へいし
「冗談じゃない」
兵士は小さく呟いた。
それすらも壇ノ浦、眼下の激流に消えた。神器があれば入水もやむを得まい。海水を吸った鎧はそう低く告げている。何故こうなったのか。初めの内は優勢であった。おかしくなり始めたのは東側の田口の辺りが妙に静まりかえった頃。昼頃であった。旗の色が変わっていると叫んだ者から矢で射られた。そこからはアッという間だった。兵士は無我夢中で戦った。周囲は目まぐるしく変わり、誰が死んだだの、増援を求める声だのが聞こえなくなり、帝が入水なさったという悲鳴に近い知らせを受けたのが、つい今しがたである。兵士は呆然と立ち尽くした。日が暮れかかっていた。染み付いた血は夕日だかなんだかよく分からない。いつの間にか喧騒は悲鳴の連続へと変わっていた。耳を凝らせばドボンドボンと鳴っては消えてを繰り返している。何かこみ上げる前に、音が鳴り、そのまた次が……といった次第であった。時々聞こえる絹を裂いた悲鳴は女官のものだろう。矢は依然として海に飛び込むのをやめない。ザーザー…ーザーと荒波が木船を断続して打ちつけた。その頃になれば兵士は海面、否荒波を見つめていた。ひどく濁っている。潮の香りの中にほんのり血が混じっていた。何故。兵士の家は狩人である。幼少期山嶺から見下ろした黒い武者の行進。ずっと山を出たかった。海なぞ従軍して初めて見たのだ。心が躍った。潮風は常に地平線から吹いていた。しかし何故眼下の荒波はこんなにも濁っているのだ。いや、単純だ。あれは行進ではなかった。見下ろした黒いものは一つ一つが鎧武者であったのだ。それが余りにも遠くからだったから分からなかった。それだけの話である。それだけなのだ。まだ――まだ、間に合う。兵士は試しに周囲を見渡した。皆あいも変わらず鎧の隙間に刀をねじ込もうと頑張っている。なにか、なにか使える小舟はないのか。何処の船も敵味方が入り乱れている。勿論味方にも悟られてはならぬ。この亡者たちが今、生者を逃がす道理はない。兵士はじっと息を殺して周囲をまんべんなく凝視した。そして――それを見つけた。それは争いの喧騒の中波に揺られていた。何故その船を誰も使っていないのか、疑問が残るほど綺麗に戦乱の中であった。見れば多くの死体が乗っている。とても生き物とは思えないほど、関節を反対にひん曲げて血を垂れ流している者から、空に腕を差し出している者まで。兵士は吐き気で思わず口を押さえた。しかし、どうして贅沢を口にできよう。それに彼らも何れは海の藻屑になるのだ。今使って何が悪い。亡者を精一杯 い かそうではないか。
『恐ろしいことだ』
兵士は自嘲じみた嘲笑を顔に浮かべた。額には脂汗が滲んでいる。兵士はそれを指で拭い、鎧の下着に擦った。罠ではないかよくよく吟味し、兵士は駆け出した。船から船へと飛び乗り、背後から繰り出される刀を振り解き、ついにその小舟に辿り着いた。息つく暇もなく、兵士は櫂を目一杯漕ぎ出す。皆兵士に身もくれず眼前の敵に向かっている。岸までは明白に遠いが、ここを抜ければとりあえずは助かるのだ。小舟は器用に船と船の間を縫っていく。そして、無事に抜けた……と思われた。一つの荒波が兵士の船をついに転覆させた。息が詰まるほど冷たい海水が鎧と身の間に滑り込む。不運ではない、と兵士は自分に言い聞かせる。鎧が海中へ海中へと囁いている。
『壇ノ浦だ、そうだ、壇ノ浦だ。ここらで一つ不運を味わえば、後は幸運だ!それにまだ立て直せる』
兵士は小舟に指を伸ばした。その時だった。兵士の足。海中で何かに触れた。しかし、それを確かめる間は兵士にはない。必死に指を伸ばす……?海中でゆらゆらと、黒い、否鎧が揺れている。足に何かが必死に、それこそ兵士が小舟を必死に掴もうとするように。それは片腕の関節をあり得ない方向に曲げていた。残ったほうの腕がこちらへ伸びている。小舟の上で見た、あの死体であった。小舟を掴んだと思った瞬間、兵士は海に引きずり込まれた。ゴボッと気泡が漏れて、天高く舞い上がる。消えるまで、見上げていた。
そうすれば壇ノ浦の荒波であった。




