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 誰かが泣いているような気がした。

 ひどく後悔しているような念が染み渡ってくるような一方的な深い思い。

 ただただ降り注がれる感情を浴びさせられているような感覚。

 たくさんの悲しい気持ちが伝わってきても何もすることができず受容するだけ。

 なのに何故だろう、どこかで待ち焦がれていた気がするのは。

 このためだけに待っていたような、報われたような気がするのは。

 もう思い残すことはないと心が穏やかになっていくのは。

 遠い遠い記憶が浄化されて頭の中が真っ白になっていく。



「……ではこちらにご署名をお願いします」


 アッシュブラウンの髪色の紳士とヘーゼルアイの夫人という見慣れた二人の前で見覚えのある男性が目の前で同席している。


「ああこれで雇用も増えて生活も発展するだろう。きっと領民たちも救われる」


「本当に不便だったあの地域と通じるのですから良かったわ。ね、そう思うでしょう?」


 突然話を振られ、ニコリと微笑む夫人……、お母さまだ。

 ペンを取り、書類にサインをしている紳士……、お父さまだ。


「そうですとも。これで領地は安泰ですよ」


 不敵に微笑む男性……、商人は書き終えるのを今か今かと待っているようだ。

 これは失敗する投資事業の契約。ここから子爵家没落のきっかけになる時。

 契約が成立すればのちに多額の借金を抱え、下落の一途を辿っていく分岐点。


「待って!」


 私は咄嗟にそう叫んでいた。驚いた顔をみせた両親。不安気な商人。


「……お父さまもお母さまもこの先、どうなっても後悔はない?」


「ああ、これは今できる最善のことなのだから。我々貴族は領民たちに支えられている。彼らの力があってこそ、この生活が支えられていることを忘れてはいけないよ。だから後悔などないよ」


「ええ、これは未来のあなたたちへの選択肢なの。私たちが今できるのはただ幸せになってほしいという希望だけよ」


「何が不安なのかわからないが、行わない後悔より行う後悔の方がいいと思っているよ」


「いずれあなたも迷うことがあると思うけれどその時受け入れる覚悟を持てるといいわね」


 ここで契約を阻止をすることができれば私はアーデンと出会うことはない。

 そして小説の中の描写すらない存在として何事もなく生き続けることができるのだろう。

 だけどそれでいいのだろうか? もう記憶がない時とは違っている。

 あれだけ関わってしまった後、遠目で結末を見守ることができるというのだろうか?

 肌で感じた悲惨な状況や乗り越えてきた経験、これまで感じてきた思い。

 自分だけの記憶として留めて全てを打ち消すことなどできるはずもない。

 無かったことにしたくない。例え、同じような目に遭ったとしても後悔はない。

 ……何よりもまたアーデンに会いたいのだから!


「……そうですわね。お父さま、お母さま、邪魔をして申し訳なかったわ」


 そう返した後、急に意識が遠ざかる。



 身体が熱い。熱くて熱くてしょうがない。喉がカラカラで全身が燃えるように熱くて堪らない。

 もう耐えられないと身体が悲鳴を上げ始め、鎮めるための癒しを欲していると沸き立っている。

 すると突然、口元からヒンヤリとした全身が潤うような感覚が巡ってくる。

 水分を手に入れたらしい熱帯びた身体が徐々に鎮まり、落ち着いていくのを感じる。

 そうしてまどろんだ意識の中、うっすらと見えたアメジストの瞳。

 次第にはっきりとした視界で映し出される目の前の存在。

 黒い髪も褐色の肌も紫色の瞳も知ってはいるけれど見慣れていない面立ち。

 少年の時とは違う顔立ちの大人びた青年がそこにいる。

 ……これは一体どういうこと?


「どう? アーデン。大成できたかしら?」


 状況がつかめずぼんやりとしているとノックと共に鈴を転がした声が入ってきた。

 見やればハニーブロンドの髪を纏めた大人びた美女が微笑みながら顔を覗かせる。

 その胸には御包みに巻かれた赤ちゃんのようなものを大事そうに抱えているのだった。

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