表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/6

乙女の反抗声明 後編

 午後三時。瞳子はこっそりと下宿先へと荷物を取りに来た。四時限目? ――大事件が起きたから、エスケイプだ。佐々さんに見つかる前にめぼしい荷物を持ち出しておかなくちゃ。見つかったら面倒なことになる。


 玄関のドアには鍵がかかっていた。佐々さんはまだ大学にいるらしい。遠慮なく自分の持つ鍵で中に入る。まっすぐに寝室に向かった。


 佐々さんと瞳子は二人で住んでいるため、ほかの下宿生よりもちょっとリッチな間取りの部屋を借りている。トイレとお風呂、リビングと寝室はそれぞれ別で、寝室には大きな衝立を入れて互いのテリトリーを確保していた。


 瞳子は壁の収納スペースからパステルピンクのトランクを引っ張り出す。元は買ったトランクに自分で薄茶のベルトを二本巻いて、フリルを付けたもので、東京に遊びに行くときにいつも重宝している。その中に着替えや化粧品、アクセサリーなどの〈生活必需品〉を詰めていく。最終的にトランクが爆発しかけるところまで詰め込んで、あとは紙袋の中に。乙女の準備は色々大変なのだ。


 一通り終えたところでふとベッド脇のコルク板を見た。ピンで止めたイルカの形をした水晶のネックレスを手に取る。


 佐々さんが大学進学のために家を出ていく時、気まぐれに瞳子に渡したものだった。イルカの大きさが不自然なほどに大きかったから一度も付けずに放置していた。大方、「大きい割に値段が安い!」とでも思って衝動的に買った後で後悔し、瞳子に押し付けたのだろう。


 だから佐々さんにはセンスがないんだ、と呟いて、ネックレスをコルク板に戻す。


 玄関から出たところで佐々さんに出くわした。きゅうっと佐々さんの太目の眉が寄り、細目を作る。瞳子を馬鹿にするように、


「何してるの。今日は帰らないんじゃなかったっけ?」


 と、挑発してきた。瞳子は引いてきたトランクを前に出した。見せつけるように。


「帰らないよ? それどころか、しばらく帰らないつもり。心配しないで。ちゃんとやるから。あたし、佐々さんみたいに真面目一辺倒な堅物の、おかめモンスターじゃないもん」

「あんた、前からそんなことを思っていたわけ。姉を一体何なんだと……」


 続きを飲み込んだ佐々さんは声をひそめた。


「父さんと母さんには何て言うの」

「佐々さんがチクらなければ何でもないでしょ」


 実家にいる両親とこれまでも頻繁に連絡を取っていたわけでもない。報告でもしない限り何も気づかれない。今頃はのほほんと夫婦二人で緑茶をすすっていることだろう。喧嘩が絶えない娘二人から解放されているはずだから。


「じゃあチクるよ」

「馬鹿じゃないの。佐々さん、何もわかってないじゃん。それは何の当てつけ? あたしさ、以前からずっと佐々さんに苛々し続けていたんだけど。佐々さんは色々とあたしに干渉してくるけどさぁ……」


 それは余計なお世話ってやつなんだ。

 佐々さんに言ってやればすっきりした。瞳子にだって言えた。簡単なことだった!


 すれ違った時の佐々さんの顔は見物だった。何にもない。空っぽ。今度こそ佐々さんの心にも響いたはず。しばらく反省していればいいのだ。


「緊急の連絡の時ぐらいは電話に出てあげるから。ちゃんと一人で暮らしていてね」


 ここ最近、ほとんどの家事をこなしていた瞳子がいなくなれば、きっと佐々さんは困る。片付けなどはまったく得意でない人だから。瞳子のありがたみを感じて日々を生きたまえ。


「佐々さん、お元気で」

「ちょっと、瞳子!」


 怒った時だけ妹扱いをする横暴な姉をさっさと後にする。

 アパートの一階に下り、大通りに出たところで黒塗りの高級車が止まっていた。出てきたスキンヘッドの男性が頭を下げる。


「花村さま。こちらに」


 開けられた後部座席のドア。お嬢様よろしく腰から入る。

 奥にはすでに三宮スズが美少女マネキンのように伏し目がちに座っている。膝には変な形の風呂敷包み。どうやっているのか瞳子にはわからないが、器用にねじりを加えたりしてかさばる荷物をまとめているようだった。


「ごめんなさい、スズちゃん。お待たせしてしまったみたいだから」

「……こちらも今来たばかり。お姉さんとは話できた?」

「あんな人、知らない」


 エンジン音とともに車が発進する。

 瞳子、と呼び止める声はもう聞こえない。

返答がない空間で気まずさを覚えてきた瞳子は、あ、そうそう、と話題を変えた。


「……ねえ、スズちゃんってすごく古風な匂いがする」


 隣ににじり寄って鼻を近づけると、やっぱりそうだった。香水とは違う『大和撫子』な匂い。さすが『大和撫子ちゃん』と感心する。


 スズは返事の代わりに帯と着物の間から口が閉じられた小さな袋を取り出して、自分の鼻に近づける。それからすぐに瞳子の鼻先にも。


「……これ?」


 小さく首を傾げる。さらさらっと、夜空の星のように艶めく黒髪。

 惚けていた瞳子は慌てて肯定した。そう、それ!


「匂い袋だったんだぁ。いいねぇ、そういうの」


 ちりん、と匂い袋につけた小さな鈴が鳴る。気づけば瞳子の手のひらに匂い袋が乗っていた。


「……あげる」

「え?」


 瞳子が聞き返そうとした時には本人は青白い顔を正面に向けている。


 瞳子は戸惑った。確かに内心、これ可愛いな、くれないかな、という下心はあった。でもこんなにあっけなくくれるなんて。逆に罪悪感が湧いてくる。アイスを買ってきても一口たりともくれない佐々さんがこう言ったのならば遠慮なく分捕ってやるのに。これが金持ちの鷹揚さというやつなのだろうか。瞳子の周囲に金持ちがいないからわからない。


 瞳子はもう一度だけ匂い袋を鼻に近づけた。彼女はお香に詳しくないから何の香りがわからなかった。


 だからこれは瞳子にとって「三宮スズ」の香りになったのだ。



 結論を言えば、三宮スズは瞳子の予想以上の金持ちだった。

 向かったのは名古屋の一等地に構えるシックな外観の九階建ての高級マンション。無口なスズお嬢様の代わりに運転手の田畑さんが話すには、その高級マンションのオーナーもそのお嬢様で、最上階すべてが彼女の居住空間になっているらしい。


 周囲の街並みからしてすでに会社役員や医者、弁護士レベルの人々がごろごろ住んでいそうなぐらいだったのに、三宮スズが住むマンションはさらに敷地面積にも余裕がある。都会なのに緑の小道まで舗装されているし、エントランスの大きさが高級ホテルなみ。


 なるほど瞳子が突然「泊めて」とお願いしても「いいよ」と言ってくれるわけだった。車を出たところで首が痛くなるぐらいにマンションを見上げながら納得する。


「……ナオミ」


 先に車から降りていたスズの視線が一点に注がれた。自動ドアから出てきたのは、ハリウッド女優にいそうな西洋美女だった。白を基調に黒い花のような柄が入った懐古趣味なワンピースに、フリルの入ったエプロン。颯爽と動く黒いブーツ。薄茶の髪はひっつめて白いキャップの中に。


 瞳子は息を呑む。胸がどきどきと波打った。否応なしに瞳子の「おしゃれ心」がくすぐられる。


 ナオミと呼ばれた彼女は瞳子を一瞥して微笑むと、今度はスズに向かっておかえりなさいませ、スズお嬢様、と一礼した。


 瞳子は生まれて初めてカーテシーというものを見た。海外ドラマやマンガで何度か見たことがあったが、その女優や絵の中の王女さまよりも何倍も優雅な仕草だ。


 まるで自分が二十世紀初めのイギリス――いや、『お嬢様』のことを考えれば明治や大正時代の光景に入り込んでしまったよう。


「スズさん。この荷物は持って上がっておきますか?」


 スキンヘッドの運転手の問いにスズはやや考えたあとで小さく首を振る。


「……もういいわ。田畑さんは帰って」

「かしこまりました。ではコンシェルジュに一言告げてから帰ります。ではまた明日、同じ時間にお迎えに上がります」

「うん」


 小走りで運転手が自動ドアの向こうに消えていく。

 この間にナオミはスズから風呂敷包みを受け取っていた。瞳子は後部座席に持ち込んでいた紙袋も車から出る時に運転手に言われるがままに預けてしまっていた。スズと瞳子はどちらも手ぶらになった。


「ではスズお嬢様に瞳子さまも。そろそろ上に参りましょう」


 ここでナオミは思い出したように包みを抱えたまま、瞳子に向き直り目礼する。


「申し遅れました。私はスズお嬢様のメイドをしております、ナオミと申します。瞳子さまの滞在中のお世話をさせていただきます」


 麗しい顔二つ。瞳子はくらくらと眩暈がした。方向性は真逆だが、とんでもなく美しい『お嬢様』と『メイド』。しかもメイドさんの方には「瞳子さま」などと言われてしまった。


 瞳子さま、瞳子さま、瞳子さま……。リフレイン。

 「さま」付けなんて早々されたことがない瞳子には耐性がなかった。


 すごい。世界は輝きに満ちている。瞳子は思わず鼻を押さえながらそう確信した。尊すぎて鼻血が出そう。



 どうぞ、とメイドに促され、最上階に入って真っ先に通されたのは恐ろしく広いリビング。住人の趣味を反映した和室かと思いきや、案外普通の洋室だった。ソファー、テーブル、洋画に柱時計。南向きの大きな窓から花と緑に溢れたベランダ。唯一、和風を感じさせるのは、部屋の隅の方に敷かれた十畳ほどの畳と、その上に無造作に置いた立方体の茶色い箱だが、何気なくそれを見付けてしまった時、瞳子は「あれ」には触れないでおこうと決めて、視線を逸らしてこう言った。


「ここまで大きなおうちとは思ってなかった……」

「なんでも本邸はもっと大きいとお聞きしておりますよ。とても風情のある日本家屋だとか……さあ、こちらにどうぞ」


 瞳子の荷物を客室に運び込んでいたメイドのナオミがティーセットの盆を持って佇んでいた。言われるがままにふかふかのソファーに身体を沈める。


 なお、スズお嬢様はすでに何の音もたてずに別のソファーに腰かけていた。ナオミが上品な手つきでポットから注ぐ紅茶をじっと見つめている。


「本日はアップルティーをご用意いたしました」

「……そう」


 ナオミの微笑みにスズは頷き、目の前に出されたソーサーとカップを細くて白い手で持ち上げ、ゆっくりと傾ける。気取ったところは何一つなく、ただただ美しいと瞳子は見惚れた。


薄々わかっていたけれど、こんなに絵になる女の子は見たことがない。


不自然にならない程度にスズを盗み見ながら瞳子もカップを傾けるが、スズと同じようにはならないことは彼女自身がわかっていた。


 今度はスズと同じぐらいの美女にも視線を送ると、がっちりと目が合ってしまった。黄色っぽい光彩。彼女がヘーゼルアイだということに瞳子は気づく。こちらもこちらで吸い込まれそうな輝きだった。


「瞳子さまも紅茶はお口に合いましたか」

「は、はい。ありがとうございます」

「いいえ。好き嫌いなどがありましたら、何でもおっしゃってください。こちらのボックスクッキーもよろしかったらお召し上がりくださいね」


 言われた通りに網かごに入ったクッキーにも手を伸ばす。文句なしに美味しかった。ほころんだ顔つきにも目ざといメイドはこう言った。


「もっと欲しいと思われた時はいつでもお申し付けください。いつでもおつくり致します」

「て、手作りなんですか!」


 完全にどこかのお店のお菓子だと思い込んでいた瞳子は思わず声を上げた。


「そうですよ? その方がスズお嬢様は喜ばれますから」


 瞳子は当の『スズお嬢様』を見た。……彼女は無表情でもそもそクッキーにかじりついている。リスみたい。


「そういえばお聞きしていませんでしたが、スズお嬢様とはどちらでお知り合いに? やはり同じ大学ということで、構内でしょうか?」

「ええ、そうです。スズちゃんがお弁当を広げて困っていたところに通りがかって」


 つい数時間前の出来事である。

 あの時は家に帰りたくない一心で「泊めてほしい」とほとんど見ず知らずのスズに頼み込んだ。大胆を通り越して、だいぶダイナミックなことをしてしまったと多少落ち着いた今なら瞳子も思う。そして引き当てたのはとんでもない大魚だった、というわけだ。


「あの、一応ご迷惑をおかけするという自覚はあるので、お話ししますが。あたし、昔から姉とそりが合わなくて。今日の朝も喧嘩してきて。……どうしても謝る気になれなくて。でも下宿先では二人で暮らしているわけですから、絶対顔を合わせないといけないのが嫌で、しばらくどこかに泊めてもらおうと思っていたんです。それでほとんど初対面のスズちゃんにダメ元でお願いしてしまって……。でも! 別に悪いこととか考えていませんからっ。あの、今後も仲良くしたいと! ぜひ!」

「そういう事情だったのですね」


 彼女は瞳子の主張をそのまま受け止めたように一つ頷く。


「瞳子さまからお話を聞いてやっと理解できました。そういうことをスズお嬢様はなかなかお話しいただけませんから。今日も電話がかかってきて、瞳子さまがしばらくうちに泊まることになった、とだけ」


 ここで二人の注目を浴びた『お嬢様』は笑んだ眼を己に向けているメイドをちらりと見て、「……うん」とすぐに青白い顔でそっぽを向く。


 お弁当の下りを知っている瞳子には何だかおかしな光景だった。瞳子からしたら、スズお嬢様がナオミに向けている感情はひどく単純なもの。とってもありふれているけれど、時には得難いもの。


 ――大好き、ということ。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
cont_access.php?citi_cont_id=294143847&s
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ