第17話「無能神の使徒」
西門の坂を駆け上がると、昼の光の下で異様な光景が広がっていた。
門の根元、石畳に描かれたかのように黒い紋様が蠢いている。影が人の背丈ほどの裂け目を開き、そこから吹き出す風は土と血の匂いを混ぜていた。
兵たちが必死に槍を構えるが、裂け目から次々と這い出すのは「形を結びそこねた獣」だった。角がねじれ、足の数が揃わず、吠える声すら言葉の破片に似ている。影路の暴走——影が道ではなく傷口に変わった時に現れる、最悪の現象だ。
「おじさん!」
ルナが叫び、足元から影を伸ばす。影が兵の影に繋がり、転倒した者を引き戻す。
リクは剣を抜き、裂け目から飛び出した獣を次々と斬り伏せた。
エリシアは布で口を覆い、兵たちに叫ぶ。「火を近づけすぎるな! 影が荒れる!」
俺は痣に触れ、影獣を呼んだ。黒い狼の輪郭が俺の影からせり上がり、咆哮ひとつで獣を押し返す。
その時だった。
裂け目の奥から、白い人影が一歩踏み出した。
衣は祈祷師のもの。だが胸の印章は欠けていた。円の中がぽっかりと空白になり、布のように破れている。
周囲の兵が息を呑む。
「無能神の……使徒だ」
噂だけは聞いたことがある。
神殿に救済されなかった者、無能の烙印を押され影に捨てられた者。その一部が影路の奥に消え、やがて異形として戻る。人の形を保ちながら、影の言葉に従う存在。
使徒は面を上げ、声を放った。
「器よ。お前は影に選ばれた。神に見捨てられし我らと共に歩め」
その声は、痛みに似ていた。
兵たちの顔が一斉に歪む。恐怖ではなく、共鳴。誰の胸にもある「無能」の記憶を抉る声。
「影は俺の選択だ」
俺は声を張り上げた。
「お前の従属にはならない!」
使徒が手を広げると、裂け目がさらに拡がり、兵の足元の影が揺らぐ。
数名が吸い込まれそうになり、悲鳴を上げる。
ルナがすぐさま影を繋ぎ、踏みとどまらせた。
「エリシア! 裂け目を安定させろ!」
「わかってる!」
彼女は懐から銀の環を取り出し、地に打ちつけた。古い商家に伝わる影除けの道具だ。光の輪が走り、一時的に裂け目の縁が固定される。
だが、使徒は笑った。
「人の道具は影を縫えぬ。影を縫えるのは、器だけだ」
挑発に応じる形で、俺は影獣を走らせた。
獣の爪が使徒を裂く——はずだった。
だが爪は虚空を切り、使徒の体は霧のように揺らいだ。
「影に沈んだ者は、影で縛れぬ」
声が背後から響いた。使徒の影が俺の背に伸びていた。
影獣が振り返り、俺と重なって噛み付く。
手応え。だが掴んだのは、ただの空洞だった。
「無能と呼ばれし我らは、影そのもの。器よ、同じ無能として共に行け」
心臓が冷えた。
俺も、無能と呼ばれた。
だが——俺は胸にルナの声を思い出した。
「おじさん、こわい……でも、ぜったい味方だよ」
影獣が喉を鳴らす。
痣が熱を帯び、影の糸が指先に集まった。
「俺は“無能”を選択肢に変える」
俺は影を縫った。
使徒の影と裂け目を繋ぎ合わせ、動きを封じる。
叫び声が広場に響き、使徒の体が歪む。
「器……! その縫い目は……」
使徒の声が途切れ、影ごと裂け目に引きずり込まれていった。
轟音とともに裂け目が閉じ、石畳がひび割れて残った。
静寂。
兵たちが崩れるように座り込み、誰かが嗚咽した。
俺は痣を押さえ、影獣を引き戻す。
リクが近づき、肩を叩いた。
「今のは……本当に人だったのか?」
「ああ。無能神の使徒だ。……神殿が見捨てた者の末路だ」
エリシアが唇を噛み、震える声で言った。
「だからこそ……“救済”という名で切り捨ててはいけないのよ」
ルナが俺の手を握る。
「おじさんは、切らないでしょ?」
俺は頷いた。
「切らない。……縫う」
西門の空にはまだ煙が漂っていたが、影の揺らぎは収まっていた。
その場を見守っていた影術師が歩み寄る。
「見たな。無能神の使徒は、これから増える」
「なぜだ」
「神殿が“救済”を急ぎすぎている。逸脱を恐れ、無能と烙印を押した者を、次々と影へ流している。流れ着いた先が、今のような化け物だ」
影術師の眼差しは冷たいが、その奥にかすかな怒りが宿っていた。
「影路監。お前の秤が試されるのは、今日からだ」
第17話ここまで