第3話
「これは失礼いたしました」進藤翔が言う。「今日にかぎってスケジュール表を見忘れました。今日は県警本部さんの事情聴取があることをすっかり忘れちゃって、勝手に食事してました」
「いえいえ」松山孝三が言う。「こちらこそ、お食事中、おじゃましたみたいですね」
進藤は一人でカレーライスを食べていた。
ピンストライプの灰色のスーツ。紫のネクタイ。ストレートチップの茶色の革靴。薄いピンクのワイシャツの袖口にはエメラルドのカフスボタンが目立つ。
茶色に染めた髪は後ろと横を刈り上げ、正面と頭頂だけふさふさしている。
細身の長身だが筋肉質の体型であることがわかる。精悍な顔立ちの中に知性と気品が漂う。
社長室は窓際にデスクが置かれ、その手前に応接テーブルがあった。進藤と松山は向き合って座り、松山の隣に雨宮が腰かけていた。
進藤の説明ではこのビルの地階にシンドバッド・ドットコム社直営のカレー店『シンドバッド・カレー』があり、昼食はいつもそこからカレーライスを取り寄せて食べているとのことだった。
先ほど社長室のドアをノックすると、「どうぞ」と男の声がした。
松山がドアを開けてみると、進藤が応接テーブルでカレーライスを食べている。
進藤は松山たちを見て、はじめて自分たちとのアポがあることを思い出した様子だった。
自分たちがシンドバッド・ビルに入ったとき、受付で担当の女子社員が内線で社長室に連絡していたはずだ。自分たちがこれから社長室に訪問することを進藤は知っていたのではなかったのか。
松山は少し呆れるとともに安心もした。進藤はおそろしく頭脳明晰な男だと思っていたが、まぬけな側面もある。だったらこの男にも付け入る隙があるはずだ。松山はそう思った。
松山たちは、進藤にとりあえず応接テーブルのソファーに座るよう勧められた。
「失礼します」
赤いツーピースのスーツを着た若い女性が、三人分の麦茶を運んでくる。松山、雨宮、進藤の順に麦茶を配る。
「ところで蘭君」進藤が言う。「そのう......何で私に伝えなかったのかな」
「あっ、申し訳ありません」女性が言う。「さっきビルの受付から内線がありました。警察の方だというので、社長に相談なく、お通ししました」
「そうだったのか」
「すみませんでした」
進藤から「蘭君」と呼ばれた女性は一礼してその場を立ち去る。
「今日、お伺いしたのは」松山が言う。「いわゆる”空飛ぶカレー本舗”事件についてです」
松山は白い手袋をはめると鞄からビニールに包まれた名刺を取り出す。茶色い文字で『空飛ぶカレー本舗』と読める。文字は茶色の角なし四角で囲まれている。
「先日、横田基地周辺で起きた黒人兵殺害事件はニュースでご存じかと思いますが、現場にこれが落ちてました」
「そうですか」進藤が言う。「でも妙ですね。横田基地周辺の事件なら東京の警視庁の管轄ではないんですか。何だって埼玉県警の警部さんが捜査されてるんですか」
「この事件は都道府県の垣根を越えて合同捜査本部が設置されてるんです。メインの特捜本部は警視庁ですがね」
「それにしても埼玉県警はどう関係してるんですか?確か埼玉では”空飛ぶカレー本舗”事件は一件も起きていないはずですよねえ」
「実は”空飛ぶカレー本舗”事件は埼玉県も大いに関係あるんですよ。被害者の死体が東京で発見されたから警視庁の管轄とお思いかもしれませんが、たとえばですよ、たとえば真犯人が今、大宮でカレーライスを食べているとしたら、管轄は埼玉県警になるでしょう」
「ハハハ、警部さんもおもしろいことをおしゃいますねえ。まるで私が犯人みたいな言い方じゃないですか。その名刺に私の指紋でもついていたんですか」
「いいえ。名刺には何の指紋も検出されませんでした。おそらく犯人は名刺を持つときは必ず手袋をしていたと思われます。犯人はおそろしく頭の切れる人物ですよ。まるであなたのように」
「やっぱり、私を疑ってるんですね」
「まあ、そういうわけじゃないですけど、シンドバッド・ショッピングのサイトで”空飛ぶカレー”というレトルトカレーを販売してますねえ」
「それが何か」
「名刺と同じ”空飛ぶカレー”ですけど、何か関係あるんじゃないですか?」
「いや、何も関係ありません。偶然、名前が一致しただけですよ」
「一袋三十万円というのは高額過ぎやしませんか?」
「あのカレーは弊社の子会社、シンドバッド・フーズ社の製品です。今、吉川市に工場があるんですけど、インドのカレー職人を雇ってほとんど手作りで一袋ずつ作ってるんです」
「こんなレトルトカレーなんて千円もしないでしょう。三十万円の残りは”殺し”の依頼料なんじゃないんですか?
”殺し”の依頼者はサイトでカレーを注文すると同時に通信欄に殺したい相手の名前を書く。そして通信欄に書かれた情報がメールであなたに届く......」
「考えてみてください、もし私が本当に犯人なら、現場にそんな名刺なんか置いておきませんよ。足がつくじゃないですか」
「あの名刺は”殺し”サービスの販促活動なんですよ。ニュースで『空飛ぶカレー本舗』という言葉を知った人がPCの検索エンジンで検索する。するとシンドバッド・ショッピングに行きつく。そこで”殺し”の依頼をする。こんな感じじゃないですか?」
「警部さんも想像力豊かですねえ」
「失礼ですが、三日前の夜、つまり事件のあった日の午後六時から九時までの間、あなたはどこにいましたか?」
「アリバイですか。あの日、ここで残業してました」
「証言できる人はいますか?」
「そうですねえ。先ほどお茶を運んできた女性を覚えてますか?」
進藤の説明では、先ほどの女性は蘭明日香という自分の秘書で、あの日、ワードやエクセルで書類作成を手伝ってもらい、午後十時になる少し前に一緒に帰宅したとのことだった。
今、彼女は三階の広報部に詰めていると進藤が言うと、松山が「裏を取りますか」と言って雨宮に目配せする。
雨宮は無言で立ち上がり、進藤に一礼してその場を去った。
「実はですねえ」松山が言う。「今日、ここに来る前にあなたの経歴をいろいろ調べさせてもらいました」
昭和五十七年、岩手県気仙沼市生まれ。実家は食料品工場を経営。
地元の東北工業高等専門学校情報工学科を卒業後、渡仏してフランス外人部隊に入隊。五年後、退役して日本に帰国。
その後、ゲーム関連のソフトウェア企業に就職し、二年間勤めて退社。フリーのプログラマーを経て、平成二十四年に株式会社シンドバッド・ドットコムを起業......。
松山は調べた情報が正しいかどうか、一つ一つ進藤に確認させる。
「ところで」松山が言う。「高専卒業後、どうしてフランス外人部隊なんかに志願したんですか?」
「若い頃の話です。あのときは海外生活にあこがれてまして、特にフランスのパリはどうしても住んでみたいと思ってました」
「そうですか。ところでフランス外人部隊であなたはどんな訓練をされたんですか?」
「それは......」
「ライフル、マシンガン、拳銃など銃器の扱い。車はもちろん、トラック、ヘリなど様々な乗物の運転技術。サイバー攻撃のためのPC関連の知識、そして語学......」
「よくお調べになりましたねえ」
「それから軍隊格闘技なんか習いませんでしたか?」
「......」
軍隊格闘技はボクシングやレスリングのような通常のスポーツ格闘技と異なり、素手で人を殺すための総合格闘技だった。
「特にロシアの軍隊格闘技、システマをあなたは修得しませんでしたか?」
「さあ、どうだったでしょう。昔のことなんでよく覚えてないです」
「この前、殺害された黒人兵ですが、素手で首の骨を折られて死んでいます。鑑識の結果、どうもこれはシステマの使い手の仕業らしいとのことです。普通の人間にはあんなことはできません」
すると、ノックと同時に「失礼します」と言って雨宮がつかつかと部屋に入ってくると、松山の耳元に何か囁く。
「進藤さん、疑いが晴れました」松山が言う。「蘭さんはあなたがあの日、ここで深夜残業していたことを証言しました。アリバイ成立です」
「そうですか」
進藤はいつのまにかカレーライスを食べ終えていた。
松山は進藤としばらく世間話をしていたが、会話を中断するように雨宮のスマホが鳴る。
雨宮がスマホに出た後、署に戻る用事が出来たことを松山に告げると、松山は「そろそろお暇するか」と言って腰を上げる。
「進藤さん、本日は捜査にご協力ありがどうございました。また何かありましたら、お聞ききすることがあるかもしれせんが、その際はよろしくお願いします」
松山はていねいに挨拶すると、雨宮を連れて部屋を出て行った。
松山たちが去ってから数分後、蘭明日香が部屋に戻ってくる。
ポニーテールに銀縁の眼鏡が愛らしい。進藤は明日香を見てそう思った。
明日香は周囲を見回して、誰もいないことを確認すると、
「翔ちゃん無事だった?」
「明日香こそ大丈夫かい」
「あの刑事たち、あたしたちのこと疑ってるわよ。とりあえずあの日は横田基地じゃなく、会社で残業してたことにしといたけど、彼らきっとあたしたちのしっぽをつかむ気よ。どうするの?翔ちゃん」
すると進藤は人差し指を立てて左右に振りながら、「チッ、チッ、チッ」と舌を鳴らす。二年前、ニューヨークに二ヶ月近く出張していたときに覚えたアメリカ人のよくやる仕草だ。
「いいかい。会社ではぼくは君のことを蘭君と呼び、君はぼくのことを社長と呼ぶ。
二人きりのときは、ぼくは君のことを明日香と呼び、君はぼくのことを翔ちゃんと呼ぶ。
そして”カレーの話”をするときは、ぼくは君のことをラッシーと呼び、君はぼくのことをマスターと呼ぶ」
「わかったわ、マスター」
「わかればいいんだ......明日香」
進藤は明日香の頭をなで、額に軽くキスをする。
「ずるいわ。翔ちゃん」
進藤はいたずらっこのように微笑む。