不器用に作り笑顔を浮かべる私。そして、対照的に明らかな怒りを浮かべるみみ子。
「お、お前っ! 何しに来やがったっ!?」
そう叫んで、机をバンっ、と叩いて立ち上がる。クラス中の視線を集める。その視線のどれもが、「あぁ、またこいつか」みたいな諦めの入ったものであることが、私をなんとも言いようのない寂しい気持ちにさせた。
「や、やぁ、みみ子……」
逃げ出すのもまずいと思い、堅い笑顔のままみみ子に向かって右手を挙げる。一年B組の生徒たちは遠巻きに眺めているだけだ。誰も関わってこようとはしない。
「やぁ、じゃないっ! 何しに来たんだっ!」
「いやぁ、ちょっと、後輩に用事があってね、たまたま通りかかっただけだよ、あはははは」
「あんた、部活にも入ってないくせに後輩に用事なんてあるわけないじゃん。馬鹿にしてんの?」
「あはははは、そうだね、ごめんね……」
なんとか逃げ出す理由を考えていたら、思いのほかあっさりみみ子の方が折れてしまった。
「……、別に、謝られるようなことされてないし」
おや?
怒り顔から一転、下唇を噛んで俯いている。しかしすぐに顔を跳ね上げ、こちらに向かってずんずん歩いてきた。そして。
「どいてよ。お手洗いに行かないと、五限目が始まっちゃうんだから」
それなりに上背のある私の肩のあたりにある可愛らしい二つの瞳が、キッと睨みつけてきた。
「ご、ごめん」
私の横を通り過ぎ脇目も振らずトイレへと向かうみみ子の後ろ姿を、ただ唖然として見つめる。
「潮見さんに絡まれて、大変ですね」
いきなり声を掛けられて、振り返るとそこには眼鏡をかけた大人しそうな女の子が立っていた。真っ直ぐの黒い髪を肩のあたりで切り揃えた、真面目そうな子だ。
「絡まれたっていうか、私が自ら絡まれに来たというか……」
頭を掻きながらそう答えると、
「確かにそうですね」
そう言って女の子は可愛らしく笑った。
「えっと、少しいいかな?」
一年生に知り合いのいない私にとって、これは渡りに船とも言えるチャンスかもしれない。感じの良さそうな子だし、とりあえず、強引かもしれないけれど訊けるだけ訊いておこう。
「なんですか?」
「みみ子……、潮見さんって、クラスでは、どんな感じなの?」
「どんな、って、見たとおりですよ。こんな感じです」
眼鏡の少女の視線を追って、私も一年B組の中を一瞥した。みみ子が起こした騒ぎなど無かったかのように、ごくごく普通の昼休みの景色が広がっている。
「潮見さん、いつもあんな感じなんですよね。誰かが話しかけてもすぐに怒鳴ったりして。あれじゃあ、一人ぼっちになっちゃうに決まってますよね」
字面だけ見ればドライな言葉だけれども、それを発した少女の顔は、どことなく曇っているようにも見えた。
「えっと、ところで、あなたは……?」
「私ですか? ただの潮見さんのクラスメイトですよ。まぁ、出身も同じですけど」
「そうなんだ。お名前聞いてもいい?」
「いいですよ。後藤です。後藤桃花」
「後藤、さん」
「はい。柳瀬川先輩」
不意に呼ばれて驚いた。
「あれ、私のこと知ってるの?」
「結構有名ですよ、魔法使いのお悩み相談所」
「へ、へぇ……」
改めてこう言われると、なんだか照れる。言いだしっぺは私なんだけど。
「イケメン魔法使いってのはもちろんですけど、柳瀬川先輩も人気ありますからね」
「……、は?」
何を言っているのだ、この子は。私が、人気? どういうこと?
「二年の小林先輩と柳瀬川先輩のコンビって、一年生からは羨望の眼差しで見られてますよ。知らなかったんですか?」
「し、知らないよ、そんなこと……」
どうしよう、女の子同士とはいえ、人気があるとか言われたらなんだか照れるな……。ていうか、なんで私なんか……?
おろおろしていたら、後藤さんがいたずらっぽく笑った。
「すいません、今はそんなこと関係ないですよね」
そして、仕切り直しといった風で、少しだけ真面目な顔になった。
「潮見さんのこと」
声は変わらず平坦だけれども、その裏には何か別な感情がありそうだった。
「よろしくお願いしますね」
何か返事をしなければ、と思っていたら、予鈴が鳴った。
「それじゃあ、また」
そう言って、後藤さんは教室の自分の席に戻っていった。そして後藤さんの着席とほぼ同時に、
「あんた、まだいたの?」
不機嫌そうなみみ子の声が後ろから飛んできた。
「さっさと戻んないと五限目遅れんじゃないの?」
捨て台詞のようにそう言って、こちらを見ずに私の横を通り抜けていった。
「うーん……」
後藤さんは席に着いたみみ子の方に視線は遣ることはない。もちろん、みみ子も後藤さんをちらりと見もしない。
なんだ、これ?
何か少しでもプラスになればと思って一年B組にまでやって来たけれど……。
私は首を傾げながら、自分の教室へと戻ることになったのだった。
*
ここに来るのは久しぶりだ。日本に帰って来たときに顔を出して以来。
「お久しぶりです」
勿論、返事はない。
「とても面白い置き土産を、ありがとうございます」
昔のことを思い出し、自然と笑みが零れてくる。
梅雨の晴れ間。木陰にいても蒸し暑い。
俺は木々の隙間から覗く空を見上げた。春の空ではない。かといって夏の空でもない中途半端さ。
「さて、先生は俺にどんな宿題を残したのかな……?」
蝉が鳴くにはまだ早い。林の中は、不気味な、しかし同時に心地よい静けさに包まれていた。