第1話
ジョニー・ノックス二等兵はいつになく気が立っていた。
バー『コロニー』は、横田基地第二ゲートから徒歩で十分ぐらいの路地裏にあった。
ジョニーはGIカットが似合う黒人だった。褪せたジーンズに黒いTシャツ。フットボールのラインマンを思わせる二メートル近い巨体。
「お待たせしました。ハイボールです」
派手な赤いチョッキを着たバーテンは白髪混じりの初老の男だった。
スツールの端に腰かけたジョニーはハイボールを一口飲む。炭酸が喉にはじけて、思わず咳き込む。
「Son of a bitch! (くそったれ)」
ジョニーは立ち上がりざまにバーテンの胸倉をつかみ、思い切り殴る。
バーテンが床に仰け反る。
グラスが床に落ちて割れる音。店内から悲鳴が聞こえる。
ジョニーは店内を見回す。
誰かおれに逆らう勇気のあるやつはいねえのか。ジャップはみんな腰抜けか。
バーテンは小刻みに体を震わせ、床から起き上がろうとしない。しくしく泣いているようだった。
ジョニーは店内にいる全員に英語であらんかぎりの悪態をつく。
カリフォルニアのハイスクールを卒業すると、家が貧しいジョニーは米国空軍に入隊した。
日本は実質、米国の植民地だ。だから在日米兵は日本の女をレイプし放題だ。
そんな噂をジョニーは入隊後、耳にした。
治外法権だから、日本人を殺しても、犯しても、日本の警察は在日米兵を逮捕できない。
日米地位協定というありがたい法律のおかげで、在日米兵がどんな問題を起こしても、日本の外務省の高級官僚が根回しして、なんとか無罪放免にしてくれる......。
入隊二年後、ジョニーは迷うことなく、沖縄の嘉手納基地勤務を志望した。志望者が少なかったのですぐ配属が決まった。
ところが嘉手納基地に来てみると、現実はジョニーの予想とは少し違った。
これまでジョニーは沖縄で三人の女をレイプし、いずれも殺害した。
実刑は免れたが、上官から厳重注意を受け、減俸、降格の憂き目にあった。
特に三人目の女子高生をやったときは処罰がきつかった。
日本のジャーナリズムや市民団体が在日米軍を徹底的に非難した。
そのせいか、ジョニーは嘉手納基地からインド洋のディエゴ・ガルシア島基地に飛ばされた。女もいなければ遊ぶものもない絶海の孤島だった。
一年たって横田基地に配属が決まったと思ったら、今度は同期の男が軍曹に出世し、自分の直属の上官になっていた。
こんなひどい罰ゲームなどあるものか。
入口のウエスタンドアが開き、セーラー服姿の女が入ってくる。女子高生にも見えるが、大人の女のようでもある。
奇妙なことに赤いドミノマスクで顔の上半分を隠している。
「I can't catch what you say. (あんたの言ってることわかんない)」
流暢な英語だった。
セーラー服の女は他の客のテーブルに置いてあるビール瓶を取り、ジョニーに近づくと、不意にビール瓶を振り上げ、ジョニーの頭に振り下ろす。
ガラスが割れ、血の混じったビールのしぶきが上がる。
「No kidding! (ふざけるな)」
額から血を流しながらジョニーが叫ぶ。
セーラー服の女はウエスタンドアから店の外に走り逃げる。
「Kill you! (殺すぞ)」
ジョニーはセーラー服の女を追いかける。
外は薄暗い路地だった。まばらな電信柱の街灯の弱い光が周囲を照らしていた。
「Bitch, Wait! (あばずれ、待て)」
セーラー服の女は足が速かったが、ジョニーは次第に距離を縮めていった。
おまえは四匹目のメスのジャップだ。ファックした後に殺してやる。
すると一台の黒いジャガーが走って来て、ジョニーの行く手を阻むように停車する。
ジョニーは「shit! (くそっ)」と叫んで、後ずさる。
左ハンドルの運転席から長身の男が降りてくる。三つ揃いのネイビブルーのスーツに身を包み、ダイヤを散りばめた金のドミノマスクで顔を隠している。
「Who are you? (お前は誰だ)」ジョニーが言う。
「......」
「Hey, say something (おい、なんか言え)」
「I'm the master of "Flying Curry Shop". you know, I mean......I have no name. So, call me Turmeric.
(私は『空飛ぶカレー本舗』のマスターだ。名前はないが、まあ仮にターメリックとでもしておこうか)」
ターメリックと名乗る男はスーツのポケットに左右の手を突っ込む。手をポケットから出すと左右とも黒い皮手袋の上に鉄製ナックルダスターをはめている。
「What are you doing? (何しやがる)」
ターメリックはそれには答えず、いきなり右手でジョニーのみぞおちを殴りつける。
ジョニーはたまらず屈み込む。そこをすかさず、ターメリックの左ストレートがジョニーの顔面に襲いかかる。
鼻柱から血を噴き出しながら、ジョニーは地面に仰け反る。
「goddamn (ちくしょう)」
ジョニーが毒づきながら上半身を起こしかけると、ターメリックは素早く背後に回って屈み込み、ジョニーの顎と頭頂部を掴む。
耳元で「Our curry is hot. (うちのカレーは辛口でね)」と囁きながら、一気にジョニーの顔をほぼ直角に捻じ曲げる。
首の骨が砕ける鈍い音。ジョニーの唇の端から一筋の血が流れる。
「マスター、終わった?」
セーラー服の女がジャガーの影から出てくる。
「ラッシー、怪我はないか?」
「大丈夫よ」
ラッシーと呼ばれたセーラー服の女は動かなくなった米兵に近づき、ポケットからペンライトを出すと、まだ開いている右目に光を当てる。
「死んでるわ。瞳孔が開いてる」
「そうか」
ターメリックはナックルダスターをポケットにしまい、皮手袋をはめたままでスーツの胸ポケットから名刺を一枚取り出すと、米兵の死体の上に投げ捨てる。
電信柱の街灯の光で名刺に書かれた特殊フォントの文字、『空飛ぶカレー本舗』がかろうじて読める。角なし四角で文字が囲まれた茶色の商標だった。
「そろそろ、行くか」
ターメリックとラッシーはジャガーに乗り込み、静かにその場を立ち去った。