②
仕事終わりに歩く道は夕方だと言うのに随分と明るい。
そして暑い。
昼間よりましになったとは言えうだるような暑さであることに違いは無い。
蝉の忙しない鳴き声を聴きながら各家から香る夕飯の匂いにこの家はカレーか、こっちは焼き魚かと想像しながら帰り道を急ぐ。
「あれ?」
確かにいつもの道なのに、見知らぬ道のような気がして立ち止まる。
そして周囲を見回して違和感に首を捻る。
何かがおかしい。
何だろう、と言いようのない不安感に眉間に皺が寄る。
そして、気づいた。
音がしない。
あれ程うるさく泣き喚いていた蝉の鳴き声も、車の走る音も、子供が公園で駆け回るような音も、風の音すらも、何一つしない。
そしてあちらこちらの家から香っていた夕飯の匂いもしない。
そこかしこにあったはずの人の気配すら、ない。
何も無い。
いや、正確にはそこかしこからこちらを覗いているような視線を感じるがそこには何もいないし何も無い。
1本間違えただろうかと踵を返して元来た方向に歩き出すが、いくら歩いても、走っても来たはずの、降りたはずの最寄り駅がいつまで経っても辿り着かない。
そんなはずは無い。
駅から降りて10分も歩いていない距離にいたはずだ、走ればすぐに着くはずの場所へもうかれこれ30分は移動しているが一向に辿り着けない。
もうとっくに沈んでいいはずの夕陽は未だに世界を紅く染めている。
そんなはずは無い、ありえない。
逸る気持ちを落ち着けようと立ち止まって深呼吸をする。
頭の中に今朝見た記事が蘇る。
『永遠に黄昏の終わらない街』
脳裏をその言葉が駆け抜けた瞬間に鈴のような、或いは金属同士がぶつかった様な涼やかな音が静寂を打払い、続いて革靴の歩くような音が聞こえる。
背後から近づくその足音に早くなる心臓の音が鼓膜を内側から破る前に意を決して振り返る。
黒。
黒いローファーに足首までの長さのプリーツスカートの黒いセーラー服、そこに赤いスカーフが流血のように揺れて、黄昏を振り込めたような琥珀の瞳がこちらをじっと見つめている。
サイドだけ長く伸ばされた肩口ほどの髪が風に揺れている。
「んー……、迷子、かな……?」
こちらをじっと見つめる少女の顔が困ったように、あるいは悩むように歪み、しかめっ面で唸ったあとそっと首を傾げる。
そりゃあそうだ、こちとら社会人云年目、もう迷子と言うような年齢じゃない。
少女としても名称に困ったに違いない。
「あー……その、最寄り駅、分かるかな……?」
「最寄り駅?君の?」
ダメ元で聞いてみるとキョトンとした顔で首をかしげられる。
紛らわしいのは分かる、でも最寄りの駅が最寄り駅と言う駅名なのだ、仕方ない。
そう説明すれば少女はふぅん。と相槌を打って少し考えるような素振りをする。
「たぶん、近くには送ってあげられる、かな」
顎に手を当てたまま自信なさげに答える少女はお手をどうぞ。と手を差し出してきた。
手を繋ぐ、という事だろうか。
ますます黄昏様の話に似ている。
「ん?あぁ、私のことをそう呼ぶ人間もいるね」
無意識に口から零れていた言葉にキョトンとした表情で首を傾げた少女はそう言えばそんなこともあったな、と言うような様子で頷く。
「あぁ、そうだ。
名前は個人を定義する重要なものだから、ここでは話さない方がいいよ」
少女の本当の名前を聞くために自ら名乗ろうとしたらまるで考えを読んだように言葉を遮られ、変なやつに目をつけられるからね。と肩をすくめる黄昏様についさしのべられた手を取ってしまう。
「さぁ、帰ろうか」
風に乗ってどこからか漂う金木犀の香りが黄昏様の髪を揺らす。
軽やかな足取りの黄昏様に手を引かれて歩き出す。
子供の頃、親に手を引かれた日を何となく思い出す。
ぎゅっと握った手が安心させるように強く握り返される。
「大丈夫、直ぐにおうちに帰れるよ」
ふわりと笑った黄昏様の顔が夕日に柔らかく照らされる。
つられたように笑って不安を置き去りにして歩き出す。