第1話 保健室
そういえば私、前世でこの世界が舞台のゲームをプレイしてた。
その事に気付いたのは、なんの変哲もない、うららかな春の昼下がりだった。
ここはパルミア王国の王都にあるロイヤルアカデミー。
王国各地からやんごとなき王侯貴族の子女が集い、教養を学び、貴族社会の人間関係を構築する学び舎だ。
数日前に入学式も終わり、保健室の窓からは、ちらちらと春の光に舞い散るプルメラという木の花びらがよく見える。
日本の桜に似たその花はとても美しく、その恋愛シミュレーションゲームのオープニングムービーにも使われていた。
で、オープニングムービーの中で流れてくるワンシーンには、ここ、まさにこの保健室の窓から見えるあのプルメラの花吹雪と、保健室の先生――つまり「私」の、笑顔のCG映像があったんだ。
私は自分のデスクに両手をついて、一度深呼吸をした。すーはー。そして立ち上がり、壁に取り付けてある楕円形の鏡を覗き込んだ。
鏡の中にはもちろん、ゲームの中の保健室の先生が映っている。
二十四歳独身の下位貴族出身女性、アメリア・カレンの、白衣を着た姿が。
まっすぐな長い黒髪を後ろで一つに結び、赤いフレームの度の強い眼鏡の中から、気の強そうな灰色の目がじっとこちらを見ている。
白いほっぺをむぎゅっとつねってみても、両耳を引っ張っても、痛いだけで目が覚める様子はない。
「………………ま、いっか」
肩の力を抜いて呟き、私は再びデスクに戻りイスに座った。
前世でも私は高校教師だった。
天涯孤独だったけど奨学金で大学を出て、新卒二年目で担任も持っていて、テスト期間中に信号無視のトラックにはねられて死んだ。
死の直前に私の脳裏をよぎったのは「生徒たちの答案の丸付け、まだ終わってない……」だった。
おそらくそれが心残り過ぎて、転生先でもアカデミーの先生になってしまったんだろう。ヒロインでも悪役令嬢でもなく。真面目か。
でも、それならそれで好都合だった。
このアカデミーにおいても私、アメリア・カレンは養護教諭として着任して二年目で、年齢もほぼ前世の享年と変わらない。
生徒という立場じゃないから恋愛関係のゴタゴタにも巻き込まれなさそうだし、手に職もある。よし、なんの問題もなし!
私は大きく伸びをして、さっき確認していた配布書類の草稿をまたのんびりと読み始めた。
◇
「カレン先生~っ!! 聞いてください~っ!!」
五月も中旬になり、新緑の爽やかな風が保健室に吹き込む頃。
騒々しく保健室に駆け込んできたのは、ミア・ローエンシュタインだった。
入学間もない一回生であり、ピンクのボブヘアとつぶらな茶色の瞳がかわいらしい伯爵令嬢だ。
ミアは入ってくるなり、デスクで書き物をしていた私の膝にわっと泣き崩れた。
「どうしたの、ミア? どこか具合でも悪いの?」
そう聞いてはみたけど、十中八九そうじゃない予感はしていた。
案の定、ミアは涙に濡れた目で私を見上げ、早口でまくし立てた。
「違います!! ユーフェミアがっ!! 彼女、昨日も今日も私の婚約者のハリー様に色目を使って、しかも羽ペンを忘れたとか言ってハリー様のを借りてたんですよ! 信じられない、そんなもの、侍女に購買で買ってこさせればいいのに!」
「まあまあ、落ち着いて……ハリーがユーフェミアに羽ペンを貸してあげたのが気に入らないのね?」
「それだけじゃないんです! ユーフェミアったら、返す時にハリー様に紙切れに手紙を書いて一緒に渡してたんです! 丸っこい文字で、変な動物の絵を描いたりして……誰も読めないような変なサインまで入れて……ハリー様ったらそれを見てほほ笑んだりして……ああもう、腹が立ちます~っ!!」
ミアはかわいい顔に青筋を立てて、私のデスクをばんばんばん、と思い切り叩いた。学校の備品を壊さないでほしい。書きかけの書類は既に脇へ避難させた。
私は立ち上がり、ティーポットに入っているまだ温かい紅茶を注いで砂糖を入れ、ミアの前に置いた。
「どうぞ。気分が落ち着くわ」
「カレン先生~っ、ありがとうございます」
ミアは遠慮なくイスに座って、湯気の立つ紅茶を飲んだ。
「……庶民的な紅茶でも、こういう時はおいしく感じますね」
「そ、そうね」
微妙にストレートな物言いに苦笑する。ロイヤルアカデミーといえど教職員用に茶葉なんて支給されず、私が自宅から持ってきているのは市場で叩き売りされていた安物だ。
ミアは伯爵家の一人娘で、両親はおそろしく裕福だ。常に最高級品を与えられ、蝶よ花よと大事に育てられたんだろう。
そして彼女の婚約者ハリー・ギャラガーは、更に高貴かつ富豪の公爵家の跡取りであり、しかも代々続く宰相家でもある。名家中の名家だ。
だけど、ハリー自身はそんな出自を嫌ってか、アカデミーに入ってもふらふらと遊び歩いている。
頭は悪くなさそうなのに、成績も中の下。
長身で赤毛でタレ目のハンサムなのをいい事に、入学して間もないアカデミー一回生なのに、既にいろんな令嬢達と浮名を流している。
これじゃあ婚約者のミアも心が休まらないだろう。もしユーフェミアという存在が現れなかったとしても、だ。
――そう。ユーフェミア・ロクシーこそが、あのゲームのヒロインなのだ。
あのゲームの攻略対象には、全員婚約者がいる。
それをものともせずに、ヒロインであるユーフェミア・ロクシーは男性陣に近付き、無邪気にたらしこんで、婚約者である令嬢達の嘆きや反撃やクレームにも負けず、自分の気持ちを貫き通すんだ。
そして、嫉妬にかられた令嬢達は「悪役令嬢」と化していく。
私は思わず、深いため息をついた。
自分は生徒じゃないから恋愛関係のゴタゴタには巻き込まれないで済むと思ったのに、まさかこういう形で関わる事になるとは……。
先が思いやられて、私もカップに紅茶を注いで飲んだ。こっそり棚に隠しているブランデーでも垂らしたかったけど、さすがに職務中に教師が酒を飲むわけにはいかない。
ミアはさっきよりも少しだけ落ち着いた様子で、私を見上げた。
「カレン先生……私、どうしたらいいんでしょうか……?」
「私は恋愛の専門家じゃないわよ。でも、そうねえ……」
はっきり言って前世でも今世でも、私に恋愛経験はほとんどない。
だけど涙目で私を見上げ、頼ってくるかわいい生徒には、なんとかして力になってあげたいと思う。
私は腕組みして目を閉じ、必死にゲーム内情報を思い出してみた。
「……ハリーは、公爵家で宰相家なんていうものすごい名門の子息でしょう? 重圧もあるだろうし、普段は息抜きしたいんじゃないかしら」
「そう……かもしれないですね」
「だからあなたはやきもちなんて焼かずに、その明るい笑顔でハリーを和ませてあげればいいんじゃない? そうね、時々カフェや海辺なんかに誘ってみたら? きっと喜ぶと思うわ」
「……はい! そうしてみます!」
ミアは顔を輝かせて帰って行った。
ハリーは確かカフェや海辺に誘うと好感度がアップしたはずだ。これでなんとか上手くいけばいいけど……。
私は紅茶のカップを片付け、書きかけの書類に戻った。
◇
「カレン先生! ごめん、ちょっといいかな?」
次に保健室に飛び込んできたのは、私の同僚で一年先輩の音楽教師、クリス・ヒューイット先生だ。
茶色い髪にキャラメル色の瞳の気さくな先生で、美形だらけのこのアカデミーにあって、ほどほどにハンサムな所に逆に好感が持てる。もちろん私と同様、ゲームではモブキャラだ。
「どうしたんですか? ヒューイット先生」
「生徒のクラリネットのリードを削ってたら、指を切っちゃって……」
「わかりました。座ってください」
そう言って、私はてきぱきと処置を始めた。
ミアの話を聞いて少なからず先行きに不安を感じていた私は、普段通りに無心にケガの処置をする事で心の落ち着きを取り戻していった。
止血して、薬を塗り、丁寧に包帯を巻く。
「……はい、出来ました」
「手際がいいね。おかげで助かったよ」
ほっとした表情のヒューイット先生を見て、私はこの仕事のやりがいを改めて感じた。
転生先がヒロインでも悪役令嬢でもなかったのは不幸中の幸いだ。
私は保健室の先生だ。生徒と教職員の心身の健康を守っていくのが私の役目。その仕事に集中しよう。
患者を安心させるための笑みを浮かべ、ヒューイット先生に優しく話しかける。
「早く治るといいですね」
「ありがとう、カレン先生」
ヒューイット先生も笑顔で礼を言うと、保健室を後にした。
だけど、ミアの一件が氷山の一角に過ぎなかったと私が知るのは、それから間もなくの事だった。