#94 宿屋での一時
領主からの使いを迎えたのは太陽が頂点を少し過ぎた頃。
朝に一度訪ねてきたようだけど、誰も起きる気配が無かったので出直したと言う。
悪い事をしたと思うけれど、疲れた身体は眠りを欲していた為起き上がれなかった。
お姉ちゃんも同じで、起きた時に太陽が頂点にあって驚いていた。
「こんなにも寝たのは初めてね」
そう言って笑うお姉ちゃんと共に私も笑いながら頷いた。
朝食と言う名の昼食を宿の食堂で頂こうとネムロスさんの所へ向かうと、食堂に居たようで呼び止められ席を同じくした。
昨晩取った食事では満足していないのか一晩経ったからなのか、お腹はご飯を要求してきた。
前もって注文していたらしく、給仕の人に合図を送ると直ぐに食事が出てきたのだけれども、丁度領主の使いが来て今に至る。
よく見知った顔、使いとしてきたのはステルさんであった。
三人で少しずつ食べられるように頼んだ料理は多くないとはいえ、楽しみにしていたご飯がお預けになるかと思ったけれど杞憂に終わった。
「お食事中申し訳ありません。私の事は気にせず、まずはお食事をお楽しみください」
「そうさせて貰おう。流石に朝食を摂らずに寝入ってしまったのでな、腹は減っている」
「目の前にある御馳走をお預けかと思ったわ」
お姉ちゃんも同じことを考えていた様で、少し笑ってしまった。
用意されたご飯は少し硬めのパンと野菜汁。宿で出せる一番安い食事。
節約の為なのだろうけれど量は多い。おまけしてくれたのか、頼んだのかは分からないけれど、お腹一杯に食べられるのは嬉しい。
早速とパンに手を伸ばす。一口分に千切り野菜汁に浸して食べる。
硬く味気ないパンが、スープを吸って柔らかくなり塩気も帯びて美味しくなった。
おいしい……本当に美味しい。
カビの生えたパン、泥の味がする濁水。其れすらも食べられれば良い方だった。
空腹に耐えられず雑草を食べてお腹を壊したこともある。
いつも空腹を抱えお姉ちゃんと二人、貧民街の片隅で蹲り震えていた。
其れが今までの街での暮らし。その日生き延びた事に、ただ落胆していた。
美味しいご飯と言うのは生きる為の活力なのだと、ネムロスさんたちと旅をするのは何かから逃げるのではなく、何かに向って前に進む事なのだと知る事が出来た。
だから食べる事に遠慮をしていては迷惑をかけてしまう。動けなくなるまで食べるのは問題だろうけれど、今目の前にあるご飯を誰かに譲る事はしなくて良いのだと思う。
そう……其れがお姉ちゃんであったとしても。
パンは一つの大皿に盛られている。お皿の上に残った最後のパン。手にしたパンを早く食べて手に取る。そうすれば食べる権利は私のものになる。
横目でお姉ちゃんの方を見ると、視線が合った。どうやら同じことを考え要る様で、急いでお腹の中へと詰め込んでいるのが分かる。
負けじと私も懸命にお腹へと入れてゆく。そして最後のパンに手を伸ばしたのはお姉ちゃんと同時であった。
お互いにいつでもパンを取れる位置で手が止まり睨み合う。私が食べると無言の圧力をかける。
仕掛け合う機会を伺いつつ睨み合っていると、横から伸びてきた手にパンが攫われた。
「あぅ」
思わず変な声が出てしまったが、パンを攫った手の主はネムロスさんだった。
少し恥ずかしい姿を晒してしまった。手を引っ込めながらお姉ちゃんを見ると、私と同じように恥ずかしがっているのか俯いていた。
まだ少しお腹は空いているけれど、大皿に盛られたパンは早い者勝ち。横から取っていったとは言え其れでも手にしたのはネムロスさん。
残念だけど諦めるしかない。だけど私のお皿にパンが置かれた。
顔を上げると半分に千切ってお皿に置いてくれたのはネムロスさん。もう半分はお姉ちゃんのお皿に置かれた。
「ありがと」
「ありがとうです」
「なに、構わぬよ」
今もそう、自分のご飯を私たちに分けてくれる。申し訳ないと思いながらもパンに延びる手を引っ込めることが出来ない。
まだ残っている野菜汁へ浸し食べようとした所。
「此れ、追加分です」
宿のお姉さんが持って来てくれたのは焼き立てのパン。
一瞬思考が止まる。追加があるとは聞いていない。ネムロスさんの手がゆっくりと伸び、そして口元が笑っていた。
そして気が付いた。此の一つをお姉ちゃんに譲っていれば後から来るパンを手に取れたのでは。ネムロスさんには悪いけれどお姉ちゃんと二人で一つずつ分け合えたのではないかと。
だけれど根本的に間違っている。食事におけるお金を出したのはネムロスさんであり、一番に食べるべきはネムロスさんだ。
私たちはおこぼれに預かっているしかなく。先ほどまで美味しかったパンと野菜汁が、少し味が無くなった気がした。
「パンを二つ追加で頼む」
「はい、ありがとうございます」
一瞬聞き間違えたのかな。野菜汁に落ちていた視線がネムロスさんへと向いてしまった。
「えっ……」
「まだ足りぬみたいなので頼んだのだが、余計であったか」
「いえ、ありがとうです」
「何か、気を遣わせたみたいね。遠慮なく頂くわ」
お姉ちゃんが手にしたパンを食べ終えると程なく届く小麦の香りが漂う新しいパン。早速とばかりに手に伸ばしてゆく。
本当に食べていいのかとネムロスさんの顔を伺うと、不思議そうな顔してから。
「食べ盛りが遠慮をしては大きくは成れぬよ」
うん、少し気配りが足りないかな。私は十分に大きくなっていると思います。
だけど彼の気遣いが嬉しくて。
「頂きます」
手にしたパンはまだ暖かくて、焼き立ての良い香りが鼻腔をくすぐる。
まだ柔らかいパンは心地良い音を立てながら千切れる。ほんのりと湯気が立ち上り、小麦の香りを一瞬強く香り、そしてすぐに霧散した。
暖かさの残るパンを野菜汁へ浸し頬張ると、冷めた野菜汁がほんのり温かく中に入っている野菜の味を強めてくれる。
追加のパンも野菜汁も机の上から消えた後、一息だけ入れた後。
「さて、待たせてしまったな。話を聞こうか」
「その前に、もう一方の姿が見えられませんが、どちらへおいでなのでしょうか」
「フォスレスは街を見てくると言って、朝から出かけている」
「お一人で? 大丈夫なのですかと、心配するのは杞憂ですね」
「そうやも知れぬが、其れでも心配をして悪い事では無いと思うぞ」
「そうですね。失礼を申しました」
「気にするな。其れで領主からは何と」
「はい、此度紹介状の件ですが要求を叶えることは出来ませんが別の方に取り次ぐ事は出来ます。ですが今は難しいと伝言を頂いています」
「理由を聞いても」
「はい、例の賊を捕らえるためです」
「やはり……其の様な所か」
「今も対応に追われ、お会いすることも難しい状況でして」
「しばらくは此処で足止めと言う事か。其れは良いのだが、問題が一つある」
「お聞きしても」
「金が無い。数日は此の宿に居るが、工面せねば壁の外となる」
話を聞いて不安と罪悪感を募らせてしまった。ご飯を一杯たべてしまった、もっと安い部屋があったのでは。
私たちが居ることで余計にかかるのであればどうすればいいのだろうか。
「あ、あの……」
「獣を狩る事は出来ないの」
お姉ちゃんだ。お姉ちゃんが提案したけれど。
「狩る事は出来るが……」
「何処かに卸す事は出来ないでしょう」
「何故」
「端的に申しますに、何処の誰かも知れない人から食料を手渡されたところで受け取られますでしょうか」
受け取らない。何が仕込まれているのか怪しいものはない。睡眠薬や痺れ薬で動けなくなったところを奴隷商に売られるのであれば良い方、最悪は毒など盛られ殺される事になるかもしれない。
自分たちでそう思うのだから、買い手の方も同じことを思うはず。
「ご推察の通りです。自分たちの分を狩るだけであれば、野生の動物など誰のものでもありませんので問題は無いでしょうが」
「売り買いに信用と信頼か」
「左様にございます。組合には専属の狩猟を行う人が居られますので、他の事をお勧めいたします」
「他に仕事はあれど実績も必要……か」
「一つ、あまりお勧めは出来ませんが、身元の保証は不必要、日雇いで給金も良く依頼元も信頼のおけるお仕事があります」
少し意外。其の様なお仕事があるのにお勧めできない理由は何だろう
「俺も一つ心当たりはある。大抵の街には常に募集されているな。主に子供の小遣い稼ぎにも充てられる汚れ仕事であろう」
「よくご存じで。此の街では街のごみ拾いなどが子供へ割り当てられています。基本に歩合制ではありますが、宿代に少しですが得られるかと思います」
「良い条件ではあるが、さて……どうしたものか」
「状況が状況ですので思う処はあるでしょうから、声を掛けて頂ければいつでもご紹介を致します。」
「そうだな、其の時は頼む」
「では、お言葉もお伝え致しましたので何かお聞きいたしたいことがあれば伺います」
「領主様との伝令はステルが取り成すのか」
「はい、ジョクラトル様のご厚意により今暫くは御厄介になる予定です。其の間の連絡の中継ぎをさせていただく事に成りました」
「連絡はどの様につければ良い」
「此れを」
ステルさんから差し出されたのは書簡。羊皮紙と思われる書簡は丸めており何が書いているかは分からない。
最も文字の読み書きなど少ししか出来ないから、読めるのかと聞かれると答える事が出来ないのだけれども。
ネムロスさんは読めるのか、書簡を広げると文字を目で追ってゆく。
「文字、読めるのですか」
「あぁ、孤児院は文字の読み書きも教えられていたからな。貴族が使うような言い回しは流石に無理だが、此れぐらいは読める。つまり各要所へ持って行けば伝言を届けてくれる様だ」
「はい、此れで私との連絡は取れるかと思います」
「ありがたく受け取っておこう」
「其れと、路銀に不安をお持ちの様で、思ったのですが路銀自体はあるのでしょうか」
「ある事はある。ステルが思っている通りだ」
路銀があるのに少ないとは……どういう事だろう。
「其れってどういう意味なの。結局のところあるの? ないの?」
「この国で発行している貨幣では無い、と言う事でしょう」
お金はお金、ではないのか。
「俺が持っているのはフィニス国発行硬貨だな。アルティフィキウ厶国発行の硬貨は持ち合わせていない。使えないことは無いが、換金の手数料として五分から十分程余計にかかる」
「宿はどの様に」
「流石に疲れていたのでな、言われるまま支払ってしまった。事情がどうであれ気を付けねばならぬと思っている」
「でしたならば此方で立て替え致しましょう。宜しければ両替も致しましょう」
「良いのか、此方としては助かるが」
「貴方がたにはお嬢様を助けて頂きました恩があります。此れで少しでもお返しできるのであれば、此れに越したことはありません」
「助かる、其の言葉に甘えるとしよう」
「是非」
口を挟むことも出来ず話が進んで行く。自分たちの話なのだろうか、其れとも関係の無い話。疎外感だけが胸の中に去来し心が沈んで行く。
温かなパンを食べさせてくれた。でもお金が無いなら食べない方が良かったのか。
旅の終点は今のところない。何処まで行けば終わるのか、分かっていれば必要なお金を算出出来たかもしれないけど、出来ないのであれば消費を抑えるか稼ぐしかない。
そして今のところ消費ばかりしている。どこかでお金を稼がなければ尽きるのは明白。
其の為のお仕事であれば。
「あの、お仕事でしたら私もお手伝いいたします」
一様に視線が集まる。
「申し出は嬉しいが、さてそれもどうしたものか。一度フォスレスと相談する必要がある」
働く事は駄目なのだろうか。少しでも働けれるのであれば貢献できると思ったのだけど。
「普段であればステルの紹介で信用も出来ようが、問題は傭兵の事だな。二人であったとしても街を歩くのは止した方が良いだろう」
傭兵団、街に入ったからと言って安全ではない事を指摘された。
迂闊に動けばどうなるか、どの様な行動に出るのか予想できない以上は、まだ安全と思われる宿の中で籠っていることが良いのだろうけど。
「懐の事も心配せねばならぬが、傭兵の動きについても気を付けねばなるまい。此処にいる三人だけで決めてしまっては、足並みを乱してしまうだけだからな」
フォスレスさんは何処へ行ったのだろうか。ネムロスさんは心配していないようだけれども、此のままでは途方に暮れるだけになってしまう。
「ステルよ、今日の所は宿で大人しくして居ようと思う。明日以降の事はまた決めるとして、仕事の斡旋の時は力をお借りしよう」
「いつでもご連絡いただければお力をお貸しする事に厭いません」
最後に別れの言葉を交わし会釈して去っていった。
「さて、そう言う訳でな、街へ出かけたい気持ちはあるだろうが宿でゆっくりしてはくれまいか」
「そう言う事なら仕方ないわね。一つだけ聞かせて」
「答えられることであれば」
「先程のお仕事ってなに」
結局聞きそびれたお仕事、紹介状もなく働けるとあって私も気になっていた。
だけどネムロスさんは言いにくそうな顔をしながら。
「街の便所掃除だ」
成程、言い難い理由が分かった。お姉ちゃんも顔を引きつらせている。
「依頼元は領主となる故、払いを渋る事も無かろうが……」
「其れ以上は結構よ。教えてくれてありがと。まだ寝足りないから部屋で休憩させてもらうわ。リア、戻るわよ」
「あ、うん。ネムロスさん、またです」
「あぁ、フォスレスが帰ってきたら知らせる」
まだ少し話をしたい事がある様な気もしたけれど、今日の所は此処までみたい。
頭を下げてお姉ちゃんの後を追っていった。
二人を見送り、ステルも帰っていった。
食堂の一角で食べ終えたのにも関わらず席を占拠し営業妨害しているネムロス。店員に少々睨まれてはいるがどこ吹く風とばかりに気にした素振りは無く。ただ外に通ずる扉へと目を向けている。
特に何かあるわけではない。
正確には時折人が出入りしている。しかし一瞥もせず、視線は扉なのか外なのか定まらない先と共に溜息が漏れでている。
二人の手前、不安な姿を見せる事は出来ないが、やはり一人になると不安が顔に出てくるのを抑える事が出来ぬか。
何をしているのかは分かっている。しかし待つしかない者達は不安だけが募る。
此れが大事な局面であればあるほど、大きな不安が圧し掛かり耐えられず潰れてしまうやもしれぬ。
押し潰されぬ強い心を持たせるためにどうすれば良いか、其れは彼女らの未来にとっても大きな力となるのは確実。
時間は掛かるだろうが、まずは自信を付けさせるところから考えるしかないか。
どうやらフォスレスはまだ時間が掛かるらしい。
宿はまだ安全とは言えるが、何処まで安全なのか。
中々気が抜けぬよな。
昼食時の書き入れ時は過ぎているとはいえ、何時までも場所を占領していては迷惑だろう。
席から立ち上がり割り当てられた寝床へと向かう。
扉の外からの視線に注意を払いながら。
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