第11話「王国の魔物襲撃」
王都まで残り二日の朝、街道を南東に折れた先で、最初の風が変わった。土の匂いに生臭い鉄の気配が混じる。遠く、雲の底が裂け、黒い点が舞い上がった。鳥ではない——群れを成した魔物が、風の筋を切り裂いている。
「嫌な空だな」とリクが顔をしかめる。「西の丘陵を越えてくるのは、王都直轄の狩猟区から溢れたやつらだ。普通は囲いで止まるはずなんだが」
囲いが破れた、と考えるのが自然だ。だとすれば誰かが破ったのか、あるいは——開いた。影の合わせ箱のように。王都の“裏”に意図がある。
商隊の先達が走って戻ってきた。「魔物だ! 角の生えた猪、牙ウサギ、岩トカゲが混じってる! 数が多すぎる、逃げ場を——」
その声をかき消すように、平原の向こうから地面の鳴動が押し寄せた。蹄が石を割る乾いた音の群れ。視界の端で草むらが帯状に倒れていく。角猪の群れの先頭が姿を現し、その背後に大小様々な魔物が追い縋るように走ってくる。追うものと追われるものの境界は曖昧で、群れそのものが、ひとつの巨大な災厄に見えた。
「隊列を崩すな!」と俺は叫んだ。「荷車は互いの影を重ねろ! 隙間を作るな!」
商人たちが悲鳴混じりに車輪を寄せる。荷車が寄り合う下、四角く落ちる濃い影ができる。俺はそこへ手のひらを当て、街道の縁石と、折れた里樹の根の影を縫い合わせ、広い“穴”を作った。影の穴は、群れの突入角を鈍らせる溝だ。飛び込んだ角猪の前脚が沈み、勢いが削がれる。
「右、三歩!」ルナの声。影の中から飛び出した小石が、別の角猪の目の前で弾け、視界を一瞬奪った。リクが横から跳びかかり、短剣で筋を切る。角猪が呻き、体当たりの勢いが逸れる。逸れた巨体は荷車の脇を掠め、草地で転がって泥を撒いた。
だが数が多い。いくら影で溝を作っても、塞いでも、波が重なるように次の群れが押し寄せる。牙ウサギが車輪の隙間を潜り、岩トカゲが荷台の脚に噛みつく。車体が軋み、悲鳴が上がる。
「エリシア、印章を!」俺が叫ぶや否や、彼女はケープをはね、胸元の銀糸の紐を指で弾いた。月桂と鍵の印章が光を帯び、その光がかすかに路面へ落ちる。影が、低く震えた。鍵血が呼ぶ波紋に、影が応える。
「いける——そのまま、足元へ手を」
エリシアが躊躇なく従い、路面の影に掌を重ねた。影の膜が薄くなり、向こう側の冷たい流れが指先を撫でる。それは合わせ箱で触れた“遠い影”の余韻——王都の影の系統だ。俺は自分の影を介してその流れを街道の下へ引き込み、狭く長い“影の堀”へと変換した。走り込んでくる牙ウサギが足裏を滑らせ、堀の底でばらばらと転がる。岩トカゲが噛みつこうと首を伸ばした瞬間、影の縁が刃のように立ち上がり、口腔の内側を裂いた。魔物の血が土に吸い込まれ、影が一瞬だけ黒を濃くした。
「まだ来る!」リクの声。彼の視線の先、群れの後方で、ひときわ背の高い影がもたつきながら歩いてくる。石皮と呼ばれる大型の岩トカゲだ。石の皮膚は刃を弾き、角猪の体当たりに耐える。そいつが群れの重石だ。動かさなければ群れの勢いは削げない。
俺は息を整えた。影は俺の呼吸だ。吸うごとに周囲の黒が肺に満ち、吐くごとに街道の下へ流れ落ちる。石皮の足が落とす影は重く、鈍い。そこへ指を差し入れ——掴む。影の筋を、筋肉のように握り込む。思い切り引いた。石皮の前脚ががくりと沈み、巨体が手前にのめる。露出した喉元へ、リクが躊躇いなく飛び込み、刃を押し込んだ。石皮が巨体を痙攣させ、泥に崩れた。地鳴りが一段下がる。商人の誰かが、信じられないものを見たように口笛を吹いた。
「影潜り……いや、影の使い手様だ!」と叫ぶ声。そんな呼びかけに答える余裕はない。まだ終わっていない。平原の遠く、黒い塊がもうひとつ、砂塵を巻き上げていた。
風向きが変わる。生温い風が、鉄の熱を舐めてくる。群れの第二波——そして、空から低い唸りが降りてきた。見上げれば、黒い影が空を横切り、翼の骨だけが浮かび上がる。骨翼の蝙蝠だ。牙ウサギの背中から飛び上がったのではない、もっと高い、丘陵の向こうから薄群青の空を切って来る。
「上だ!」俺は荷車の縁に上がり、影をねじ上げて天幕の上へ張り巡らせた。張り布の上に影の網をつくり、骨翼の爪が引っかかるようにする。最初の一匹が鳴き声を上げ、黒い布に爪を食い込ませた。影の網に絡み、身を捩る。網が裂ける前に、俺は網目を縫い直し、隣の荷車の影と結んで張力を増した。骨翼が引きちぎろうと羽ばたき、布ごと地上に叩きつけられる。リクが跳んで喉元を断ち、ルナが落ちた骨翼の影を蹴ってもう一匹の軌道をずらす。
それでも、数は多い。商人たちの顔が恐怖にこわばる。エリシアは一度だけ目を閉じ、細く息を吸ってから目を開いた。光を写す瞳が、影の動きを追い始める。鍵血は扉を開けるだけじゃない。流れを見る感覚を研ぎ澄ませるのかもしれない。
「来る方向、三筋!」彼女が指差す。彼女の指の先、空の薄色の中に、うっすらと濃い筋が見える。目に映らないはずの“流れ”が、指でなぞられることで見えるようになる——いや、彼女の血で、影の筋が表に滲んでいるのだ。
俺はエリシアの指の示す三箇所を結ぶように、地上の影を立ち上げ、空へと撓らせた。影の柱。それは塔ではない。蔦のように絡まり、風を掴み、空への階を造る。そこを骨翼がくぐろうとした瞬間、影の蔦がほどけて輪になり、骨翼の胴を縛った。影の輪に捕まった獲物が、地上へ落ちる。ルナが走り、輪の結び目を叩く。影が締まり、骨翼の息が詰まる。静かな音で、首の骨が折れた。
「まだ奥に大物がいる!」リクが前を指す。丘陵の縁に、背の低い影が這い上がってきた。輪郭が崩れ、ところどころが裂けて、風に千切れそうになっている。狼の形だが、毛皮の代わりに夜を纏っているような——影狼。
影に触れる俺の指先がひとりでに冷えた。影狼は、影そのものを塊にして動く魔。刃は通りにくく、影でのみ制せる。だが、影が影に噛みつくと、こちらの影も裂けてしまう。
「任せて」とルナが言った。彼女は影の端に片膝をつき、掌を影の水面に置く。彼女の指は小さく震えている。だが、その震えは恐怖だけではない。集中の震えだ。彼女はこの数日で、影の浅瀬を泳ぐ感覚を覚えつつある。
「ルナ、無理は――」
「大丈夫。おじさんがいる」
短い言葉が、背骨の芯に火を点す。俺はルナの掌の下、影の水面に、自分の影を重ねた。二つの影が合わさると、温度が変わる。家の風呂に二人で入って湯温が上がるみたいに、黒の深度が半歩増す。影狼が低く唸り、牙を剥いた。牙そのものが影で、触れたものから色を奪う。色を奪われた部分は、冷えて死ぬ。
「来るぞ!」
影狼が跳んだ瞬間、俺は影を水平に割いた。水面に石を投げると波紋が広がるように、影の板が何枚も重なり、狼の脚の付け根を撫でて、軌道をずらす。ルナがその隙を逃さず、影の上に影を重ねて“薄い凹み”を作る。狼の爪がそこに引っかかり、前脚が一瞬遅れる。俺は喉元の影をつまみ上げ、結び目を作って引いた。影狼の首が、見えない輪に締められて硬直する。
影狼は嗤った。声はない。影の表面がちらつき、目に見えない文字が浮かんでは砕ける。向こう側の“何か”が笑っている。王都の地下で触れた無感情な影の体系——あれとよく似た気配が、影狼の背骨の中を走っている。
「人の影じゃない」エリシアが息を呑む。「紋章の影でも、神殿の影でもない。——“作られた”影」
作られた影。誰かが、影を組み替え、狼の形にしている。操り糸だ。なら、糸を切ればいい。
「ルナ、影の中で一番薄いところを探せ。糸の通り道が必ずある」
「ここ!」ルナの指が、狼の肩の後ろに落ちる影の筋を示す。そこは流れが早く、影の色が他より微妙に浅い。俺はその筋に指を入れ、縫い針のように通した。針先が向こうの冷たい層を掠めた瞬間、硬い抵抗があった。先端が結び目に触れた感じ。俺は一気に引いた。抵抗がほどけ、糸が切れる。影狼の輪郭が崩れ、足元から砂のように散った。
丘陵の向こうで風が止み、群れの流れが途切れた。第二波の背骨が折れたのだ。商人たちが歓声とも悲鳴ともつかない声をあげる。荷車の陰で誰かが泣いた。誰かが祈った。俺は膝に手をつき、呼吸を整えた。影が一度だけ大きく波打って、静まる。
静けさは長く続かない。街道の北側、灌木の塊から、ひとりの影がふわりと抜けた。神殿印の影術師——だが、先ほど林で相対した男とは違う。背が高く、外套の内側に薄い鎧を着ている。印章は胸ではなく喉元に縫い込まれ、その縁に古い文字が刻まれている。彼の影は、地面の影と同じ色ではない。空の色を吸って、わずかに青い。
「観測は十分か」と俺は言った。皮肉の余裕はないが、言葉の爪を隠したくもない。
「十分ではない」と男は淡々と答えた。「だが、現場での検分としては価値があった。未登録の鍵血、幼少の影適性者、そして——逸脱者」
彼の視線がルナとエリシアをなぞり、最後に俺の痣の上で止まった。「王都はお前を保護対象に指定した。出頭せよ。抵抗すれば、救済は行われない」
「救済?」リクが鼻で笑う。「連中の言う救済は、監禁と同義だろ」
「救済は救済だ」男の声には嘘も怒りもない。ただの事実の提示。「影は危険だ。扱いを誤れば、集落が一夜で沈む。ゆえに尺度に従い、隔離し、測り、必要なら——」
「切り捨てる、か」
俺の言葉に、男は何も言わない。代わりに喉元の印章に指を当てた。紋の縁が微かに光る。空の色を吸った影が彼の足元から立ち上がり、薄い壁となって俺たちとの間に広がる。練られた影だ。こちらの荒織りでは触れた瞬間に裂ける。
「逃げる気はない」と俺は言った。「王都には行く。だが、お前たちの縄で行くつもりはない」
男の眼差しが、ほんの少しだけ細くなる。「力ずくは避けたい。群れの後処理が残っている。——三日後、王都西門。そこで再会しよう。計測はそこで行う」
男の影がたわみ、空気に溶ける。気配が消えた瞬間、遠くの鐘が一度だけ鳴った。王都からの風が、遅れて平原を撫でる。三日。余白のような時間だ。準備をしろ、ということだ。
商人たちがばらばらと俺たちのもとへ近づいた。誰もが口々に礼を言う。その言葉の端々に、恐れと頼りがまざる。人は、影を恐れる。だが同時に、影を頼る。誰かが「影の救済」と口にした。俺はその言葉の居心地の悪さに、舌の裏を噛んだ。
救済と呼ばれるものの中には、切断が含まれることを知っている。神殿の言葉は、往々にして皮袋のように二重底になっている。だが、目の前の人々には、名前が必要だ。恐怖を押し返すための、仮の言葉が。
「荷車を円に。怪我人を中央へ。夜は焚き火を少なくしろ。影を灯してやる」
俺は街道の砂へ指を落とし、荷車の輪の内側に薄く影の環を描いた。影の環は、夜風の冷えをやわらげ、音を吸って静けさを保つ。火の勢いは鈍るが、燃え尽きにくくなる。ルナがひとつ欠伸をして、俺の影にもぐり、半分だけ顔を出して笑った。エリシアは袖を正し、泥に膝をついて、商人の子供に包帯を巻いている。リクは街道に立ち、遠くの丘陵を見張る。
焚き火の赤が低く揺れ、夜が降りてくる。風の筋が少し変わり、王都の塔の針先が、薄墨の空に線を引いた。影は静かだ。だが、その静けさの底で、俺の痣は弱く疼く。王都の影が、遠くから微かに呼吸している。三日後。計測。救済。言葉は薄い布だ。切れやすく、すぐ濡れる。けれど、いまこの夜の輪の内側では、人が眠り、息を吐き、影に体温を預けている。俺はそれだけに、返す息を合わせる。
「おじさん」とルナが囁く。「こわい?」
「少しな。でも、怖いから準備ができる。怖くなくなったら、危ない」
「うん」
彼女の瞼が落ち、呼吸がゆっくりになる。影がそれに合わせて波打つ。俺は夜空を見上げ、針のような星を数えた。数えているうちに、影の底で、何かが目を開いた感覚がした。獣の目。だが、牙はない。爪もない。ただ、目だけが闇の中でこちらを見る。
「……見えているのか?」
返事はない。だが、影がわずかに温かい。影は罰でも祝福でもなく、選択だ。なら、選ぼう。三日後の門前で、俺は逃げない。縄に繋がれないために、先に結び目をほどく。救済を、こちらの手で定義する。影を、生の側に繋ぎ止める言葉を、先に置く。
夜が深くなる。平原の端から、遅れてくる三台の荷車の影が伸びてきた。合流した商人のひとりが、俺の前で深く頭を下げる。「命の恩人……いや、影の恩人。王都に着いたら、必ず噂を広めます。あなた方がいなければ、ここで終わっていたと」
噂は刃にもなる。だが、刃は時に盾の役割を果たす。俺は頷いた。「広めるなら、こう言ってくれ。“影は人を守った”と」
その言葉を、影が一度だけ震えて受け取った。
王都の針が、夜の薄さを刺し通した。三日後。俺たちは歩く。影を連れて。影に連れられて。