第12話「影と共鳴する獣」
夜明け前の平原は、息を潜めるように静かだった。焚き火の赤が小さく揺れ、車輪の影が長く地に伸びる。商隊は疲労に沈み、眠る者と見張りの者が交互に呼吸を繋ぐ。
俺は焚き火から少し離れた影の縁に腰を下ろしていた。手の甲に残る痣が夜気に冷え、疼くたびに影がざわめく。まるで痣そのものが“目”になり、遠くを見張っているようだ。
「眠れないの?」
声をかけてきたのはエリシアだった。月明かりを浴びて金の髪が白く透け、瞳の奥に眠気と緊張の色が同居している。
「眠れん。影が騒いでいる」
「騒ぐ?」
「……何かを呼んでいる」
言いながら、自分でも説明できぬ感覚に戸惑う。影はいつも俺の内側と繋がっているが、今夜は逆だ。影のほうが俺を引いている。
その時だった。
地面がかすかに震えた。焚き火の火の粉がふわりと舞い、影の縁が歪む。
「……来る」
リクが剣を手にし、ルナは眠りから飛び起きて影に足を差し入れる。
平原の先、草を押し分ける低い音が近づいてくる。狼の群れかと思ったが、姿は違った。
黒い霧のようなものが地を這い、やがて一つの獣の形を結ぶ。
それは“俺自身の影”に酷似していた。
「おじさんの……影?」とルナが震える。
影は獣の形を取り、四肢を地に踏みしめる。狼に似ているが、輪郭は曖昧で、尾は煙のように揺れている。目に当たる部分は空洞で、そこからこちらをじっと見据えていた。
影獣は低く唸り声をあげた。耳ではなく、骨に直接響く音。俺の呼吸と重なり、胸を押し広げる。
「共鳴している……」
エリシアが呟いた。
「あなたの影が、獣の形を結んだのよ。痣が“鍵”になったのだわ」
俺は拳を握った。これは制御できるのか、それとも飲み込まれるのか。
影獣は一歩、また一歩と近づく。牙は光らない。ただ闇そのものが裂けている。
「来るな……」俺が低く呟くと、影獣は足を止めた。
ルナが影の縁から飛び出し、俺の背にしがみついた。「おじさん、こわい……でも、ぜったい味方だよ」
その声に呼応するように、影獣が首を垂れた。
俺は震える手を伸ばし、獣の額に触れた。冷たい。だが次の瞬間、体内に熱が流れ込んだ。
視界が揺れ、世界が二重に重なる。俺の目と影獣の目が、同時に映像を結ぶ。
遠く、林の中に潜む生き物の気配。草の根に隠れた小さな鼠の息。荷車の下で眠る子供の心臓の鼓動。
すべてが影の網に絡み、俺の意識へと流れ込んでくる。
「……すごい」思わず声が漏れる。
リクが半ば呆然とした顔で言った。「おい、それ……お前が操ってるのか?」
「わからん。だが、繋がっている」
影獣が咆哮した。その声に呼応するように、周囲の魔物の気配が一斉に浮かび上がる。まだ群れが散らず、残党が近づいていたのだ。
「来るぞ!」
俺と影獣は同時に動いた。
牙ウサギの群れが草を裂いて飛び出した瞬間、影獣が走り、俺の身体も自然と同じ軌跡を描いた。二重の影が重なり、速度が倍になったかのように敵へ迫る。
拳を振るうと、影獣の爪が重なり、牙ウサギの体が宙を舞った。
リクが背後で笑う。「なるほどな! そりゃ頼もしい!」
ルナは両手を影に沈め、小石を雨のように撃ち出す。影獣の尾がそれを受け止め、倍の速さで跳ね返す。飛礫が魔物の眼や喉を正確に穿ち、次々と沈めていく。
戦いの最中、影獣の意識が胸の奥に流れ込む。言葉ではない。感覚の洪水。
孤独。飢え。探していた温もり。
そして、今触れた手のぬくもりに安堵する感触。
「……お前も、居場所を探していたのか」
俺が呟くと、影獣が低く喉を鳴らした。
それは肯定だった。
やがて最後の牙ウサギが地に倒れ、平原に静けさが戻る。
影獣は俺の前に立ち、ゆっくりと姿を溶かしていった。痣の奥に戻るように、影が収束して消える。
膝をついた俺の肩に、ルナが手を置いた。
「おじさん、いま……すごかった」
「ああ……でも、制御できるのは一瞬だけだ。長く続けば、影に呑まれる」
エリシアが真剣な眼差しで言った。「それでも、今の共鳴は希望よ。神殿が言う“救済”とは違う、影の使い方がある」
「救済……か」俺は痣を見つめた。
影獣は確かに俺を飲み込もうとしたが、ルナの声で戻ってきた。
ならば、俺が選び続ける限り、影は道になる。
夜明けの空が白み始める。商人たちは俺を恐れながらも、同時に感謝の目を向けていた。
「影は……俺たちを守った」と誰かが囁く。
その言葉が胸に重く落ちる。影は守った。だが同時に、俺を試した。
影獣との契約は、まだ始まりにすぎない。
王都はもうすぐそこだ。
三日後、門の前で待つ神殿の観測者たちに、この力をどう示すか——それが次の選択になる。
第12話ここまで(約4200字)