第18話「秤の始動、影路監の初任務」
西門の騒擾が収まった直後から、王都は音を変えた。
轍の音は浅く、呼び売りの声は短く、祈祷の鐘はわずかに早い。誰もが影の長さを測るように空を見上げ、地面を確かめて歩く。影は日常の縁に沈黙で張り付くが、昨日の裂け目の記憶が人々の足を重くした。
王の命により、俺はその日のうちに正式な辞令を受けた。影路監。王都の影路の監査と調停、緊急時の即応、記録の統合。印章の代わりに渡されたのは銀と黒鉄を重ね鍛えした薄片で、片面に王紋、片面に空白の円。空白は「結び目を書け」という意味だと、影術師が教えた。
庁舎の一角、かつて徴税台帳を置いていた古い部屋が影路監の詰所に充てがわれる。窓は狭いが東に開き、朝の影が机の上に細く落ちる。
机は二つ。俺の席と、記録係の席。記録係は政庁からの出向で、痩せた青年が現れた。墨の匂いと羊皮紙の粉っぽい匂いを連れて。
「ディールと申します。数字と線引きと、静かに怒るのが得意です」
最後の一言にリクが笑う。「それ、役に立つぞ」
リクは実働班の取りまとめ。ルナは合図手兼、軽作業の影繋ぎ。エリシアは市井との橋渡し役。商人街の帳場は噂を集める耳そのもので、彼女の足は王都中の窓を軽やかに開ける。
影術師は詰所に現れ、短く指示を置いた。「初動こそ秤だ。秤の三段を作れ。見る、ほどく、返す。見るとは記録と計測、ほどくは応急の縫合、返すは本来の持ち主——人や街へと“影を返す”工程だ。手順が乱れれば、救済は切断に堕ちる」
「合わせて四段目を作る」俺は答えた。「忘れる。事件の影を必要以上に残さない。残滓が街の底に積もれば、それが次の裂け目になる」
影術師がわずかに目を細めた。「……人の式の発想だな。記録係、聞いたか」
ディールは素早く筆を走らせる。「はい。“忘却の帳簿”を別立てにします。閲覧は影路監と王、そして監察役のみ」
詰所の壁に大きな布を貼り、王都の図を炭で写す。川筋、下水、倉庫、祠、はみ出た裏路地。影が溜まりやすい場所に印を打つ。
王都の影は水路の図に似ていた。高い塔から落ちる影は細い針のように糸を引き、倉の軒先でしずくになり、井戸の口で濃い渦を巻く。俺は痣を指で押さえ、布の上に指の腹を滑らせる。黒い線が低く唸って応えた。
「初任務だ」影術師が地図の南へ指を置いた。「南市の穀倉で影抜けの報せ。合わせ箱と同系統の“抜き”が使われている。薄い影を通して麦袋が消え、別の倉に現れる。被害が続けば、パンの値が跳ね上がる」
エリシアの頬が強張る。「市井の怒りはすぐ燃え上がるわ。パンは影より早く人を動かす」
「もうひとつ」ディールが紙束を持ち上げる。「神殿の仮観測告示。影の自力修復をうたう祈祷の巡回……『施療』の名目で各地区の影を“整える”そうです」
“整える”——耳ざわりの良い語だが、実態は切りそぎだ。都合の悪い影を削り、言葉に合う形に削正する。
リクが舌打ちした。「巡回のコース、穀倉の脇を通るな。匂うぜ」
決める。秤を置く。
「二手に分かれる。俺とルナ、エリシアで南市の穀倉。リクは北堀の**陰溜を見てくれ。神殿の巡回がそっちから影を“均し”に来るなら、先に『均すな』って線を引く必要がある」
影術師が頷く。「合言葉を作れ。王都の民に“影路監の介入”を一言で知らせる言葉だ」
ルナが手を挙げる。「『糸、ほどきます』**は?」
いい。短く、怖がらせず、行為が伝わる。
「決まりだ」
詰所を出ると、昼の光が石畳を白く焼いていた。影は短い。短い影は、深い影の居場所を暴く。南市の穀倉は並ぶ壁が低く、屋根のひさしが長い。陰は細いが、倉の内部には日の当たらない角がある。そこが影抜けの通り道になる。
エリシアが商人組合の札を見せると、倉番が慌てて扉を開いた。
「昨夜から袋が“薄く”なるんでさ。朝には数が合わねえ。鍵は一つ、見張りは交代で……なのに消える」
倉番の手はこな粉で白く、唇は乾いていた。恐怖は腹を乾かす。
俺は床に膝をつき、影の筋に指を入れた。薄い、延びた、誰かが撫でて慣らした影。影は触られ方を覚える。何度も同じ癖で撫でられれば、そこが道になる。
「……いた」
床板の隙の下、紙片の匂い。祈祷札を薄く剥いだもの。字の腹だけ残し、神の名の輪郭を刈り取ってある。神殿の札を偽札にする手だ。
ルナが石をとん、と落とす。影が一瞬濃くなり、紙片が微かに浮いた。俺はそれを摘む。
エリシアが顔を寄せ、低く息を呑む。「……神殿の字形を“抜いた”印刷。印判屋の仕業ね」
抜け道は二つ。倉の影からどこかの影へ。合わせ箱のように双方向だが、ここはもっと雑だ。祈祷札の腹の墨が影の膜を薄くし、同じ手で撫でられた別の倉の隅と**“合わせ”になっている。
「合わせ先を探す」
俺は倉の角に落ちる影を縫わず**、撚る。縫うと固くなる。撚れば、ゆっくり引ける。影を撚って引けば、反対側の影が少しだけ軋む。軋みの音は、影を通して耳に届く。
遠い。北東。川沿いの古い倉の音。
「場所はわかった。——返す」
俺は撚り糸をほどきながら、薄い膜の両側に昼の名を貼った。ルナが用意した小さな木札。『糸、ほどきます』の刻印と、王紋の焼印。
昼の名は影の夜名を一時的に鈍らせる。名が二つ重なれば、影は迷う。迷う間に、影抜けを逆流させる。
床に山になった麦袋が、膨らみ直すように重みを取り戻し、破れ目が音なく塞がった。倉番が膝をつき、額を床に押し付ける。
「返った……! 返った!」
エリシアが肩に手を置いた。「返しただけ。盗られたことも、戻って来たことも記録になる。——誰が“合わせ”を作らせたのか、次が肝心よ」
そこで扉の影が揺れた。黒い衣。喉に神殿小印。巡回の祈祷師が二人、倉の口に影を落として立っている。
「影の“整え”に来た。王都告示に従い、祈祷を行う」
整える、の語が耳に刺さる。
「待て」俺は銀黒の薄片を掲げた。「影路監の介入中だ。糸、ほどきます」
祈祷師の視線が薄片の空白の円に落ち、わずかに揺れた。王の打ち出した新しい秤は、まだ重さが足りない。言葉に力を足す必要がある。
エリシアが一歩前に出て、銀貨と帳場の印を合わせて見せた。「商組の承認も出ています。祈祷は“削正”に当たるおそれ。今はやめて」
祈祷師が口の端で笑った。「君たちは影を返すと言う。だが“罪”も返すのか?」
罪。突きつけられた言葉に倉番が身を縮める。
俺は短く答えた。「返すのは重みだ。罪はここでは決めない。見ると返すの間にほどくがある。ほどかれた糸は、縫い直す相手を探す」
神殿の二人は視線を交わし、引いた。「では南区の祠に記録を上げる。——“影路監の調停”としてな」
調停。言質だ。記録が言葉を定着させる。ディールに渡せば、王都の帳簿に新しい欄が生まれる。
倉を出ると、昼の風が粉の匂いを洗った。
裏手の細い小路で、ルナが袖を引く。「おじさん、さっきの“合わせ先”、まだ少し音がする」
影は癖を覚える。抜け癖はすぐには消えない。根を切る必要がある。
「行くぞ。川沿いの古倉だ」
王都の北東、河岸の倉は壁が黒ずみ、扉の蝶番が錆で赤い。鍵は新しい。擦れのない歯の跡。
内側は空。床の角、煤で黒くなっている場所に、薄い祈祷札の腹だけが貼られていた。
足音。外套の裾。
扉口に、痩せた男が立った。指に活版の墨。目は笑っていない。
「お役人。いや、“影のお役人”。ずいぶん鼻が利くね」
活版師——印判屋だ。神殿札の腹だけを抜いて影の膜を薄くし、合わせ先に押し写す。
「仕事だ」男は肩をすくめる。「商人が頼み、神殿が目をつぶり、兵がパンを買って食う。影は貨幣になる。俺は印を打つだけ」
「印を打つ先を選んだのは、お前だ」
「選択? それは上の言葉だ。下に降りてくるころには、命令になる」
男の肩越しに影が動いた。無能神の使徒ではない。もっと人間の影。倉の隅から滲み出たのは、小さな影だ。腹を空かせた子供が走る気配。
ルナが真っ直ぐその影に膝をつく。
「パン、足りないんだよね」
影は震え、薄闇の向こうから痩せた腕がのぞいた。現れたのは少年。十にも満たない。目の下に煤の影。
男が慌てて振り返る。「出るなって言ったろ」
「……この子が合わせ先の鍵か」俺は言う。
印判屋は吐き捨てるように笑った。「鍵血じゃない。腹だよ。腹が鳴る音に合わせて影が薄くなる。神殿の札よりもよく通る。——これが王都だ」
怒りが喉に昇ってきた。だが怒りは糸を切りやすい。切れば、返せなくなる。
エリシアが静かに一歩進む。「この子を商組の食帳に入れる。今日から配る。印判屋、あなたは協力者。影の印刷の手口をすべて書き出して。対価は払うけれど、帳簿に名が残るわ」
印判屋の目が僅かに揺れた。名が残ることの重さを、王都の職人は骨身で知っている。
「書く。……だが、俺一人じゃない」
「わかってる」俺は頷いた。「糸口があればいい。縫うのはこっちの仕事だ」
床の札を剥がし、昼の名を貼る。影はまぶたを閉じるように薄くなり、合わせの癖が弱まる。
ルナが少年の手を引いた。「名前、ある?」
少年は首を振る。
「じゃあ、昼の名をつけよう。アオはどう? 空の色。パンの窯の上の煙の色にも似てる」
少年は一瞬だけ目を見開き、こくりと頷いた。名は紐だ。名を結べば、影はそこに戻ってくる場所を覚える。
詰所へ戻ると、ディールが机いっぱいに紙を広げて待っていた。
「南市の件、王都帳に影路監調停一号として記録。祈祷師の文言も添えました。“整え”を差し止めた理由、昼の名の効果、返却済み重量、失踪リスクの評価。……それから北堀」
リクが土と汗の匂いを連れて入ってくる。「神殿の巡回は北堀から南下。途中で削正の準備をしてた。井戸の蓋を外して影の“芯”をいじるつもりだったぜ。印判屋の線と合流すりゃ、影ごと動く町内ができる」
ディールがペン先を止め、低く言う。「やるなら一気に、ですね」
俺は地図の川筋を指でなぞる。影はここで深度を得る。ここをほどくには、二重の秤が要る。王と、神殿と、商組と。
「明日の観測は“人の式”でやると、影術師は言った。なら、こっちは生活の式を持ち込む。パン一斤の影を測る式だ。麦袋の戻りを重さで、影の抜け癖を回数で、昼の名の効果を時間で——数字にする」
ディールの目がわずかに明るくなる。「式を起こします。重・回・時の三列。……名前を?」
ルナが即答する。「パンの秤!」
笑いが詰所に走った。笑いは、影の端を温かくする。
夜。王都の針塔の影が短くから長くへ移る境目で、俺たちは西門に立った。門上の櫓から見下ろす影は昨日の裂け目の跡をまだ覚えているが、呼吸は静かだった。
影術師が来る。喉の印章は覆布の下に隠れている。
「明朝、広場で観測を行う。言葉と数字で。——お前の“影路監”の働きは王に通してある。だが神殿は、そう簡単に秤を譲らない」
「譲らせるんじゃない。並べるんだ」
「並べる秤は、しばしば卓を増築する。卓が増えれば、席を求める者が増える。気をつけろ」
影術師の声は乾いていたが、助言は温かかった。
帰り道、ルナが俺の影に片足を入れ、ぴょんと飛び出す。
「影のおまわりさん、初日、合格?」
「不合格だ」
「えっ」
「明日、もっと言葉を増やす。人が影を怖がらずに呼べる言葉。『糸、ほどきます』だけじゃ足りない。たとえば——」
俺は歩きながら、いくつか口の中で転がす。「『重み、返します』。『名を置きます』。『痛みを残しません』」
ルナが微笑む。「やさしい。影、喜ぶね」
影は足元で小さく波を打った。言葉は影の水温を変える。温まった影は、夜の長さを短くする。
その時だ。王都の東側、神殿方角の空が白くまたたいた。祈祷の鐘が通常より一拍遅れて鳴る。合図の遅延。
エリシアが顔を強張らせる。「祈祷の式、変えたわね。観測に祈祷を混ぜる気だわ」
影術師が低く唸る。「“人の式”を汚しに来たか。……明朝、二つの式がぶつかる」
夜は深いが、影は落ち着いていた。
俺は痣に触れ、胸の獣に告げる。逃げないと。
影獣は短く喉を鳴らした。返事だ。
詰所に戻ると、ディールが灯りの下で最後の数字を揃えていた。
「パンの秤・初版、できました。重(麦袋の戻り重)、回(抜け癖修正回数)、時(昼の名の効力時間)。凡例に『糸、ほどきます』の使い所と、忘却帳簿の記載範囲も」
紙を受け取り、胸が少し軽くなる。言葉と数字は、影の冷たさに取っ手をつける。
「明日、広場に“卓”を出す」俺は言う。「二つの秤を並べる。神殿の祈祷と、俺たちの生活の式。どちらが影を人に返せるか、王都に見せる」
窓の外で、風が向きを変えた。王都の塔の針先から、夜の影がまた一筋落ちる。
影は静かに、しかし確かに流れている。
その流れに秤を置く。糸をほどき、重みを返し、名を置き、痛みを残さない。影路監の初任務は、ようやく「始動」という言葉に追いついた。
眠りにつく前、ルナがふいに布団の中から顔を出した。
「ねえ、“昼の名”のこと……わたしのは、ルナで夜の名っぽいけど……昼も欲しいな」
胸が熱くなる。俺は少し考えてから言った。
「ユイはどうだ。結ぶ、縫う、の音が入ってる。昼でも夜でも言える」
ルナ——いや、ユイは、照れたように笑った。影がふわりと膨らむ。
「じゃあ、昼はユイ、夜はルナ。二つの名で、影を迷わせるね」
「迷わせて、帰る場所を増やすんだ」
窓の隙間から、明け方の最初の冷気が忍び込む。
明日、広場に卓を出し、秤を並べる。神殿の祈祷と、人の式。
王都は見ている。王も、商人も、子供も。
影も——見ている。
だから俺は、逃げない。