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第16話「王の謁見、影の未来」

 王宮は、城壁の針塔を内側から見上げるようにそびえ立っていた。政庁の冷たい白とは違い、王宮の石は温い灰色で、ところどころに古い亀裂が走る。その亀裂は継ぎ接ぎの金属で縫われ、陽光を受けて細い線のように光っていた。

 影が、その金の縫い目に寄り添う。王の館は、光と影の折衷で保たれている——そんな印象を受けた。


 黒衣の使者に先導され、俺たちは長い回廊を歩いた。絨毯の赤は歩みのたびに静かに沈み、壁面には古の王や英雄の肖像が並ぶ。誰もが剣か書物を持ち、足元には獣の影が従う姿で描かれている。影は昔から、王の側にあったのだろう。だが、その意味は時代によって違う。


 玉座の間の前で、使者が足を止めて振り向いた。

「以後は、お前と付き添い一名のみ。残りは控えにて待機せよ」


 リクは無言で頷き、ルナとエリシアの肩を軽く叩いた。「すぐ戻る。変な真似だけはするなよ」

 ルナが小さく手を振る。エリシアは胸に手を当て、祈る仕草をした。俺はうなずき、扉の先へ進んだ。


 扉が開く。

 玉座の間は広いが、飾り気は少ない。柱は無地のまま天へ伸び、天井から吊るされた灯りが、まるで夜空の星座を逆さまにしたようにぽつぽつと光る。

 その中心——段差の少ない緩やかな壇の上に、黒檀の椅子。そこに王は座していた。


 思っていたより若い。四十に届くか届かないか。髭は薄く、眼差しだけが深い。衣は質素で、肩章の金糸が王たる印を静かに示している。

 その右脇、半歩後ろに、先ほどの影術師が控えていた。喉の印章が灯りに瞬き、俺を値踏みする視線が欠片も揺れない。


 王は立ち上がらず、軽く手を上げた。

「近う寄れ。名と、望みを問う」


 名は、影に呑まれる前の名を名乗った。王は短く頷き、「望み」を繰り返した。

 望み——。政庁の広間で、俺は「誰の縄にも繋がれない」と言った。だが、ただ拒むだけでは空虚だ。影は空虚を嫌う。空虚はすぐに別の誰かの言葉で満たされる。


「影を、人の側に置き直したい」

 言ってから、自分で驚いた。

「神の縄でも、政庁の庇護でもなく。生を守るための、もうひとつの手として」


 王は視線を逸らさずに聞いていた。

「生を守る手。簡単に聞こえるが、最も難しい願いだ。手は、掴むか、殴るか、奪うか、握手するか——使い手次第で名を変える」


「だから、使い手を増やす。秩序の外でなく、内側に。影を恐れるだけの制度は、影に呑まれる」


 影術師が静かに口を開いた。

「陛下、言葉は理想的でございましょう。だが現下、影は制御不能の位階にあります。器である彼一人でさえ危うい。増やせば、いずれ破綻します」


 王は影術師を一瞥し、再び俺を見た。

「器。神殿はお前をそう呼んでいるらしいな」


「器である気はない。俺は俺の選択で満たす」


「選択とは、常に他者の選択とぶつかる。王という役目も、つまるところは選択の調停だ。——ゆえに問う。お前は、王国に何を差し出せる?」


 差し出す——交渉の語彙。俺は一拍置き、手の甲の痣に親指を当てた。

「三つ。ひとつ、王都周辺の影災に対する即応。俺の影は、“ほどく”が得意だ。結び目を解く警備隊として働ける。

 ふたつ、影の素養を持つ孤児や貧民への“影慣らし”の訓練。神殿の隔離ではなく、生活に戻すための橋渡し。

 みっつ、合わせ箱や古遺物の影路の監査。影の出入りを王の目の下に置く」


 影術師が眉をひそめた。

「神殿の役割を侵す」


「侵すのではなく、並べる。監査は二系統でやるべきだ。片方が逸れた時、もう片方が戻す。影は一つの秤では測れない」


 王は黙考し、やがて口角だけで微笑した。

「面白い。秤を二つ置くか。神殿は嫌がるだろうが……嫌がるものほど必要なことが多い」


 影術師が一歩進み出た。

「陛下。政庁でも神殿でもない第三の秤は、秩序を割ります。力の均衡を崩し、やがて王権に牙を向く」


「牙を向けるかどうかは、その牙に“噛みやすい餌”を与えた側の責任だ」

 王の声は柔らかいが、刃の鈍さがない。

「神殿は救済と称し、しばしば切断した。政庁は庇護と称し、しばしば拘束した。どちらも必要だったが、過ぎれば毒だ。毒には別の毒が解毒になることもある」


 王の視線がわずかに遠くを見た。玉座の間の背壁、古い王の肖像のひとつへ。そこには剣と書物を携え、足元の獣影を撫でる王の姿が描かれている。

「昔、王に飼われた狼がいた。狩り場で民を襲った狼を、王は殺さず、城に連れて帰り、飢えぬよう肉を与えた。狼は王にだけは牙を剥かなかった。——さて、王は愚かか?」


 俺は首を振った。

「王は狼の腹を満たし、“向ける必要のない牙”にした。愚かではない。ただ、常に噛まれる可能性を受け入れていた」


「そうだ。可能性は、王の食卓に最初から並んでいる」

 王は短く笑い、玉座から立ち上がった。

「お前に“影路監”を命じる。王都とその周辺における影路かげじ——影の道の監査役だ。神殿の観測と並列で置く。禄は出す、位は貸す、ただし剣は渡さぬ。剣は自分で持て」


 影路監——聞いたことのない役職。王の作る新しい秤だ。

 影術師は眼差しだけで抗議したが、王は軽く手を振って封じた。


「条件がある」と王は続けた。

「ひとつ、王都西門での次の観測に応じること。お前の力が“人の側の言葉”で説明できるか、俺はまだ見たい。

 ひとつ、影の庇に子供を置くなら、必ず“昼の名”を与えよ。影の名だけで育った子は、夜に引き戻される。

 ひとつ、神殿の糸を切るとき、結び直す相手を間違えるな。糸を切られた側には、たしかに怨みが残る。怨みは、影をすぐ腐らせる」


 昼の名——ルナの小さな横顔が浮かんだ。彼女の名は夜の短さで光る。昼にも置ける名を準備する必要がある。

 俺は息を吸い、胸の内の影獣に問いかける。温い応え。

「受ける」


 王はうなずいた。

「よい。——それと、王からも望みがある。合わせ箱に関わった神殿の線を洗え。わが宮廷にも、影を“貨幣”にしたい者がいる。影を数える者は、すぐ人も数にする」


 貨幣にする者。政庁で目を輝かせていた連中の顔が並ぶ。王宮の奥にも同じ目がいるということだ。

「手を付ける。だが、骨を触ることになる。痛む。叫ぶ者も出る」


「叫びは王の天幕の外でやらせよう。中では、静かに骨を外せ」


 王が手を下ろすと、玉座の間の灯りがひとつ、またひとつと落ち、代わりに壁面の小窓から昼の光が差し込んだ。影が短くなり、床の金の縫い目がくっきりと浮かぶ。

「最後に問う。お前が“災厄”でないと言える根拠は何だ?」


 俺は答えを探し、言葉にした。

「選択の重さを、背骨で受けること。——逃げないことです」


 王は満足げに目を細めた。

「ならば王は、逃げぬ者に賭けよう」


 儀は終わり、退室の合図が出た。扉の外で待つリクとルナ、エリシアの顔が見えた瞬間、肺の奥に溜まっていた硬い息がやっとほどけた。

「どうだった?」とリク。

「生きた。仕事を貰った」

「仕事?」ルナが首を傾げる。

「影路監。わたしたち、影のおまわりさん?」

 思わず笑ってしまう。

「まあ、近い」


 回廊を戻る途中、別の回廊へ続く細い扉が半ば開いていた。そこから、控えの間の低いざわめきが漏れる。

 影術師が俺の横に並び、言った。

「陛下は賭けた。だから私も賭ける。——明日の観測は、神殿式ではなく“人の式”でやる。言葉にできる影だけを測る」


「人の式?」

「影術を言語に落とし、誤差を数える。神殿の祈祷を外す。……反発はあるが、やる価値がある」


 俺は気づかぬうちに、相手を見直していた。

「お前も選んでいるわけか」


「我々も人だ。神の言葉に甘え続ければ、いつか自分の足を忘れる」

 影術師は口の端で笑い、すぐ真顔に戻った。

「ただし忠告だ。影路監を名乗るなら、“影を貸せ”と言ってくる者が雨後の筍のように出る。お前の影は貸すな。貸すのは、使い方だけにしろ」


「覚えておく」


 王宮を辞し、城下に降りる。昼の喧騒が、昨夜の不安を薄めていた。市場は普通に声を出し、パンは焼け、子供は走る。

 影は——短い。

 短い影は、足元にやさしい。


 政庁の前を通り過ぎると、昨日見た顔の商人たちが遠巻きにこちらを見ていた。値踏みの目だが、恐怖よりも計算が勝っている。エリシアが俺の袖をそっと掴んだ。

「父に……話をするわ。ヴァルデは“影路監”の秤に錘を置ける。王都の商人は、利益の言葉ならよく聞くから」


「助かる。ただ、父上に敵を作らせすぎるな」

「大丈夫。父は、敵の数を数えるのが好きなの」


 ルナが笑う。「数えたぶん、パンが買えるもんね」

 彼女の笑顔に、影が柔らかく波打つ。昼の名——俺は歩きながら口の中で幾つも転がす。夜にだけ似合う名、昼にも似合う名。彼女が自分で選べるよう、選択肢を並べたい。


 その時だ。王都の西側、城壁に沿った坂道から、鐘が三つ、重なるように鳴った。午後の時刻を告げる鐘ではない。非常の合図。

 人々のざわめきが、一瞬で風向きを変える。

 城門の方角から、煙が細く立ち上るのが見えた。煙の下の影が、不自然に揺れている。


 影術師が息を詰める。「——影路の暴走だ」


 俺は足を止めず、走り出した。

 影は選択だ。王の秤に置かれたばかりの錘を、すぐに試す者が現れた。

 影路監の初仕事。

 影を“救済”の名で断つのではなく、“生活”の名でほどく最初の現場が、もう目の前に口を開けている。


「リク、迂回して北の小門から回り込め! エリシア、商会の連絡網で水と布を! ルナ——」


 ルナはもう俺の影に片足を入れていた。

「合図、たくさん送る。みんなの足元につなぐ!」


「任せた」


 西門の坂へ。陽は高く、影は短い。だが、だからこそ“深い影”は目立つ。

 俺は痣に触れ、胸の奥の獣に呼びかける。

 影は答えた。低く、確かに。


 王都の針が、昼の空を刺し、影を垂らす。

 その影を、俺は掴んだ。

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