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第1話②

 なんだか久しぶりの任務で少し緊張。でも、かなりワクワク。

 私は、女子トイレの鏡の中の私に向かって鼻歌を歌っていた。

 真人と一緒にヨーロッパから日本に戻ってきてもう何年たったか分からないけど、こんなバカみたいだけどなんとなく昔を思い出すようなことはほとんどなかった。

 もちろんのんびりしたのは嫌いじゃないし、一生分以上働いた真人のもうこれ以上働きたくないっていう気持ちも分かる。でも、やっぱり私はたまにはドキドキワクワクしたい。だって、猫だし。

 制服のかわいらしいリボンを整えながら、私は鼻歌二曲目に入った。

「思い付きだったけど、実行して良かったなー」

 面白そうっていうのとかわいい制服が着たいっていう理由で緑山女子に入ってはや一年以上、家事はちゃんとするという約束だったから部活にも入れず、友達はたくさんできたけれど勉強ばかりの思ったより退屈な学校生活に飽きてきたところ。そろそろ何か新しいことをしてみようと思って思いついたのがこれだった。

「それにしても、一発目から変なお悩みが来たなぁ」

 女の子同士の恋愛とか。昨日はいきなりのことで固まってしまったけれど、女子校にはよくあること、なのかもしれない。私にはよく分からない。だって、まだ女の子歴一年ちょっとの元メス猫だし。

「よし」

 髪の毛に櫛も通して準備完了。頭の中のアンテナを、真人からのメッセージ受信専用チャンネルに合わせる。だいたいの魔力を封印した今でもこんな高位魔法が使えるなんて、やっぱり真人は凄い。

『お、みやび、準備できたか』

『できたよー』

 頭の中で真人に応える。

『うん、視界もクリアー、って、トイレの中かよ。早く出ろよ』

『分かってるって』

 スキップでもしたいくらい上機嫌でトイレを出る。

『やることは分かってるよな』

『大丈夫大丈夫』

『じゃ、俺は基本的に見ているだけだから。何かあったら、声掛ける。あとは適当によろしく』

『おっけー』

 さて、ミッション開始です!


 久しぶりのお仕事は吹奏楽部潜入調査。さすがに昨日あき子先輩が言っただけの情報ではどんな魔法をかけるべきか分からないということだったので、私が吹奏楽部に潜入して、実態を直接リポートするという大雑把かつ効率的な作戦を取ることになった。

 音楽室なんて美術選択の私には全く縁がない場所だ。そもそも吹奏楽部が皆音楽室で練習しているかどうかも分からないし。吹奏楽部といえば放課後の校内の至る所で個人練習しているのを見かける存在だし。

 さて、音楽室に到着。中から楽器の音はしないけれど、果たして。

 入口のドアを少しだけ開けて、隙間から中を除く。お、いたいた。扇形に並べられたパイプ椅子に、二十人弱の生徒が各々楽器を持って座っている。扇の要にはあき子先輩。真面目な顔をして部員全体に話をしている。

「百二十小節目からのとこ、ちょっとトランペットがでしゃばりすぎ。逆にトロンボーンは死んじゃってる。それから、全体的にドラム走りすぎ」

 とても昨日見た天然おどおどのあき子先輩には見えなかった。なんか、かっこいいぞ。その後も色々な楽器にダメ出しというか指示を出した上で、指揮棒でぱしんと一回机を叩いた。

「じゃ、頭からもう一回合わせてやってみようか。はい、構えて。行くよ、ワン、ツー、スリー、フォー」

 あき子先輩の号令で、曲が始まった。楽器の演奏なんてど素人の私からすれば、特になんの問題も無い上手な演奏に聞こえたけれど、合奏終了後のあき子先輩の顔は相変わらず渋いままだった。

「うーん、言ったとこ全然変わってないね。これじゃあ合奏する意味がないよ」

 持っていた指揮棒をぽいと投げる。

「三十分間パート練習。十分休憩した後もう一回合奏ね。はい、解散」

 あき子先輩の号令で、部員たちは楽器ごとにばらけて各々散っていった。

「はぁ」

 一人残ったあき子先輩は、持っていた楽器、確かクラリネットを机に置いて、深いため息をついた。うん、今がチャンスかな。

「どーもこんちわー」

 パート練習に散っていった吹奏楽部員が開けっぱなしにしていたドアから、顔を覗かして挨拶をする。

「ひあっ!」

 あれ?

「あ、あなたは、昨日の、魔法使いさんの……」

 あれれ、なんかさっきまでのあき子先輩とは別人のような。

「あ、うん、真人……、あの元魔法使いの妹のみやび。昨日はどうも」

「みやび、さん……」

「うん。みやびでいいよ」

「みやび、ちゃん……」

「それでいいや。改めてこんにちは。見学に来ちゃった」

「け、見学?」

「うん。私、吹奏楽ってどんなものか全然知らなくて。昨日ちょこっと話聞いて、興味出ちゃったの」

 さすがに潜入捜査ですとは言えないので、適当に誤魔化す。

「そ、そうなんだ」

 相変わらず私の前ではおどおどのあき子先輩。さっきまでのビシッと指示を出すあき子先輩はどこに行ったのやら。

「ところで」

 真人に言われた通り、適当に探りを入れてみることにした。

「あき子先輩は演奏しないの?」

「わ、私は、部長で、一応コンマスだから……」

「コンマス?」

 聞き慣れない単語に首を傾げる。

「コンサートマスターの略。えっと、全体のリーダーみたいなものかな。顧問の音楽の先生の専門が合唱だから、演奏指導は私がしてるの」

「すっごーい!」

 素直に感動した。

「あき子先輩、高校生なのに高校生に指導してるんだ!」

 思わず両手であき子先輩の手を掴む。

「はわわ……」

 照れるあき子先輩。

「そんな、全然凄くないよ。ただ、誰もできないから私が仕方なくやってるだけで……」

「誰もできないからあき子先輩がしてるって時点で十分凄いって。私なんて、楽器なんて生まれてこの方触ったこともないんだよ」

「そ、そうなんだ。逆に珍しいね。音楽の授業とかで触らなかったの?」

 やべ。

「ま、まぁ、一度も触ったことないってのは冗談だけど……」

 慌てて話題を変える。

「でも、あき子先輩、演奏の指示出してる時めちゃくちゃかっこよかったよ。普段のおどおどが嘘みたい」

「そ、それは……」

 俯くあき子先輩。昨日の真人の前のと一緒だ。自信なさげな、不安だらけな顔。

「クラリネットを持ってる時だけ、私、人格が変わるの」

 そう言って、隣の机に置いてある黒いひょろ長い楽器に目を遣った。

「どゆこと?」

「そのまんま。クラリネットを持っているときは、違う私が出てくるの。自信満々の音楽家な私。たいして上手くもないのに恥ずかしいけどね……」

 そう言って、そっとクラリネットに手を遣るあき子先輩。そういえば、合奏の時も右手に指揮棒、左手にクラリネットを持ってたような。

「鈴木先輩!」

 もうちょっとあき子先輩と何かを話そうとしていた時だった。

 隣の教室(音楽準備室かな?)に続くドアが開き、小柄な女の子が出てきた。手にはクラリネットに似てるけどなんとなく違う楽器が握られている。

「みんな準備できました! お願いします!」

「は、はいっ」

 女の子の大きな声にびくついていたあき子先輩は、クラリネットを持つと文字通り人が変わったような顔つきになった。

「ソロ開けからめちゃくちゃだったから、まずはそこ。その後は頭から通しで。分かった?」

「はいっ!」

 女の子は戻り際に私にちらりと視線をくれた。そして。

 ギロッ。

 音がしそうなくらい睨まれた。今完全に目が上弦の月になってたぞ。

「というわけでみやびちゃん、私、木管パートのパート練習を見なきゃいけないから。見学だったら、この後の全体合奏まで待っててもらえる?」

 そんな視線に全然気付かなかったのか、かっこいいバージョンのあき子先輩はそう言って小さな女の子の後を追って隣の教室に消えていった。

「なんだ、今の子」

 リボンの色を見るに、私と同じ二年生。

「うーん」

 手近な椅子に座って足と腕を組んで唸る。

『そういうことか、簡単だったな』

 突然頭の中に真人の声が聞こえた。

『簡単って、どゆこと?』

 頭の中で応じる。

『みやびは分かんなかったか? あき子ちゃんが言ってた部内のいざこざの件だよ』

『えっ、今のだけで分かったの? 嘘っ?』

『お前に嘘ついてどうする。もう分かったから、帰ってきていいぞ。夕飯はそうだな、今日は野菜が食いたいな』

『待って、待ってよ』

 私は全然何がなんだかさっぱりなのに、真人だけ分かってもうこれでおしまいだなんて悔しい。

『私、もうちょっと残る』

『なんだ、みやび、分かってなかったのか』

 思考を読まれる。さすがご主人様だ。

『そ、そうですよ、まだ全然分かってないですよ! 悪いか!』

『悪かないよ。ま、あんまり遅くなるなよ』

 そう言って、真人は一方的に回線を切断してしまった。

「なんだよ、もう……」

 勝手な真人の態度に納得のいかない思いがしながらも、まぁそういえば昔からこういうご主人様だった気がするなぁとなんとなく昔を思い出せてちょっとだけ嬉しい気持ちになれたので良しとする。


 パート練習の時間が終わり、休憩も残り五分となったら、わらわらと部員たちが戻ってきた。私は音楽室の隅っこで合奏を聴かせてもらうことにした。ちらちらとこちらを見る部員もいるが、話しかけてくる子はいない。まぁ、知り合いもいないし仕方ないかと思っていたら、いきなり目の前ににゅっと女の子が現れた。

「あなた、誰?」

 小さくて接近に気付かなかった。忍びの者か。じゃなくて、さっきあき子先輩を呼びに来た小さな女の子だった。

「私、二年三組の柳瀬川みやび。よろしくね」

「そんなどうでもいいことが聞きたいんじゃないの。あなた、何しにここに来たの?」

 名前をどうでもいいことと言われてさすがにムッとしたけれど、追い出されても困るので笑顔で答える。

「ちょっと、見学させてもらってるの。あき子先輩からは許可取ってるから大丈夫でしょ?」

「ああああああああ、あき子先輩だとっ!?」

 ちっちゃな女の子の顔がみるみるうちに赤くなる。

「貴様、鈴木先輩のなんなんだっ!?」

 き、貴様とか。逆にこの子が何者だ。

「ほら、遠藤さん、もうみんな座ってるよ!」

 パシンという指揮棒の音と一緒に、あき子先輩の声が飛んできた。

「オーボエのあなた無しでこの曲をどうやって演奏しろって言うの?」

「す、すみません!」

 まわれ右して深々と頭を下げる遠藤さんとやら。慌てて自分の椅子に戻ったが、こちらを振り向いて私を睨みつけるのは忘れなかった。

(私、なんか変なことしたかなぁ?)

 合奏は何度かあき子さんのストップが入り、その都度あれやこれやと私にはよく分からない指示が飛んだ。時には「グッ」とか「パッ」みたいな凄く感覚的な言葉でしか指示を出していないのに、部員たちはふんふん頷いて楽譜にメモを取っていた。音楽って、私にはよく分からない。

 そんな中、ひときわ目を爛々と、いや、ギラギラと輝かせて穴が開きそうなくらいあき子先輩を見つめて、いや、睨みつけていたのが遠藤さんだった。

(熱心な子だなぁ)

 とか思いながら眺めていたら、合奏が。終わった。

「うん、最後の感じ、すごく良かった。それじゃあ、今日はここまで。しっかりダウンすること。あ、明日は個人練習とパート練習の日にします。明後日の合奏に備えて、しっかり今日言われたことを確認すること。以上、お疲れ様」

 お疲れさまでしたー、の言葉とともにわらわらと散っていく部員たち。そして、あき子先輩は私のもとにやってきた。

「ご、ごめんね、何も相手できなくて」

 クラリネットは机の上。というわけで、今はおどおどバージョンのあき子先輩だ。

「気にしないで。分かんないなりに面白かったよ」

 素直な感想。聴いているうちに、なんとなく聴きどころが分かった気がするし、あき子先輩の指示による変化もなんとなく分かった気がする。指示一つでがらっと感じが変わるのが、なかなかおもしろかった。

「そう、良かった。でも、せっかく来てもらったのに、演奏会前だから楽器も触らせてあげられなくて……」

「あー、いやいや、気にしないで。合奏聴いて、やっぱり私には敷居が高いなー、って思ったから」

「そう……」

 少し残念そうな顔をするあき子先輩。音楽家としては音楽に興味がない人が増えるのは残念なものなのかもしれない。

 と、そこでようやく気付いた。

 じーっ。

 音が出そうなくらい私とあき子先輩、じゃないな、私だけを睨みつけるちっちゃな遠藤さんの姿。

 私の視線で、あき子先輩も漸くその存在に気が付いた。

「あ、遠藤さん。ちゃんとダウンした?」

「しました! 大丈夫です!」

 はっきりと元気よく答える遠藤さん。小学校なら百点満点だと思うけど、あいにくここは高校の音楽室だ。ちょっとうるさい。

「ところであき子先輩!」

「な、何?」

 遠藤さんの勢いに押されて半歩後ずさるあき子先輩。

「こいつ、何者ですかっ!?」

 ビシィッ! と私を指さす遠藤さん。貴様の次はこいつ呼ばわりですか。親の顔が見てみたいです。

「え、遠藤さん、こいつって……。みやびちゃんは……」

「み・や・び・ちゃん、だとっ!?」

 そう叫んで頭を抱えてうずくまる遠藤さん。ほんとになんだ、この子。

「鈴木先輩がちゃん付けをするなんて……。私なんてまだ遠藤さんとしか呼ばれたことないのに……」

 膝から崩れ落ちガタガタ震えだす遠藤さん。慌ててしゃがんで解放するあき子先輩。

「え、遠藤さん、あのねみやびちゃんはね、私がちょっとお世話になってる方の妹さんなの。その縁で、今日は吹奏楽部の見学に来てくれただけで、別に、なんでもないから」

 なんでもないと言われてしまえば確かになんでもないけれど、本人の前で言うもんじゃないでしょ、あき子先輩。

「そ、そうなんですか、良かった……」

 漸く遠藤さんの震えが止まった。

 そんな二人のやり取りを、横を通る部員たちがニヤニヤしながら冷やかしていく。

「あき子ー、遠藤ー、あんまり公衆の面前でいちゃつくなよー」

「鈴木先輩に遠藤さん、相変わらずで羨ましいですー」

 そして私を見て。

「お、ライバル登場なの?」

 うん、さすがに私にも分かったよ。

「それじゃ、私はお邪魔みたいだからさっさと帰るね」

 立ちあがったあき子先輩に、私は声をかける。

「それから、あき子先輩、明日、お待ちしておりまーす」

「え、あ、うん……」

 再び不安そうな顔を見せるあき子先輩。

「えっ!? 明日!? お待ちしてます!? ななななな、なんのことっ!?」

 そして再び騒ぎだす遠藤さん。

 さてさて、真人はあき子先輩にどんな魔法をかけてくれるのかな。


  *


 勇気を出してチラシに書かれた魔法使いさんのもとへ行った翌々日、私は言われた通りまた同じお店の前に来ていて、そして躊躇っていた。

 部活の友達は冷やかすばかりだし、まさか親には相談できない。クラスにもそこまで中のいい友達はいない。そこに演奏会の練習が重なって、私の精神は爆発ギリギリのところまで来ていた。そこでたまたま手にしたチラシ。受け取った記憶はないけれど、教室に着いたらなぜか胸ポケットに綺麗に折りたたまれて入っていた。寝不足で普段以上にぼーっとしていた朝だったから、いつもは貰わないようなこんなものを無意識のうちに受け取ってしまっていたのだろう。

 見た瞬間からお店に特攻するまでは「これしかない!」という気持ちになっていたけれど、いざ実際悩みを告白してみるとさすがにどんどん恥ずかしくなってきて、ついぼかして話してしまった。こんなのじゃ相談した意味がない。そう思ったら、どんどん頭が混乱してきてつい大声を出してしまったりして……。本当に、あの魔法使いさんには申し訳ないことをしてしまったと思う。それなのに、魔法使いさんはその場で適当な答えを出さないためにも時間をくれだなんて言ってくれて、凄く親身になってくれて……。単純に嬉しかった。

 よし、入ろう。こんなところで立ち止まっていても何も始まらない。せっかく大事な時期に部活を休んでここまで来たんだから。それに、なんだかあの人なら、とても素敵なアドバイスをしてくれる気がする。

 本当に、まるで魔法のような……。


「ご、ごめんください……」

 硝子戸を開けて覗いた先は、当たり前だが二日前と同じく本に埋め尽くされた小さなお店だった。何が書いてあるのかさっぱり分からない本たち。

「あき子ちゃん、いらっしゃい。待ってたよ」

 入口から続く狭い通路の先のレジカウンター。そこに、一昨日と同じく、魔法使いさんは座っていた。歳は二十代前半くらい。長めの黒い髪の毛に、なんとなく日本人離れした顔つき。元魔法使いという肩書は冗談だとしても、黒いマントとかは似合いそう。

「こんにちは……」

「こんちわー」

 先に挨拶を返してきたのは、隣に立つみやびちゃんだった。人懐っこい感じとか綺麗な体つきとかころころ変わる表情とかぴょこんと立った髪の毛とか、どことなく猫っぽい女の子。昨日はなぜか吹奏楽部に見学にやってきた。いまいち本心が読めないのも猫っぽいかもしれない。

「じゃ、私お茶淹れてくるねー」

 そう言ってぱたぱたと奥に消えていったみやびちゃん。

「どうぞ、座って」

 私は勧められるがままにパイプ椅子に腰かけた。

「吹奏楽部の練習、頑張ってるみたいだね」

「えっ」

 突然言われて、なぜ知ってるのかと訝しんだが、普通に考えて昨日見学に来たみやびちゃんが言ったのだろう。あまり追及するのも失礼かと思うので、気にせず話を続けることにする。

「は、はい、演奏会が近いので」

「君は、楽器を持つと本当に別人になるんだね、びっくりしたよ」

 まるで見てきたかのような口ぶりだが、これもみやびちゃんから聞いたのだろう。

「それだけが、取り柄なので」

 そう、私からクラリネットを取ったら何も残らない。今もこうして太腿の上に置いたバッグの中にあるクラリネットの感触を感じていないと、不安で倒れてしまうかもしれない。クラリネットを取ってしまったら、私は私でなくなってしまう。

「それにしても、指導している君の姿は本当にかっこいいね」

「……?」

 どういうこと? おかしいとは思ったけれど、さすがにこの言い方はまるで音楽室の私を本当に見たかのような……。

「そんな君の姿に、遠藤さんも魅かれたのかな」

「!」

 どど、どうして!? 遠藤さんのことは一言も言っていないはずなのに!

 明らかに狼狽する私のことなど気にもしない様子で、魔法使いさんはどんどん話を進めていく。

「一昨日のあの場で結論を急がなくてよかったよ。君からの情報だけだったら、てっきり部員の誰かと誰かがそういう関係になってゴタゴタしてしまっている、と勘違いするところだったよ」

 爽やかに微笑む魔法使いさん。対照的に私はどんどん緊張していく。

「あ、ごめん、驚いちゃったかな。そんなに堅くならないでよ」

 そう言って、人差し指を立てて、くるっと一回転させる魔法使いさん。

「……あれ?」

 不思議と、つい今まで抱いていた恐怖心というか警戒心というか、そういった感情が消え去った気がした。

「何を、したんですか?」

 恐る恐る訊ねてみる。

「魔法をかけたんだよ。あき子ちゃんの緊張がほぐれる魔法をね」

 ようやく気付いたけれど、この魔法使いさんは今日はずっと子供を諭すような優しい声音で喋ってくれている。

(だから、かな)

 無意識のうちにそれに気付いて緊張が解けてきたのかもしれない。あまり深くは考えないようにしよう。

「それで、話を戻すけど、あき子ちゃん、君は、嘘ではないけれど少し誤魔化して俺に伝えたよね。あれじゃあまるで君は部員間のいざこざに困っていた部長さんだ」

 無言で俯く。

「でも、当事者は君だった」

 そして、頷く。

「どうして正直に話してくれなかった?」

「私自身、どうしていいか分からなくて……」

 気付けばいつの間にか湯気の立つお茶が私の前に置かれていた。みやびちゃんは魔法使いさんの後ろで奥への上り口に座ってやり取りを眺めている。

 お茶を一口啜る。不思議と、安心感とでもいえそうな感覚がが体全体に広がる感じがした。この人たちなら、私の悩みを解決してくれるに違いない。なぜか、そんな確信にも似た気持ちが湧き上がってきた。

「遠藤さんからの気持ちを、私自身どう受け止めればいいのか分からないんです」

 ゆっくりと、私は誰にも言ったことのないこの思いを魔法使いさんに語り出した。

「遠藤さんが、私のことをすごく慕ってくれているのは分かっています。私はクラリネット、あの子はオーボエ。同じ木管楽器で、部員も少ないですから、部活中はほとんど一緒に時間を過ごしていました」

 去年の春。中学からオーボエをやっていると言って、元気よく入部してきた小さな女の子。努力家で、負けず嫌いで、少し意地っ張りな、そんな普通の女の子。

 魔法使いさんは何も言わず聞いてくれている。

「私はかわいい後輩の一人として接してきました。でも、去年の秋に部長になってからは、木管の子たちだけでなく全体も見なければいけなくなって、少し遠藤さんと一緒に練習する時間とか、話す時間が少なくなりました」

 私が他のパートを見に行くと言った時の、遠藤さんの寂しそうな表情を思い出す。

「たぶん、その頃からだと思います。遠藤さんが私に向けていた好意の方向が変わってきたのは」

 もともと感情の起伏が激しくて分かりやすい子ではあったけれど、それがより一層激しくなって、少しでも私の近くにいようとし始めて。そして、私が他の部員と話しているとその相手のことを睨みつけたり無理やり会話に割り込んできたりするようになっていった……。

 幸い、うちの部員たちはそのあたりのことを笑って流せる人ばかりだったので大きな波風は立っていない。でも、それも時間の問題かもしれない。昨日のみやびちゃんの時もそうだったけれど、最近の遠藤さんはどこか……、おかしい。

「当たり前ですけど、私、こういうこと初めてで、一体どうしたらいいのか……」

「もう一歩だね」

 私の話を静かに聞いていた魔法使いさんが、呟いた。相変わらず、優しい声で。でも、その言葉は、私の中に隠れている気持ちをあっさり真っ向から射ぬいてきた。

「まだ、君は本心を話していない」

 驚いた。この人は、本当に魔法使いなのかもしれない。

「はい……」

 見抜かれて、嫌な気分はしなかった。むしろ、見抜いてくれて嬉しかった。

「そう、なんだと思います。遠藤さんの気持ちをどう受け止めたらいいのかという悩みももちろんあります。でも、それ以上に」

 一度言葉を切る。そして、遠藤さんの好意を感じているうちに、私が身に染みて分かり始めたこと。それを、告げる。

「私は、自信がないんです」

 素直な気持ちを、吐き出す。

「好き嫌い、恋愛感情、そういうの以前に、私は自信がないんです。だから、凄く申し訳ないんです」

 そう、それが本当の悩み。

「遠藤さんが見ている私は本当の私じゃない。クラリネットで武装した、偽物の私。本当の私は、遠藤さんが憧れている鈴木あき子とはまるで別人なんです。私は、私は……」

 涙が零れてきた。

 申し訳ない。彼女が見ているのは、嘘の私なんだ。だから、嘘の私を好いてくれる彼女に、私はどんな顔をして向かえばいいのか分からなくなってしまった。

 部活の時はいい。クラリネットがそばにあるから。でも、もっと仲良くなって、部活以外の私を見せることになったら。彼女は失望してしまうかもしれない。私の好きな鈴木先輩はこんなのじゃない、と言って、私のことを嫌いになってしまうかもしれない。

「私は、怖いんです。これ以上遠藤さんに好かれてしまって、そして、その先にあるものが……」

 涙が止まらない。

「私は、遠藤さんに嫌われたくないんです……」

 ただ人に嫌われたくないという理由だけで泣いてしまうくらい弱い私。こんな私の姿を見たら、遠藤さんはどう思うだろうか。呆れるだろうか。馬鹿にするだろうか。……、嫌いになってしまうだろうか。

「そんな君に」

 私の告白を聞き終わった魔法使いさんは、ゆっくりと、そして優しく魔法をかけてくれた。

「こんな魔法をプレゼントしよう」

 さっきと同じように、人差し指を立ててくるりと一回転させる魔法使いさん。

 その瞬間、気持ちに少し変化が生まれた。どんな変化かは上手く言えない。けれど、心の中で確かに何かが変わった。そんな気がした。

「な、に……?」

 掠れ声で訊ねる私。

「ほんの些細な魔法だよ。少しだけ臆病な、君の背中を押す魔法」

「臆病な……、私の、背中……?」

 何を言っているのか、いまいちよく分からない。

「君はクラリネットを持っているときの自分と、普段の自分を別物と考えている」

 優しく、でもはっきりと告げる魔法使いさん。

「それはただの現実逃避だよ。得意なものに縋りたい気持ちは分かる。でも、それに縋って一生生きていくことなんてできるはずがない」

 ずかずかと土足で踏み込んでくる魔法使いさん。やはりそれでも、なぜか悪い気持ちはしなかった。

「どちらも君なんだよ。それさえ分かれば、怖くない。だから、俺はこんな魔法をかけた」

 一拍置いて、魔法使いさんが告げた。素敵な笑顔を添えて。

「君自身のことが、ほんのちょっとだけ好きになる魔法を」


  *


「大丈夫なの?」

 店先で、去っていくあき子ちゃんの背中を並んで見送っていたら、首を傾げながらみやびが言った。

「何が?」

「何が、って分かってるでしょ」

 みやびは不服というか、あまり納得していなそうな顔をしている。

「大丈夫大丈夫。万事うまくいくって。元大魔法使いの俺が言うんだから」

「でも……」

 みやびがしつこく食い下がってくるので、逆に訊ねてみる。

「じゃあみやびはどんな魔法をかければいいと思った?」

「えっ」

 みやびは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに考え込み、出した答えがこれ。

「あの二人を両思いにさせる魔法、とか?」

「そんなの、根本的な解決にはならないだろう」

「そうかもしれないけど……」

 膨れるみやび。

「魔法で作った恋愛感情なんて、時間がたてばすぐに消えるんだよ」

「そうなの?」

「俺が実証済み」

「試したことあるのかよ」

 目を眇めて俺を睨みつけるみやび。

「まぁまぁ、そんなことは置いといて、そもそもあの子にとってのハッピーエンドがどんなものかってのを考えたんだよ」

「ハッピーエンド?」

「そう。一番いい結末は何か。そう考えたときに、まず無理やりくっつけることは除外。無理やり別れさせることも除外。そもそも恋愛は魔法が絡んでいい領域じゃない」

 難しい顔をするみやび。仕方ない。生まれた瞬間から俺の使い魔で、ずっと仕事ばかりしてきたんだから。

「だから、何が一番いいかって考えたときに、俺の出した答えは、これ。あの二人が、あの二人で納得のいく結論を出すこと」

「それはなんとなく分かるけど、でもじゃあなんで自分のことが好きになる魔法なの? 関係あるの?」

「大ありだよ」

 相変わらず右に左に首を傾げるみやび。可哀そうなので教えてやろう。

「結局あの子、あき子ちゃんは、自分に自信がないあまり遠藤さんと真っ直ぐ面と向かうことを避けてきたんだ。ちゃんと話をしたいけれど、話をしたら素の自分が出てしまうかもしれない、そしたら、嫌われてしまうかもしれない。そう思い始めたらあとは悪循環で、どんどんどんどん悪い方向に考えが行ってしまっていた」

 頷くみやび。

「だから、ほんのちょっとだけ、自分を好きになってもらったのさ。クラリネットを持っていない時の自分を、持っている時の自分と同じくらい、とまでは行かなくても、それも自分だと言えるくらいには、ね」

「そしたら、どうなるの?」

「あの子は、遠藤さんの気持ちと向き合える。部活の時と、部活以外の時、両方とも同じ鈴木あき子なら、どちらかが好かれてどちらかが嫌われるなんて不安に悩む必要はないだろう?」

「なるほどね」

 どうやらみやびも納得してくれたようだ。

「しかし、回りくどいことするね、真人も」

「人の気持ちに関するところは魔法の中でも一番デリケートなんだよ。簡単に物事が運ぶこともあれば、一歩間違うと、全てが壊れてしまう。だから、大きな魔法はかけられないし、かけたくもない」

 とっくの昔に見えなくなったあき子の背中の方向へ目を遣る。

「ほんのちょっと背中を押してあげれば、人間はいくらでも前に進めるんだよ。たとえそれが魔法でなくてもね」

「そんなもんかね」

「そんなもんだよ」

 というわけで、この話はおしまい。

「よし、みやび。今日はひと仕事したから晩飯は豪華にするか」

「無理無理。こないだのすき焼きのせいで、今月は倹約生活だよ」

「何。じゃあ今夜の献立は?」

「筍の煮物」

「えー」

「えー、じゃないの。卵焼きも作ってあげるから」

「甘いのな」

「はいはい」

 みやびと一緒に柳瀬川古書店の看板をしまって、シャッターを下ろす。今日もお客はひとりも来なかった。

 のんびり暮らす日常もいいけれど、たまにはこういう非日常もいいかもな。そう思った、長閑な春の夕暮れ時だった。


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