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やさしい滅び方

 序章 滅びの一ヶ月前

 

 

「これはどういうことだ!」

 八畳の簡素な室内に、男の怒声が響いた。叫んだ中年の男は、左手に持つ夕刊紙を目の前の青年に見せつける。

 夕刊紙の下の方にある小さな記事。青年はそれを目にして、「そんな……」と小さく呟いた。

 工学系の資料や参考図書がきれいに整頓された室内は、本来ならば静穏な印象を与えたことだろう。しかし、青年に対して緊迫した様子で迫る男が、その雰囲気を別の物に塗り替えていた。

 時を止めたかのような、重い沈黙。青年は固まったまま動かない。夕刊紙に固定されている視線は、後悔や苦悩といった色で溢れていた。

 二人は動かない。先に相手が動いて欲しいと、今の状況を変えて欲しいと、望んでいるように見えた。

 茜色に染まった室内に、希望はなかった。

 

 

 一章 滅びの三週間前

 

 

 みそ汁を主体とした、朝食の香りがリビングを包んでいる。十六畳ほどのリビングに響きわたる炊事の音は、どこか心地よい。部屋の中ほどにはソファーがあり、そこに一人の少女が腰かけていた。

 四角いテーブルを挟んで、ソファーの反対側にあるテレビは朝のニュース番組を映している。少女は食い入るように画面を見つめていた。

(――が結婚記者会見を都内のホテルで開きました。会場ではお二人ののろけ話がさく裂し、和やかなムードで会見を終えました。ほほえましいお二人の、今後の活躍に注目が集まっております。次のニュースです。各国の農村で、村人がまるごと行方不明となる事件がありました。この事件は連続して起こっており、特徴としては行方不明者のベッドの上には白い粉がかならず置いてある、とのことです。新興宗教による計画的な犯行という見解が強く、今後も捜査が続くようです。さて、次は星座占い――)

 派手な装飾がされた文字が画面いっぱいに出てくる。同時に、少女はチャンネルを変えた。血液型占い、わんこ、再び星座占い……。

 少女はテレビのリモコンを放り、「はぁ」と小さな口からため息を漏らした。彼女の母親が、パタパタと音を立てながらご飯とみそ汁などを盆に乗せて持ってくる。娘の残念がる顔が見えたようで、苦笑を作った。

「どうしたの、愛生? 朝からため息なんて吐かないでよね」

「だって、お兄ちゃんの研究の発表がもうすぐだっていうのに、ニュースにちっとも出てこないんだよ? おかしいじゃない」

 少女――佐藤 愛生は不満を口にした。頬をぶすっと膨らませる。

 朝食を並べながら、なだめるように母親は言った。

「お兄ちゃんは、ニュースに出るとしても発表後って言ってなかったかしら?」

「でも、すごい研究なんでしょ? なんかこう、近未来的な? カーボンじゃなくて、チューブでもなくて、あのー……。あれ、なんだっけ? 内容は忘れちゃったけど、夢のあるような、とにかくすごいヤツ?」

「あなた、お兄ちゃんから詳しく聞いてたんじゃないの? 一ヶ月くらい前に何時間も電話してたでしょう?」

「えへへ。お兄ちゃんの声聞いたら満足しちゃって、ほとんど聞き流しちゃった」

「もう、本当にお兄ちゃんっ子ね。あ、ほら。急がないと、遅刻しちゃうわよ?」

 テレビ画面の左端を見て、愛生はハッとした。時刻は八時二分。学校までは自転車で十分ほどの距離であり、八時二十分までに家を出れば、なんとか間にあう。朝食を急いで食べなくとも、まだ少しだけ余裕があった。だが、彼女はニュースを見ることに夢中になってしまい、制服に着替えるのを忘れていたのだった。着替える時間も含めると、少し危ない。

 慌ててみそ汁に口を付ける。「あちっ」と声を漏らした。

「ほら、気を付けて? 火傷するわよ」

 愛生は恨めしそうに母親を睨んだ。どこか愛きょうのある仕草だった。

「お母さんが寝坊しなければ余裕だったのにぃ」

「愛生が起こしてくれればよかったのにぃ」

 母親は軽やかな笑い声を置いて、台所にもどった。愛生は不満げな表情を浮かべつつ、いそいそと朝食を口に運んだ。

 そして、八時二十分を少し過ぎた頃。愛生は短い髪を揺らしながら、飛びだすように玄関から出てきた。

 六月の晴れやかな空が、彼女をむかえた。

 

 

 なんとか遅刻を免れ、その後の授業を乗り越えた愛生は、待望の昼食に心を躍らせていた。

 高校生活という新たな舞台に立ってから、既に二ヶ月が経つ。初めて会うクラスメートたちとの間にあった、よそよそしさはもうない。教室の窓際にある四つの机をつなぎ合わせ、談笑を交えながらお弁当を食べる。

 ふと、愛生は背後になにかの気配を感じた。気になった彼女は振り向く。それと同時に、お弁当がすこし揺れた。慌てて視線をお弁当に戻すと、大好きな卵焼きがなくなっていたのだった。

「うむ、佐藤家の卵焼きは甘くてうまい!」

 愛生の左わきには、少し小柄な少年がいた。奪った卵焼きをおいしそうに味わっている。

「徹平! アンタ、また私の大切な卵焼きを……!」

 徹平と呼ばれた彼は、怒りにわななく彼女を見て笑った。

「別にいいじゃねぇか、一個くらい貰っても。俺の親ではこんなにふわふわな卵焼きは作れん。お前はいつでも作って貰えるだろ?」

「今しか味わえない幸せがあるの! 返せ、私の幸せを!」

「大げさな奴だなぁ。ま、残念ながら返すことはできん」

 徹平はそう言い残して教室のドアに向かって小走り。愛生は座ったまま叫んだ。

「コラ、待たんかぁ!」

「あばよ、とっつぁ~ん!」

 教室のドアが閉まった。頬を膨らませる愛生の怒りはしばらく収まりそうにない。

 一部始終を見ていた愛生の友達三人組は、クスクスと笑っていた。

「あんたら二人って、ホントに仲いいねぇ。まさか、付き合ってんのぉ?」

「え? 我らのアイドル愛生ちゃんに彼氏が? きゃー、これは一大事!」

「式はいつ? 祝辞は任せろ」

 三人に茶化された愛生はそっぽを向いた。口を尖らせて「私はもっと知的な人が好みなの」と付け加える。お兄ちゃんのような、というのはさすがに控えた。これ以上いじられるのは、彼女にとって面白くない。

「知的ねぇ。たとえば、いま話題の宮崎先輩とか?」

 宮崎 竜也先輩。二週間ほど前に転校してきたばかりの二年生。彼は転校から一週間でいきなり中間テストを受けることになった。大きなハンデを背負い、周りから不憫に思われるなか、結果は学年トップ。先生はもちろん、一部生徒にまで名前が広まった。

 また、長身痩躯にスタイリッシュな眼鏡が良く似合う。理知的な印象を与える容姿は、ある程度の女生徒から注目を浴びていた。

 愛生の視線の先には、渡り廊下があった。窓越しに見える渡り廊下の人の行き来はまばらだ。そういえば、噂の宮崎先輩を一度目にしたことがある。たしかに知的な人のように見えたな、と愛生は考える。

 何気なくそう思っていた矢先に、宮崎 竜也が通りがかった。目があったような気がして、慌てて視線を逸らす。それが、少しばかりいけなかった。

「あれぇ? 急にどうしたの、愛生ちゃん? 顔が火照ってますけどぉ?」

「え? まさか本当に狙っちゃってる? 狙っちゃってるの? きゃー、この子は大物食いだね!」

「告白はいつ? セッティングは任せろ」

 やんやとはやし立てる三人に腹を立てながら、愛生はご飯を口いっぱいに頬張った。

「もう、ひやなーい」

 もごもごとしっかりと発音できていない言葉は愛らしく、三人組はさらに楽しそうに笑った。膨らんだ頬を突かれながら、愛生はまたからかわれた。

 

 ※

 

 八畳の簡素な部屋。本来ならばしっかりと整理された室内だったが、ほんの一週間で様変わりしてしまった。床は散らばった資料によって足の踏み場もなく、中央の長机には分厚い本が堆く積まれていた。

 部屋の隅にある机の上に、一台のパソコンがある。白衣姿の中年男性は画面をじっと見つめていたが、やがてため息を一つ吐いて天井を仰いだ。それは疲れによるものではないように見えた。

 伸びをして、白髪混じりの頭を掻いた。かゆいから掻いたわけではなく、不安や緊張を抑えようとするための、無意識な行動だった。

 部屋のドアが叩かれる。「失礼します」という強張った声のあとに、ドアは開かれた。

 入ってきたのは、一週間前に怒鳴られた青年だった。きれいに七三分けとなっている髪型とストライプの入ったスーツが似合っている。彼は、細い身体に緊張をみなぎらせて中年の男の応答を待った。

「何しに来たんだ? しばらくは自宅謹慎していろと言ったはずだ」

 青年には顔を向けず、中年の男は声をかけた。感情があまりこもっていない。

「なにか、手伝えることはないかと思いまして……」

「無い。いや、正確には『無くなった』と言うべきか」

「無くなった?」

 青年の目が見開かれる。その瞳には安堵の色が混じっているように見えた。

 中年の男が顔を向けて微笑む。

「これを見てくれ」

 パソコンの画面を指差す。青年は近づき、二人で画面を見た。

「この一週間、大急ぎで『アレ』を回収して調べ続けていた。ほとんど残骸しかなかったが、『生きている』ものがいくつか見つかった。これは撮影したものだが、本当に驚いたよ」

 中年の男は画面を操作し、一つの映像を青年に見せた。細菌のような、数体の丸い物体が動いている映像だ。少し経つと、丸い物体は二つに割れてその数を増やした。

 その瞬間、青年の表情が固まった。

「これは……!」

「ああ。進化、とでも言うべきなのかな? 細胞分裂するように数を増やしているんだ。ただ、この映像にある個体達は数時間後には動きを止めた。おそらくは『餌』がなくなったからだろう。しかし、『餌』をしっかり供給していけば、無限に増え続ける可能性がある。『餌』がなんのかはまだ分かっていないが、だいたいの予想はつく」

「そんな……。まさか、グレイ・グーが起きるというのですか?」

「グレイ・グーか。いや、そんなものでは済まないかもしれないな」

 青年はこの世の終わりだと言わんばかりに頭を抱え、座り込んだ。哀切きわまりない姿だった。

 中年の男は再度、天井を見上げた。

 

 ※

 

 放課後。

 愛生は三人組と別れ、一人で図書室に来ていた。新刊のコーナーから一冊抜き取り、近くの席に座って読む。十六時半になったのを確認すると、本を元あった場所に戻してその場をあとにした。

 足早に階段を上る。彼女が目指す場所は、学校の屋上だった。

 立ち入り禁止の張り紙がされた扉を難なく開き、外に出る。涼やかな風が彼女の頬を撫でてくれた。

 屋上の扉が開いているのは、生徒はおろか、先生にもあまり知られていない。演劇部が顧問の先生から許可を得て、こっそり使っていたからだ。愛生自身、部活動見学の時にたまたま立ち聞きして知ったことだ。

 幾度か通ううちに、十六時半以降は演劇部であっても使ってはいけないことがわかった。十六時半前には演劇部は屋上からいなくなるので、その間は暇を潰すために図書室に通った。

 愛生が屋上に興味を持ったのは、ほんの冒険心からだ。

 中学のときは校舎の構造上、屋上には上がれなかった。高校に上がっても、使用禁止という話を聞いた。そんな制限された環境のなかに見えた、一つの綻び。好奇心旺盛な彼女が飛び付くには十分なほど、魅力的な秘密だった。

 ゴールデンウィーク明けに初めて屋上へとやって来た。そのとき、何とも言えない解放感を愛生は得た。

 視界に広がるは田園風景。植えたばかりの稲穂が大河のように続き、横たわっている。水田を挟んだその先には、ぽつぽつと住宅が並んでいた。木々もそれなりに多い。丘をくりぬいて作ったような校舎から見えるのはその程度だ。学校の近くには住宅街もあるのだが、全ては丘の上、もしくはその反対側。愛生のいる位置からは望めなかった。

 澄んだ風と抜けるような青空。自分を遮るものが無くなったような気がして、愛生は屋上に来るのが楽しくなった。初めは友達も連れてこようと考えていたが、やめておいた。一人で静かにしている方が、合っていると思えたからだ。この場所を独り占めしたい、という気持ちもあったかもしれない。

 柵はあるが、愛生の胸の高さ程度しかない。元々、生徒が屋上に上がることを想定していないからだろう。彼女は柵に寄りかかり、空を振り仰ぐ。

 愛生の真下は教職員用の駐車場となっており、よほど注意してみない限り、下から彼女を見つけることは困難なことだった。誰にも見つからないという安心感ゆえに彼女の心は緩みきっていた。

 出し抜けに、屋上の扉が開いた。あまりも唐突なことだったので、愛生は身体をビクリと振るわせるほど驚いた。慌てて隠れる場所を探したが、そんなところはない。

 おそるおそる扉を見る。屋上に入ってきたのは、宮崎 竜也だった。

 愛生は身体を硬直させた。予想外の人物が来たことによって、「なんで?」という言葉を心の中で繰り返した。鼓動が早鐘を打つ。

 竜也はきょろきょろと辺りを見回してから、固まっている愛生に視線を向けた。目と目が合う。眼鏡越しに見える瞳が何を語っているのか、愛生には分からなかった。

「えっと、あの、邪魔しちゃったかな?」

 声色からして、向こうにも緊張の色が見える。言葉の意味を汲み取れず、答えられないでいると、竜也は近寄ってきた。

「となり、いいかな?」

 自分の許可が必要なのだろうかと思いながらも、「ど、どうぞ」と答えた。右隣に竜也が立つ。頭一つ分以上は違う背丈を、もの珍しげに盗み見る。

 野球部の掛け声が、やけに響いていた。

「いつも、ここに来てるの?」

 愛生には顔を向けず、彼は田園風景を眺め続けている。眉ひとつ動かさない表情からして、怒っているのだろうか、と思えた。すこし不安になった。

「あの、もしかして、先輩は私を注意しに来たんですか……?」

 オドオドとした様子で愛生が話すと、竜也が吹き出した。ようやく、愛生に顔を向ける。

「まさか。転校してから二週間とちょっとしか経ってないのに、そんなわけないよ。この学校のルールなんて、まだよく分かってないんだ」

 やさしい笑みに胸を撫で下ろしつつ、「じゃあ、なんで屋上が開いているのを知ってるんですか?」と投げかけてみる。

「うーん、まぁ、たまたま知ったと言うか……」

「へぇ、そうなんですか。それなら、私と同じですね」

「あ、ああ。君もなんだ。同じだね」

 会話が途切れ、妙な沈黙が降りた。二人は水田の方に目を向ける。しばらくすると、空が赤く染まり始めた。いつも帰っている時間が来たことを、感覚的に知った。

 緊張しながら、竜也に声をかける。

「あの……、そろそろ帰りますね」

「うん。さようなら」

 あまりにも素っ気ない返事だった。気勢をそがれる思いを感じながら、愛生は屋上の出入り口に向かって歩き始めた。

「佐藤さん」

 突然よばれた自分の名前にドキリとしながら、愛生は振り返る。名前何て教えただろうかと、少しばかりの疑問を持った。

「明日も今日と同じ時間に、ここにいるのかな?」

 かけられた言葉をうまく飲み込めず、返事ができなかった。幾度か反芻して、ようやく二度頷き、それを返事代わりとした。竜也は満足気に微笑むと、手を振る。

 軽く頭を下げてから、ほとんど駆け足で屋上をあとにした。胸の内側にくすぐったさを感じつつ、階段を駆け降りていった。

 

 ※

 

「我々が助かる手立ては無くなった。もう、この星は滅びるしかないんだ」

 天井を見上げたまま、白衣姿の中年男性が呟くように言った。反応のない青年に一瞥を投げかけ、ため息をついた。近くにあった椅子に座るよう促す。青年はゆっくりとした動きで椅子に座ったが、顔を上げることはなかった。

「生き物に進化した彼等は、我々の命令を受け付けない。生命の本能に従って動いているようだ。他の生物を分解して個体数を増やすという、本能。私の予想では、あと一、二週間ほどで全ての生物が消え去るだろう。遅くとも三週間はかかるだろうが、どちらにしろ、絶滅は避けられない。さらに、彼らの元々の性能を考えれば、この星そのものを食ってしまうかもしれない」

 青年はうなだれたまま、動かない。いや、良く見れば、その細い身体を震わせていた。

 先と同じようなため息を漏らす。幾分か和らげた口調で、また彼に言葉を投げかける。

「試作品をいったいどこに持って行った?」

 ようやく、青年は反応した。顔を上げ、中年の男の瞳を虚ろな眼で合わせる。ためらいと怖れが入り混じっているのか、震えた口調で切り出した。

「売りました」

「売った? いったい誰に?」

「よく分かりませんが、たぶん軍事関係の人たちだったと思います。なんと言いますか、雰囲気や動作がきびきびとしていましたし、言葉も硬かったです。詳しいことはなにも聞かされていないんです。僕はただ……、ただ、促されて売り払っただけです……」

 青年は視線を落とした。その姿は、悲愴そのものだった。

 少し考えてから、中年の男は切り口を変えた。

「なぜ、『アレ』を売らなければならなかった? そんなに金に困っていたのか?」

「……幼い頃に親父がいなくなった、という話をしたことがありましたよね?」

「ああ、覚えているよ」

 彼と初めて会った時に、うっかり家族構成のことを聞いてしまったことを思い出した。歳の離れた妹が生まれたと同時に、彼の父親の会社が倒産。職を失った彼の父親は家族に何も言わずに出ていったという話だった。

「数年前、その消えた親父が、死んだんです」

「亡くなったのか」

「ええ。おまけに、ヤバいところから金を借りていたことも分かりました。かなりでかい額です。しかも連帯保証人は母親の名前。勝手に名前を使っていたんですよ、親父は……」

 彼は笑った。自分を嘲るための笑みだった。

「妹にはどうしても教えたくなかった。あいつは僕や母のためなら無理をしてしまう、気にし過ぎてしまう奴なんです。あいつには心配をかけさせたくなかった。取り立ての奴には、必ず僕に連絡するよう、頼んでおきました。母と二人でなんとかやりくりしていました」

 青年の膝にあった拳が、強く握られた。白い肌がさらに強調され、青筋が浮かび上がる。

「それでも、妹が高校に上がる少し前から、お金を払うのが厳しくなりました。取り立ての奴らには支払いの期限を延ばしてくれるように言っても、妹と母親のところへ行くと、脅される毎日。支払いは月を追うごとに厳しくなり、研究の完成を待っている時間はなかったんです。このままでは家族が壊されると思い……試作品に手を出しました」

 青年の肩に手を乗せた。一瞬だけ大きく震わせてから、ゆっくりと二人は目を合わせる。

「気にし過ぎてしまうのは、君も一緒だろう。その辺りは、妹さんと似た者同士だったんだな」

 なぜ、私を頼らなかった。中年の男はその言葉の使用だけは避けた。

 これ以上、彼を追い込む必要などありはしない。だから。

「これからの対策を考えよう。残された時間は一、二週間しかない。忙しくなるぞ?」

 彼にチャンスを与え、共に苦難を乗り越えること。中年の男が望んだものはそれだけだった。

 

 

 二章 滅びの二週間前

 

 

 愛生はこの一週間、学校に来るのが楽しくて仕方なかった。

 お昼に食べるお弁当、友達との会話、屋上から見る景色。どれも一週間前から楽しんでいたものばかりだ。が、そこにもう一つ加わることで、彼女の高校生活はさらに豊かとなった。

 屋上で宮崎 竜也と談笑することである。

 語彙の豊富さや彼の人生観といったところから溢れる、知性的な面。愛生を笑わせようと、ユーモアのある言い回し。彼と話す度に、彼女の顔には花が咲く。花の数を増やすごとに、新しいことを教わる。ただの会話であるはずなのに、これほどまで得る物があるのかと、愛生は感じていた。

 学生の頃の兄と会話した時も、似たような感覚を受けた。兄が研究職についてからは会話そのものが減ってしまい、寂しいと思っていた。そのことも相まって、余計に楽しく思えるのかもしれない。

 ついつい足取りが軽くなる。少し自制してから歩くと、校舎の窓が視界に入った。そこに映った自分の顔が微笑していたのに気付き、頭をかいた。

 浮かれているなぁ、という自覚はあった。なにせ、学校で注目されている人を一時間程度ではあるが、独占しているようなものだから。二人だけの秘密みたいなものが、ことさらそういった気分にさせているのだろうか、と彼女は考えた。

 ふたたび軽いテンポの歩調になったが愛生は気付かない。浮かれたまま、教室のドアを開けた。いつもの景色が広がっている――はずだった。

 朝のホームルームが始まるまで、あと五分ほど。愛生でギリギリなのだから、席はほとんど埋まっていなければならない。しかし、半分近くの席が空いていた。仲良し三人組も徹平も、教室にはいなかった。

 登校している生徒の多くは不安そうな顔をしている。愛生は困惑しながらも、とりあえず窓際の一番前の席につく。

 鐘が鳴った。担任の先生は来ない。いつもの半分しかいないクラスだったが、次第に騒がしくなる。そして、一限目の始まりを知らせる鐘が鳴ると同時に、担任の先生が教室に入ってきた。

 不気味なほどに静まり返る室内。生徒たちに目を向ける先生は疲れた表情をしていた。

「今日は全員帰宅。自宅待機だ」

 そう告げた途端、囁き声が室内に満ちた。不安の色が強く出ている。

「他のクラスでも似たような状況になっていて、授業をまともに始められない。今日は全員、真っ直ぐ家に帰ること。寄り道は絶対にするなよ? ちゃんと帰宅しているか確認を取るからな。それと、今日の六時ごろにテレビを見ること。先生もよくわかっていないんだが、そういう連絡があった」

 先生との質疑応答はなかった。というより、させて貰えなかったのだ。一言目には「わからない」、二言目には「早く帰りなさい」では従うしかない。学内で一番困っているのは先生たちなのかもしれない、と愛生は感じた。

 全ての生徒たちは帰宅していく。あまりにも静かだったため、妙に少なく感じた。

 愛生は帰り際、正門から屋上を見た。

 暗い曇り空が見えただけだった。

 

 

 十七時五十分を過ぎた頃、愛生はテレビを付けた。いつもと変わらないニュース番組が流れる。ただ一点だけ、変わったところがあった。一番上に『十八時から始まる放送を必ず見るよう、お願い致します』という一文が添えられていた。

 そして十八時になった瞬間、画面が切り替わった。白い部屋に長机が二つ並べられている。机の上には数本マイクが置かれているのだが、まだ誰も座っていない。ざわざわとする音の中に、「いつ始まるんだ」という不満をあらわにする声がハッキリと聞き取れた。なにかの記者会見が始まろうとしていた。

 画面の端から、白衣姿の中年男性とストライプの入ったスーツを着た青年が入ってきた。カメラのフラッシュを浴びながらマイクの前まで来ると、一度頭を下げてから席に座った。

「あれ? お兄ちゃん?」

 ストライプのスーツを着た青年は間違いなく愛生の兄、佐藤 宏だった。

 白衣姿の男がマイクに顔を近づける。

「私は、ナノテクノロジー総合研究センター、技術開発・利用部門、ナノマシン研究室主任の宮崎 浩一です」

 重い響きを持った声音だ。ついつい耳を傾けてしまうような声だった。愛生は放送が始まったら母親を呼ぼうとしていたのだが、気付けばその声に耳をそばだてていた。

「現在、世界中で人が消えてしまう現象が起きています。夜、寝る前の挨拶を交わした人が、あるいは隣で寝ていた人が、朝には粉となって消えていたという現象です。これは、我々が開発したナノマシンが密接に関わっています」

 ナノマシン。そうだ、と愛生は手を叩いた。兄の研究内容をようやく思い出したのだ。

「近年、ゴミの処理について様々な問題があります。焼却する際に、有害な化学物質が発生してしまったり、埋立場が減ったりと、年々深刻になっています。そこで、我々が開発したナノマシンは、物質を砂状に変えるという性質を持っていました。有害廃棄物を無害な砂に変えることが出来る可能性も十分に秘められており、いくつかの試作品でその効果を確認することが出来ました。しかし、つい最近、試作品の一部が盗まれるという事態が起きました。警察の方々にももちろん、捜査をお願いしたのですが、残念ながら悪用されてしまう方が先となってしまいました。最初にどの国で使用されたのかは分かりませんが、試作品を人に使われてしまったのです」

 宮崎はそこで一旦区切った。瞳に、覚悟を決めたかのような光が宿った。

「さらに、我々は懸命に調査をした結果、驚くべきことが分かりました。ナノマシンが人を分解したことによって変化が起こり、単細胞生物のように分裂できるようになってしまったのです。ウィルスとほとんど変わらない存在になったのです。本来ならば、無機物を分解することだけを前提としていたため、生物を分解することは想定に入っていませんでした」

 フラッシュが止まった。宮崎は構わず続ける。

「今後、『グレイ・グー』と呼ばれる現象にまで発展すると思われます。『グレイ・グー』とは、簡単に言いますと、ナノマシンが星を覆いつくしてしまうという現象です。さらに、今回のナノマシンの性能を考えますと、覆いつくすだけでなく、人類がこの地上から消滅する可能性が極めて高いです」

 異様なほど、静かになった。息をのむ音さえ、聞こえてきそうである。

 一人の男性記者が、声を大にして質問を投げかけた。

「対策はあるんですよね? 今後はどうするつもりですか? また、今回の責任は……」

「結論を言ってしまいますが、対策はありません。先ほども言った通り、ウィルスとほぼ同等の存在のため、制御はできません。風に乗って空気中を漂い、人に付着したものが人に移り、人を分解することで爆発的に増え続ける。我々はただ、彼らの成すことを見ているしかありません」

 記者の質問を遮った宮崎は、さらに言葉を繋げる。質問をさせる気がないようだった。

「我々はもう、滅びるしかないのです。予測では、あと一週間から二週間ほどで、ナノマシンがこの星を覆いつくします。人類は、長くてもあと二週間ほどで滅びるでしょう。……突然の報告で受け入れがたいことかもしれません。ですが、我が国だけでも一万人近くの人々がすでに砂状化しています。唯一の救いは、寝ている間に砂状化するので痛みや恐怖を伴わないことです」

 ただ、事実を伝える。それが目的の会見だったのだろう。

「皆さまどうか、この事実を受け入れ、残り数週間を悔いなきものにして下さい。人類滅亡が確定したからといって、やけになって犯罪行為などはしないで下さい。人間らしく、理性的に行動をして下さい。私はそう、願うばかりです」

 宮崎の訴えは強かった。深々と頭を下げる彼の姿に、誰も声をかけない。放送事故とも思えるほどの静けさだった。

 唐突に画面が切り替わった。ニュース番組のスタジオ風景。数人のニュースキャスターとアナウンサー、コメンテーターが映しだされたが、反応は鈍い。まるで、テレビに出ていることを忘れているかのようだった。彼らはたどたどしく先の話題を話しあいながら、なんとか番組を続けた。

 愛生は放心した状態でテレビを眺めていた。兄の宏からはそんな話を聞いていない。彼のことならなんでも知っていると思っていただけに、愛生のショックは大きかった。

 携帯電話が鳴った。兄からのものだと思い、愛生はあわてて電話を取る。

「お兄ちゃん?」

(……え? いや、俺だけど?)

 眉根を寄せて、携帯の画面を見る。『玉木 徹平』の文字を確認すると、ため息がでた。

「なんだ、徹平か」

(なんだ、とはなんだよ。ひでぇ奴だな、おい)

「はいはい。で、用事は?」

 妙な間が空いた。なにか様子が変だと、愛生は感じた。

(本当なら会って言うべきだと思うんだけどよ。ちょっと勇気が出ないから、電話で済まさせてもらうぜ)

 理由はわからないが愛生は緊張した。ごくりとのどを鳴らす。

(俺、愛生のことが好きだ)

 空白が生まれた。あまりにも不意打ちな告白だったので返答の用意が出来ず、愛生は慌てた。つい、「こんな時に、そんな冗談は……」という言葉が口から出てきた。

(冗談とかじゃない! 本気で、お前が好きなんだ!)

 大きめの声量と少し荒々しい語気。彼の本気さは、十分に伝わってきた。しかしそれでも、うまい返事が思い付かなかった。

「でも、そんな、困るよ。だって、急過ぎるもん」

(……好きな奴とか、いんのかよ?)

 好きな奴と聞かれて、真っ先に竜也の顔が浮かんだ。愛生は答えられないまま、黙った。

(……そっか。わかった)

 トーンの落ちた声が、胸を疼かせる。口を開きかけたときには、(突然で悪かった)という言葉だけを残して電話は切られていた。

 やるせない響きが、いつまでも耳に残った。

 

 

 三章 滅ぶ日まで

 

 

 放送の直後、多くの人は人類滅亡を受け入れなかった。しかし、翌朝になってさらに砂状化が進行したのをきっかけに、大きな混乱が世界を包んだ。ある者は「本当に対策は無いのか」と所構わずに抗議し、ある者は持っているもの全てを現金に換えて豪遊し、ある者は犯罪行為に走り、ある者は抗うことを諦めた。

 政府は、「普段通りの生活を送るように勧告を出し続ける。我々が行える対策はそれだけです」と主張するだけだった。

 それから二日が過ぎた頃、混乱はさらに大きくなった。

 日が経つにつれて、水道や電気などの、生活のライフラインがすべて途絶えてしまう、ということを予見した放送が流れたからだ。今まで管理していた人間も砂状化してしまえば、遅かれ早かれやってくることだ。大勢の人間がスーパーやコンビニに押し寄せ、物を奪い合った。

 放送から五日が過ぎた頃。世界は落ち着きを取り戻しつつあった。いや、正確には静かになった、と言うべきなのかもしれない。わかっているだけで、世界人口の二十パーセント近くは砂状化してしまったらしい。

 宮崎 浩一は人類最後の新聞を読み終えると、静かに長机の上に置いた。

「このままの勢いで人口が減ってしまうと、明日以降の発刊は難しいらしい。いよいよ、という感じだな」

「……主任、少し聞きたいことがあります」

「なんだ?」

 乱雑にものが散らばっていたはずの簡素な部屋は、きれいになっていた。せめて人間らしく、知性的な場所で過ごしたいと考えた宮崎は、青年――佐藤 宏を使って大掃除をしたのだ。

 長机を挟んで対面する彼は、大掃除の疲れとは別に、なにかを抱えているように見えた。

「なぜあの時……、放送中に真実を伝えたのですか? 全ては伝えず、対策はあるように話せと言われていたのに、なぜ滅ぶと言ってしまったのですか?」

 宮崎は、佐藤が怯えていると理解した。

「怖いのか?」

 彼はゆっくり頷く。

「人類滅亡の原因が自分たちであると言ってしまったら、その先の展開は誰にだって分かります。現に僕らは、この研究所から一歩も外に出られません。数は減ってきているとはいえ、研究所を囲む人たちは多いです。それに、自分の身ばかりではありません。家族だって心配なんです。母や妹が特定され、ひどい仕打ちを受けるんじゃないかと考えだしたら、落ち着くなんてこと、できません」

「それでいいんだよ。私たちは取り返しのつかないことをした。残された短い時間の中で、どうやって償うかが問題なんだ。私たちは、心を休めてはいけないんだと思う。最後の最後まで怯え、砂状化した人々に謝り続ける。例えそれが自己満足であったとしても、だ」

 宮崎は視線を窓に向けた。佐藤もつられて窓を見る。

 蒼穹が自らの罪を浄化してくれると信じて、ひたすらに空を望み続けた。

 

 ※

 

 放送から一週間が経った。世界人口の三十パーセント以上が砂状化したことが明らかとなり、混乱がさらに増すと考えられた。

 だが不思議なことに、そうはならなかった。どうせ滅ぶのなら安らかに滅びたい、といった風潮が流行り出したからだ。特にそれは、日本で顕著に現れた。治安の維持や生活必需品の譲り合いといった、和を強調する行動が活発となっていた。

 そのおかげもあってか、愛生はようやく学校に通うことができた。およそ一週間ぶりの外出である。

 兄である佐藤 宏には外出を控えるよう注意されていた。世界中に広まっているナノマシンの開発に兄が関わっていることもあり、なんらかの危害が及ぶ可能性があった。放送直後に食料などの買い置きを済ませると、母親と二人で眠れない夜を送ったのだった。

 初めはマスコミ関係の人から身元が特定されるのではないかと心配にもなっていたが、それは杞憂に終わった。明日、自分は消えてしまうかもしれないという時に、他人のことなど構っていられる人は少なかったようだ。

 誰が人類を滅ぼす原因を作ったかなど、すでに過去のこと。誰もが明日を安心して迎えるために、あるいは安心して永眠するために必死だった。誰かを非難する暇があるなら、後悔のない人生を送るために懸命になっていたのだ。

 もう、愛生たちは恐れなかった。自分たちも普段通りの生活をしよう、と決意した。

 教室に着いた愛生は、まず現実を目の当たりにした。空席が半分を占めている。仲良し三人組の姿も見当たらない。普段通りの生活を送りたかっただけに、物寂しさが残った。

 すごすごと窓際の自席に座る。誰かに話しかける気にもならず、大人しくチャイムが鳴るのを待っていると、肩を叩かれた。

「おはよう、愛生」

 振り返らずとも、声だけで誰なのかがわかった。徹平だ。彼だけは毎日メールをくれた。クラスや町の状況などの情報は、彼から聞いていた。

「な、なに?」

 彼の顔を見て、愛生は少し困った。一週間前の告白を唐突に思い出してしまったからだ。

 そんな愛生の気も知らぬように、徹平は微笑みかける。

「なにって、ずいぶんな挨拶だな、おい。まずは『おはよう』だろ?」

「……おはよう」

 愛生はあからさまに視線を逸らしてしまった。どのような態度を取ればいいのかがわからない。メールでは平気だったのに、実際に会うと気まずく感じた。

 ただ、徹平は気にする風も見せず、話しを続ける。

「ところでよ。明日、球技祭みたいのをやろうって話が出てるんだ。残りの学校生活もどうなるか分からんし、どうせなら思いっきり楽しみたいからな。それでさ、その準備を今日やるんだけどよ、ちょっとだけ手伝ってくれないか?」

 少し、考えを巡らせる。愛生が学校に来たかった理由の一つは、屋上から景色を見渡すことだ。全てが終る前に、どうしてもあの風景を見たかった。ちょっとだけ、ということなら、屋上に行く時間はあるはず。その考えに至った時、答えは決まった。

「うん、わかった。いいよ」

 愛生の返事を聞いて笑う彼には、何となくぎこちなさを感じた。手を軽く振りながら、「じゃ、放課後すぐに体育館な」と言い残して自分の席に戻っていく。

 何の気なしに、渡り廊下を見た。そこには一週間ぶりに見る、宮崎 竜也の姿があった。彼は驚きの表情で視線を合わせていたが、やがてにっこりと笑った。そして、少し大袈裟に口を動かすと、さっさと歩き去ってしまった。

 愛生は彼の口の動きを真似てみた。たぶん、「またあとで」という動きなのだと思った。屋上で、またあとで。

 愛生は、踊る胸をそっと抑えた。

 

 

 放課後になった。愛生と徹平の二人は、がらんとした体育館に来ていた。

「部活、やってないんだね」

「部員は集まらないし、大会も無くなってモチベーションはガタ落ち。今、部活やってる奴らなんて、ほとんどいないぜ? それでも部活やってるところは、本当にその活動が好きなんだろうな」

 愛生は物珍し気にきょろきょろと体育館を見渡しながら、徹平について行く。体育館の壇上の右手側に、体育倉庫はあった。引き戸を開けて中に入る。薄暗い室内は少しじめっとしていた。

「かびくさーい。さっさと終わらせよう?」

「あ、ああ。そうだな。愛生はあの得点板を引っ張り出して来てくれ」

 徹平は倉庫の左端を指し示した。マットとバスケットボールかごの間にそれはあった。明かりを付けなくても、窓から入ってくる光で見える。愛生は早々と取りかかった。

 得点板前まで行き、それに触れようとした瞬間、引き戸が閉じられた。愛生は振り返ろうとしたが、先にマットの上へと押し倒された。腰に痛みが走り、思わず手で抑えようとしたところで両腕の自由が効かなくなった。頭の上に無理やり上げさせられる。徹平は愛生に馬乗りし、彼女の顔を真上から見つめた。

 愛生はまだ、なにも理解できていなかった。

「ちょっと、なにすんのよ!」

「静かにしてくれ」

 いつもと声の調子が違う。僅かに震えている声は、なにかを抑えているように感じられた。両手の力が強まる。今まで体感したことのない力に、ようやく恐怖を覚えた。愛生からは逆光で徹平の顔がよく見えない。それが余計に怖かった。

「昨日、父さんが消えた。お前に電話をした日は、母さんが消えた。砂状化ってヤツを目の前で見た」

 はっと息をのみ込む。世界中を巻き込んでいる砂状化という現象に自分の兄が関わっているということを、まだ彼には伝えていない。愛生の胸が痛んだ。

「怖かった……。あの現象、人の形を一切残さないんだ。まるで、初めからいなかったみたいに、父さんと母さんは消えた。突然、人が消えるんだ。昨日まで話してた人が、突然に!」

 なにも言えない。口を挟むことができなかった。

「怖いんだよ! 寝たらもう、俺は消えるんじゃないかって。明日の俺は大丈夫でも、お前が消えるんじゃないかって……! メールの返信がある度に安心したけど、帰ってくるまでの間は生きた心地がしなかった!」

「徹平……」

「俺は、何よりも! お前に会えなくなるのが、怖いんだ! お前のことが、好きなんだ!」

 ちらりと、彼の表情が見えた。愛生の目が熱くなる。

「泣くなよ。何で泣くんだよ? 笑ってるお前が好きなんだよ! 笑ってくれ。頼むよ、愛生……」

 震える声は、彼の感情を全て出しきっていた。愛生も声を震わせながら、返す。

「だって……。アンタも泣いてるじゃない……! 笑うなんて、無理だよ」

 徹平は愛生から手を放し、手の甲で涙を拭った。自分が泣いていたことに今気付いたのか、目を見開いた。ごしごしと強く、何度も擦った。

 突如、倉庫の扉が開け放たれた。光が差し込む。

「佐藤さん!」

 長身であるということしかわからない。が、その声を間違えるはずがなかった。

「先輩? 宮崎先輩!」

 彼の名前を呼ぶと、途端に愛生の表情が明るくなった。反対に、その様子を見た徹平は愕然としていた。弱々しく立ち上がり、竜也を睨む。

「なんだよ、それ。何なんだよ!」

 徹平は竜也の頬を殴った。肌を打つ音は思いのほか大きく、愛生は目を逸らした。

 殴られた反動で尻もちをついた竜也は、呆然とした様子で徹平を見る。

「あんたのせいだ。あんたさえいなければ、愛生は……、愛生は!」

 徹平は舌打ちを残して、逃げるように走り去った。乱暴にドアを閉める音が、体育館全体にこだました。残された二人はしばらく茫然としていた。やがて、愛生の方から声をかける。

「先輩、大丈夫ですか?」

「え? ああ、平気だよ」

 ようやく立ち上がった二人は、静かに体育館を出た。愛生はもう、屋上に行きたい気分ではなくなっており、それは彼の方も同じだったらしい。竜也は「途中まで送るよ」と言って、下駄箱の方に向かった。

 駐輪場に行き、自転車を取って帰路に着いた。楽しく会話が出来る雰囲気でもなく、二人は黙々と歩く。結局、竜也は愛生の家まで送ってくれた。別れ際、竜也は連絡先を教え、簡単な別れのあいさつをして帰っていった。

 家の中に入ると、次の日のことで愛生は不安になった。徹平に会うのがますます気まずい。やはり、今日は彼からのメールはなかった。

 翌朝、鬱々とした気分で登校する。昨日のことは忘れようにも忘れられず、かなり引きずっていた。むしろ、彼に対してどう接するべきなのかをずっと考えていたため、夜も眠れなかったくらいだ。

 だがしかし、そんな愛生の不安は無意味であった。

 徹平は学校に来なかった。理由は砂状化。先生からそう聞いた。

 愛生は気分が悪くなり、学校を早退した。

 

 ※

 

 宮崎 浩一と佐藤 宏の二人は相変わらず八畳の簡素な部屋にいた。なにもできず、どこにもいけない彼らにとって、この場所が唯一の居場所であった。赤色の日差しが薄まり、夜が刻々と近づいていた。

 宮崎は部屋の電気を付けると、佐藤に話しかけた。

「どうした、浮かない顔をして?」

 佐藤は苦笑した。少しやつれている。

「いえ、さっき妹と少し話したんですが……、なにかで苦しんでいるみたいなんです」

「苦しんでる?」

「はい。詳しいことは教えてくれなかったんですが、友達となにかあったみたいなんです」

 よほど妹のことが心配なのだろう。そわそわとした態度と暗い表情が、それを明瞭に表している。家族に会いたいという気持ちは痛いほどに分かった。もしも今、家族に会えたとしたら、どれだけ心が軽くなることか。ましてやその家族が苦しんでいるということならば、全てを擲ってでも駆けつけたいはずだ。

「妹さんのところに行ってあげたらどうだ? もう、ここを取り囲む人はいないだろう」

 宮崎は助け舟をよこしたつもりだった。お前はもう、砂状化に関して考える必要はないと、暗に示したつもりでもあった。だが、佐藤が向けた瞳には、強い意志が宿っていた。

「いえ、妹には会いません」

 厳とした声に、宮崎は黙った。静かに耳を傾ける。

「償い方がわかった気がするんです。最も会いたい人に会わないこと。最愛の家族に、最後の言葉を残さないこと。それが、償いになるんじゃないか? 自分が最もしたいことをしない、ということこそが僕に出来るただ一つの償い方なんじゃないのか? そう思い至ったんです。もちろん、自己満足になってしまいますが……」

 宮崎は心を打たれた。その考えに至るのは容易いかもしれない。しかし実行に移すのには相当な覚悟がいる。が、彼はすでにそれを実行していた。その意志に敬服の念を抱いたと共に、彼と共に過ごせるのは誇りであると感じられた。

「いいと思う。ただ、一つだけ忘れていることがあるな」

 佐藤は首を傾げた。宮崎は救いとなると信じて、言葉を紡ぎ出す。

「君はずっと、償い方を考え続けた。残りの少ない時間を全て、それに当てた。たったそれだけのことだが、十分すぎるほどに償えていると思う」

 彼の両目から涙が零れた。溢れ出てくる雫を拭うことはせず、頭を深く下げた。

「ありがとうございます」

 彼は感謝の言葉を幾度か繰り返した。言った宮崎自身も、少し救われたような気がした。

「今日はもう寝よう。また明日、償いの続きをしよう。妹さんのこともまた、明日からだ」

「はいっ……! 今日ばかりは、安眠できそうです」

 晴れ晴れとした気分で、二人はそれぞれの仮眠室で横になった。何週間振りかの安眠だった。

 夢の中で息子と妻に会い、「お帰り」と告げられた。宮崎が「ただいま」と返すと、二人は微笑んだ。心がやさしさで満たされた。

 そして翌朝、彼らが起きることは無かった。

 

 ※

 

 兄との電話を終えた頃、愛生は目的の場所にまで辿りついた。茜色に染まった、二階建の一軒家。どこにでもある普通の家だ。愛生の家から自転車で三十分とかからない場所にあった。

 一つ深呼吸をしてから玄関のチャイムを鳴らすと、ほどなくして女性がドアを開けて出てきた。

「あなたが佐藤さん? わざわざ来てもらっちゃって、ごめんなさいね。どうぞ、上がって?」

 頭の後ろで一つに束ねた、腰に届きそうな黒髪に見入ってしまった。自分の髪にはない艶やかさが美しかった。一重まぶたの美人が首を傾げる。愛生は慌てて家に上がらせてもらった。

 リビングにまで付いて行き、椅子に座るよう促された。他人の家は落ち着かず、そわそわしていると、長方形のテーブルにお茶を置かれた。

「こんなものしかなくて、ごめんね。今は何も無くって」

 両手を振りながら「いえ、大丈夫です」と答え、一口いただく。

「あ。自転車で来てたのなら、冷たい方が良かったかな? すぐに取り替えてくるけど?」

「だ、大丈夫です! お気になさらずに……」

 そう返すと、納得したように対面の席に彼女は座った。彼女もお茶に口を付ける。その湯のみがテーブルに置かれるのを愛生は待った。

「あの、ところで。玉木君のお姉さんはなんで今日、私を呼んだんですか?」

 視線が右下に移った。なにかを思い出して、浸っているようにも見える。十分に間を空けてから、彼女は口を開いた。

「弟は砂状化する前に、手紙を書いていたみたいなの。机の上に、分かりやすく置いてあったわ。私の分と、あと二人の分」

「二人?」

「一つは佐藤さんの。もう一つは、宮崎……りゅうやって読むのかな? その人宛の手紙なんだけど、佐藤さん知ってるかな? 同じクラスじゃないみたいだし、携帯電話にも連絡先が登録されてなかったの」

 『りゅうや』ではなく、『たつや』だと言い変えた方がいいのか悩んだが、やめておいた。

「私の友達です。違うクラスの人なんです。よかったら、私が届けますよ?」

「本当に? 助かったぁ、佐藤さんが知っててくれて。それじゃ、お願いするね?」

 なぜ、そんな些細な嘘をついたのか、自分でも理解できなかった。ただ、なんとく本当のことが言えなかったのだ。彼女と会話を重ねるたびに、胸の辺りが苦しくなる。愛生はもう、彼女と視線を合わせることが出来なかった。

「ところで、ちょっと聞きたいんだけどさ。あいつが砂状化しちゃう前の日、なにかあったかな? 珍しく思いつめた顔してて、ちょっと怖かったんだよね」

 愛生は体育倉庫での出来事を鮮明に思い出した。あの状況をどうやって説明すればいいのか。返答に困っていると、徹平の姉は言葉を繋げた。彼を思い出しながら、楽しげに話し始める。

「手紙にはね、色々と書いてあったわ。普段はアホなことばっかしてる奴だけど、最後の最後に、『姉ちゃん、ごめんな』なんてさ。私に気をつかったことが書いてあったの。こんな姉思いの弟だったんだって、初めて知ったわ。いつもはうるさいヤツ程度にしか思えなかったのに、不思議よね」

 彼女はいつの間にか泣いていた。涙を拭うと、まるで堰を切ったかのように泣き崩れた。愛生は彼女の背中をさすることしか出来なかった。

 泣きやむまでに小一時間ほどかかった。帰る頃にはすっかり暗くなっており、少し怖かった。

 帰り際に手紙を二つ渡された。茶色の封筒にはそれぞれの名前が書いてあった。お礼と別れの挨拶を済まし、徹平の姉と別れた。

 家に着いても貰った手紙を読む気にはなれず、机の上にソッと置いた。眠気は無かったが、ベッドで横になると気が楽になった。

 目を閉じる。自分も寝たら消えてしまうのだろうか。やり残したことは無いのだろうか。このまま消えて、後悔はないのだろうか。自分が今、やるべきことはなんのなのか。答えを用意する間に、次の問いが現れる。

 色々と考えているうちに、いつの間にか眠っていた。考えを放棄したい気持ちが表に出てしまったように見えた。

 

 

 翌日、愛生は不意に目が覚めた。半身を起こして、携帯を開く。七時四十五分。学校に行くかは別にして、母親はいつも七時半には起こしてくれた。お母さんも寝坊かな、と思い、母の部屋まで行った。

 廊下を歩いている時、やけに静かだと思った。なんとなく不安に感じながらも、母の部屋をノックする。返事は無い。

「おかーさーん? 入るよー?」

 返事の一つどころか、物音一つしない。おそるおそるドアを開ける。ベッドの上には誰もいなかった。

 母親のベッドに近づきたくなかった。確かめたい気持ちと、確かめたくない気持ち。もしくは、信じたくないだけなのかもしれない。一階で朝食の支度をしていて、今はゴミを出しに言っているのだと、そう思いたいだけなのかもしれない。頭の中ではもう、分かっていた気がした。ただ、それを直視したくなかった。現実から目を背けたかった。

 ゆっくりと母親の部屋に踏み入る。愛生はすでに、なにも考えられなくなっていた。導かれるように部屋の中央まで来て、愛生は気付かされた。ベッドの上に母親はいたのだ。ただし、白い砂と化して。

 初めて目の当たりにする、砂状化。母親の名残など全て消え去っていた。

 腰が床に落ちた。足に力が入らず、立ち上がれない。四つん這いで自室にまで戻り、ベッドの上にある携帯電話を必死になって探した。

 警察、病院、消防署。一体どこに電話をかければいいのか。混乱しきった頭の中に思い浮かんだのは、やはり兄だった。兄に電話をかける。

 一コール。二コール。三コール。愛生の焦りと不安が加速する。

「お兄ちゃん、お兄ちゃんっ!」

 六コール目でもまだ、出ない。

「なんで? なんで出ないの! なんでよっ!」

 そして、十コール目が鳴り終わった後、携帯電話からは留守電のお知らせが聞こえてきた。愛生は茫然自失となる。

「そんな……」

 数回かけ直したが、結果は同じだった。携帯の画面をぼんやりと眺める。

「先輩も……?」

 ふと、竜也の顔を思い出した。彼に電話をかける。彼女にとって、それが最後の希望と言えた。だが、電話は繋がらなかった。呼び出し音すら、鳴らなかった。

「うそよ」

 うわごとのように呟いた。次の瞬間、愛生は駆け出した。靴を履いて乱暴に玄関を開けると、学校に向かって走る。額から流れる汗と、目から零れる涙が混ざった。もう竜也のことしか頭になく、彼の顔を見たいがために懸命に走った。

 もうじき学校に着く、というところまで走った。さすがに走る速度は一際落ちていたが、それでも足を止めなかった。住宅街の中、少なくはない視線を浴びたけれど、愛生は構わなかった。

 彼に会えれば、それで良かった。

 校門の前に着いた。周りをきょろきょろと見回すが、彼の姿はない。時刻は八時半を回ろうとしていた。乱れた息だけを明瞭に聞きとれた。

「佐藤さん? その格好は……」

 後ろから振ってきた声に反応し、振り向く。一番見たい顔が、そこにあった。抱きつくのが先だったか、涙を流したのが先だったか。

「先輩っ! 良かった! 生きてた!」

「さ、佐藤さん? いったいどうしたの?」

 登校する生徒は数人だけだったが、注目を浴びることとなった。顔を赤くさせて、竜也はあたふたとするばかりだった。

「先輩、お母さんが……! お母さんが!」

 顔を上げた愛生の顔を見て、竜也の目が見開く。

「さ、佐藤さん、落ち着いて。ここじゃ、ちょっとあれだから、君の家にまで行こう」

 落ち着かせるためにやさしい言葉をかける。焦りながらも、竜也は彼女の手を引いて歩きだした。肩を震わせ、むせび泣く愛生は彼に大人しく付いて行った。

 

 

 愛生の家に着くと、二人はリビングにあるソファーに腰かけた。愛生が泣きやむまで竜也はひたすらに待ち続けた。彼女の肩の震えがおさまった時、竜也が話しかける。

「落ち着いた?」

「はい、多少は……」

「なんでまた、そんな恰好で学校に?」

 愛生は今になってようやく、恥ずかしさが込み上げてきた。なにせ、ピンクを基調とした水玉模様のパジャマを着たまま通学路を走っていたのだ。気が動転していたとはいえ、こんな姿を見られたとなると、頬が熱くなった。

 ただ、母親のことを思い出すと、胸の内側が冷たくなる感触を覚えた。

「朝起きたら、母が砂状化してて……。それで、気が動転しちゃって……」

「そんな、佐藤さんのお母さんも?」

 互いに驚いたあと、ほとんど同時に目を伏せる。

「先輩はすごいです」

「え?」

「だって、私と同じ状況なのに、冷静じゃないですか」

 少し、皮肉になってしまっただろうか。そんなつもりはなかったが、貼り付けた笑みと零れた言葉はもう戻らない。

 そんな愛生の気持ちの機微を感じ取ったのか、竜也はやさしい笑みを見せた。

「僕は、放送のあった日からずっと父親に言いつけられたから。こういう日が来たとき、どうすればいいかを教わったよ。すでに心の準備が出来ていたんだ」

「でも、そんな、いくら心の準備が出来ていたからって、両親がいなくなったんですよ!? 平気でいられるわけ、ないじゃないですか!」

「……父さんと約束したんだ。何があっても絶対に泣かないって。泣くとしたら、それは……、それはたった一度だけだ」

 最後のほうだけ、言葉を濁されたように感じた。竜也は視線を逸らして話を繋げる。

「それにね、両親とは寝る前に必ず、最後のあいさつをしてた。だから、諦観とまではいかないけど、毎日ある程度は覚悟を決めていたんだ」

 ここ数日、母とあまり会話をしていなかったことに気付いた。別れの言葉はもちろん、満足にあいさつすら交わせていなかった。そのことに深く後悔し、それができた竜也をうらやましく思った。唇を噛んで、拳を強く握る。やり切れない思いだけが残った。

「携帯に連絡してくれれば、僕の方から会いに行ったのに。そうすれば、ほら、恥ずかしい思いをしなくて済んだかも」

 話題を変えようとしてくれているのが、すぐに伝わってきた。彼の心遣いを少しだけ嬉しく感じる一方で、『携帯』という単語に思うことがあった。

「携帯……! そうだ、いくらかけても先輩が出てくれないから、私てっきり……」

「え? おかしいな、鳴ってないはずだけど……」

 竜也は自分の携帯電話を取り出して、しばらく操作した。愛生はその姿を黙って見つめる。

「僕の携帯、もう使えないみたいだ」

 愛生と目を合わせて、竜也は言った。思わず、「え?」という言葉が漏れた。首を傾げ、目で問うた。

「多分、人手が足りなくて、サービスが停止されたのかも。佐藤さんの電話会社はまだ人手が足りてるから、繋がるんだろうね。そうだ、ちょっとテレビをつけてもいいかな?」

 手元にあったリモコンを竜也に渡す。テレビの電源を入れると、真っ暗な画面に『受信できません』という文字だけが映った。いくらチャンネルを変えても、『しばらくお待ちください』や『受信できません』といった内容のものしか出てこない。まともに放送しているところは無かった。

「もう、どこも人手が足りてないんですかね……」

「うん、そうなのかもしれない。いよいよ、っていう感じだね……」

 二人は押し黙った。沈黙というものは、これほどまでに重いものだったか。息苦しい雰囲気を脱するために、なにかないかと考えを巡らす。

 ふと、あの手紙のことを思い出した。

「そうだ、先輩に渡すものがあったんです」

「渡すもの?」

「はい、ちょっと待ってて下さい」

 急いで部屋まで手紙を取りに行った。リビングに戻って手紙を手渡すと、竜也は不思議そう顔をした。

「これは?」

「あの、この前、先輩のことを殴った彼――、徹平って言うんですけど、そいつが残した手紙なんです。彼のお姉さんから、先輩に渡してほしいって頼まれたんです」

 封筒の表と裏を交互に見たあと、竜也はおもむろに封筒を開けた。

「今、読んでも大丈夫かな?」

「え? はい、大丈夫ですけど……」

 中身を取り出す。紙切れが一枚だけ、入っていた。

 愛生には見えないよう、文面を読む。彼の顔は少しずつ険しくなっていき、愛生は不安になった。

「明日、ちゃんと学校に登校しよう」

 藪から棒にそう言われて、愛生は戸惑った。

「また二人で、屋上の景色を見よう」

 なぜか、圧倒されてしまった。あまりにも真剣な目つきのせいか、それとも、言葉に宿る気迫に押されたせいなのか。愛生には判別つかなかったが、気付けば「はい」と答えてしまっていた。

 曖昧ではあるが、愛生の返事を聞いて、竜也の表情が綻んだ。

「今日はもう、帰ろうと思うんだけど、一人にしても大丈夫かな? なにか心配だったら、遅くまで残るけど……」

「あの、えっと、大丈夫です。もう随分と先輩に迷惑かけちゃいましたから」

 彼の態度の変化に困惑する愛生は、つい逆のことを言ってしまった。彼がもう一度、聞き返してくれることに期待を寄せる。

「そっか。それじゃ、また明日。遅刻しないようにね」

 だが、望んだ言葉は返ってこなかった。あまりにも呆気なく、彼は帰っていった。

 止めればよかった。そう後悔した頃にはもう遅い。足音に少しの苛立ちを滲ませながら、階段を上がる。自室に入ると、愛生はベッドの上に座った。机の上の手紙に目をやりながら。

 クラスのお調子者が書いた手紙を読んでから、竜也の態度は変わった。いったい、何が書かれていたのだろうか。

 知らず知らず立ち上がって、手紙に手を伸ばしていた。しばらく眺めてから、思い切って封を破る。一枚の紙を取り出すと、一つ深呼吸をしてから文面を読んだ。

 手紙の中での徹平は、体育倉庫での出来事について、ひたすら謝っていた。また、止めてくれた竜也に感謝もしていた。読み進めるごとに、自分に対する彼の気持ちが、痛いほどに伝わってきた。しかし、それでも彼のほうに心が傾くことはなかった。

 手紙を読み終わり、愛生は自分の想いを確認することが出来た。あの時、『誰か好きな奴がいるのかよ?』と徹平に聞かれた質問。今ならハッキリと答えられる。

 妙なまでに、すっきりとした気分になった。昨日まで居ついていた不安は、もういなかった。

 朝になるまで、ひたすら待ち続けた。部屋を暗くして、椅子に座って、外を眺め続けた。

 お兄ちゃんは今、何をしているのかな? 最後の最後で、心配させるような電話をして、ごめんなさい。

 お母さんも、ごめんね? お母さんのおかげで怖い日々を乗り越えられたのに。本当にありがとう。

 お父さんはどうしてるかな。一度でいいから、顔を見てみたかったよ。お兄ちゃんに怒られそうだけど。

 徹平のお姉さんは、泣いてないかな。嘘をついてしまって、ごめんなさい。

 仲の良かった三人とは突然お別れしちゃったね。もう一度四人でお昼ご飯を食べたかった。

 それから、徹平。アンタには感謝してるよ。

 様々な人に、想いを寄せた。今まで、自分のことしか考えていなかったことに気付けた。そして、明日のことを考えるだけで、時間が過ぎてゆく。一番会いたい人のことを想うだけで、十分だった。

 東の空が明るみ出した。徐々に変わりゆく空をジッと見つめる。飽きることはなかった。

 明るさを取り戻していく外の世界には、変化があった。道路も家も木々も、あらゆるものが薄らと白く染まっていた。銀白の景色は季節違いの雪景色。白い粉が風に乗って宙を舞い、陽光に反射して輝く。強い日差しを浴びても溶け崩れることのない、永遠の白。

 時計に目を向ける。八時を回ろうとしていた。

 制服に着替えると、すぐに家を出た。学校に行くため。普段通りの生活を行うため。約束を、守るため。

 自転車に乗った時、風が強く吹いた。そこに、終わりの音を聞いた気がした。しかし、臆することなく、愛生は自転車で駆けた。学校に着いて、まず向かったのは自分の教室だった。

 八時三十分。登校した者はいなかった。

 分かっていたような気がした。むしろ、誰もいないことが当たり前のようにさえ感じていた。

 自席にカバンを置き、一番行きたいところに向かった。

 渡り廊下を進み、階段を上る。立ち入り禁止の張り紙がされた扉を難なく開き、外に出る。涼やかな風が彼女の頬を撫でてくれた。

 屋上には竜也が一人、柵にもたれかかって空を眺めていた。

 

 

 終章 滅びの時

 

 

「先輩、おはようございます」

 彼はゆっくりと振り向くと、「おはよう」と返した。目もとのくまがひどく、だいぶやつれているように見える。

「先輩。目の周り、ひどいことになってますよ……?」

「ああ、実はこの三日間、全く寝ていなかったんだ」

 竜也は大きなあくびと伸びをした。横になったらすぐにでも寝てしまいそうだった。

「ちょっとだけ、座ってもいいかな? 立っているのも疲れてきちゃったよ」

 愛生は竜也の胸に飛び込んだ。小さく、「だめです」と答える。

 初めはおどろいた表情を見せた竜也だったが、愛生の頭をなでてから軽く笑った。

「大丈夫。座った途端に寝ちゃうとか、そんなことはしないから」

 二人は目を合わせる。さっきとは違って、竜也の目はしっかりと開いていた。

「徹平君との約束だ。最後の瞬間まで君といる」

「手紙、ですね?」

「うん。でも、それだけじゃない」

 竜也は愛生を身体から離した。少し強引だっただけに、驚いた。

「今日、学校に来たのは、君に言いたいことがあったからだ」

 一拍の間を置かれた。愛生は息をのむ。

「佐藤 愛生さん。君のことが好きだ。最後の最後まで、僕と一緒に起きていて欲しい」

 頬が火照るのを感じた。この数日、いや、もしかしたら初めて会った日から、ずっと聞きたかった言葉かもしれない。

「私もです。私も、好きです」

 もう一度、強く抱きしめる。彼はやさしく抱きしめ返してくれた。

「今だから言えるけど――」

 耳元で聞こえる声がくすぐったい。心の底まで彼に覆いつくされたような気がした。

「僕は、根暗で勇気がないんだ。父さんから君のことを聞いていたけど、なかなか話しかけられなかった」

「え? 私、先輩のお父さんに会ったことあるんですか?」

「君のお兄さんの上司に当る人さ。ほら、テレビでナノマシンについて話した人だよ」

 兄が映っていた放送を思い出す。覚えきれないほど長い肩書きのあと、たしかに宮崎と名乗っていたような気がした。事の意外さに驚き、思わず相槌を打った。

「転校したすぐそばから変に噂が広まって、誰と話す時もぎくしゃくしてた。父さんに相談したら、君のことを教えて貰ったんだ。いい子だから、大丈夫だって。助けてくれるって。あ、そうそう。君の写真、父さんが送ってくれたんだ。お兄さんの携帯からこっそり君の写真を手に入れたらしい」

「……先輩のお父さん、アクティブですね」

「……うん、まぁね」

 兄が自分の画像を持っていたことと、自分の知らないところで勝手に画像を回されたことに恥ずかしさが込み上げてきた。

「渡り廊下で君と視線が合った時は本当に驚いたよ。自分でも分かるくらい引きつった笑顔になってた。それと、たまたま見かけた君について行ったら、屋上で二人っきりになったりしてすごく焦った。あの時は本当にどうしようかと思った」

「先輩って、ポーカーフェイスなんですね。全然、そんな感じしませんでしたよ?」

「そうかなぁ。心臓はうるさかったし、手は震えるし。すごくひやひやしてたんだよ?」

 竜也の声音が少し細くなる。彼が恥ずかしく思う気持ち。それがなんとなく伝わってくる。

「それから、君を久々に渡り廊下で見かけたとき。あれもすごく緊張した。それに、徹平君と二人で体育館に向かっている時なんかは、すごく仲良しに見えちゃって、なんていうか……」

「嫉妬しちゃったんですか?」

 少し、悪戯っぽく言ってみた。彼は歯切れ悪く、「うん、まぁね」と答えた。こうなると、ちょっとだけいじめたくなる。

「それで先輩、私たちのあとを付けてきたんだ? まんま、ストーカーみたいですね」

「いや、その、否定はできないけど……」

「ちょっとだけ引いちゃいました」

「え?」

 竜也が間の抜けた声を上げた。堪え切れず、愛生はころころ笑う。

「でも、関係ないですよ。私が先輩のこと好きだっていうのには、もう変わりないです」

 わずかな間を置いたあと、二人は笑いあった。穏やかな時が流れる。

「ちょっと疲れちゃった。座ってもいい?」

 愛生が二つ返事で返すと、竜也は柵に背を預けて座った。愛生は寄り添い、額を彼の胸に押し当てた。くすぐったい笑いが漏れた。

「先輩、まだ寝ちゃだめですよ?」

「うん、わかってるよ。まだ寝るもんか」

 耳を胸に当て、空を見た。暖かい鼓動が聞こえる。頭をなでられ、得も言えない幸福に包まれる。

「青空以外、ほとんど色が無くなっちゃいましたね」

「うん、少し物寂しい感じがするね」

 口数が減っていく。反応が心なしか鈍い。

 ――その時が近い。

「なんだか、今更になって滅びるっていう感じが薄れちゃいました」

「たしかにね。今から僕と愛生は死ぬかもしれないって言うのに、すごく幸せな気分だ」

 撫でる手が止まった。しかし、愛生に不安はない。

「やさしい滅びだね。これ以上にないくらい、やさしい滅び方だ」

 愛生は小さく、「はい」と答えた。頭を撫でていた手が重くなった。

 心音が弱まっていく。顔を上げると、竜也の眼は閉じられていた。

 彼が持っていたあらゆる色素は抜け落ち、全てが白に染まっていた。愛生は彼の寝顔の愛らしさに、微笑んだ。

 彼の胸に顔を埋め、「おやすみなさい、竜也」と小さく言った。眼を閉じれば、暖かな眠りがすぐにやってくる。

 愛生の身体も次第に色素を失っていき、やがては白磁器と同じ白さを誇っていた。

 二人の抱き合う姿。それは、今から滅ぶこの星でもっとも美しい姿だったのかもしれない。あらゆる芸術家がいくら追い求めようとも、決して辿りつけない美しさで満ちていた。

 風が吹いた。愛生たちの身体が崩れ落ちる。二人は混じり合い、一つとなる。二人だったものは、大気のおおきな流れに乗り、運ばれていった。

 それを見届けたかのように、白銀へと移り変わった世界は崩壊を始めた。木々が流れるように崩れ、吹きすさぶ風が全てをさらっていく。校舎をはじめとした建物は、粉塵を巻き上げながら盛大に崩落した。

 純白の世界からは徐々に『形』が失われていく。全ては平等に砂と化し、混ざり合う。

 煌めく白い惑星は、時の経過と共に形を変えていった。巨大な渦を巻き、太陽の光を反射させる。

 巨大な渦からはやがて、白い線が伸びていった。それは白蛇の如く、星の海を泳いだ。

 人々の想いを乗せて、どこまでも。

地球が滅ぶのを書いてみようと思って作品です。

最後の描写だけ綺麗に書けた思い出があります。

物語を少しでも楽しんでもらえたらこれ幸い、ありがたや。


なむ。

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[良い点] ヒトとゴミとを区別できないナノマシンが、青春模様も家族愛も友情も有無を言わさず消し去っていく終末感!! どいつもこいつも残り時間がなくなってから大事な告白をする展開はお約束ですね!! [気…
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