第1話:楽園の使者
儂は目を覚ます。
いつもと同じ薄汚れた白い天井が見えてくる。
もう何年この天井を見ていることだろうか。
儂に身近な光景はこの薄汚れた天井しか無い。
今では天井の細かい染みや汚れの位置も数も分かるぐらいだ。
今日も儂は暇潰しに天井の染みを見続ける。
『昨夜、○○市で××容疑者が逮捕され…』
儂の隣では今日もテレビの音量を上げて五月蠅く見ているじいさんがいる。
儂と同室で入院している吉武太一さんだ。
吉武さんは四六時中テレビを付けている。
いいや、テレビを見ているのは吉武さんの意志ではない。
吉武さんの家族が「おじいさんはテレビが好きだったから」と言って勝手に付けてるだけだ。
五月蠅いことこの上ないが、時々流れてくるニュースが儂にとって唯一外界の様子を知らせてくれる手段だった。
何十年経っても人は変わらない。
如何に技術革新をしようとも人の心はそう簡単に変わるものではない。
心の成長を伴わず技術だけが進化してくるからこそ歪みが生じてくるものだ。
「富竹さん、おはようございます」
元気のいい声で儂に話しかけてくるのは儂の担当をしているセラピストの女性、名前は確か狩屋絵里さんだったか。
彼女は一年前にこの病院に入ってきた新人職員だ。
「今日もいい天気ですね。富竹さん、身体の調子はどうですか?」
ワンパターンのような台詞をまた儂に聞いてくる。
聞いてもどうせ儂は声一つ出せない状態なのに狩屋さんは儂にいつものように話しかけてくる。
手足も禄に動かせず、口も聞けれないポンコツ相手でも患者様であり、一人の人間として尊重するとのことで最低限のコミュニケーションを取ろうとしてくれるらしい。
「ああ…」
満足に言葉を紡げない。
「そうですか。じゃあ、今日もリハビリをしましょうか?まずは腕を動かしますね」
狩屋さんは儂の枯れ木のような細い手を掴んでゆっくりと動かしてくる。
肩関節、肘関節の可動域を維持するために動かしているのだ。
儂の腕も足も筋の短縮を伴って関節拘縮となり、満足に動かせない状態になっている。
だが、例え満足に動けなくても動かさねばますます動かなくなるし、そうなれば寝返りも取れなくなってしまう。
寝返りができなくなれば身体の循環が悪くなり、褥創の危険が出てくる。
褥創とは長時間布団に押しつけられている皮膚が血の巡りが悪くなって傷つき爛れてしまうものだ。
一度完全に褥創になれば完治するのは極めて困難らしく、酷いときには皮膚に穴が空いて骨までが見えるらしい。
写真で見たことがあるが、生で見たら間違いなくトラウマになりかねないほどに痛々しくグロテスクなものだ。
何よりも患者に褥創を作らせた病院は監督不届きというレッテルが貼られてしまう。
さらに国からもペナルティが敷かれてしまうことから患者の身の回りをチェックする看護師にとっては死活問題にもなる失態でもある。
それに褥創だけが問題ではない。
昔、腕や足が関節拘縮した状態で死んだ者が棺桶に入れるために四肢の骨を折ったという話があった。
死しても尚骨を砕かれる、何とも言葉通り痛々しい話だ。
儂も死んでから骨を折られたりしないためについでに言えば病院の名誉のためにも今日も狩屋さんに腕や足を動かして貰っている。
不意に痛みを生じ、儂の身体が勝手に動いてしまう。
「大丈夫ですか?ここにクッションを入れておきますね」
儂の両膝の下に座布団が敷かれていく。
儂の膝はほんの些細な刺激にも反応して勝手に動いてしまうのだ。
病気により膝の筋緊張が高まっているらしいと狩屋さんは言っていたことを聞いたことがあった。
『医療体制に体感仮想空間機構エーテルシステムの導入を伴い…』
「そう言えば富竹さんに夕方お客様が来られるみたいですよ。家族の方々なんでしょうかねえ」
そんなこと聞かれても知らんわい。
そもそも仕事で忙しい家族が儂なんかを見舞うために貴重な時間を潰すなんてありえん。
「もう外は寒くなってきましたね」
室温が調整されている病院に四六時中いる儂にそんなことを言われても分からん。
儂には春の暖かさも夏の暑さも秋の涼しさも冬の寒さも過去の記憶でしかない。
『アストラル法が今日から施行され…』
「今日はここまでにしておきますね。次は明後日の十時に尋ねますので宜しくお願いします」
狩屋さんはそう言って病室から去っていく。
そして、儂は薄汚れた天井を見続ける。
「おめでとうございます。富竹次郎さん、貴方はアストラル法の導入に伴い、我が社が開発した体感仮装空間機構エーテルシステムのテストプレイをして頂くことになりました」
夕方になって突然、聞いたことがないような男の声が無遠慮に儂の耳へと響いてくる。
そう言えば狩屋さんが夕方にお客様が来られる云々と言っていたな。
今儂に話しかけている輩がその「お客様」とやらなのか。
「ああ…」
儂はこの無遠慮な男の言葉に喘ぎ声を出すしか応えれない。
「ああ、申し遅れました。私、アルフォンス社のマネジャーを務めております草壁一馬と申します。以後お見知り置きを…」
草壁一馬と名乗った男が儂の顔を覗き込んでくる。
ふむ、目鼻立ちが整っていて髪の手入れも行き届いておるイケメンだ。
俳優にでもなれば売れるかもしれんのう。
まあ、儂の若い頃には微塵も及ばないがな。
それにしてもアルフォンス社の回し者が一体儂に何の用事があるのやらか。
アルフォンス社。
外界から切り離されてしまった儂でも知っている日本で一番設けているという電気会社であり、数多くの特許を申請し、今では世界有数の会社とまで名を馳せている大会社らしい。
政界との繋がりもあり、黒い交際もしているとの良からぬ噂も囁かれているという何とも曰く付きの会社でもあるが、とにかく話題が絶えない。
隣のテレビから聞こえてくるニュースでもよく騒がれているぐらいだから儂でも知ってしまうぐらいに有名な会社だということだ。
「今回はいきなり尋ねたことに関しては謹んで謝罪します。ですが、富竹さんには是非我が社で開発したエーテルシステムのテストプレイをして頂きたいのです。まあ、いきなりこんなことを言われても混乱されることでしょう。ですからどうか説明させてください」
「ああ…」
儂が是とも否とも答えようが、この無遠慮な男は説明してくることだろう。
こんな手足も動かせない儂に一体何をさせたいというのか。
「富竹さん、今の日本は医療技術を発展させながらも未だに寝たきりがいます。いいえ、寝たきりがいるのは日本だけだとも世界で騒がれています。アメリカに至っては“寝たきり”という言葉自体が存在せず、医療現場では有り得ない言葉とも言われている始末…」
草壁さんの言うとおり、寝たきりは日本特有の高齢者の姿だ。
まあ、靴を脱いで畳の上で寝る日本だからこそのものだと言えよう。
セラピストの狩屋さんが言っていたが、人間には臥位と座位と立位の三種類の体位がある。
儂が取っている姿勢は臥位の中でも背臥位、いわゆる仰向けの姿勢だ。
さらに動作には寝返り、起き上がり、立ち上がりの三段階に分かれている。
立ち上がるためには寝返り、起き上がりの動作を経て座位の姿勢を最低限しなければならない。
そして、その動作を実行するにあたり、畳や床で寝ることが習慣である者にとっては不利となるのだ。
ベッドであれば、起き上がりの動作からベッドの端に足を下ろして座る姿勢、端座位を取ることが出来る。
端座位の姿勢からであれば立ち上がることは容易だ。
だが、床の上では起き上がりから端座位の姿勢を取ることが出来ない。
代わりに四つんばいの姿勢を取り、立ち上がりに移らなければならない。
身体能力が著しく減退し、ベッド上の生活を余儀なくされた高齢者にとって四つんばいの姿勢から立ち上がり動作はかなりの負担だ。
特に床で寝ることを習慣化された世代の者に取っては一大事のことである。
だからこそ立ち上がることが出来ず、寝たきりになってしまうケースに陥ってしまうことも少なくない。
寝たきりは床での就寝が文化である日本人だからこその陥りやすい問題なのだ。
「寝たきりの高齢者は未だに日本に多く存在します。回復する方もいればそのまま余生を過ごす方もいます。そして、後者は残念ながらそれ以上身体的能力の回復が見込めない方々がほとんどです。そう、今の貴方のように、富竹さん…」
この男は医療従事者ではなく、ビジネスマンだ。
そして、儂を患者としてではなくお客として見ている。
「回復しない」や「元に戻らない」と言う言葉は例え事実であろうとも患者の前では医療従事者ならば絶対に言わない。
患者にとってのタブーを平然と言うからにはそれ以上に魅力的な餌で釣る魂胆なのだろう。
「ですが、もう憂うことはありません。そのための我が社が開発したエーテルシステムがあるのです」
エーテルシステム。
ふむ、これもニュースで聞いたことがある。
確か脳にケーブルを繋いで、仮想空間で仮の肉体で持って動かしていく体感ゲームがあり、それを極限にまで突き詰めたのがエーテルシステムだと。
五感全てが精巧に再現され、現実世界と遜色ない第二の現実世界。
それがエーテルシステムのキャッチフレーズだったな。
「エーテルシステムは今日施行ばかりのアストラル法に基づき、日本の介護保険制度の要介護度5に認定された患者のみに適用されることになっています。そして、その被験者に富竹次郎さん、貴方が選ばれたのです」
何とも胡散臭い話だ。
最新式のバーチャルゲームのテストプレイをどんな経緯で儂に来たのかもまだ全然話してくれてない。
「私には分かりますよ。貴方は私を胡散臭いと思っている。何故、自分の下にそんな話が舞い込んできたのかとね。別におかしいことではありません。貴方以外の要介護度5の方々も共にエーテルシステムをプレイして頂く用意をしています。言い直しましょう、貴方は選ばれた者“達”の一人です」
つまりアルフォンス社は儂のような寝たきりをターゲットにした商売を始めるつもりなのだろう。
アストラル法可決の影におそらくアルフォンス社が関わっているに違いない。
「引き受けて頂けますね?」
どれ程胡散臭かろうが儂はもう何一つ世界に関わることが出来ない身だ。
陰謀に巻き込まれようともどうなろうとどうすることも出来ない。
それならば少しでも何らかの関わりが持てる場所へと踏み込んだ方が面白いだろう。
「ああ…」
儂はアルフォンス社、いや草壁さんの思惑に乗ることにした。
「では、改めておめでとうございます。富竹次郎さん」
見えているのは相変わらず薄汚れた天井だが、草壁さんのほくそ笑む顔が目に浮かんでくる。
この先儂に何が起こるのかは皆目検討も付かない。
だが、一つだけ分かることは何かが動き出すことだ。
儂の動かない身体は別として。