第2話:第二の世界
儂のベッドは急遽運ばれていた。
別に年貢の収め時でも何でもない。
これから儂は草壁さんの計らいでエーテルシステムへと繋がれるのだ。
儂は久方ぶりにいつもの薄汚れた天井以外の光景を目にしている。
アルフォンス社のスタッフらしき者達の顔と目まぐるしく通り過ぎていく天井。
動かない身体のはずが確実に何かが動き出しているのだ。
「ああ…」
もし、声を出すことが出来れば笑っていたことだろう。
「富竹さん、貴方こそがこのエーテルシステムのテストプレイヤー第1号だ。貴方は新たなる歴史の舞台に最初に足を踏み入れる選ばれた住民なのですよ」
草壁さんの芝居がかった声が儂の耳に響いてくる。
儂の身体はベッドからMRIに似た機械へと移されていく。
これこそがエーテルシステムなのだろう。
要介護度5の患者のために導入されたアルフォンス社の技術の結晶体たる体感型仮想空間機構エーテルシステム。
儂のように完全な寝たきりになった患者達にとっては最後の拠り所になるだろう楽園への入り口。
身体が狭い穴へと差し込まれようとしている。
まるでエーテルシステムに差し込まれる乾電池になってしまったかのようだ。
それにしても狩屋さんには感謝しなければならない。
もし、狩屋さんが毎日念入りに関節可動訓練を施してくれなければこのMRI擬きの中に入れなかっただろう。
それこそ骨を無理矢理折って棺桶に入るようにしない限りに。
エーテルシステムの内部に押し込まれた儂の全身に針に刺されたかのような痛みと痺れのようなものが駆け巡ってくる。
「うぅ…」
全身を苛む痛みと痺れで朧気だった儂の意識が急激に覚醒していくようだ。
『では、お楽しみください。アルフォンス社が誇る第二の現実世界を…富竹さん…』
最後に聞こえてきたのは草壁さんの声だった。
そして、儂の意識は闇に沈んでいく。
儂は何処かで見たことがあるような草原の上に立っていた。
「立っているだと?」
あの今にもベッドの上でくたばりそうだった儂が足の裏をきっちり地面に付けて立っている。
それどころか声も出せる。
儂は自分の身体をあちこち触りまくっていく。
服装はいつもの寝間着だが、肌触りが違っている。
儂の手足はこれほどまでに瑞々しかったのか。
自分の毛を一本引っこ抜く。
「白髪ではなくなってる…」
口の中に手を突っ込む。
抜けていた歯が元通り綺麗な配置に並んでいる。
乱視気味だった視界も新品の眼鏡をかけたかのように裸眼で綺麗に見渡すことが出来る。
ふと思い出したかのように手を挙げた。
肩関節屈曲180度、参考可動域まっしぐらに儂の腕が頭上一直線に伸びていた。
手指も自由に伸展出来た。
足も股関節、膝関節、足関節共に自由自在に関節可動が出来た。
主動筋と拮抗筋のバランスが取れて、筋緊張も安定している。
儂は健常人と代わらない肉体を持って大地を踏みしめているのだ。
今ならBRSオールⅥも夢ではない。
FIMやバーセルインデックスだって満点取れる自信がある。
涼やかな風が儂の体躯を優しく撫でてくる。
草木が揺れる音が心地よく響いてくる。
瑞々しい自然の香りが鼻に漂ってくる。
視覚も聴覚も触覚も嗅覚もOK。
儂はしゃがみ込んで土を口に含む。
「不味い」
味覚もOK。
五感全てがパーフェクトだ。
儂は立ち上がり、空を見上げる。
何て青い空だ。
今まで見てきたのは薄汚れた天井で皺の数を数えて楽しんでた儂には些か物足りない気がした。
余りにも皺一つ無い透き通った青だから他に楽しみようがなかったのだ。
透き通って見える青がぼやけてくる。
視力が回復したはずなのにおかしい。
何故、視界がぼやけて見えるのだ。
「そうか…」
儂は自分の目に手を触れる。
生暖かい湿ったものが瞳から流れていた。
儂はこの奇蹟のような世界に感動して泣いていたのだ。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
全身でこの喜びを解放していく。
儂の細胞の一つ一つが喜びの声を上げているかのようだ。
「きゃあっ!」
少女らしき者の悲鳴が背後から聞こえてくる。
後ろを振り返ると耳を押さえて縮こまってる少女がいた。
容姿は白いワンピースに腰まで伸ばした黒髪が綺麗な十代後半の少女といったところか。
どうやら儂の雄叫びに驚いてしまったようだ。
「驚かせて済まない。君は…」
儂が声かけた瞬間、少女は肩をびくっと震わせ、走り去っていく。
「何だったのだ?いったい…」
彼女も儂と同じエーテルシステムのプレイヤーなのだろうか。
『気に入ってくれましたか?富竹さん』
儂の疑問を打ち止めするかのように慇懃無礼な声が聞こえてくる。
「草壁さん…」
「それが貴方の声ですか。なかなか渋い声ですね」
やり手のビジネスマンのようにスーツを着こなした男が草原の上に立っていた。
草壁一馬さん、アルフォンス社が派遣してきたマネジャーだ。
「こうして同じ目線で話すのは初めてですね。それでは…」
草壁さんは洗練された執事のように儂に一礼してくる。
「人類最後の楽園へようこそ、富竹さん」
相変わらず芝居がかった話し方をしてくる。
胡散臭いが、それでも草壁さんは今では儂の恩人だ。
「儂をこのような素晴らしい世界にお招きして頂き真に有り難うございます。儂はもう草壁さんに足を向けて寝ることは出来ません」
「別にそんな大げさに感謝しなくてもいいですよ。これはビジネスです」
草壁さんはしゃがみ込んで足下に咲いている花を摘んでいく。
「素晴らしいでしょう。この花一輪でも忠実に再現させるには今普及しているパソコンが数百台合わせても尚到底敵うこと無い莫大な容量が必要となります」
パソコンについてはそれ程詳しいわけではないが、最近流行っているコンピュータグラフィックは日に日に進化していることは聞いたことがある。
人の顔においても僅かな皺や表情筋の動きなど本物と遜色無く再現させるには莫大なるメモリーを要するらしい。
儂が日頃見てきた薄汚い天井でさえも忠実に再現させるにはパソコン一台や二台では到底収まりようがない容量が必要となってくるのだ。
「そして、この世界を現実と遜色無く体験出来るのは人の脳から発せられる信号に直接繋げているからです。意識を失う前に痺れや痛みを感じませんでしたか?」
「確かに感じました。身体中に電流が流れたかのような感覚でした」
「それこそが貴方とエーテルシステムがリンクした証です。今貴方はこのエーテルシステムと一つになっているのです」
儂とエーテルシステムが一つだと。
「日本ではロボット工学に関しても世界の最先端を歩んでいるのはご存じですよね?」
昔、テレビで何度も見たことがある。
ロボットがSF映画に登場するかのように動きが緻密になってくるのを。
だが、未だに「不気味の谷」と呼ばれるほどに真に迫る動きを再現されていない。
腕一つ本物の人間のように動かすのにも肩関節、肘関節、手関節、それを作動させるための骨格筋や支配神経の緻密な組み合わせを分析した上で行わなければならない。
実際にそれこそSF映画に出てくるようなロボットの動きを再現するのはまだ夢のまた夢と言われている。
「だが、結局ロボットが人の動きを再現させるのは当分まだ先だと言われている」
「そうですね。不気味の谷の領域にまで到達するのはまだ夢のまた夢です。ですが、それは三次元の世界に置いての話です。二次元では幾度も人の動きを再現させることには成功している。子供達の間で流行っていた3Dアクションゲームやアメリカのディズニーが力を入れているCGアニメがまさにその例です」
儂は昔はディズニーアニメが大好きだった。
だが、3Dアニメに傾倒してからは見限った。
アニメは人が時間をかけて描いた絵を何十枚も使って動かしてこそ味があるものだと思っていたからだ。
それが3Dのような現実世界の人間の動きを中途半端に再現した動きなど見てて気持ち悪いだけだった。
「ハリウッド制作のあるSF映画では実物の俳優よりもCGで作られた仮想のキャラがアカデミー賞を取ったという例もあります。そう、二次元の中では俳優が醸し出す表情も仕草も容易く再現出来るようになってきたのです」
俳優が必死に役作りをするためにトレーニングし、髪型や特殊メイクなどの手間をかけてまで挑んでもCGの技術を持ってすれば容易く再現出来てしまう。
何とも味気ない話だ。
「そこで我が社の創始者たる氷室博士は考えたのです。人の脳と二次元世界を直結させればロボットよりもより忠実に完全なるCGが再現できるのではと…」
確かに人の動きを完全に再現出来るCG技術と人の脳を繋ぎ合わせれば完全に近い人を生み出すことができるかもしれない。
「一体一体ロボットやアンドロイドを作り出すよりもよほど効率が良いです。何しろ人の脳に司る記憶や感情をリンクさせるのですから構築されたCG体により緻密な応用的動作を組み込むことは容易でした」
脳の信号をキャッチし、映像化させる技術は困難であるが予め容易されたCG体を用意すればそれほど難しいことではない。
いわばこの世界で再現されている儂の身体は脳を移植して動かしてる義体とも言うべきものでだからだ。
「まあ、難しい話はここまでにしましょうか。私がこの世界に来たのは貴方と商談するためです。これでもビジネスマンですからね」
「儂は出来る限りのことはしようと思うが、現実では見ての通り、儂は指一本動かせない状態です。申し訳ないが儂に出来ることはありません。ですから…」
「心配要りません。私達が貴方に望むのはこの世界で過ごす姿を観察させて貰うことです。そして、時々感想を頂ければと思っています。如何でしょうか?」
草壁さんは儂がこの世界で過ごす姿を見せてくれればいいと言っている。
要するに何も働きかける必要が無いということだ。
それは余りにも破格に安い条件だった。
「本当にそれだけでいいのですか?」
「勿論です。最も貴方のプライベートを覗き見するようで心苦しいと思っていますが…」
儂はもう見ず知らずの者達に日常的に下の世話までしてもらったことがある。
今更儂にプライベートも何も無かった。
「儂は一向に構いません。それでこのエーテルシステムが進化していくでしたら儂如きのプライベートなんて全然問題になりません」
「それでは商談成立ですね。これからも宜しくお願いします。富竹さん」
草壁さんは手を差し出してくる。
儂は草壁さんの手を固く握りしめる。
「こちらこそ宜しくお願いします、草壁さん」
草壁さんとは此から長い付き合いになるだろう。
安心したところで儂は最初に出逢った少女のことを思い出す。
彼女も儂と同じエーテルシステムのプレイヤーなのだろうか。
儂は草壁さんに儂以外にプレイしているユーザについて聞いてみることにした。
「草壁さん、このエーテルシステムに今儂以外に繋がってる者は何人いるのですか?」
「何故、そんなことを聞くのですか?貴方がこのエーテルシステム第1号プレイヤーでまだ誰も繋がっていませんよ」
儂以外に誰も繋がっていないだと。
だったら最初に見たあの少女はいったい。
「もしかして頭痛でもするのですか?」
草壁さんが心配そうに儂の顔を伺ってきている。
「いえ、大丈夫です」
「まだ説明していませんでしたが、この世界にいる間は絶えず膨大な情報が脳に蓄積されています。長時間この世界に滞在すれば脳に負担が掛かってしますので原則として12時間がエーテルシステムとリンクできる制限時間となっています。とりあえずまだ初心者ということで無理はしないほうが宜しいでしょう」
「いえ、儂はただ…」
「無理してはいけません。貴方の行動の一つ一つは医学の発展のための礎にもなります。とりあえず今回はこれで引き上げましょう。これから先、いくらでもこの世界に訪れる機会があります。さあ、今日はこれぐらいにして戻りましょう」
草壁さんはそう言って儂の手を引いてくる。
儂は草壁さんの言うとおりに従う。
これから先、幾らでもこの世界に訪れることが出来るのだ。
草壁さんの手に引かれるまま儂は楽園を後にした。