第2話③
病院に連れていくという適当な嘘で誤魔化して俯きっぱなしの奏を保育園に押し込み、私はケージを持ったまま電車に駆け込んだ。
制服姿の女子高生が猫入りのケージを持っているという異様な姿に、一瞬車内の視線を集めてしまったけれど、すぐに皆自分の世界に戻っていった。
真人さんからみゃあちゃんを預かった翌日。私は約束通りお店に寄ってみゃあちゃんを返却するために、ケージを持って登校していた。電車の中では、みゃあちゃんはじっと大人しくしていた。初めて会ったときから思っていたけれど、本当に賢い子だと思う。クロに似ているけれど、クロの方がもっと、なんと言うか、落ち着きがなくて猫らしかった。みゃあちゃんはどこか達観した感じがしていて、その姿を見ていると、どうしてもこの子はクロじゃない、違う猫なんだということを、そして、もうクロはいないんだということを思わずにはいられなかった。
学校の最寄り駅を出て約十分、駅と学校のちょうど中間地点くらいに、柳瀬川古書店はある。商店街の外れの、なんとなくもの寂しい場所。
「おはようございまーす」
既に開いていた硝子戸の外から声をかける。
「おー、爽ちゃん、いらっしゃい」
真人さんは、レジカウンターの奥の椅子に座ってお茶を飲みながら新聞を読んでいた。
「みゃあちゃん、連れてきました」
「わざわざ悪いね」
「いえ、どうせ学校に行く途中だったので」
よっこらしょ、と顔に似合わないおっさん臭い声を上げて、カウンターを跨いでこちらにやってくる真人さん。
「奏、凄く喜んでました」
ケージごとみゃあちゃんを手渡す。
「それは良かった。爽ちゃんもかわいがってくれた?」
突然訊かれて、少しうろたえる。
「そ、そうですね。久しぶりにうちに猫が来て、昔のことをちょっとだけ思い出しました」
目は腫れていなかったから、さすがに泣いたなんてばれないはず。
「そう。それは良かった」
微笑む真人さん。空気を読むのは得意だと思っているけれど、真人さんはなんだか掴み所がなくて少し怖い。
「ところで」
あまり突っ込まれたくなくて、話を変える。
「みやびちゃんはいないんですか?」
「あぁ、あいつなら、用事があるとかでとっくに学校行っちゃったよ」
「そうですか」
一緒に行こうと思ったけれど、それならば仕方ない。
「あの、奏の件なんですけど」
もともとの相談事だったこのことも訊いておかなければ。
「あー、うん、そうだね」
生返事の真人さん。
「あの、大丈夫なんですか?」
「うん、大丈夫大丈夫。問題無し」
なんだか適当に流されている気がするけれど、みやびちゃんのお兄さんとはいえそこまで親しいわけではないので追及するわけにもいかない。仕方なく頷くしかない。
「そうですか、分かりました。じゃあ、どうしてもらえるんですか? 次はいつ来ればいいんですか?」
「うーん、そうだねー……」
顎に手を当てて考える真人さん。見てくれがいいだけになかなか様になっている。
「俺が何かする必要はないと思うんだよね」
「……はい?」
わけが分からないことを言う。
「どういうことですか?」
「そのままの意味だよ。たぶん、君のお悩みはこの後すぐに解決する。だから、全部解決して、爽ちゃんが来たくなった時に来て。別にいつでもいいよ」
「意味が分かりません」
「大丈夫、すぐに分かるよ」
そう言って、また微笑む真人さん。私は段々と怖くなってきて、肩にかけたスクールバッグの持ち手をぎゅっと握った。
「よく分からないですけど、分かったということにしておきます。それじゃあ、あまり長居すると遅刻してしまうので」
遠まわしに断られたのだろう。別にそこまで当てにしていたわけじゃないから、いいんだけれども。
「はいはい。申し訳ないね、引き留めちゃって」
「いえ。それでは、失礼します」
「あ、ちょっと待って」
「何ですか」
まだ何かあるのだろうか。
「魔法をかけてあげる」
「はい?」
この人はふざけているのだろうか。露骨に訝しんだ顔をしていたら、相変わらずの笑顔で、真人さんはパチンと一度指を鳴らした。
「は、おしまい。じゃ、また、気が向いたらおいでよ」
「はぁ」
「あ、それから、最後にもう一つ。奏ちゃんのこと、もっと分かってあげないと。あの子は、強い子だよ」
「はぁ」
なんだか気味が悪くてそそくさと逃げ出すように店を出る私。真人さんは、硝子戸から顔を覗かせて手を振って私を見送っている。一度振り返って会釈した後は、私は真っ直ぐ学校を目指していつもよりも早足で歩いた。
気になるのは、あの言葉の意味。私が来たいと思った時とはどういうことだろう。それに、その意味がすぐに分かるって。
考えても何も分からないので、とりあえずそのことは置いておいて学校へ急ぐことに集中することにした。いつの間にか登校する生徒の姿も疎らになっていて、このままだと本当に遅刻しかねない。
先に出ていたというみやびちゃんは、なぜか一限目の途中に遅刻してやってきた。
「どうしたの?」
休み時間になってすぐにみやびちゃんの机に駆け寄り、訊ねる。
「いやー、登校途中で猛烈におなかが痛くなってねー。あはははは」
「大丈夫? 保健室行く?」
「ううん、問題無し。すぐ直った」
「ならいいけど」
なんとなくみやびちゃんの様子が気になりながらも、私は自分の席へ戻った。
その日一日は、ちらちらとみやびちゃんの視線を感じながら過ごすことになった。一体なぜ、と思いながらも、なんとなく直接訊けずに放課後。
「さーやか」
帰り支度をしていた私の下に、みやびがやってきた。
「何?」
「なんでもない」
相変わらず表情の変化が少ない子だけれど、今日は一日中、どことなく元気がない感じだった。
「もしかして、また体調悪くなったの?」
「ううん。そんなことない」
首を振るみやびちゃん。
「じゃあ、何?」
「友達、だから」
「え?」
「私、いくらでも話聞くからね」
「?」
「じゃ、部活頑張ってね」
それだけ言って、小走りで教室を出て行ったみやびちゃん。後に残された私の頭にはクエスチョンマークだらけだった。
「一体、何?」
みやびちゃんの意図も、そして朝の真人さんの行動の意味も分からずもやもやしたまま部活で汗を流し、下校する。駅まで歩き、電車に乗り、そして奏の通う保育園へ。両親が出張でいないときは、私が登校前に預け、下校途中にお迎えに行くことになっている。保育園に入るなり、奏は朝と同じく俯いたままで私を出迎えた。
「奏ちゃん、一日中こんな感じだったのよ。どうしたのかしら」
保育士さんに言われて、非常に申し訳なくなる。
「奏、いいかげん、機嫌直しなさい?」
「クロは?」
しゃがんで頭を撫でながら優しく言っても、奏の様子は変わらなかった。これはしばらくかかりそうだ。
「すみません、明日にはきっと直ってると思うので」
頭をペコペコ下げて、奏の手を取って帰路につく。いつもは保育園であったことを色々話してくれるのに、今日は終始無言だった。
スーパーで買い物を済ませて帰宅。相変わらずなぜか俯いたままの奏をリビングの椅子に座らせて、夕食の準備に取り掛かる。今日は少し疲れているので簡単な豚の生姜焼き。こうやって奏のことを気にしたり家事に追われていたりしていれば、真人さんとみやびちゃんの妙な様子のことも頭から消えてくれるし、そして何よりクロのことを考えなくて済む。二年生に進級してから今まで以上に部活に一生懸命になったり、クラスのことも色々引き受けたりしていたのは、クロのことを考えないで済む時間を増やしたかったからだった。
……、いけない、クロのことを考えていた。
「奏、出来たよ」
ダイニングテーブルに料理を並べる。
「はい、いただきます」
「……いただきます」
漸く口を開いてくれた。もぐもぐと、漸く使えるようになった箸でぎこちなく食べる。付け合わせのキャベツもちゃんと食べている。好き嫌いの少ない子で助かる。
「あのね」
味噌汁のお椀を中身を零さないように慎重に置いてから、突然奏が口を開いた。ご飯を食べて少しは機嫌を直してくれたんだろうか。
「何?」
「かなで、わかってるんだ」
「何を?」
「クロが、クロじゃないってこと」
「どういうこと?」
いまいち要領を得ない奏の言葉、でも、顔を上げた奏の表情は、見たこともないくらいに凄く真面目だった。
「昨日のクロは、クロじゃない。かなで、そのくらいわかってる」
あぁ、そういうことか。
「そう、だね」
言いたいことは分かったけれど、突然そんなことを言われてもどう対応すればいいのか分からない。返答に困っていると、かなでが衝撃的なことを口にした。
「かなで、クロがしんじゃったってことぐらい、わかってるもん」
驚きのあまり、私は持っていた箸を落としてしまった。ど、どういうこと?
動揺する私をよそに、奏は俯き気味にだけれども、はっきりした口調で続ける。
「クロがもうおばあちゃんになってるってことしってたし、クロがいなくなったあとにパパとママがはなしてるのきいたんだ」
そうだったのか、知らなかった。てっきり奏はクロがどこかにいってしまっただけで、帰ってくると信じているものだと思い込んでいた。
「でも、じゃあ、なんで」
私の頭の中は疑問でいっぱいだった。
「なんで、奏は、クロを待っていたの? いや、そうじゃない。待っている振りをしていたの?」
「だって」
相変わらず俯いたままだけれど、今度は辛そうに、絞り出すように奏は答えた。
「おねえちゃんが、ないてたから」
「えっ?」
奏が顔を上げた。大きな瞳は真っ直ぐに私を見ていた。
「しってるんだよ、かなで。おねえちゃん、クロがいなくなってから、ずっとないてた。おねえちゃん、かなでよりもクロとずっといっしょにいたから、すっごくかなしいんだとおもったんだ」
クロは私が二歳くらいの時に我が家に来て、それからずっと一緒に育ってきた。奏はそのことを言っているのだろう。
「でも、おねえちゃん、すぐになかなくなった。ずっとずっと、なきたいのがまんしてるんだと、おもったんだ」
奏の独白は続く。
「だから、かなで、おねえちゃんがかなしいのやだから、かなでだけでも、まだクロがいきてるんだっておもってるんだって……」
奏は必死に自分の思いを言葉にしようとしている。まだ幼すぎてそれが重い通りにいかずに悔しい思いをしているのが見て分かる。
でも、そんな拙い言葉からでも、奏の私に対する思いが伝わってくる。
どうよう、奏になんて言おう。なんて言えばいいんだろう。奏を悲しませないために、傷つけないためには……。
と、突然。
違うよ、爽。奏は、そんなことを求めてるんじゃない。どうして嘘をついてまで、自分の気持ちを隠そうとするの? 奏が、大好きなお姉ちゃんに、そんなことして欲しいと思うの?
声が聞こえた。私の、私自身の声だった。
その瞬間、私の心は言い知れぬ暖かさに包まれた。気付かぬ内にいつの間にか、涙が零れていた。
「ごめんね、奏……」
立ち上がり、その拍子に倒れた椅子のことなんて気にせず奏の元へ駆ける。そして、抱きしめる。
「ごめんね、奏がそんなこと考えてくれてるなんて、私知らなかった……」
「おねえちゃん、なかないで」
奏を抱きしめる私の頭を、奏が撫でてくれる。
小さな小さな奏の手に抱きしめられ、私は声を上げて泣いた。どうしてだろう、泣きやまなきゃと思っても、止まらない。堰を切ったように涙が溢れる。クロとの思い出が頭の中を駆けていく。まだよちよち歩きだった頃から、小学校、中学校、そして高校生になるまで、クロはずっと私の傍にいてくれた。それだけじゃない。奏が、大事な大事な妹が、私のことをこんなに考えていてくれたなんて。まだこんなに小さい子供なのに、私を思いやって嘘をつき続けていてくれたなんて。
「奏、お姉ちゃん、寂しいよ……。クロがいなくなって、すっごく寂しいよ……」
私が思いっきり泣いている間、奏はずっと私の頭を撫でていてくれた。
やっと落ち着いてきて、私は奏に訊ねた。
「なんで、話してくれたの?」
「えっとね」
たどたどしくも、奏は話してくれた。
「きのうね、かなで、きいちゃったんだ。よるね、おきて、おトイレにいこうとしたら、おねえちゃんが、おへやでないてるこえがしたの」
昨日の夜、みゃあちゃんを前にしてクロのことを思い出してしまって、思わず泣いてしまった。あれを聞かれてしまっていたのか。
「どうしたのかなっておもって、こっそりきいてたらね、おねえちゃんが、いったから」
そうか、そうだったのか。確かに昨日の夜、私は言った。クロが死んじゃったことぐらい分かってる、と。
「おねえちゃん、かなでのためにがまんしてるんだ、って、わかったから」
全部聞かれていたのか。
「だから、だからね。もう、おねえちゃん、がまんしなくていいんだよ?」
そう言って、奏はまた私の頭を撫でた。
もう泣き切ったかと思っていたのに、私の目からはまた涙が零れた。
「ごめんね、ごめんね、奏……」
そのまま私は奏を抱きしめたまま、そして奏に抱きしめられたまま、ご飯が冷めてしまうということも忘れて泣いていた。
泣きたいときは、泣けばいい。悲しいときは、悲しめばいい。
こんな簡単なことに、なんで気付かなかったんだろう。
こんな簡単なことを小さな奏に教えられるなんて、お姉ちゃん失格だね。
そう思ったけれど、でも全然悪い気はしなかった。とてもとても優しい妹を持てて、心から幸せだと思えた。
*
「いつ気付いたの?」
「何に?」
「奏ちゃんが、嘘ついてるって」
ご飯と味噌汁と塩鮭と漬物という純和風な朝食を取りながら、私は真人に訊ねた。
「んー? 最初からおかしいと思ったんだよな。子供とはいえ猫好きで猫を飼っていたはずの奏ちゃんの、みやびに対する態度。嫌がるみやびを無理やり抱きしめたり、膝の上に乗せて撫で続けてただろ? なんか、無理に猫好きを演じてるみたいで」
「確かにそうだけど……」
そんなところで怪しんでいたのか、真人は。
「演技、とまではいかないけど、無理やりな感じがしたんだよな。それから、みやびから聞いた奏ちゃんの家での様子かな。店での態度に加えて、クロの帰還を信じて疑わなかった、という割には、ドライすぎる対応だと思ったんだよ。決め手はその印象のギャップかな」
「へぇー」
苦手な皮をはいで、鮭を口に運ぶ。
「さすがに子供が一日中演技するのは疲れるんだろうな。クロじゃないと分かっている猫を、クロとしてかわいがるという演技。でも、なかなか芸達者な子じゃないか」
私自身、爽の問題に気を取られすぎて気にしていなかったけれど、確かに奏ちゃんは、ある程度しか私を構わなかった。私が家に行っても随分落ち着いていたし、夜もさっさと寝てしまっていた。
「そんなことで、確信したんだ」
「もちろんそれだけじゃないさ。爽ちゃんの日記がなかったら、確信はできなかっただろうね。必死で自分の気持ちを隠す姉と、その姉に対して何かを隠している妹。お互いを思い過ぎたが故の、行き違い」
「凄いね、真人」
「人間の心の機微には多少は敏感なんだ。そうじゃないとあんな世界じゃやっていけなかったんだよ」
「はいはい、そうですか」
世界に名を馳せた大魔法使い様ともなれば、このくらいは朝飯前なのかもしれない。一緒に仕事をしていたはずの私は全然だけど。
「でもな、今回はお前がいなかったらきっと何も解決してなかったぞ」
「え?」
突然言われて、箸を持っていた手が止まった。
「どういうこと?」
「いつもあの子のことを見ていた前じゃなかったら、爽ちゃんのほんの些細な異変には気付けなかっただろうな。お前が止めてくれなかったら、俺はあのまま適当なことを言っただけだった。お前があの子と友達だったからこそ、お悩みが現れて、そして手が打てたんだよ」
「そ、そうかな」
「もちろん」
急に褒められて、照れる。恥ずかしくて真っ直ぐ真人の顔が見られない。
「そ、そうだ、ところで、爽にはどんな魔法をかけたの?」
照れ隠しに、昨日訊きそびれていたことを訊ねる。
「うん? 言ってなかったっけ。簡単な魔法だよ。奏ちゃんが自分の嘘を告白するのも時間の問題だと思ったから、それを聞いた時に、無駄に意地を張ったりしないように、ちょっとだけ背中を押してあげられる魔法をかけたんだよ」
「だから、どんな魔法なの?」
「それは……」
「みやびちゃーん!」
突然、階下、というか、外から、私の名を呼ぶ声が聞こえた。
「え、何?」
慌てて立ち上がり、窓を開け、外を見る。
「爽、どうしたの!?」
「みやびちゃーん、一緒に学校行こー!」
表の通りには、こちらを見上げる爽がいた。その顔は、憑き物が落ちたように晴れ晴れとしている。でも、少しだけ目の周りが腫れぼったいのは気のせいだろうか。
私は振り返って、真人に言った。
「真人、爽と奏ちゃん、たぶんうまくいったみたい」
「お、そうか。思ったより早かったな」
「うん、そうだね」
笑顔で手を振る爽。ポニーテールに、やや釣り上がった目。それに合った眉。スタイルのいい体つき。あの、元気が満ち溢れ、誰からも頼られる小林爽が戻ってきていた。
「爽、ちょっと待ってて!」
「あいよー」
残っていたご飯と味噌汁をかき込む。
「真人、ごめん、片付けよろしくね」
「りょーかい」
「帰ったらちゃんと教えてね!」
「はいはい」
バッグを掴み、急いで、だけど転げ落ちないように慎重に階段を駆け降りる。そんな私を見送りながら真人が言った言葉は、私の耳には届かなかった。
「些細な魔法だよ。少しだけ、自分に正直になれる魔法。みやび、大事な友達と、仲良くやれよ」
五月も末の関東地方は、もうすっかり初夏の陽気だった。