第7話 サンセット
「婚約を解消!?」
私は思わず大きな声を出した。慌てて周囲を見渡すけど、近くには誰もいない。
胸を撫で下ろしながら、今度は声を潜めてシリルに尋ねた。
「……どういう事? マージェリーと何かあったの?」
シリルは淡々と答えた。
「彼女は……マージェリーは、音楽祭の頃から僕によそよそしくなりました。それまでは彼女はいつも僕の側にいたんです。音楽祭で、彼女は僕の隣の席に座ろうとしたユーフェミアにも公正な態度を崩しませんでした。それで僕はますます彼女の事を好ましく思ったんですが……」
「ですが……?」
「……彼女はそれ以来ずっと、水色のハンカチを大事そうに持ち歩くようになったんです。明らかに彼女の好みではないハンカチです。シンプルなので、男物かもしれない……誰にもらったのか、さりげなく聞いても教えてくれないんです。そして、彼女は僕と距離を取るようになった。もし彼女に他に好きな人が出来たのなら、僕は潔く身を引こうと思っています」
「………………………………」
私の背中を、暑さのせいではない汗が伝い落ちた。
その水色のハンカチは、間違いなく私がマージェリーに渡したものだ。
彼女がシリルと距離を取っているのも、たぶん私のアドバイスのせい。ユーフェミアに怒りをぶつけるなとか、シリルを問い詰めるなとか言ったから、そういう場面を避けるために自ら距離を置く事にしたんだろう。水色のハンカチを握りしめながら!
「……シリル、あのね……」
私は慎重に言葉を選んで言った。彼らをこれ以上、混乱の渦に巻き込むような事は避けたい。
「たぶん、あなた達は……もっと話し合うべきだと思うわ。もしあなたが彼女の事を大事に思っているのなら、それを素直に伝えてあげたらいいんじゃないかしら」
「そう……でしょうか。そんな事をしたら、彼女は困るかもしれない」
整った顔を辛そうに歪めて、シリルは言った。
シリルは彼女よりも圧倒的に身分の高い第二王子で、婚約者でもある。その自分が正直な気持ちを伝えたりしたら、水色のハンカチの人物と何かあるらしきマージェリーが追い詰められてしまうのでは……と心配しているんだろう。優しい子だ。
一方、マージェリーがそれを私から受け取ったハンカチだと言わないのは、彼女の気高さゆえだろう。
その気位の高さがあるからこそユーフェミアにもぐっと耐え、今のところはトラブルを回避していられるんだろうけど。
でも、それではずっと、お互いの気持ちは伝わらない。
「ねえ、シリル。今日の夕方、一時間の自由時間があるわ。マージェリーを呼び出して、その時にあなたの素直な気持ちを伝えてあげて? あなた達は婚約者同士なんだから、お互いに相手に対して誠実でいる義務があるわ」
私は「義務」という言葉を強調して言った。
生粋の王族であり真面目なシリルにはきっと、「義務」とか「奉仕」とかいう言葉が突き刺さるはずだ。
思った通り、思案の末にシリルは頷いた。
「……わかりました」
私はほっとして、シリルが飲み干したグラスを受け取ると、彼をその場に残して救護所へと戻った。
◇
太陽が水平線に沈みビーチがオレンジ色に染まる頃、シリルとマージェリーは少し時間をずらして宿を出た。
私がそれを目にしたのは、ちょうどロビーでミア達としていたカードゲームが終わった時だった。
今は夕方の自由時間中だ。生徒も教職員も、各自で好きな事をしていて良かった。
私はさりげなく席を外すと、宿を出てこっそり彼らの後を追った。
シリルとマージェリーはひと気のない砂浜にいた。
私は木の影に身を隠し、遠くから成り行きを見守った。
二人は五分か十分くらいの間、真剣に話し込んでいた。
一日の終わりの太陽がビーチを金色に包み、彼らの表情は逆光になって見えない。
突然、シリルがマージェリーを抱き寄せ、抱きしめた。
そして、二人の顔が少しずつ近づいて――。
それが重なる直前に目を逸らして、私ははーっとため息を吐いた。見ているこっちが照れてしまう。
だけどあの様子なら、きっともう大丈夫だ。
「何してるの?」
「ひぃっ!?」
背後からいきなり声をかけられ、私は心臓が飛び出そうになった。
振り向くと、ヒューイット先生が済まなそうな顔をして立っていた。
「ごめん、そんなに驚くと思わなくて……」
「いえ、大丈夫です」
「あれ、あそこにシリル達がいる。おー……」
「しーっ!!」
私は慌ててヒューイット先生の口を塞いで木の影に引き戻した。
「もごもご……」
「あっ、すみません!」
呼吸が出来なくて苦しそうなヒューイット先生の口から、慌てて手を離す。
「ぷっはー……あー、びっくりした……そうか、カレン先生はここからあの二人を見守っていたんだね」
「……はい。以前マージェリーにアドバイスを与えた身としては、彼らのすれ違いにちょっと責任を感じていたので……」
言い訳がましくそう呟いた私に、ヒューイット先生はにっこり笑った。
「君は本当に、いつも人のために一所懸命なんだね」
「そ、そんな事ないですよ。ヒューイット先生こそ、今日もずっと生徒達と遊んでたじゃないですか」
「だって年に一度の臨海学校だからね。でも、今は違うよ。自由時間の間ぐらいは、生徒から離れて自分のしたい事をしてもいいんじゃないかと思ってるんだ」
「それは、そうですね……ヒューイット先生のしたい事って何ですか?」
興味を引かれて尋ねてみた。
ヒューイット先生が自由時間にしたい事……夕焼けを見ながら歌うとか、ギターを弾くとか、そんな感じだろうか。
彼はそれには答えず、ズボンのポケットから何かを取り出して、私に差し出した。
手のひらサイズの小さなガラスビンに、白い砂と美しい色の貝殻が詰められていて、コルクで蓋がされている。
私は思わず見とれてしまった。
「きれいですね。お土産に買ったんですか?」
「さっき、僕が砂浜で拾い集めて作ったんだ。君にあげようと思って」
「私に?」
「うん。カレン先生だけ海で遊べなかったから、せめてこれを」
胸がふわっと温かくなる。
この人はなんて優しい人なんだろう。彼が生徒達に人気なのもよく分かる。
「ありがとうございます、ヒューイット先生。大事にしますね」
お礼を言いながらも、自然に顔がほころんでしまう。
そんな私を見て、彼も嬉しそうに笑った。
「……良かった。実現できて」
「? 何がですか?」
「自由時間に僕がしたかった事だよ。君を笑顔にする事」
正面から見つめられ、そう言われた。
柄にもなく、かあっと顔が赤くなっていく。
心なしかヒューイット先生の顔も赤い気がするけど、夕暮れ時のオレンジ色と刻一刻と深さを増していく薄闇のせいで見間違いの範囲内だ。私の赤面もバレてない事を祈りたい。
「……暗くなってきましたね。そろそろ戻りましょうか」
「そうだね」
なんとなくお互いにぎくしゃくした感じで歩き出し、宿へと向かう。
隣を歩くヒューイット先生との距離が、気のせいか、いつもよりも少し近い気がした。
◇
宿に入ってすぐのロビーには、先に戻っていたらしいシリルとマージェリーが並んでソファに座り、仲良さそうに話していた。二人は私達に気付いてこちらを見た。シリルが言った。
「おかえりなさい、カレン先生、ヒューイット先生。散歩ですか?」
「そうよ。夕焼けの海がきれいだったから。あなた達も見たかしら?」
「ええ。一生忘れられないような、最高の夕焼けでした」
シリルは臆面もなくそう答えて、輝くような笑顔を浮かべた。
ロビーにいる数人の女子生徒達が彼に見とれ、ほうっとため息をついたのが聞こえた。
隣にいるマージェリーも、満ち足りた表情で婚約者を見つめていた。
私は幸せそうな恋人達にほほ笑みかけた。
「それは何よりだわ」
ロビーはなごやかな空気に包まれていた。
だけど、そう感じていたのは全員ではなかったようだ。
その時の私は気付かなかったけど、柱の影からじっと私達を見ていたユーフェミアは、たぶんなごやかとは程遠い気分だっただろうから。
そして、ヒロインの逆襲が始まった。