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無能と神に切り捨てられた俺ですが、唯一授かった“影潜り”スキルで全てを飲み込み、気づけば勇者も王も凌駕してました  作者: 妙原奇天


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第29話「秤を担う子どもたち」

 影の学校の朝は、鐘より少し早い。

 倉の扉を開けると、もう子どもたちが並んでいた。裸足の子、片方だけ底のすり減った靴を履く子、布切れを首に巻いた子。手には炭筆、耳には昨日覚えた字の響き。

 ユイが前に立ち、影で線を描く。

「今日は“読む番”と“縫う番”を交代するよ。読んだ人は、次の人の名を縫い目で覚えてから渡すの」

 子どもたちは一斉に頷き、炭筆が紙の上でかすれる音を立て始めた。


 午前の課題は**「声札の写し」だ。反論板の横に吊るされた声札を一枚選び、書き写して風読台で読む。

 最初に手を挙げたのは、昨日「澄」と自分の字を書いた老婆の孫だった。頬骨が高く、目尻の笑い皺が祖母とよく似ている。

「ぼく、“澄”って書けるようになりました」

 ユイが笑って頷く。「じゃあ、今日は“澄む”のむも覚えよう。——影を丸く吸って、最後だけ細く立てる」

 小さな指が影をなぞり、紙の上で「む」が生まれた。祖母の澄が後ろで目を細め、拍手はしない。拍手を我慢することが、彼女なりの尊重**なのだ。


 昼前になると、大人組が教室に混じる。鍛冶屋の鉄司も来た。

 縫い違え帳の最初の行は、まだ皆の意識に新しい。

 鉄司は自分の字で改めて「鉄司」を書き、横に小さく「失はもういらない」と添えた。

 ユイが首をかしげる。「“いらない”って書くと、失った人みたいに見えちゃうね。……“残ったままでいいけど、道標はこっち”と書くのはどう?」

 鉄司は驚き、ゆっくりと笑った。

「……そうだな。間違いを消せないなら、看板にしてやるか」


 午後、影術師が短い講をする日だ。題は「読む責任」。

「読みは刃にもなる。刃は斬るだけなら易い。だが、支えることは難しい。読むとは、支える練習だ」

 子どもたちは難しい顔をする。そこで影術師は、床に三つの影の輪を描いた。

「左は“速い読み”。真ん中は“深い読み”。右は“返す読み”。速い読みで間違いを見つけ、深い読みで意図をたどり、返す読みで言葉を持ち主へ返す」

 ユイが補う。「“返す読み”はね、書いた人が“言ってよかったかな”って思える読み方だよ」

 子どもたちは実演に目を輝かせ、順番に輪の中へ入る。影の輪が足元でかすかに温かい。風の帳と同じ、燃やせない温度だ。


 その時、広場の鐘が一拍ずれた。合図の遅延。

 ディールが倉の入口から顔を出す。

「報せ——子どもだけの風読みをやりたいという申請が来ている。夕暮れ、風読台で」

 エリシアが目を瞬かせた。「大人抜きで?」

「後ろに立って見守るのは可。ただし口を挟まないこと、という条件付きです」


 俺はユイと目を合わせた。

 彼女の瞳は、期待と不安で等しく揺れている。

「やらせよう。秤を担う手を増やすんだ」

「うん……でも、刃賦が混ざるかもしれない」

「混ざれば、読む責任が試される」


 夕暮れ。

 風読台の周りに子どもたちが円を作った。

 声札の紐をほどく小さな指。木の段差に座る踵。視線は同じ高さでぶつかる。

 最初の読み手は、南堀の洗濯場の娘、ミチ(ユイがつけた昼の名だ)。

 ミチは深呼吸し、札を掲げて読んだ。

「『影市で売られかけた名——返ってきました。名は売り物ではありません。ありがとうございます。——ハルの母』」

 拍手。子どもたちの拍手は軽いが、跳ねるように広がる。


 二番目は、灰の旗の元で炭筆を握りだした少年だった。灰印だけを持つ。

 彼は札を開き、しばらく黙ったあと、低く読んだ。

「『鎖は鈍い 紙は鋭い 名は杭 声は風——風で火を消せ 影は場へ』」

 台の下の王位影紋が、わずかに温かくなるのを感じた。詩は変わった。言葉が場へ戻る。

 子どもたちの輪が、ほんの少しだけ大きくなった気がした。


 三番目の札で、空気が変わる。

 札を選んだのは、鍛冶屋の鉄司に憧れる小僧のコト。

 札を広げ、迷いながらも読む。

「『鉄司は臆病者。刃を抜かずに話すなんて、戦の邪魔だ——北堀の兵』」

 輪が固まった。

 外側で見守っていた大人たちの肩が動く。リクの喉が鳴る。鉄司本人は腕を組み、微笑とも悔笑ともつかない顔で立っている。

 ユイが一歩、輪へ出た。

「——返す読みを、だれがする?」

 子どもたちが顔を見合わせる。コトの隣の少女が手を挙げた。工房に出入りする鶴だ。

「私。……“臆病者”って言葉の影は、とても尖ってる。尖りすぎた影は、読む人の足を切る。だから、まず“速い読み”。“臆病”は悪口だよ、って印をつける」

 鶴は札の端に小さな丸を二つ描き、影の輪に置く。「次は“深い読み”。——きっとこの兵は、怖かった。怖いけど言い方がわからなくて、“臆病者”にして渡しちゃった。だから返す読みは、怖かったって言葉に縫い直して返す」

 鶴は札の裏に震える手で書き足す。

「『ぼくは怖かった。強がって“臆病者”と言った。どうしたら一緒に戦わない方法で守れる?』」

 輪の外で鉄司が、ゆっくり腕をほどいた。

「……素直で、強い読みだ」

 子どもたちが一斉に息を吐く。同時に、外側の大人の肩のこわばりが解けた。


 四番目の札は、縫い違え帳への意見だった。

 小さな字でこうある。

「『間違いを残すのは恥だ。消してほしい』」

 輪の中心に立ったのは、昨日自分の名「澄」を覚えた幼い子。

 彼は胸を張って言った。

「ぼく、きのう“澄”って書けた。でも、きょう見たら“澄”のさんずいが左右で違ってた。だから恥ずかしかった。——でも“看板”って聞いた。恥ずかしい道も、帰る道。看板は捨てない」

 老婆の澄が、今度は小さく拍手した。

 輪の外の灰の旗の男が目頭を押さえ、誰にも気づかれないように灰印を帽子の裏に押した。


 五番目の札が刃を含んでいた。

 「『影路監は王の犬。箱に痛みを隠して、民に秤を押し付ける。——灰の旗・別枝』」

 子どもたちの視線が一斉に俺に刺さる。

 ユイが静かに頷いた。

「これは、返す読みを“本人”がする番だよ」

 俺は輪へ入り、札を持って深く息を吸った。

「速い読み:『犬』は侮辱、影が尖っている。——印をつける」

 札に丸。

「深い読み:『箱に痛みを隠す』。王位影紋のことだ。痛みが“隠される”恐れを誰かが持っている。

 返す読み:『隠さない場を増やす』。風読台と反論板、風の帳を用意した。——“隠すな”という声に、俺は『隠さない』という場で返す」

 輪の外のざわめきが、わずかに温度を下げた。

 子どもたちの何人かが、こくこくと頷く。

 ユイが締める。「返す読みは、場で示す。言葉は燃えるけど、場は燃やさせない」


 そのときだった。

 広場の端、反論板の脚元で黒い水がじわりと滲み出た。

 ユイが顔を上げる。「——**陰溜かげだまり**が出来てる」

 影の学校と反論板と風読台。秤が増えた場所ほど、影の澱も寄り集まる。

 澱は音を吸い、言葉の端を重くする。

 ディールが記録札を握り、「澱の計測を始める」と短く告げた。

 俺は痣に触れ、影獣を呼ぶ。

 黒い狼の輪郭が足元に低く現れ、澱の縁を嗅いで唸った。

「——まだ浅い。だが、声が積もる速度のほうが速い」


 子どもたちが自分から動いた。

 鶴が澱の縁に膝をつき、声を乗せる。「ありがとう」

 ミチが続ける。「ごめんなさい」

 コトが胸を張って言う。「こわかった」

 短い言葉が澱の面に落ち、小さな泡のように弾けて消える。

 影術師が目を細める。「儀式ではないが、式だ。短い言葉は、澱を撫でて流す」


 そこへ、粗末な外套の男が駆け込んできた。顔は煤で汚れ、息は荒い。

「風読台をやめろ! 子どもに秤を担わせるな!」

 男の後ろから、二人の兵が追いつく。

「こいつ、灰の旗の別枝です! 板を壊す道具を——」

 男は手にした鉄の棒を振り上げ、風読台の脚へ向けて踏み込んだ。

 その瞬間、輪の中からコトが飛び出した。

 棒の前に、札を差し出す。

 子どもが小さな腕で遮る姿に、時間が詰まる。

 札には、さっきコトが縫い直した文が書かれていた。

 ——『ぼくは怖かった。強がって“臆病者”と言った。どうしたら一緒に戦わない方法で守れる?』

 棒は札の手前で止まった。

 男の目が札に吸い寄せられる。

 返す読みは、刃の直前でも届くのだ。

 男の指が震え、棒が地に落ちた。

「……俺も、怖かったんだ」

 兵が男を取り押さえる。抵抗はない。

 輪の外で鉄司が目を閉じ、ゆっくり息を吐いた。


 夕焼けの光が弱まり、風読台の灯が入った。

 最後の読み手は、ユイだった。

 彼女は札を掲げず、空の掌を見せる。

「札のない読みをします。——“影は場へ”。“場は人へ”。“人は名へ”。“名は帰るへ”。おしまい」

 子どもたちが笑う。大人たちも笑う。

 笑いは澱を軽くする。影獣が喉を鳴らし、黒い輪郭が薄くなって足元へ戻った。


 夜。

 詰所の卓に、今日の子ども風読み記録が積まれている。

 ディールは疲れ目をこすりながら、しかし満足そうに言った。

「“速・深・返”の三段を子どもが回した。式が街へ降りた」

 エリシアは微笑を浮かべる。「責任は重いけど、分け合えば持てる」

 リクは窓の外へ視線を投げる。「俺たち大人が、刃を抜かずに済ませる番だな」


 王位影紋の箱が、静かに熱を帯びた。

 触れると、低い囁きが伝わる。

『器よ。秤を担う子らに、箱の痛みを分けるか』

 俺は首を横に振った。

「痛みは箱で預かる。子どもには場を預ける。痛みは大人の食卓に置く。場は子どもの背丈に合わせる」

 箱の熱が和らぎ、影が柔らかく沈む。

 ユイが布団の影から顔を出し、眠そうに言った。

「ねえ。あしたも“札のない読み”、やっていい?」

「いい。——“札のない読み”は、影が一番喜ぶ」

 ユイは満足そうに頷き、影の中へ潜っていった。

 俺は痣に手を置き、目を閉じる。

 秤は、増えた。

 担い手も、増えた。

 次は——秤を狙う、もっと静かな刃が来るだろう。

 だが、場はもう燃えにくい。燃えない言葉と、燃えない温度が、街の底に広がり始めている。

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