怪物の影
エリンは宿から出て行ったグレゴを追いかけようと自分も宿の外へと飛び出した。そして、村の大通りまで出て、しばらく辺りを探してみてもグレゴの姿はどこにも見当たらない。
「もう変身したのでしょうか……」
日はまだ沈みきっていないだろう、とエリンは思っていたが、給仕の少女との会話で時は過ぎていってしまっていたようだった。
グレゴが変身してしまっているのであればエリンには追いつくことができないだろう。
エリンはグレゴに置いて行かれたことに疎外感を少し覚えたが、諦めて、宿に戻ろうと踵を返した。すると、旅人とは思えない、村の人間と思われる人々が宿の中に入っていくのが見えた。
エリンは一階にはテーブルがたくさんあり、まるで酒場のようでもあったことを思い出した。そして、グレゴよりも先に怪物の情報が集められるだろう、と意気揚々と宿の中へと戻っていった。
宿内には既に酒の瓶を開け始め、中には騒いでいる村人がいるのが見受けられた。
村人の服はサンドラ王国の農民のような薄地のシャツではなく、炭鉱で作業するための厚い生地の服を着ている人もいれば、兵士の制服のような服を着ている人など様々であった。
エリンはその中でもサンドラ王国の農民のような雰囲気の年配の男性に脇から声を掛ける。
「突然で申し訳ないのですが、今日ここに来たばかりの者なのですが、この村について教えていただけますか? 」
老人はエリンの顔を見ると、少しの間驚いた顔をしていたが、どうやら気のいい人物のようでエリンの頼みを快諾した。
「ほー。お嬢さん、旅の人なの。今この村は結構大変だから、色々教えてあげるよ」
老人はそう言うと、宿の主人に聞きなれない酒を注文した。
エリンは老人の隣に腰掛けた。
「早速ですけどこの村に現れた牛人について教えて欲しいのですが……」
「ありゃ、そのこともう知っておっか。わしだけじゃないがたいていの村人はそいつ、領主の息子だと思ってるんじゃよ」
老人は振り返り、エリンが宿にいた頃から騒いでいた青年たちの集団を見やった。
「あの中に領主の息子が? 」
「そうじゃ。つい最近、この村の近くのラハト山の岩肌で金鉱が見つかったんじゃ。お陰でこの村は短い間にこんな立派な宿を兼ねた酒場が建てられるほど成長したんじゃ」
老人はそこまで言うと、運ばれてきた酒の瓶を開けた。そして、それを自分のコップに注ぎ入れると一気に飲み干す。
「ふー。やはり仕事終わりの酒はうまいのお。領主は怪物に襲われる前は毎晩ここに来て、朝まで飲んでいたそうな。そんな父親の豪遊っぷりを見たら自分も炭鉱の恩恵を受けたくなるものだろう? 」
「実の父親を襲うなんて、ありえないでしょう」
エリンは老人の仮定に対し、無理があるだろうと声をあげた。
「あー言い忘れてたがのお。そいつは領主の実の息子じゃないんじゃ。領主はそいつをセントヴァーニアから養子として引き取ってきたんだ。それに、あの騒ぎようを見てみな。親父を強請って得た金で騒いでるに違いない」
老人はこれ見よがしに目を細めて再度、騒いでる青年たちの方向を見た。
エリンは老人の言うことに未だ納得が出来ずにいた。ついには老人が小声で制止するのを振り切り、領主の息子がいる席へと向かっていった。
「失礼します。旅の者なのですが怪物のことについてお聞きしてもよろしいのでしょうか? 」
エリンはセーターを羽織った裕福そうな領主の息子へ話しかけた。すると、領主の息子の取り巻き達は触れてはいけないものに触れられたせいか、途端に青い顔になる。
「あ? 見慣れねえやつだな。俺はバケモンじゃねえって何度言ったらわかる! 誰が吹き込んだのか知らねえが金持ちになった俺に対する嫉妬だろ! 」
領主の息子は前にも同じことを言われていたようで取り巻きとは相対的に頬を紅潮させて怒鳴った。
「そうだ、ジムはバケモンじゃねーよ。よそ者が調子に乗るんじゃねえ!」
領主の息子、ジムに同調するかのように取り巻き達もそうだそうだ、と声を大きくし始めた。
エリンはその態度に苛立ちを覚え、彼らを睨みつける。
「女だから人に聞きたいことを聞いてはならないという法がここにはあるのですか? 」
「あ? 生意気な女だな」
ジムは手に持っていたグラスを床に叩きつけた。ジムは破片が飛び散るとほぼ同時に立ち上がり、エリンとお互いに睨み合う。
先に行動を起こしたのはジムであった。懐からナイフを取り出すとエリンの頭目掛けて振りかぶった。
しかし、エリンはそれを見逃すこと無く、素早く手刀で叩き落とす。そして、その勢いのまま、ジムの顔の前に手刀を見せつけた。
「どうします。 まだ続けますか? 」
エリンの挑発的な言動に宿の酒場は静まり返っており、またもどちらが先に動くのかをじっと見守っている。
「お前、今度会ったら殺す」
ジムは頬をひきつらせながら仲間達を連れて、宿を出て行った。
彼らが出て行ったときに開けられた扉が閉まると、給仕の少女は床に落ちたガラスの破片を集め始めた。
「手伝いますよ」
エリンは給仕の少女が危なっかしく集めているのが気になって声を掛ける。
「あ、ありがとうございます。それにしても手刀でバシーン! ってやっつけちゃうなんて、強いんですね」
少女は頭を下げた後、先ほどの光景について興奮気味にエリンに詰め寄った。エリンは返事に困ってしまい、愛想笑いだけを返す。
エリンは給仕の少女と共にガラスを集め終えると、老人の元へと戻った。
「彼の態度少しだけ、怪しいですね」
「やっとわかったろう? まあ怪我が無くて何より」
老人は苦笑いを浮かべるとまた違う酒を主人に注文した。宿の主人は飲み過ぎだ、と老人を窘め、家に帰るように促した。それを受けて、老人はしぶしぶ帰り支度を始めた。
「それではおやすみなさい」
エリンはグレゴが無事に帰ってくることを祈り、二階の部屋へと戻ろうと階段を登った。
すると、エリンの部屋の隣の部屋の扉が開き、中からつばの広い帽子を被った男が出てきた。
「こんばんは。夜のお散歩ですか? 」
エリンは彼もまた旅人だろうか、と思い軽く会釈する。
「ええ、まあ。これでも詩人でして。月を見て、一つ詩を作ろうかと」
詩人は帽子のつばを人差し指で上に上げてその顔全体を露わにした。その彫りの深い顔はたくさんの詩を作ってきただろう、という印象をエリンに与えた。
「自然の詩を良く作られるのですか? 」
サノーで詩を作るならば、ラハト山かそれを映えさせる月と相場がほぼ決まっているような物だ。エリンはそう思った。
「ええ。セントヴァーニアの者なのですが幼い頃見たラハト山の姿が忘れられなくて、度々ここには足を運んでいるんです」
彼もラハト山の雄大さに魅せられた一人なのだろう、とエリンは一人でに納得した。詩人はそれでは失礼します、とまた帽子を深く被り直し、階段を降りていった。
エリンはその後ろ姿が視界から外れると、自室の扉を開ける。領主の息子たちを追わなければ、とエリンは性急に自らの剣やグレゴの弓矢を背負うと、夜も更けた中、村へと飛び出した。




