第5話 オーケストラ
「魔法のハンカチ……ですか?」
マージェリーは半信半疑……いや、ほとんど疑いのまなざしで私を見た。
「嘘は堂々とつくべし」が信条の私は、ここぞとばかりに自信たっぷりに言う。
「そうよ、魔法のハンカチ。これを持っていると、不思議と気持ちが落ち着くの」
半ば強引に、私はその水色のハンカチをマージェリーに押し付けた。
「いい? マージェリー。もしもあなたがユーフェミアの行動に苛立った時は、これを両手でぎゅっと握り締めるの。両手で、よ? そうすれば気持ちが落ち着いて、物事も悪い方へは行かないわ。今は辛いだろうけど、ぐっと我慢よ。決してユーフェミアに怒りをぶつけたり、シリルに彼女との事を問い詰めたりしてはいけないわ。あなたは誇り高い公爵令嬢だもの、出来るわよね? イラッとしたらこのハンカチを両手で握る。今この場で、私にそう約束してくれる?」
「……わかりました」
マージェリーは両手で持ったそのハンカチをじっと見つめて、素直にそう言った。
私はこっそり、ふうっと息を吐いた。
もちろんあれは何の変哲もないただのハンカチだ。刺繍も何もなく、むしろただの布と言っても過言じゃない。
でも、少なくともあれを握り締めていれば、マージェリーの手はユーフェミアには向かわない。不慮のケガをさせる、なんていう事態も回避できるはずだ。
「ありがとうございます……カレン先生」
そう言って私にほほ笑みかけたマージェリーの顔は、さっきよりも少しだけ、晴れやかになったようだった。
◇
そして、オーケストラの開演時間がやってきた。
本当に保健室に来てくれた学院長に内心ドキドキしながら留守番を頼み、私は音楽堂へ向かった。
マージェリーの事が心配だったけど、彼女を信じるしかない。
音楽堂のホールに入り、客席の通路を歩く。
客席は舞台に近い前半分が指定席、後ろ半分が自由席だ。
薄暗い中でも際立つシリルの形のいい銀色の頭を見つけて、私はその二列後ろの自由席に座った。
シリルの左隣はハリーで、そのさらに左にはミアが座っている。
シリルの右側には、空席が二つ分。
彼らが座っているエリアは指定席だ。
と、右側の通路からマージェリーが歩いてきた。シリルの隣に座るつもりなんだろう。私はハラハラしながら、このまま無事に彼女が座れるようにと願った。
だけど、その願いも空しく。
「あっ、シリル様! お隣、空いてますか?」
「ユーフェミア」
どこからともなく現れたユーフェミアが、シリルに声をかけた。
マージェリーがそれに気づき、急いでユーフェミアに近づく。
シリルが何か言いかけた時、開幕のベルが鳴った。
舞台の幕が音もなく上がる。
「たいへん、始まっちゃうわ!」
そう言って、ユーフェミアはシリルの隣の席に滑り込もうとした。
「待って、ユーフェミア」
遅れてやって来たマージェリーが、彼女に鋭く声をかけた。
たちまち周囲が緊張感に包まれる。
私は祈るようにマージェリーを見た。他の生徒達もあの二人に注目している。もちろんシリル達も。
マージェリーは、両手で水色のハンカチをきつく握り締めていた。
だけど、顔には上品な笑顔を浮かべて、ユーフェミアに言った。
「ごめんなさいね、シリル様の隣の席のチケットは、わたくしが持っているの。だけどわたくしの隣の席も空席のようだから、よかったらどうぞ?」
「……わぁっ、ありがとうマージェリー! そうさせてもらうわ」
ユーフェミアもにっこり笑った。
そして二人の女子生徒は、表面上は平和的に席に着いた。
舞台の上ではタキシードに身を包んだヒューイット先生が指揮台に上り、楽器を手にした生徒達の真剣なまなざしを一身に受けながら、すっとタクトを掲げた。
演奏が始まった。
◇
オーケストラ部の生徒達の演奏も、ヒューイット先生の指揮も素晴らしかった。
だけどそれより何より、私はマージェリーがユーフェミアとの対決に勝った事が嬉しかった。
さっきのあの出来事は、まぎれもなくマージェリーの勝利だ。
その証拠に、コンサートの演目がすべて終了した後、立ち上がったシリルはにこやかに隣のマージェリーに手を差し出した。
「いい演奏だったね。最後の曲なんて特に」
シリルが優しくマージェリーに話しかける。
マージェリーは彼の手を取って立ち上がりながら、美しいほほ笑みを浮かべて答えた。
「はい、本当に。最後のクレッシェンドはとても感動的でしたわ」
「そうだね。クリス先生も、あの時は神がかってるみたいだった」
「今日は指揮台から落っこちなくてよかったな」
ハリーが言うと、シリル達はどっと笑った。
私も実はヒヤヒヤしながら舞台を見ていたけど、今日のヒューイット先生は本当にマエストロといった風格があり、生徒達のオーケストラを立派に指揮して、お客様達から盛大な拍手をもらっていた。
それにしても、礼儀正しいあのシリル王子が親しげにクリス先生、と名前で呼ぶなんて、ヒューイット先生は本当に生徒に人気のある先生だ。
「ねえ、この後みんなでカフェテリアに行ってお茶しない?」
たくさんのお客達に交ざって出口へ向かいながら、ミアが明るく言った。
「お、いいね。シリルとマージェリーも行くだろ?」
ハリーが振り向く。
すぐ近くにいるのにユーフェミアを外したのは、きっと意図的にだろう。女同士のゴタゴタに口を出さない主義、とマージェリーは言っていたけど、さりげなく親友の婚約者に気を遣っているのかもしれない。
ユーフェミアが表情を消してうつむいた。
そしてマージェリーは、みんなが驚くような事を言った。
「そうね……ユーフェミア、あなたも一緒に来ない?」
シリル達も驚いていたけど、言われたユーフェミアが一番びっくりした顔をしていた。
見れば、マージェリーは今もしっかりと水色のハンカチを握っている。
本当は嫌だけど、ユーフェミアに同情して声をかけたんだろうか。いや立派な心掛けだけど、何もそこまで自分を苦しめなくてもいいような……。
ユーフェミアは嬉しそうに顔をほころばせた。
「本当に!? うれしいわ!」
そう言って胸の前で両手を合わせると、シリルとマージェリーの間にすっと入ってきて、人懐っこそうに二人に笑いかける。間合いの取り方が絶妙だ。
ミアは露骨に嫌そうな顔をした。
ハリーは驚きから立ち直ると、我関せずといった風に両手を頭の後ろで組んで、ミアと並んで歩き出した。
マージェリーも歩きながらぐっとハンカチを握り締め、社交的な笑顔を絶やさずユーフェミアの相手をしている。
シリルは軽く微笑したまま、そんな二人を見ている。
私が呆気に取られていると、彼ら五人は、いつの間にか人混みにまぎれて見えなくなってしまった。
これで全員が仲良くなってめでたしめでたし――となれば良かったんだけど、実際はそんなにうまくいくはずもなく。
次の嵐が吹き荒れたのは、前期も終わり夏休み中の、臨海学校での事だった。