第1話「神に見捨てられた日」
暗闇だった。
温度も、匂いも、音もない。まるで何も存在しない虚無。
俺は――死んだのだ。
交通事故か、心臓発作か、あるいはただの寿命か。最後の記憶は、灰色にくすんだ天井と、積み上がったコンビニ弁当の空き容器だった。三十四年の人生。誇れるものはひとつもなく、積み上げたのは失敗と後悔ばかり。
「……これが、俺の最期か」
そう思った瞬間、虚無に“声”が差し込んだ。
『お前の魂を確認した。――結果は無能だ』
低く、無機質で、それでいて全てを見下ろすような響き。
「……は?」
『前世で何一つ成し遂げず、努力も怠り、他人を恨むだけで生を終えた。ゆえに来世に与えるべき加護はない』
胸を突き刺すような断定。
誰だ、こいつは。神か? 本当に?
『ただし規則により、最低限のスキルは付与する。お前に与えるのは――“影潜り”』
「影……潜り?」
『影に潜るだけだ。攻撃力も回復力もない。誰も欲しがらぬ最低のスキルだ』
冷笑を含んだ声とともに、視界が白く染まった。
――次の瞬間。
俺は石畳の上に転がっていた。
夕暮れの街。建物は石造り、馬車が通り、異様な装飾の看板が並ぶ。人々の服は中世ヨーロッパ風。間違いない、異世界だ。
「は……本当に転生したってのか……」
よろめいて立ち上がる。だが周囲の視線は冷たい。
「また無能が一人、流れ込んできたな」
「スキルは? 影潜り? はっ、乞食向けだな」
笑い声と侮蔑。
どうやらこの世界では、神から授かったスキルが“価値”を決めるらしい。
俺に与えられたのは最低スキル。つまり、俺は最下層の存在だ。
日が落ち、腹が鳴る。金も食料もない。
裏路地にうずくまり、石壁の影に手を伸ばしてみた。
「……影潜り、か」
意識を集中すると、手がずぶりと影に沈んだ。まるで黒い水面に触れたみたいに。
「お、おお……!」
拳を入れ、腕を入れ、全身が影に吸い込まれる。気づけば俺の身体は路地の影の中に潜み、外からは見えない。
心臓が高鳴った。
確かに“潜れる”。それだけ。でも……使い方次第では?
その夜。
通りを荒らす盗賊団が、酔った声で騒いでいた。
小柄な少女の腕を掴み、袋に押し込もうとしている。
「や、やめてっ!」
――俺は飛び出した。いや、“潜り込んだ”。
影から影へ。石畳の陰を移動し、盗賊の背後に現れる。
拳を振り抜く。
「ぐはっ!」
盗賊が崩れ落ちる。残りが慌てて剣を抜くが、俺は再び影に沈んだ。
「な、なんだ!? 消えたぞ!」
「上か!? 後ろか!?」
混乱。恐怖。
影から飛び出し、足を払う。
もう一度沈み、今度は袋を引き裂き、少女を救い出す。
「だ、大丈夫か!」
涙ぐむ少女が頷く。
盗賊どもは影に怯え、武器を放り出して逃げていった。
荒い息を吐きながら、俺は思った。
――これはただの“最低スキル”じゃない。
敵から見えない位置に潜み、奇襲し、守るべき者を救える。
神は「無能」と言ったが……俺は初めて、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「俺は……無能なんかじゃない」
影が俺の背中に寄り添う。
冷たいはずの闇が、なぜか温かかった。
第1話ここまで