【番外編】 音楽教師の日常
※ヒューイット視点の後日談です。
「カレン先生! 今いいかな?」
保健室の扉を開けて中に入ると、薬棚の前に立っていた彼女は驚いて僕を見た。
「クリ……ヒューイット先生、どうしたんですか? 明後日まで視察旅行のはずじゃあ……もしかして具合が悪くなって帰って来たとか?」
心配そうな顔で僕の額に手を当てる。その手を掴み、甲にちゅっとキスすると、彼女は慌てて言った。
「ヒューイット先生! ここは保健室ですよ!?」
「ごめん。でもどうしても君に会いたくて。急いで帰って来たんだ」
「急いで、って……外国からそんなに早く帰れるものなんですか? それに視察は?」
「ちゃんと全部終わらせてきたよ」
そう言ってにっこり笑うと、彼女もようやく安心したように笑顔を見せてくれた。
僕の妻アメリア・カレンは、とてもかわいい。
結婚を前提に付き合ってほしいと申し込み、オーケーをもらってから二年、正式に結婚してから半年が経つけど、彼女の美しさと優しさと聡明さはますます輝きを増していくようだ。
このロイヤルアカデミーの理事長であり僕の伯父でもあるパルミア国王により、僕は友好国である隣の国の王立学園へ、一ヵ月間の視察旅行を命じられた。
そこでは確かに貴族教育において先進的な取り組みがされていたし、それが一定の効果をあげているのも理解した。
だけど、いかんせん一ヵ月は長い。
王都に残してきた妻のアメリアに会いたくて仕方がなかった。
だから視察と報告書作成とあいさつ回りを済ませると、まだ向こうでのんびり観光しているロイヤルアカデミーの視察団とは別便で、出来るだけ急いで愛しい妻の元へ戻ってきたのだ。
「会いたかった、アメリア。毎日君の事ばかり考えていたよ」
握ったままの手を引き寄せ囁くと、彼女は少しはにかみながら言った。
「……私も、とても会いたかったです。ヒューイット先生」
ここは保健室だ。
愛しい妻へのキスを我慢するには、ありったけの理性を振り絞る必要があった。
◇
それから僕はマクドゥーガル学院長に会いに行った。
予定より二日早く戻ってきた僕を見ても驚きもせず、彼女は学院長室で淡々と視察の報告を受けた。
「……僕からの報告は以上です。他の項目については、視察団の帰還次第改めてお伝えします。そちらは留守中、何かありましたか?」
「いいえ、特に大きな出来事は何も。……しいて言えば、この頃風邪が流行っているようなので、あなたの奥方の調合したジンジャーティーをアカデミーの生徒と教職員へ提供するという話が持ち上がっています。体がぽかぽかと温まり、風邪の予防にもなると評判ですので」
ジンジャーティーと聞いて、僕は眉をひそめた。
一度アメリアを手伝い、ジンジャーティーに入れるための乾燥ショウガを作った事がある。
彼女が育てているショウガを庭の花壇から掘り出し、洗って土を落とし、スライスして乾燥させ、それをひたすらすり鉢ですり潰す。彼女は楽しそうにやっていたけど、ようやく出来上がった乾燥ショウガは悲しくなるほどの少量だった。
あれをアカデミーに配るほど作るとなると、僕と彼女の貴重な休日が何日潰れる事だろう。
「あー、残念です。今ちょっとうちの庭のショウガが切れてて……」
「愛妻との貴重な休日を潰したくないのですね?」
「他人の思考を読まないでください」
「心配には及びません。あなたの視察旅行中にカレン先生が既にそのジンジャーティーをたくさん作り、アカデミーに寄贈していただいております」
「それ、先に言ってくれませんか!?」
僕はかつての恩師に恨みがましく言ったが、もちろん教え子に不平を言われたところで彼女にとっては痛くも痒くもない。
ロイヤルアカデミー時代に音楽教師を志した僕を、当時担任だったマクドゥーガル先生は親身に応援してくれた。その事には感謝しているけど、無表情で人をからかうその悪癖はどうにかしてほしい。
学院長室を出ると、今度は馬車で王宮へ向かい、国王陛下に拝謁した。
いつもながら元気に王様をやっているヘンリー伯父に隣国への視察の結果を報告し、ちょうど軍務から帰って来たシリルも交えて三人で酒を飲みながら積もる話をする。
家に帰り着く頃にはもう、空高く月が光っていた。
◇
寝室の扉を、音を立てないようにそっと開ける。
意外にもアメリアはまだ起きていて、ベッドに座って本を読んでいた。
本から顔を上げ、僕を見てほほ笑む。
「おかえりなさい、クリス」
「ただいま、アメリア。遅くなってごめん」
「平気よ。伯父様はお元気だった?」
「ああ、とても元気そうだった。シリルにも会ったよ」
「本当? シリルはどうしてた?」
アメリアがぱっと瞳を輝かせる。
生徒達の話になるといつもこうだ。彼らが卒業して何年経ってもそれは変わらないんだろう。
シリルは卒業後、王国軍大尉というポストに就き、おおいに活躍している。マージェリーとはもうすぐ結婚する予定だ。
ハリーとミアはアカデミーを卒業したその日に婚姻届を出し、今はもう二人の子どもまでいる。
ユーフェミアは、結局みずからロクシー侯爵との養子縁組の解消を申し出た。今は王都で、生まれ育った孤児院の経営を手伝っているそうだ。最近、幼馴染みの商人の青年と婚約したという話を人づてに聞いた。
生徒達の話をしながら、彼女のすぐ横に座り手を握る。温かな体温を感じた。彼女が少し緊張して体を強張らせたのも。きれいな横顔がほんのりと赤く染まっている。
白衣を着て眼鏡をかけた保健室のカレン先生は、凛としてとても素敵だ。
でも僕だけに見せてくれる、髪を下ろして眼鏡を外した素顔や、照れた顔もたまらなくかわいい。
常に健康的で早寝早起きの彼女が、こんな夜中まで起きて僕を待っていてくれた事が嬉しかった。
眠いに違いないのに、熱心にシリルの話を続けている。彼はもちろん僕にとっても大事な従弟だけど、今だけは他の男の話をしたい気分じゃない。
僕が熱っぽく見つめている事に気付くと、アメリアは口を閉じた。
そのさらさらした黒髪をそっと撫でる。
「もう寝てるかと思った」
「……子どもじゃないのよ?」
「知っているよ」
もちろん彼女は子どもなんかじゃない。
僕はアメリアの柔らかな唇に唇を重ねた。
そのままゆっくりとベッドに押し倒し、不在の空白を埋めるように、互いを愛で満たし合った。
◇
翌日は土曜日だった。
朝、目を覚ますと、隣にアメリアがいない。
僕ががばっと跳ね起きたその時、既にきちんと着替えを済ませた彼女が寝室に戻ってきた。
手には、グラスが二つ載った銀のトレー。
「おはよう、アメリア。それは?」
彼女はトレーをサイドテーブルに置き、ベッドに座りながら僕にグラスの一つを手渡した。
「果物のジュースよ。視察旅行の後で、少し疲れているみたいだったから」
申し訳ないとは思う。でも早起きして作ってくれたジュースより何より、朝の白い光の中で僕に話しかけてくるアメリアから目が離せない。
ボタンダウンのワンピースを着て長い髪を片側に流し、僕の目の前に座ってほほ笑む彼女は、息を呑むほどきれいだった。
「君だって疲れてるだろう? ジンジャーティーを山ほど作らされたって学院長に聞いたけど」
「あ、あれは…………あなたがいなくて寂しかったから、気を紛らわせたくて……」
「……アメリア……」
「……早く帰って来てくれて嬉しかった。ありがとう、クリス」
僕はグラスを勢いよくトレーに戻した。
びくっと驚いたアメリアを抱き寄せて、キスの雨を降らせる。
そのまま彼女をそっとベッドに横たわらせて、ワンピースのボタンを一つずつ外し始めた。
「ちょっ、クリス……!?」
「……ねえ、アメリア。そのジュースを飲むのは、もう少し疲れてからでもいいかい?」
赤い耳朶に口づけるように囁く。
アメリアはしばらく困った顔をしていたけど、やがてためらいがちに僕の背中に両腕を回し、頷いた。
愛する妻と過ごす幸せな休日は、まだ始まったばかりだ。
これでおしまいです。
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