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1981年~1983年

「掛井さんの大学は学園祭の似顔絵が有名なんですってね。僕も行って描いてもらおうかな。掛井さんは当日描いてるんですか。」

 11月の第2週目、ハウツー本の挿絵原稿を届けた時、梶原が不意に問いかけてきた。

「はい。多分当番が回ってくると思うのですが、まだ予定は決まっていないんです。梶原さんは来られるとしたらやはり日曜日か祝日の月曜日ですか。」

「ええ、会社の休みの日になりますが、多分月曜日だと思います。」


 花菜に3回目のH大学祭が訪れた。過去2年の似顔絵当番は先輩から決められた通りに勤めたが、今年は会長の中山に希望を伝えた。花菜の当番を日・月曜日、学祭後半の2日間にする事だった。

学祭前日、ぎりぎりになって納品された『すうりいる』最新号の表紙は、同年の加藤に依頼した。

 3日目の朝から似顔絵当番に入った花菜は、久し振りに倉本の隣に座った。そして反対隣は前島。何となく居心地が悪い。この頃では倉本と前島の仲は漫研公認となっていた。

「倉本さん、あたし席代わりましょうか。」

「いいよ。ハナ。そのままで。」

「じゃ、前島さん、代わろう。」

「何でですか。私真ん中は荷が重いです。」

「えー、何か描きにくい。」

 11月22日の日曜日、昨日の午後から曇りがちだったため、朝の気温はそれ程低くない。そのせいか午前中早いうちから似顔絵客が比較的多く来場している。

 相変わらず昼食を摂れないまま午後1時を回った頃、花菜の前に突然梶原が現れた。

「掛井さん、大盛況ですね。」

「梶原さん、明日じゃなかったんですか。」

「アポがずれてしまいまして、突然すみません。描いて貰えますか。」

「は、はい。どうぞ。」

それまでのリラックス状態が一気にストレスに変わってしまった。

「おい、和希、お前も座れよ。」

梶原が後方を振り向いて話し掛けた。その方向を見ると、前島のテーブルの前でもじもじしている小さな男の子がいる。そしてその後ろに、男の子を庇うように微笑んでいる女性。

「掛井さん、照れ臭いですがうちの家族を紹介します。息子の和希。それと妻の舞子です。」

言葉が全く出てこない。

「掛井さんの事話したら、どうしても息子と自分も描いてほしいって言われて、それと掛井さんに挨拶しておきたいって言われたんですよ。すみません。」

挨拶という単語を耳にした事で我に返った。

「あ、梶原さんにはお世話になっています。掛井花菜と申します。」

『いつもご主人には』、と言えなかった。

「どうも。こちらこそ主人がお世話になっております。梶原舞子と申します。今日は宜しくお願いします。」

『主人』という単語が花菜の次の言葉を詰まらせる。

「ね、俊介さん、私たちもお隣のように2人1枚に描いてもらえないかしら。和ちゃんはこちらのお姉さんに描いてもらってね。」

そう言われて倉本のテーブルを見ると、丁度カップルの男性の方を描き終え、女性と席を入れ替わるところだった。

「おいおい、その方が手間が掛かるんだぞ。」

「あら、そうなの。逆かと思った。でも、いいですよね、掛井さん。」

「は、はい。構いません。結構です。」

「すみません、掛井さん。じゃ、僕からお願いします。」

前島が上手に男の子を座らせることが出来た。男の子は早くも前島の事が好きになったようで、会話が弾んでいる。それに引き換え、花菜は梶原に掛ける言葉が見付からない。梶原の顔を直視出来ない。久し振りに1枚目の紙を無駄にした。花菜は目の前の梶原ではなく、脳裏に焼きついている梶原を思い出して描く事にした。

「絵を描く時はやっぱり集中するんですね。」

梶原が話し掛けてくれた。

「はい。」

そう答えるのが精一杯だ。早く描き上げてしまいたい。そう思って目の前の紙だけに集中した。出来上がった梶原の顔は、悲しい位に似ていた。

「じゃ、交代ね。」

舞子は会話を続けてくれたので表情を捉えることは易しかった。ただその話し相手は花菜ではなく、終始梶原だった。

「やっぱり上手ね。俊介さんが見込んだだけの事はあるわね。」

出来上がった似顔絵を手に取り、舞子が笑みを浮かべた。

「ありがとうございました、掛井さん。じゃ、頑張って下さい。」

梶原はいつも通り丁寧な挨拶をし、花菜の前から消えて行った。家族3人が寄り添う後姿は、誰の目にも温かく、そして花菜の目に悲しく映った。

「・・倉本さん、あたし先に昼行ってきていいですか。前島さん、ごめんね。」

「ああ、行って来なよ。」

「ゆっくり食べて来て下さい。」

 花菜の様子がおかしい事に倉本も前島も気が付いているだろう。それを取り繕う気にならなかった。学食に向かわず、外の出店の間を縫って外堀通りまで行き着いた。

 梶原を恨む筋合いでない事は分かっていた。花菜の想いを伝えていた訳ではなかったから。ただ舞子は一度も会った事が無い花菜を警戒した。そして花菜に会った瞬間に花菜の想いを見抜いた。

 敵わない。今日初めてその存在を知ったライバルに、戦わずして打ちのめされた。そもそも最初からライバルでも何でもない。一瞬でも舞子と同じ土俵に自分を置いた事が間違っていた。花菜はただの『外注さん』なのだ。

「あ、いた。おーい。ハナちゃーん。」

 自分を呼ぶ声にびっくりした。手を繋いだ2人が走って来る。

「ハナちゃん、今日ハナちゃんの部屋で鍋パーティするからね!」

「?」

「違う、由紀ちゃん、ワインパーティだから。」

「じゃ、鍋ワインパーティでいいよ。材料買って帰ろう。」

川西と松田が繋いでいた手を離し、花菜の両側に回った。そして花菜の両腕を抱え、市ヶ谷駅に向かって歩き出した。

「ちょ、ちょっと、まだ似顔絵の当番が残ってる。」

「大丈夫。中山くんに頼んできた。」

「あたしの上着が・・」

「持ってきたよ。ほら、これ。」

松田が小脇に抱えていたデニムジャケットを花菜の肩に掛けた。持って来てくれていた事に気が付かなかった。

「・・・あそこにいたの、よく分かったね。」

「ま、ね。ハナちゃんの行動パターンは読めるから。」

「うそ。」

「うそ。1年生の矢田くんが教えてくれたの。外堀通り通って来たらハナちゃんがいたって。」

 梶原が来ていた時、川西も松田も似顔絵会場にはいなかった。だから花菜の失恋の現場を目撃していた訳ではない。でも2人の態度は明らかに花菜を気遣っている。考えられる理由はひとつだけ。倉本と前島から花菜の様子を聞いたからだ。それだけでこの2人は花菜の状況を理解し、励まそうとしてくれている。やっぱり行動パターンを読まれているのかも知れない。、2人には隠し事が出来ない。

「結構な値段ね。」

 京王百貨店の地下コーナーで食材を見ていると松田が言った。

「デパートだもん。こんなもんだよ。」

「どうしようか。高級鍋料理になっちゃうね。」

「・・十号通りの方が安いね。」

花菜が喋った瞬間2人の視線が花菜に注がれた。少しだけ驚いた表情はすぐに笑顔に変わった。外堀通りを歩いていた時から、ずっと花菜は何も喋っていなかった。花菜が会話に復帰した事が2人には嬉しかったのだろう。

「ワインはここで買った方がよくない?」

花菜と松田は川西の言葉に従った。

「2人とも鍋、鍋って言ってるけど、ウチの鍋小っちゃいよ。」

「小っちゃいってどれ位?」

「この位。」

花菜は自分の両腕で大きさを表現した。

「えー、小っちゃ過ぎるよー。何でもっと大きな鍋持ってないの。」

「じゃ、あれは?えーと、えーと、机の上に置くコンロ。」

「カセットコンロの事?それは持ってるの。ガスもある。」

「じゃ、鍋も買って帰ろう。十号通りに金物屋はある?」

 結局ワインをボトル4本も買った。赤1本、白1本、ロゼ1本。

「足りる?」

松田がそんな不安を口にした事に驚いた。

 十号通りでは松田が主役だった。手際よく買い物をしていく。川西と花菜はただ後ろから着いて行くだけだ。

ワインを川西が、食材を松田が、大きな鍋を花菜が持って花菜の部屋に着いた時、時刻はもう午後7時に近かった。

「隣の部屋の人に一言言っておくよ。あたしたちお酒が入るとちょっと賑やかになっちゃうから。」

川西は気が付いていたようだ。一番賑やかになるのは川西だけど。

 結局鍋は水炊き風になった。鶏のつくねをメインに、豚肉、きのこ類、白菜、豆腐、油揚げ、タラ。よく短時間にこれだけ揃えたなと思う位に、他にもいくつも具材があった。調理も松田に任せた。

「もうちょっと待って。そろそろワイン開けてもいいかも。」

「待ってました。」

川西が1本目の赤ワインを開けた。イタリアワインだそうだ。一緒にスライストマトとモッツァレラチーズを出してきた。

「じゃ、やっぱり、乾杯しよ。ハナちゃん、いい?」

川西の言い方は、やはり花菜を気遣っている。松田も料理の手を止めて花菜を見つめている。

「何に乾杯しよっか。」

にっこり笑って返事をするのにそれほど無理は無かった。

「ハナちゃん決めてよ。」

「麗ちゃんに賛成。ハナちゃん、何がいい?」

「あたしは、麗ちゃんと由紀ちゃんに。他に考えられないもん。」

「だめだよ、それじゃ。1人抜けてる。」

「そうね。麗ちゃんとハナちゃんと私。3人に乾杯ね。」

「乾杯。」

「乾杯。」

1口飲んだイタリアワインは、少し苦かった。

 何度こうして3人で食卓を囲っただろう。初めて松田のアパートで一緒に夕食を食べた時が遠い昔のように思える。いつも当たり障りのない話題ばかりだったが、そのおしゃべりが積み重なって、こうして3人の関係が出来上がってきた。今日も時間が許す限り、他愛の無い会話を繰り返すだろう。そして花菜にとっても、きっと松田にも川西にとっても、とても優しい時間が流れるに違いない。

「結構強いのね。ワインって。」

花菜は真っ赤に染まった指先を見つめ、少し驚いた。

「そうよ。日本酒と同じくらいアルコール入ってるから。今日は大丈夫。麗ちゃんと2人でハナちゃんの介抱をしてあげる。」

冗談なのか本気なのか、ポーカーフェイスでよく分からない。

「あたし、ちょっと気になって。隣の部屋に行ってくる。」

「何で?どうしたの?」

「うん、ちょっと。」

何杯かグラスを空けたはずなのに、普段と変わらない調子で川西が部屋を出て行った。

「隣の部屋って、ハナちゃんどんな人が住んでるの?」

「大学生だと思うけど、実はあまりよく知らないの。たまに会っても挨拶をするだけ。確か今年の春に越してきたから、今1年生かな。」

川西が何を気にしているのか見当がつかない。大騒ぎをしていた訳でもないので、迷惑にはなっていない筈だ。部屋を出て行ってから五分以上経過していた。

「ハナちゃん、由紀ちゃん、もう1人パーティに参加してもいい?」

 部屋のドアを開けながら、川西が探るように問いかけてきた。

「え、もう1人って・・」

答えに戸惑っていると、川西の手に引っ張られて隣の女子大生が部屋に入って来た。

「彼女1人でいたから誘ってきちゃった。いい?」

「いいけど。却って迷惑じゃなければ。」

伏し目がちなその子は、とてもおとなしそうに見えた。きっとこういう知らない人たちの輪の中に進んで入って来られるようなタイプではない。だから川西が強引に誘ったはずであり、それなりの理由があるに違いなかった。

「いつも挨拶だけでごめんね。あたし掛井花菜っていいます。」

「私はハナちゃんと同じサークルの松田由紀子。炬燵に入りなよ。」

「あ、・・すみません・・・」

いつもの挨拶と同じ、蚊の鳴くような声だ。

「この子、M学院大の1年生なんだって。ね。」

「・・はい。文学部に通ってます。名前は、西村かすみといいます。」

「じゃ、かすみちゃんはまだ未成年?」

「はい。19歳です。」

「でも、ま、いっか。飲もうよ。ワインだけど。飲める?」

「はい・・あまり飲んだ事ないですけど。」

炬燵の上に不揃いのグラスが4つ並んだ。

「じゃ、かすみちゃん、ようこそパーティへ。乾杯。」

「そうだ。乾杯。」

「乾杯。」

松田の音頭に川西と花菜が続いた。3人同時に西村の手元にグラスを持っていったので、西村はあたふたしながら一生懸命にグラスを重ねた。その仕草が滑稽で、そして可愛かったので、また3人同時に吹き出した。それにつられて西村もはにかみながら口角を上げた。

「あ、かすみちゃん笑ったね。」

「お鍋も食べてね。晩ご飯はもう食べたの?」

「いえ、まだ食べてないです。」

「じゃ、いっぱい食べて。」

「かすみちゃん、出身はどこ?」

「岐阜県です。大垣です。」

「冬の新幹線がゆっくり走るとこだ。」

「あ、はい。冬はよく雪が降るので。」

花菜の大垣の印象は、東海道線の終点という事だった。

「私たち2人は静岡県だから、同じ東海地方だね。」

松田が花菜と自分を指さした。

「そうなんですか。」

「あたしは岐阜県は高山しか行ったことがないな。」

 少しの間、花菜たち3人は西村にあれこれ質問してしゃべらせた。花菜は西村が孤立しないように気遣った。不意に西村が質問に答えず、黙ってしまった。西村が涙をこぼし始めたからだ。

「ごめん、変なこと聞いちゃったかな。」

松田が慌てて謝った。花菜も慌てた。

「・・・いえ、違うんです。皆さんが私に気を使ってくれてるのが分かって。嬉しくて。今日、私、辛かったから・・・。」

「何かあった?」

「・・・私、昨日、失恋したんです。」

「あ、・・。」

 西村の彼は岐阜県に住んでいた。名古屋市の大学に通っている高校の同級生だった。いわゆる遠距離恋愛で、この夏に帰省した時から関係がうまくいかなくなってきていた。もうすぐ冬休みなので、西村としてはもう一度会って関係を修復したいと思っていたのだが、昨日電話で最終通告を受けたという事だった。

 高校2年の夏から付き合い始めて2年と数ヶ月、西村にとっては初めての彼で、片思いのまま失恋した経験はあっても、一定の交際期間の結果別れるという失恋は初めての事だった。

「最初挨拶に行った時、泣いてたから。そうだったんだ。ごめんね、あたし、そんな理由なんて思わなくて誘っちゃった。」

「・・いえ、昨日からずっと1人で考えて、どうかなっちゃいそうでした。何も食べられなくて。誘ってくれて、少し元気が出ました。」

「相談する友達とかいなかった?」

「高校の頃からの親友がいました。彼とも共通の友達で。・・・その親友と、彼が付き合い始めたんです。だから、誰にも相談出来ない。」

「・・・辛いね。」

「すみません、私の事でせっかくのパーティを暗くしてしまって。」

「そんな事無いよ。誰かに話す事で少しでも気持ちが軽くなるなら、そうした方がいいと思う。」

花菜は西村のことが放っておけなくなっていた。

「ありがとうございます。でも、どうして初めて会った私のために、そこまで言ってくれるんですか?あ、決して疑ってるんじゃなくて、私の周りにそんな人がいないから・・・」

「どうしてだろう。どうしてかな、由紀ちゃん。」

「ハナちゃん、私に聞かなくても、分かってるんじゃないの。」

松田は花菜の気持ちを見通している。

「うん。かすみちゃん、あたしも今日、失恋したんだ。」

「えっ?そうだったんですか。」

「うん。この鍋パーティはね、あたしの事を思って、ここにいる麗ちゃんと由紀ちゃんが元気付けるために開いてくれたの。」

「じゃ、私尚更お邪魔しちゃったんじゃ・・・」

「ううん、違う違う。麗ちゃんはね、放っておけないの、かすみちゃんの事を。きっと由紀ちゃんも同じ。あたしだってそう。何でだろうあたしたち、そういうところ似てるの。」

「お節介なんだよね。」

「そうだね、由紀ちゃん。でもあたしはそのお節介に何度も助けられた。今日も2人のお節介のお陰で、こうして元気を取り戻せる気がしてる。もし今日傷ついたのがあたしじゃなかったとしても、きっとあたしも同じお節介をしていたと思う。いつの間にかあたしたちはそんなふうになっちゃった。」

「羨ましいです。私、そんな友達、いないから。」

「まだこれからいくらでも作れるじゃない。あたしたちだって少しずつこういう関係になってきたんだよ。あたしとハナちゃんなんて、この部屋で掴みあう位の大喧嘩した事あったし。」

「うわっ、懐かしい。」

「そういうのも羨ましいです。本音でぶつかる事が出来るなんて。」

「かすみちゃん。こういう事言うと怒られるかも知れないけど、今あたしはかすみちゃんからも勇気を貰ったよ。」

「え、どういう事ですか?」

「あたしの失恋の相手は、本気で好きになった人かどうか分からない。ただの憧れだけだったかも知れない。かすみちゃんは付き合っていた期間分、あたしよりずっと相手を愛していたんだと思う。それでも耐えている。あたしよりずっと偉いよ。」

「そんなこと・・・」

「そんな事無くない。言い方は変だけど、あたし、かすみちゃんに負けてられないと思った。みんなから元気と勇気を貰った分、あたしが立ち直る事が恩返しになる。」

「・・はい。」

「かすみちゃん、最後の砦は自分自身の気持ちなんだよね。ハナちゃんも麗ちゃんも、そう思ってるはず。」

「・・はい。」

「だって、自分が一番頑張らないと、友達を裏切る事になるから。」

「はい。」

「元気出して、なんて言わない。でもかすみちゃんの事は見てるから。ずっと傍にいるから。今日初めて会ってこんな事言うなんて嘘っぽいかも知れないけど、あたしは本気。由紀ちゃんもハナちゃんも絶対本気。かすみちゃんが立ち直ったら、一緒にお祝いしよう。」

「麗ちゃん、あたしの立ち直ったお祝いも忘れないでよ。」

「あ、そうそう。そうだった。」

久し振りに全員に笑顔が浮かんだ。そして西村の頬にも朱が射した。

「私、岐阜に帰って来ます。帰って彼と友達に会って来ます。そして私の気持ちを素直に伝えたい。このまま会わずに終わったらきっと後悔が残ると思います。そうしないと、・・そうしないと・・・」

「前に進めない?」

「・・・はい。」

「かすみちゃんがそう決めたのなら、それが正しい。堂々と会って来なさい。」

松田がこう言う時、不思議な説得力がある。

「そうと決まったら、ワインもう一本空けよう。白残ってるでしょ。」

川西のグラスは暫くの間カラになっていた。


 翌朝8時前に部屋のドアをノックする音で花菜は目覚めた。昨日の朝より5度以上気温が低く、炬燵で寝てしまった事を後悔した。左のこめかみが少しズキズキ疼いた。顔をしかめながら周りを見ると、川西がまだ寝息を立てていた。松田の姿が見えない。ドアを開けると、はたして、松田と西村の顔がそこにあった。

「掛井さん、昨日の夜はありがとうございました。今日これから岐阜に帰ります。」

西村はすっかり身支度を整え、爽やかな笑顔を見せた。寝起きの自分の顔が恥ずかしい。

「うん。頑張って。あたしも頑張るから。」

「はい。」

「よかったらまた結果も教えてね。かすみちゃん。」

「はい。掛井さんの事も教えて下さい。」

「もちろん。あと、掛井じゃなくてハナって呼んでね。」

西村が吹き出したのを意外に思った。

「由紀ちゃんと同じ事言ってますね。」

「あ、そうなんだ。」

「そうよハナちゃん。私たちだけ『かすみちゃん』なんて変だから。」

「あたしも言おうと思ってた。あたしも麗ちゃんって呼んで。」

花菜よりもっと目の下に隈を作った川西が花菜の後ろに立っていた。川西1人でワインを2本近く空けたのだから無理はない。

「ありがとうございます。皆さんのお陰で昨日と自分が別人みたいです。行って来ます。」

「いってらっしゃい!」

 外階段を軽やかに、しっかりとした足取りで下りていく西村を3人は見送った。狭い戸口から覗く顔は、下から花菜、松田、川西と背の順に連なって、トーテムポールみたいだな、と花菜は思った。

「ハナちゃん今日も似顔絵当番じゃなかった?時間大丈夫?」

「あっ!全然忘れてた!まだ学祭中だ!」

「どうする?ウチに寄ってシャワー浴びてから行く?」

「お願い、麗ちゃん。寄っていい?」

「じゃ、早く支度しよう。」


 結局大学に着いたのは午前10時を回っていた。

花菜の席はこの日も中央で、隣では佐々木がフル稼働していた。

「ごめんね、彩ちゃん。遅刻しちゃった。」

「いいですよぉ。そんなにお客さん来てませんから。」

 佐々木の言う通り、今日の午前中は意外な程楽だった。

「今のうちに昼行ってきたら?お腹空いてない?」

もうすぐ12時になろうとしていた。

「いいですか?先に行っちゃっても。」

「いいわよ。あたしはまだ後でいいから。」

 佐々木と入れ替わりで花菜は昼食を摂った。二食のきつねそばをチョイスした。一緒に行った岸田はきつねうどんだった。

「ハナちゃん、うどんよりおそばが好きなんだ。」

「そうなの。普通女の子ってうどん好きなのよね。ちょっと恥ずかしくて、学食以外じゃ食べにくいの。」

「早いね。年が明けたら卒論考えなきゃ。ハナちゃん、単位どう?」

「うーん、今年取ってる講義全部取れたら、来年は8単位残るだけ。卒論があるから2科目受ければいい計算かな。」

「優秀じゃない。私はうまくいっても12残っちゃう。」

本当に早い。年が明けたら就職、そして卒業という言葉が現実味を帯びてくる。


 会場に戻って来たところに、前島と増田が息堰切って駆け寄って来た。

「ハ、ハナさん!大変、大変!」

「えっ、どうしたの!?」

とんでも無い事件が起きたのかも知れないと身構えた。

「こっ、これっ!」

増田の手にメモが握られていた。

「何、これ。」

「これ、男の人がハナさんに渡して欲しいって。ハナさんがご飯食べている間に来て。」

花菜の頭に梶原の顔が浮かんだ。メモを見た瞬間に梶原ではない事が分かった。メモには電話番号と知らない名前が記されていた。

「経済学部の3年生だそうです。連絡下さいと言ってました。」

「ハナさん、これ、告白ですよ!羨ましい。」

前島の目は好奇心で一杯だ。

「人違いよ。あたしにこんな事言って来るなんて考えられない。」

「何言ってるんですか。ハナさん、人気あるんですよ。漫研の1、2年生からも、英文科の私の同級生からも。」

そんな事は今初めて聞いた。

「ふうん、ありがとう。じゃ、これは貰っておくね。」

「ハナさん、頑張って下さい。」

2人声を揃えて応援してくれた。失恋の翌日にこんな事があるなんて。やっと自分の淡い失恋に向き合う元気が出たところだった。今すぐ次の恋を探す気持ちの切り替えが出来る程、花菜は恋愛に器用ではない。このメモはきっとゴミ箱行きだろう。そう思いながら2人の手前、大切に手帳に挟んでバッグにしまった。


 3年目の学祭も、もうすぐ終わろうとしている。隣が佐々木から中山に交代して、最後の客の似顔絵を描き終えた。花菜の前にはあと1人の客が待っている。

「すみません、最後の最後でお願いして。」

40代後半に見える女性。花菜はまた母を思い出した。それから、どこかで見た女性のような気がした。

「いいえ、こちらこそお待たせしてしまって申し訳ありません。ゆっくり座っていて下さい。あたしもじっくり描かせて頂きます。」

「じっくりなんて、恥ずかしいですね。こんなおばちゃんの顔を見られるなんて。」

「お客様の年代の方の事、あたしすごく尊敬しているんです。皆さん自分の生き方に信念を持っているように見えて。生意気ですけど、戦争とか、厳しい時代を生きた経験がそうさせているのかなと思います。高校の先生が言ってました。生き方に信念を持っている人は、とても魅力的だと。」

どうしてこんな事をしゃべってしまったのだろう。本当は母に伝えたい花菜の気持ちだった。

「ありがとう。そんな事、ここ暫く誰にも言われた事無かったわ。嬉しいものね。でもね、戦争を経験しても、私は今もしょっ中悩んでいますよ。それでいいの。悩むから明日も頑張ろうと思えるの。私たちの世代が、少しだけ自慢出来る事があるとしたら、それは覚悟ね。辛さも痛みも恥も、覚悟があるから我慢出来るんですよ。高校の先生がおっしゃっていた意味は、私はそういう事だと思うわ。」

中山が隣で頷いている。花菜は心がふっと軽くなった気がした。

「人はいくつになっても悩んで生きていくんですか。」

「私はそう思います。私の周りの大人もみんなそう。でもね、その悩みを解決出来るのも人間だからなんです。悩んで悩んで、時には人の手を借りて、解決しようと努力するのが人間。解決するために必要なものが覚悟なの。決断した事に責任を持つ覚悟、大切なものを守る覚悟、時には諦める覚悟も必要ね。」

「諦める覚悟?」

「私位の歳になると、色々諦める事が必要なんですよ。例えば家族。母親はいつまでも子供を手元に置いておきたいものだけど、子供が自立するためにはその想いを諦めます。いつまでも生きていて欲しいと思う親も、いつか諦める日がやってくる。そういう事を正面から受け止められる覚悟。」

「失恋も諦める覚悟ですか。」

「あ、そうね。あなたたちの年齢だと、恋愛とか進学が大きな対象になるのかな。」

「はい。あたし昨日、失恋しました。そして今日諦める覚悟が出来ました。」

隣で中山が驚いている。目の前の女性は優しく微笑み掛けてくれる。

 似顔絵はもうすぐ完成する。いつまでも描いていたい気分だった。本当に母と話をしているようだ。時間がまた花菜に優しい。

「出来ました。いかがでしょうか。」

「ああ、ありがとうございます。私、こんなに上品かしら。自分の顔って意外とピンとこないものですね。」

「似ていると思いますよ。あたし、自分の似顔絵を自分で褒めた事がないんですけど、この似顔絵は似ています。自信があります。」

「そう、嬉しいわ。私はこんな顔で人に接しているのね。」

「色々お話しして下さって、ありがとうございました。勉強になりました。」

「あら、お礼を言うのは私の方ですよ。あなたとお話し出来て楽しかった。まるで娘と話していたみたい。私には息子しかいないから、あなたのような娘が欲しかった。それこそ、とっくに諦める覚悟はしましたけどね。」

 その客は去り際、頭の中で引っかかっていた疑問に答えてくれた。

「また二食にカツクリーム食べに来て下さいね。」

思い出した。第二食堂のおばさんだ。いつも元気に挨拶をしてくれる、優しそうなおばさんだった。仕事中は三角巾を被り、マスクをしていたので目と眉しか見たことが無い。今度はこちらから挨拶してみようと思った。


 2年前は花菜がビールやおつまみを配って回った。学祭の打ち上げも、今年は何もしないでも席と飲み物、おつまみが用意されている。それでいて誰からも文句は言われない。楽だけど少し寂しい。

「ハナさん、こっち、席ありますよ。」

花菜がトイレから帰って来たところに北川から声を掛けられた。

「あ、ハナちゃん、こっちも飲み物用意したけど。」

同期が固まっている席で勝沢が手を振っている。

「おーい、ハナ、ここ男ばっかりで寂しいんだけど。」

中島と倉本と福島がいじけるふりをしてこっちを見ている。

「えー、どこ行けばいいのか・・ギェ!」

言い終わらないうちに後ろから首を絞められた。

「生意気言ってんじゃねえよ。この小娘が。」

「ぐ、ぐ、ぐるじい・・、だりぇ・・?」

「俺だよ、ばかやろう。声覚えとけよ。」

この口調、この声は、ウッチーだ。

「う、内田しゃん!?」

ようやく喉元に余裕が生まれた。

「内田さん、こんなとこで仕事サボっていていいんですか?」

「ばかやろう。オフだよ。わざわざ来てやったんだよ。打ち上げに。」

「暇ですね。」

「うるせーよ、ばかやろう。」

「相変わらずばかやろう呼ばわりが激しいね、ウッチーは。」

「そうだよ。ハナちゃん可愛そうだよ。一応年頃の娘なんだよ。」

いつの間にか河合と萩原がビールを片手に横の椅子に座っている。

「いいんだよ、こいつはこういう扱いで。へこたれないから。」

「ひどい。」

内田も空いている席に座り、花菜にたたみ掛ける。

「ひどいのはこっちのセリフだよ。ハナ、俺だけビールが無いよ。」

「あー、はいはい。」

「あと、あたりめとポテトチップスとキスチョコ。」

「はいはい。」

ビールはすぐに渡せたが、キスチョコが無い。あちこちのテーブルを見て回った。回りながら自分が1年生に戻った気がした。それは決して嫌な気分ではなかった。狭い通路を急ぎながら、自然と笑顔になっていた。

「キスチョコありませんでした。これで我慢して下さい。」

見かねて福島がガーナチョコレートを渡してくれたのだ。

「なんだよ。チョコレートなら何でもよかったのに。」

いちいちムカつく内田だが、花菜には慣れっこの免疫が残っていた。

「それじゃ、あたしはこれで。」

「何言ってんだよ。席用意してやったんだぞ、座れよ。」

そう来ると予想もしていた。

「はいはい。」

「ハナちゃん、少しはお酒飲めるようになったの。」

「少しだけ。1年の時のような失態は見せなくなりました。」

「じゃ、コレ。」

萩原がラガーの缶をくれた。4人で乾杯をして1口飲んだ。

 他愛も無い話が始まった。仕事の事、昔話、音楽の話、漫画の話。時々内田が花菜をからかい、花菜がおろおろし、河合がコメントして萩原がフォローしてくれる。2年前のペニーレーンの夜を思い出した。あの時の気持ちが蘇ってくる。いつまでも今日が終わらないでと願ったあの夜。内田も河合も萩原も、覚えてくれているだろうか。あの夜、あの場所で、花菜はみんなに感謝していた事を。

「結構いい女になったんじゃないの。」

「は?」

内田が突拍子もない事を口走った。

「さては、ハナちゃん、彼氏出来たとか。」

さらに萩原の発言が花菜を絶句させた。その萩原の後ろの席に座っていたのが、よりによって増田だった。

「聞いて下さいよ、萩原さん。今日ハナさん、同級生から告白されてました。」

「えっ、そうなのかよ、ハナちゃん。」

手帳の間に挟んだメモの事をはっきり思い出した。

「こっ、告白なんかじゃないですよ。全然違います。だってあたし、会ってないんですから。連絡先メモで渡されただけですから。」

「それって、ほぼ告白じゃんかよ。」

間の悪い事に、中山がお酌にやって来た。

「ハナちゃん、失恋したってどういう事?誰に?教えてよ。」

「失恋とはどういう事だ、ハナ。お父さんに説明してみなさい。」

「い、いやっ、内田さん。中山くん、聞き間違いでしょ?」

「そんな事ないよー。はっきり言ってたじゃん。」

「告白されたのに失恋したって、よく分かんねー。説明してくれよ。」

「いや、萩原さん、あたしもよく分からなくて・・・」

「嘘つくな。ちゃんと言ってみろ。」

「教えてよ、ハナちゃん。」

「ハナ!」

「ハナちゃん!」

「いやぁぁぁー!」

花菜は両耳を塞いで椅子から立ち上がって逃げ出した。決して怒ったのでも悲しくなった訳でもない。そうする事がその場の雰囲気を一番壊さない対処だと思ったからだ。

 一旦ホールの外に出てトイレに駆け込んだ。女子トイレまではさすがに内田も追い駆けて来ないだろう。花菜はほとぼりが冷めるまで、ここに居る事にした。酒の席の話はコロコロ変わる。5分前の話題を誰も覚えていない事はよくある。何事も無かったように席に戻ればいい。でも今度は内田の席から離れていようと心に決めた。

「ハナちゃん、大丈夫?」

後ろから声を掛けられたので、驚いて数センチ飛び上がった。

「あ、ごめん。驚いた?」

「なんだ、由紀ちゃん。」

松田は花菜の事が心配になって様子を見に来てくれたのだろう。

「気持ち悪くなったんじゃない?叫び声上げて走って行ったから。」

「ううん。酔ったんじゃないの。内田さんや萩原さんに色々いじられて、失恋のこととか。対応しきれなくて逃げて来たの。」

「余計心配だよ、そういう事なら。」

「いいの、大丈夫。失恋の事自体は大丈夫なの。ただその事を自分からペラペラ話す気にはなれないかな。」

「そうだよね。でもどうして内田さんたちがハナちゃんの失恋の事知ってるの。」

「それはね、中山くんがしゃべっちゃったんだ。中山くんはあたしが似顔絵のお客さんに失恋した事話したのを隣で聞いてた。」

「中山くんもデリカシーってものがないなぁ。」

「由紀ちゃん、打ち上げに戻ろう。あんまり長い時間席にいないと却って変だから。」

「それって、私のセリフじゃない。」

「ごめん。それから、心配してくれてありがと。」

 あちこちの酒宴の喧騒に混ざって、どこからかギターの音が聞こえてくる。その方向の先は漫研の席だ。ギター以上に大きな歌声が重なっている。マイクの要らない声量。中山が歌っている。大滝詠一メドレーだから、やっぱり中山の声質には合っていなかった。ギターは内田が弾いている。この分なら花菜は目立たずに戻れそうだ。と思ったのは甘かった。中山が『恋するカレン』を中途半端に歌い終えた。演奏を終えた内田と目が合ってしまった。

「ハナ!ちょっと来い。」

松田と顔を見合わせた。凄く哀れんだ松田の顔に、心が折れた。

「しょうがないよハナちゃん。可愛がられてるんだから。」

 花菜は内田の歌う場面を何度も見た事があった。BOXであったり、宴会であったり。伊勢正三やサザン、歌謡曲も時々歌っていた。一番印象に残っているのは1回だけ聴いた原田真二の『シャドーボクサー』だ。アップテンポのこの曲を、ギター一本でボサノバ風に変えてゆったりと歌っていた。とても静かな、穏やかな気持ちになったひと時を覚えている。会話しなきゃいい人なのに。

「ハナ、何か歌ってみろよ。逃げ出したバツに。」

「冗談ですよね、あたしなんかに。」

「本気だよ。」

「ハナちゃんの歌うとこ、見た事ない。」

「そうよね、中山くん。」

「だから聴いてみたいですよね、内田さん。」

「もう!中山くん。」

「マッチとトシちゃん、どっちが好き。」

「?」

「どっちが好きか聞いてんだよ。」

「あ、あたしはどっちかっていうとトシちゃんですかね。」

「じゃ、『恋はDo!』。歌わなくていいから、踊ってみな。」

「おおおお踊るぅ!?」

「歌って踊るのと踊るだけなのとどっちが楽だと思う?」

「そりゃ、踊るだけの方ですよ。」

「だから楽な方でいいよ。踊ってみな。」

無茶苦茶な理論だった。ただ花菜は、歌わなくて助かったと不覚にも少しほっとした。

 内田が花菜の返事を待たずに前奏を始めた。中山が口で前奏のメロディを口ずさむ。サビから始まる『恋はDo!』を、そこにいる数人が歌い始めた。

「はい、ハナちゃん、これ、マイク。」

萩原が大型の栓抜きを花菜に手渡した。手拍子が始まった。中山、萩原、河合から始まった手拍子と歌が、段々と周りを巻き込んでいく。サビを歌い終えると、また前奏に戻り、サビの歌。それを何度も繰り返している。花菜が立ち上がるまで延々と続きそうだ。立ち上がらなければ、踊らなくて済む。その代わり宴席は白けてしまうだろう。盛り上げて恥をかくか、白けさせて失望を買うか。

 何であたしが!と心で叫んで、花菜は勢いよく立ち上がった。その瞬間、ほぼ漫研全員の拍手と歓声が上がった。

「下手に恥ずかしがると、却ってみっともなくなるから。」

河合が同時に立ち上がって、花菜の耳元でそう言うと、何事もなかったようにまた座った。

 花菜はこの歌が好きだった。歌だけでなく、振り付けが好きだった。ジャPAニーズが後ろで踊る、特に女の子の仮面を被ったパートの踊りが大好きで、テレビに映る度に実はいつもじっと見入っていた。お陰で何となく踊れた。きっと内田たちは適当にリズムを刻む位の予想をしていただろう。だから花菜の目に映るみんなの顔は驚いて、そして思い切り笑っていた。

 そういえば高校の体育で創作ダンスの授業を受けた時、花菜だけダントツの成績を貰った事を思い出した。目立たない生徒を演じていたので、その時は後悔したけれど。

「ハナちゃん、見えないよ!」

「こっち向いて!」

みんな好き勝手言っている。ダンサーじゃないんだから、立ち位置まで気が回らない。そう思いながら花菜の目にホールから教職員食堂に昇る内階段が映った。踊場がまるでステージのようだ。でもその周辺は知らない他の団体の席だ。歌は漫研全員の大合唱になってホール中に響いている。遠くの方からも花菜のダンスを見つめている人がいる。吹っ切った。内階段までステップを踏んで近づいた。知らない団体の人たちが、驚いた事に全員手拍子で花道を作ってくれた。一緒に歌っている人がいる。みんな笑顔だ。一気に階段を駆け上がった。高い位置に昇ってほっとした。みんなの顔が遠ざかったからだ。ここなら自分の部屋にいるつもりで踊れる。テレビにトシちゃんとジャPAニーズが映っている。それを真似て踊る。

 歌はエンディングになった。みんなの歌声が途切れた。ギターと手拍子だけ続いている。内田と目が合った。内田の口が動いている。カウント。4・3・2・1と繰り返している。わかりました、と頷いて返した。直後の4、でターン、3、でジャンプ、2、着地、1、決めポーズ。内田のギターとぴったり合った。一瞬の間を置き、ホールは拍手と歓声に包まれた。

 歌が終わると花菜は一瞬にして素に戻った。恥ずかしさが爆発した。深々とお辞儀をし、頭を上げないで階段を下りようとした時、また声が掛かった。

「アンコール!アンコール!」

瞬く間にホール全体に広がった。

「アンコール!アンコール!」

降りようとする足が竦んでしまった。こんな時どうしたらいいのか、河合がまたアドバイスをくれますように、本気で願った。アンコールの合唱をかき消す位の音量で音楽が流れ始めた。誰かがカセットテープを回した。漫研の席からではなく全く別の方向から。

 またトシちゃん。『哀愁でいと』。これって、これも踊れって事なのか迷った。『哀愁でいと』はイントロが短い。迷ったのは一瞬だ。歌の始まりと同時にステップを踏み出した。拍手がまた起こった。

 トシちゃんが歌手デビューした去年、テレビに映る度に似顔絵の練習をした。『恋はDo!』より振り付けが単純で曲も短いので、花菜は知らない間にほぼ完璧に踊りを覚えていた。羞恥心がまた何処かへ消えた。フルコーラス覚えていたので、口パクも完璧だ。

テープのトシちゃんに合わせ、また合唱が始まった。1番が終わると同時に花菜は階段を駆け下りた。漫研の席まで全力で向かった。漫研の1年、2年が握手を求めてきた。狙った通り。ライブを演出してみた。2番のサビが始まる前に踊り場に戻らなければ。サビに間に合わなかった。他の団体の人からも握手を求められたからだ。

2分47秒はあっという間だ。エンディング。リフレインの音量が下がった。フェイドアウトだと気が付いた。階段を降り、手を振りながら走ってホールの出口に向かった。握手を求められたが、走るスピードが速すぎた。曲が終わった。拍手が鳴り止まない。出口に向かう通路の途中、花菜は左に折れ、見たことも無いサークルの一団の前で立ち止まり、ここでも深く一礼をした。

「音楽、ありがとうございました。」

カセットデッキを持ち込み、花菜のために『哀愁でいと』を掛けてくれた人たちにお礼をした。

「よかったよ。」

「もうお終い?」

その場を離れて出口に辿り着き、振り返ってもう一度お辞儀をして外へ出た。走ってまたトイレに駆け込んだ。トイレの中まで拍手が追い駆けてきた。


「すごいよ!ハナちゃん、何であんな事出来るの。褒めてるのよ。」

「止めてよ。自己嫌悪なの。暫くは憂鬱が続くと思う。」

「踊りも上手。それよりあれだけの人数を盛り上げられるのって才能よ。見直した。」

「止めてってば。暫くBOX行かない。」

 大学を出て新宿に向かう総武線の中で、松田と川西は話題をさっきの田原俊彦から変えてくれなかった。

「ハナちゃんがトイレに隠れている間、凄かったのよ。あの子誰って、他のサークルの人とかいっぱい聞きに来て。明日声掛けられるから。覚悟しといて。」

「明日は学校に行きません。美容院で髪切ってきます。」

「そんな事してもハナちゃんって目立つから。無駄だと思う。本当に恰好良かったんだから、自信持って。見ていて鳥肌が立った。」

「あんな事しちゃったんだから、目立つはずだよね。」

「そうじゃないの。今日のは関係無いよ。普段のハナちゃんが目立つのよ。どこがって言えないけど。見た目じゃなくて、もっと別なところ。一言で言うと雰囲気かな。それだけじゃないと思うけど。だから服とかヘアスタイルとか変えても無駄なんだって。」

「知らなかった。ありがとう由紀ちゃん、教えてくれて。」

「そうそう、そういうところもそうだよね。意識して目立とうとしてる訳じゃないから、却ってインパクトが大きいんだよ。自然体でしょ、ハナちゃんって。自分のボリュームに気が付いてないのよ。」

川西もやっと話題を変えてくれた。それよりも目立つと言われた事に軽いショックを覚えている。

「それって、良い事なのかな。あたしって鼻につかない?正直に言ってね。お願い。」

「良い事に決まってんじゃん。目立つって人を惹きつける事なんだよ。もっと言うとね、ハナちゃんと一緒にいると、自分も優しくなれる気がするの。尖ってた自分がバカみたいに思えてくるの。」

「ああっ、麗ちゃん。」

「どうしたの。」

「それってあたしの花菜って名前を付けた時の、お父さんの願いだった。名前の由来なの。ちょっと複雑なんだけど。」

花菜は母から聞いた菜の花畑の話をした。カナには応えず、ハナと呼ばれた時だけ笑顔を返した、生まれたばかりの自分の事も。

「いい話。お父さんの気持ちをずっと大切に思ってるなんて、やっぱりハナちゃんは純粋なんだね。今日のトシちゃんだって、周りの雰囲気を壊したくなくて、仕方なくやった事だったものね。本当は分かってたんだよ、麗ちゃんも私も。」

 

 3人が笹塚駅で降りた時、もう10時になろうとしていた。

「遅くなっちゃったね。かすみちゃん帰って来てるかな。」

松田が時計を見ながら少し不安そうに呟いた。2夜続けて花菜の部屋に3人が向かったのは、西村との約束のためだった。

「あ、電気点いてる。」

道路から見上げた花菜の部屋の隣から、煌々とした明かりが漏れている。川西を先頭に松田と花菜が続く。花菜の部屋には目もくれず、川西が西村の部屋をノックした。一番背の高い川西が先頭じゃ様子が分からない。松田も花菜と同じ考えだったようで、3人はまたトーテムポール状態になった。

「はーい。」

中から聞こえたのは弾むような高い声。その声を聞いてひとまずほっとした。鍵を開ける音がして、中から西村の顔が覗いた。

「あれ、3人揃って。ハナちゃん、今日帰って来ないかと思ってました。学祭の打ち上げって聞いてたから。」

「約束忘れる訳ないじゃん。打ち上げどころじゃないよ、心配で。」

「ありがとうございます。どうぞ、入って。」

 花菜は初めて西村の部屋に足を踏み入れる。松田は今朝花菜と川西が寝ている間に一足先に訪れていた。正対称という点を除いて、花菜の部屋と全く同じ間取りの部屋は、全く違った世界だった。精一杯女の子の部屋だった。パステル系でまとめたインテリアやファブリックが所狭しと、それでいて整然とレイアウトされている。グレイッシュピンクのカバーが掛けられたベッドが目立つ。脇に置かれた一人用の炬燵にもストライプ柄の炬燵布団が掛けられている。

「すみません、狭くて。座れますか?」

「うん、大丈夫。気を使わないで。」

「ごめんね、遅くに大勢で押しかけちゃって。ごはん食べた?」

川西と松田が続けざまにしゃべった。

「ごはんはしっかり食べました。昨日飲ませてもらったワインが美味しくて、一人でこれ飲んでました。」

炬燵の上にボルドータイプのボトルが置かれている。

「飲みますか?白ですけど。」

「いい、いい。かすみちゃんの分が無くなっちゃうでしょ。」

「大丈夫ですよ。もう1本買ってありますから。」

西村は殆ど川西に向けて話していた。

「そう、じゃ1杯だけ、貰っちゃおうかな。」

「きっぱり、ふられてきました。」

 川西にグラスを渡しながら西村が言った。聞き難かった事をあっさりと言われ、3人は却ってどきっとしてしまった。

「帰って会って来て良かった。帰らなければやっぱりいつまでも引きずっていたと思います。」

花菜と川西は言葉が出ない。

「そうなの。前を向く気持ちになれたんだね。だったら良かった。」

「突然会いに行ったので、彼も友達もものすごくびっくりしてました。2人とも私に何度も何度も謝ってました。私はどうしてこうなってしまったのか知りたかったんですけど、人の心が離れてしまったり惹かれあったりするのって、結局理由なんて無いんですね。」

「そうね。人の心をあれこれ左右するのも難しいわ。」

「そう思いました。彼も友達も、それぞれ自分の責任だって言うんです。彼は全て心変わりをした自分が悪い、友達は友達で私の気持ちを裏切って、彼と付き合い始めた自分の罪だ、と。お互いを思い遣っている2人を見ていたら、ああ、私が入り込む場所はもうどこにも無いんだなって思いました。」

「それって、やっぱり辛かったんじゃない。我慢してるでしょう。」

「麗ちゃん、そんな言い方しなくても・・」

「そうじゃないのよ、ハナちゃん。かすみちゃんは偉いよ。失恋にけじめを付けに行くなんて、勇気が無いと出来ない。それだけにあたしたちに気を使って自分の気持ちに蓋をしているんじゃないかな。かすみちゃん、あたしたちを気遣う必要なんて無いんだからね。」

「気遣っていません。別れ際、彼が友達を先に帰らせて、2人だけになって私に最後に謝ってくれたから、吹っ切れたんです。その時間が無かったら、まだ辛くて泣いていたかも知れません。」

「本当?」

「はい。彼は最後に言ってくれました。私と付き合った2年があったから僕は今の僕でいる事が出来るんだ、と。誰に何と言われても2年という時間はこの先ずっと僕の中で大切な宝物になる、と。」

「その言葉、信じられる?」

「いえ、言い訳かも知れません。私を諦めさせる方便かも。私が吹っ切れたのは彼の気持ちを聞いたからじゃないんです。私の気持ちを持っていく場所を見つけたからなんです。私と彼が付き合った2年を、私が大切してあげなければどうするの。私はその2年、幸せでした。それと同時に、私は真剣でした。だから誰からも文句言われる筋合いは無いんです。この二年と私はずっと向き合って生きていける、この2年を私は自慢して生きていける。そう思えるようになれたんです。嘘じゃないですよ。そう思って・・・」

「いい子ね。強い子ね。」

花菜は西村の傍らに寄り添い、肩を抱き寄せた。泣くことを否定していた西村だが、しゃべっている後半は涙声だった。それでも花菜や松田、川西の目をしっかり見据え、話し続けた。堂々としていた。西村の肩を抱いたまま、花菜はそれ以上の言葉を掛けられなかった。松田も川西も黙っていた。動き出したのは西村からだった。

「ハナちゃん、結構お酒飲んでますね。お酒くさいですよ。」

くすっと笑った西村が可愛くて、もう1度ぎゅっと抱きしめた。

「連チャンだけど、飲もう。昨日のワインも残ってるし。」

川西の提案に誰も依存はなかった。そこにいた全員が泣き笑いでグラスを掲げた。


 1981年のクリスマスから年末、1982年年明けまで、SOスタジオからの製作依頼が殺到した。世間が浮かれている時期に、花菜はアルバイトで大忙しだったが寂しくはなかった。

 梶原に対しては心の整理をした。西村の覚悟に比べたら簡単な事だと言い聞かせた。年下の西村から教えて貰った。梶原を好きになった自分の心は大切にしよう。責任は花菜自身が取る事だ。そう決めて以前と変わらないペースで依頼を受けた。花菜もしっかり前を向いて動き始めた。

 学祭の最終日に渡されたメモの相手にも電話した。最初は無視してしまおうと考えたが、勇気を出してメモを託した相手に礼を失する事になると思い直した。電話口でその同級生は花菜に告白をした。2年の時に花菜に似顔絵を描いてもらい、好きになったと言っていた。1年越しで思いを伝えてくれた勇気が嬉しかった。心から礼を言い、断りの気持ちを正直に伝えた。

 漫研の幹部も次の学年に引き継いだ。新会長は北川、編集長は前島になった。


 1982年に入って、恵比寿駅に降りるのは大学に行く回数より多いかも知れない。半年も通っていると、担当の梶原以外にも仲のいい社員が数名出来た。

「掛井さん、卒業出来そう?」

「何とか。卒論がどうにかなれば、ですけど。」

一番会話をする斉藤健太は梶原の部下だ。梶原が居ない時に花菜と色々打ち合わせをする。年齢は去年25歳になった。モミアゲを短くカットした流行の髪型にしているが、どことなく欽ちゃんに似ている横顔が花菜を和ませてくれる。

「掛井さん、卒業したらどうするの?田舎帰るの?」

「いえ、まだ決めていません。全然考えてないんです。」

「そう、東京に居るんなら、ウチの会社に入っちゃえばいいのに。」

「え、あたしなんて雇ってもらえるんですか。」

「掛井さんのファン、ウチの会社に多いんだよ。絵もそうだし、掛井さん自身にもね。」

「ありがとうございます。あたしなんかに気を使っていただいて。」

「ほんとだよ。掛井さんが入社してくれたら楽しいのにな。」

「無責任な事言うなよ、健太。掛井さん困らせるなよ。」

梶原がパーテーションで仕切られた打合せブースから顔を出した。

「梶原さんだっていつもそう言ってるじゃないですか。」

「就職は人の人生を決める大事な選択なんだぞ。お前の好みでいい加減な事薦めちゃだめだ。」

 9ヶ月したら自分の行き先は決まっているはずだった。


 正月、束の間実家へ帰った時、母と相談しようと思ったが、結局そういった話は出ず終いだった。もっとも母の性格からすると、花菜が相談を持ち掛けても、花菜が思った通りの進路にしなさいと言われるのは目に見えていた。











1982年  やさしい時間


 卒論をコッポラ、スピルバーグ、ルーカスの映画に関する論文で進めようと決めたのは、教授との面接を5日後に控えた4月の初旬だった。中学校3年の冬、近所に住んでいた年上のお姉さんと一緒に『アメリカン・グラフィティ』を観に行った。毎週金曜日のゴールデン洋画劇場で見る洋画以外映画に興味は無かったが、雑誌で紹介されていたこの映画を観たくて仕方が無くなり、無理を言って連れて行ってもらったのだ。これ以降、何かと比較される3人の映画監督に、この時から惹かれるようになった。4日間で卒業論文の骨子を固め、面接用の資料を用意して何とか乗り切る事が出来たが、そこから先に筆を進めるまでにはまた暫く時間を要した。


 今年も10人以上の漫研への入部希望者がいるそうだ。その事をBOXではなく、パウワウでアルバイトしている時に北川から聞いた。

「ハナさん、新学期になってから、BOXに来るよりパウワウでバイトしている方が多いんじゃないですか?ひどいですよ。もっと顔出して下さいよ。」

「ごめんなさい。今度の夏休み中に、車の免許を取らなくちゃいけないの。教習代貯めないといけないからバイト増やしているの。」

春休みに母と話をして、母から言われた。就職に、少なくとも自動車の普通免許は必要になる。仕事に就いてから取るのは大変なので、学生のうちに取っておいた方がいい。

「ハナさんが車の運転なんて、イメージ沸かないな。」

「そうとも言えないぜ、北川。去年の学祭思い出してみな。ハナさんのリズム感は半端なかったじゃん。」

「いやー、止めて、平川くん!思い出させないで。」

「今年の打ち上げも、お願いしますよ。」

 パウワウの西田から、授業が減ったならバイトにもう少し入ってくれないかと頼まれ、週4日に増やした。似顔絵のアルバイトは去年1年間後輩に任せ、殆どしていなかった。

 梶原はこの4月の人事異動で第一営業部長に昇格した。33歳にして部長昇格は異例の出世らしい。それまで担当だった紙媒体は第二営業部に移行し、第一営業部は電波媒体の製作が中心になる。従って花菜とは4月以降殆ど接点が無くなってしまい、花菜の担当は斉藤健太に移った。それでも花菜が会社を訪れて顔を合わせる度、以前と変わらない接し方をしてくれる。1人の男性として、そして社会人として、憧れが尊敬に変化しつつあった。



「ハナさん、似顔絵のバイト、お願い出来ませんか。」

 北川から電話が掛かってきたのは、花菜がビデオデッキのパンフレットを眺めていた日曜の夜だった。卒論の作業のため、ビデオデッキの購入を考えてみた。VHSデッキは安くても15万円を越えており、諦め始めた矢先だった。

「どうして?4年生が出る幕じゃないでしょう。」

「それが、みんなビビっちゃって。場所が場所ですから。」

「どこ?」

「銀座六丁目のクラブです。」

テレビでしか知らない世界。格も価格も客層も日本一の飲み屋が軒を連ねる街。飲み屋という言い方が適切でない事は分かっている。

「そんな所で似顔絵のアルバイトなんて、ほんとにあるの?」

「本当ですよ。開店10周年か何かのイベントなんですって。出版社から回って来た仕事なんで、怖い店じゃないみたいですよ。」

「怖い店じゃなけりゃ、どうしてみんなビビってるの?」

「だってたった2時間で2万円ですよ。それが2日間だから合わせて4万円。破格でしょ。しかも夕食付き。そりゃビビりますよ。下手な似顔絵描いたら絶対文句言われそうで。」

「あたし1人で行くの?」

「いえ、2年の佐々木さんが行きます。2人でと依頼されたので。」

「彩ちゃんか。確かに彼女なら行きそうね。で、いつ?」

「今週末の金土の夜。9時から11時です。」

パウワウのバイトは毎週月曜日から木曜日の4日間だった。一応2日とも空いている。

「じゃ、木曜日の夕方に一度BOXに行くわ。その時までに他にいなかったら行かせてもらうね。」


 佐々木は確か5月が誕生月だったはずだ。だからもう20歳になっている。銀座のクラブで夜11時迄働いていても問題は無いはず。

 結局花菜は6月の第2金曜日、銀座に向かった。佐々木とは分かり易いように三越のライオン像前で、午後8時15分に待ち合わせた。店の場所は図書館でゼンリンの地図を見て、何度も下調べしたので間違えないはずだ。ただ肝心の佐々木が10分遅刻した。

「すみませーん、遅くなりました。」

「何?その恰好。」

遅刻した事より佐々木の姿に目を奪われた。

「だって銀座のクラブだからこういう服だと思って・・」

まるで結婚式に出席する友人の服装だ。薄ベージュのサテン地のワンピース、胸元は大きくドレープが幾重にも連なっている。さらに黒の大きなコサージュ。極め付けはその上に羽織ったオーガンジーのショールだ。

「それと、その目、どうしたの?」

メイクも普段の佐々木と比べて5倍は時間を掛けただろうと思われる念入りさだった。それが目元だけ大きく黒ずんでいる。

「お父さんと喧嘩しちゃいました。バイトに行くなって言われて。」

「それで泣いたの。」

「はい。」

「お父さん、似顔絵のバイト、だめだって?」

「いえ、急いでいたから銀座のクラブにバイトに行くって言いました。似顔絵って言わなかったかな。」

この時間、この服装、銀座のクラブでのバイト。

「そりゃお父さん、だめって言うわよ。」

「何でですか?」

「とにかく急ごう。遅れちゃまずいわ。」

余裕を見て待ち合わせてよかった。それでも小走りにバイト先に向かう。パンプスの佐々木は走りにくそうだが仕方ない。花菜も一応地味なスーツにヒールを履いて来た。

 途中公衆電話を見つけ、立ち止った。

「彩ちゃん、家の電話番号教えて。」

「は、はい。」

佐々木の家に電話をし、父親の誤解を解いておこうと思った。怒りが収まっていない口調の佐々木の父を何とか説得し、バイトが終わり次第もう一度電話する約束をした。

「よかった。じゃ、急ぐよ。」

 下調べをした地図でシミュレーションをした通りの位置に看板を見つけた時にはほっとした。『G』と書かれた看板は、わざと目立たないようにしているのかと思える位小さなネオンだった。黒地にシルバーの文字。同じようなクラブが幾つも入っているビルの5階。

「そうだ。」

「あっ。」

エレベーターの中で花菜は佐々木のメイクを直した。時間が無くて目元を触る程度で。

「このままじゃパンダだから。着いたらトイレ借りて直そうね。」

5階には程なく到着した。狭い廊下に4つドアが並んでいる。どれも想像していたよりも遥かに小さな扉で、それでも表面を見ただけでその重厚感に圧倒される。エレベーターを出て向かい側の、2つ目のドアが目的のクラブらしかった。店の看板ではなく、扉の両側に飾られた花でその店と見当を付けた。ここにきて緊張感が急に高まってきた。物怖じしない佐々木もさすがに足が震えているようだ。花菜は努めて平静を装い扉に手を掛けた。ちらっと目に映った時計は9時5分前を指していた。失礼の無い到着時間だ。

「失礼します。初めまして、H大学漫画研究会の掛井と申します。似顔絵のご依頼を戴きまして伺いました。宜しくお願い致します。」

扉を開け、挨拶をしながら店内を見渡す余裕は残っていた。思いの外狭い店内。ボックス席が6つ。いずれも4人から6人掛けの小さなテーブルだ。店の中央から奥に向かってカウンターが伸びている。素材は見当もつかないが、一枚板という事は一目で分かった。

「まあ、こんなに可愛らしいお嬢さんにお越しいただけるなんて思いませんでした。こちらこそ宜しくお願い致します。私、志津子と申します。こちらはマスターの酒井、あとさくらと小枝子。もう少ししたらあと4人出勤します。」

紹介されたマスターと女性2人は、それぞれ花菜と佐々木に軽く会釈をしてくれた。開店前の準備をしながらの挨拶だったので、丁寧な自己紹介は省略したらしい。

「来た早々で恐縮ですが、レストルームをお借り出来ませんか。」

トイレと言おうかお手洗いと言おうか迷った結果、普段一度も使った事が無い言い方が口を突いた。きっとこの世界に最も適した呼び名があるに違いない。一言しゃべるだけで疲れてしまいそうだ。

 レストルームも手入れが行き届いている。嗅いだことが無いいい匂いが鼻をくすぐる。佐々木を前に立たせ、手早くメイクを直した。他人のメイクをするのは初めてだ。原宿のブティックで内田の同級生の女性にメイクをしてもらった事がある。もう3年も前の話だ。慣れた手つきで仕上げていく花菜のメイクに佐々木は感心した。

「ハナさん、お化粧上手ですね。」

「彩ちゃんの歳の頃はね、あたしは彩ちゃんより下手だったのよ。」

「えー、信じられない。」

レストルームに籠っていたのは僅か4分だった。改めて店内を注視しながら歩くと、その暗さが気になり始めた。

「改めまして、酒井と申します。宜しくお願い致します。」

マスターの酒井は60歳を越えるか越えないか、シルバーの髪をきれいに後ろに撫でつけ、純白の光沢のあるドレスシャツを着ている。

「あ、あたし掛井花菜と申します。宜しくお願い致します。」

「佐々木彩です。宜しくお願いします。」

一度座りかけたソファから慌てて起立し、頭を下げた。最初に挨拶をした志津子がママ。絵に描いたような和服姿の美人だ。嬉しいのは花菜たちのような女子大生に対しても丁寧に、優しく接してくれている事だ。お陰で緊張が少しほぐれた。銀座の接客術に感心する。

 程なく入口の扉を開けて女性が4人入って来た。

「あ、梓さん、美恵さん、美紀さん、瑞希さん、こちらに来て。」

志津子ママが入って来た女性を呼び寄せた。

「こちら、今日似顔絵を描いて下さるH大の掛井さんと佐々木さん。どうぞよろしく。」

「あ、はい。初めまして美恵と申します。」

「梓と申します。宜しくお願い致します。女性の方だったのですね。意外でしたわ。」

花菜と佐々木は今日4回目の挨拶を丁寧に繰り返した。

「酒井さん、何か飲み物出して上げて下さる?何がいいかしら。」

一応遠慮はしたが、オレンジジュースが目の前に置かれた。

「あの、お時間宜しければ、皆さんの似顔絵描かせていただきましょうか。ご迷惑でな無ければ。」

このままじっと客を待つのが苦痛だった。

「あら、いいのかしら。さくらさん、描いていただきましょうか。」

「お願い出来たら、描いていただきたいわ。」

さくらと呼ばれた女性が近づいてきた。きっとこの人が小ママだ。美容院でセット仕立てのウェーブの髪が美しく、スタイルは抜群だった。目鼻立ちがはっきりした顔に湛えた笑顔は全く嫌味が無い。

「小枝子さん、あなたも一緒にどう?」

逆に小枝子は中でも一番若年に見える。それでもその所作には隙が無い。小柄で短めの髪に、切れ長の目が理知的な印象を与えている。

「わあ、嬉しい。私、1度も似顔絵描いていただいた事が無いので。」

花菜がさくら、佐々木が小枝子を描く事になった。目の前に座ったさくらが一瞬恥らう仕草を見せ、慣れないポジションに置かれた故の緊張感が伝わってきた。佐々木と花菜にとっては得意のフィールドで落ち着きを取り戻し、2人とも奔放にペンを走らせた。

「すごい!プロですね。さくらさん、貴方、そっくりよ。」

「ママ、見て下さい。私もこんなに素敵に描いていただいて。」

「嬉しいわ!家宝にします!」

「だめですよ。お店に飾っておきます。」

全員が花菜と佐々木の似顔絵に注目して来た。酒井までカウンターを離れ、後方からしきりに感心している。

「おや、今日は賑やかだね。さすがに10周年だけある。」

「あら、山下様。ようこそお越し下さいました。申し訳ございません、どうぞこちらへ。」

 見るからに高級そうなスーツを着込んで年配の紳士が現れた。解けた緊張がまた花菜と佐々木を縛り始める。

「お、ママ、新人?それにしちゃ若すぎないか?」

「いえ、この方たちは似顔絵の先生。H大学の漫画研究会の方たちです。10周年のささやかなイベントで、2日間来ていただいているのですよ。ハナさん、と綾さん。」

花菜たちが話題の中心になったことで益々緊張が高まる。なるほど、苗字で紹介されるより名前の方が店の雰囲気に合っている。

「宜しくお願い致します。」

「そうですか。何年生?」

「あたしは4年です。この子は2年生です。」

「ママ、私も描いてもらっていいのかな。」

「はい、いいですよね、ハナ先生。」

呼び方が先生になっている。即座に訂正してもらいたかったが、客の前では憚られる。

「はい、是非描かせて下さい。どうぞ。」

 この山下を皮切りに、10周年のお祝いを兼ねてやってくる男性客は後を絶たなかった。開始時間が遅くなった事もあり、あっという間に11時になった。

「そろそろお時間ですね。先生方、今日はどうもご苦労様でした。」

正直描き足りない気分だった。もう少し時間延長してもいいと思ったが、志津子ママがそれを許さない様子だ。

「先生、どうぞこちらへ。」

酒井がカウンターも向こうで手招きをしている。

「こんな時間になりましたけど、奥の部屋にお食事をご用意致しました。どうぞ召し上がって下さい。」

言われるままに部屋に入ると、テーブルの上には特上の握り寿司が置いてあった。佐々木と顔を見合わせ、今日一番恐縮した。

 店の外に出た時は11時半を回っていた。慌てて佐々木の家に電話を入れるため、公衆電話を探した。佐々木の家は西部新宿線沿いの上石神井にある。銀座から帰るには遠く、両親の心情を考えると一人で帰すのは心配だ。

「綾ちゃん、今日うちに泊まる?」

「ええ、いいんですか、やったー嬉しい。」

「お風呂無いよ。あたしは入って来たからいいけど。」

「いいですよ、私も入ってきました。それと朝までおしゃべりしていれば気になりません。」

「えー、寝ようよー。」


 クラブでのアルバイト2日目。一旦佐々木と別れ、もう1度三越前で待ち合わせをした。直接お店でもいいだろうと言っても佐々木が首を縦に振らなかった。その代わり服装とメイクは地味なものにする事、待ち合わせを8時にする事を指示した。

 現れた佐々木の姿は何とか合格ラインだ。

 早めに出向いたのは、店の人たちの似顔絵を開店前に描こうと思ったからだ。志津子ママや梓、美恵、美紀、瑞希と酒井まで全員に喜んでもらえた。開店前に全員の似顔絵がカウンターに並んだ。

「4年生なら今年就職だね。どういうところ狙っているの。」

今日五人目の客は比較的ラフな恰好の、50歳前後の紳士だった。

「まだ具体的に考えておりません。東京で就職するか田舎に帰るかも決めていないので。」

「田舎ってどこなの。」

「静岡県です。」

「それ程遠い所じゃないね。掛川市は近いの?」

「え、よくご存知ですね。高校は掛川です。」

「ほう。掛川には知り合いがいてね。確か5年前に夏の甲子園に出場していたんじゃなかったかな。」

「はい、その高校です。あたしが2年生の時でした。」

花菜は出来上がった似顔絵をその客に渡した。

「うん。良く出来てる。」

暫く花菜の絵をじっくり眺めている。観察しているようだ。

「君は英文科だったね。学業の方は疎かになってない?」

「そうですね、普通にやってきたつもりですけれど。」

「Good night, good night. Parting is such sweet sorrow,・・・」

「That I shall say good night till it be morrow. ありがとうございます。そう言っていただけて。」

「僕はこういう所で仕事をしている。よかったら遊びにおいで。」

「はい。ありがとうございます。」

「じゃ、おやすみ。ママ、今日は帰るよ。明日ゴルフで早いから。」

手渡された名刺に、すぐ近くの住所が記されている。一番上に『DPエージェンシー株式会社』とある。役職は制作企画室室長。花菜でも分かる日本で指折りの広告代理店だ。

「ハナ先生、シェイクスピア、お見事でしたね。」

「あ、いえ、たまたま覚えていただけです。映画も観ていたので。」

「何の映画?どういう意味なんですか?」

「ロミオとジュリエット。のジュリエットの有名なセリフ。別れがとても甘くて悲しいから、朝になるまでおやすみを言い続けますねっていう意味、だったと思う。綾ちゃんも観てみたら。感動するよ。」

「私、アニメしか観ないんですよね。」

 帰り際に2日間のアルバイト料が入った封筒を渡された。

「本当にありがとうございました。10周年を盛り上げて下さって。」

「あたしたちの方こそ。貴重な社会勉強をさせていただきました。」

「ハナ先生、福田さん、今日名刺を渡された方ね、あの方訪ねられたらいいわ。貴方ならこの店でも働いていただきたいくらい。」

最後まで先生という呼び方を止めてくれなかった。

「ありがとうございます。褒めていただいた事、このお店の事、皆さんの事、忘れません。」

 店を出、佐々木と2人で封筒を隠すように中を確認した。きっちり四万円入っていた。これだけ貰ってもVHSデッキには程遠い。



 花菜と同様に単位の心配が殆ど無くなった松田が、花菜の部屋に遊びに来る事が多くなった。松田は練馬から三軒茶屋に引っ越した。この年から大学に入学した妹と一緒に住むようになったためだ。花菜の方からは彼女の妹に気を使って行き辛くなった。一緒にいて何をするでもない。興に乗れば時間を忘れておしゃべりをするし、2人してぼーっとテレビを見ているだけの時もある。冷夏はもうここ数年の定番のようになった。7月の半ばになるのに30度を越える日が1日も無い。クーラーの無い花菜の部屋にとっては恵みの天候で、松田と2人、今日ものんびりと過ごしていた。

「ハナちゃん、私たちこんな事してていいのかな。」

「どうして?」

「卒業まで、あと10ヶ月切っちゃった。何かやり残した事があったら、今のうちから始めないと。」

「由紀ちゃん、あたしはこうしている時間も、ものすごく貴重だなって思ってる。」

「こんなダラダラしてるのに?」

「感じ方だよ。時間があたしに優しいの。とても優しく流れてくれてるの。あたしはそれが心地いい。4年生になって初めて味わった感覚だわ。」

「詩人ね、ハナちゃんて。」

「でもそう思わない?東京で1人で生活してきて、勉強はそれなりに、漫研やアルバイトや人間関係に一生懸命だった。お陰で得られたものは数え切れないけど、時間とはいつも追いかけっこだったでしょ。ご褒美だよ、今は。辻褄合わせに慌てて始めた事なんて、きっと辛くなるだけよ。だったら今日こうして由紀ちゃんと一緒の時間を過ごしている方が、よっぽどいい思い出になる気がする。もうすぐ時間はあたしたちに容赦なしに冷たくなるから。」



 花菜は路上教習の前、仮免に落ちた。久し振りに落ち込んだ。

 実家から送迎バスで15分程度、東海道線袋井駅南にある自動車学校に7月の終わりから通い始めている。首都圏では教習所と呼ばれる所が花菜の田舎では自動車学校に当たる。この地方で教習所と言えば、実地免除が無い、単なる運転を教える場所を指す。少しはいるだろうと思っていた同級生は殆ど免許証を持っており、入校してみたら周りは10代の年下か中高年の女性だった。年下の、特に男の子からは最初同年扱いの口調で話し掛けられたが、ひょんなきっかけで花菜の年齢が広まった途端に『お姉さん』に呼び名が変わった。

 仮免に落ちた時、運動神経はいい方だと思っていたショックと、年下から慰められたショックが重なった。


「花菜、ダムの南の廃工場、行ってみた?」

花菜の名付けの由縁になった場所。ここ数年は母と花菜の間で話題に昇った事が無かったので胸の奥が騒いだ。

「ずっと行ってないよ。どうして?」

「5月に取り壊されたよ。」

「えっ、そうなの?」

何かの予感がした。

 その夜、父の夢を見た。父は笑顔でこそあったが、遠くから花菜を見つめているだけだった。2年の夏合宿の夜、星空からあれだけ花菜に話し掛けてくれたのに。夢の中で寂しくなった。


 2回目で仮免に受かった。年下たちが『お姉さん、おめでとう。』と祝福してくれた。複雑な気持ちもあったが素直に受け取っておく事にした。

 仮免に受かった週末、母が留守の間にダムまで自転車で向かった。

 中学校を越え、急だったり緩やかだったりする坂をいくつも上った。右に曲がるカーブの先に廃工場があるはずだった。今目の前に広がる光景は、花菜の記憶には無い、広々とした平地。かつて花菜が生まれるもっと前、同じ景色がここにあった。記憶に無いこの場所が、花菜の新しい記憶に刻まれた。


 自転車を置き、平地の中に足を踏み入れてみる。日差しが、風が、温度が、靴底の感覚が、花菜の中に少しずつ、確実に入ってくる。じりじりとした夏の香りが鼻をつく。目を閉じたらもっと鋭く感じる筈だ。それでも前に進む足取りに澱みは無い。見えなくても怖くない。まるで信頼する人に導かれているような感覚。

瞼の奥に小さな顔が浮かぶ。誰なのかは遥か昔から知っている。夢では何も話し掛けてくれなかった。近づく度に声がどんどん大きくなる。花菜の名前を呼んでいる。

「お帰り、花菜。」

「ただいま、お父さん。」

 目を開けた足元に黄色い花が3輪芽吹いていた。



 9月初旬、北川からまた依頼を受けた。わざわざ実家に電話を掛けてきた。似顔絵の研修をやって欲しいという事だった。

「どうして。前島さんだって綾ちゃんだっているじゃない。あたし、就職活動しなきゃいけないのよ。」

「だから、本格的に会社訪問する前にお願いしたいんですよ。でないと学祭に間に合わない。バイトだって手が足りないんです。人材不足なんですよ。」

「前島さん教えるの上手よ。綾ちゃんちょっと頼りないけど。」

「前島さんならいつでも頼めるんですよ。ハナさんは今しか無い。」

あまりに熱心に頼み込んでくるので最後には承知した。

「いつ頃やればいいの?」

「来週の土曜日、いいですか。帰ってきます?こっちに。」

「来週中頃には戻るつもり。でも土曜日ったら定例会じゃない。」

「そう。定例会の後で。」

「OK、わかりました。」


 4年生になってから定例会は数える程しか出席していない。中山や山本はほぼ毎回出席しているそうで頭が下がる。今日のテーマは夏合宿の反省だった。花菜は自動車学校通いだったので参加出来なかった。従ってこの定例会で発言する事も無い。手にしたばかりの免許証を眺め、自然と笑みがこぼれた。

「ハナさん、ニヤニヤしてないで、聞いてて下さいね。」

「はーい、ごめんなさい。」

副会長の佐藤に叱られた。

 定例会は午後2時を待たずに閉会した。

「北川くん、BOXで待ってるから。」

「あ、ハナさん、すみません。このままここで、お願いします。」

「ここで?時間大丈夫なの?」

定例会を行うアトリエは学館に予約をして、普段は午後3時まで借りている。としたらあと1時間位しか時間が無い。

「大丈夫です。5時まで予約入れてます。BOXじゃ狭いから。」

「そう?じゃ、ちょっと休憩してくる。2時丁度から始めましょ。」

 休憩から戻っても定例会に出席していた部員たちがまだ残っていた。時間にルーズなのは漫研の伝統だな、と思いながら部屋の片隅で様子を眺めていた。でもいつまで待っても人の動きがない。

「ハナさん、2時過ぎましたよ。よかったら始めて下さい。」

「え?まだみんな残ってるじゃない。研修に出る人たちだけで、落ち着いてから始めようと思ったんだけど。」

「何言ってるんですか。ここにいる全員研修受けるんですよ。」

「えー!?」

定例会から減ったのは、同期の中山と山本位だった。3年生以下、ほぼ全員の部員が残っている。

「前島さん、綾ちゃん、あなたたち必要ないでしょう。」

「いいじゃないですか。ハナさんの似顔絵、勉強したいんです。」

「私もー。」

「みんなハナさんの似顔絵の話、聞きたいんです。」

漫画を描かない根木、中根まで残っている。1年生は全員神妙な顔つきでこちらを見ている。そこにいる一人一人の顔を確認し、少し込み上げるものがあった。

「そう、ありがとう、みんな。始めましょう。」

「宜しくお願いします。」

北川の音頭で、花菜の最後の研修が始まった。


「あたしが似顔絵を描いてきて、あたしなりに考えた事、それを今日は話します。だから邪道かも知れない。違ってると感じたら忘れてくれてもいいからね。」

「まず最初に、似顔絵と肖像画は全く違うという事。誤解を承知で言うと、肖像画はそこにあるモチーフを模写する事。似顔絵はモチーフが持っているイメージを具現化する事です。もちろんこのモチーフっていうのはお客様の事ね。」

「もうひとつ大切な事。似顔絵が肖像画より優れている点、それはお客様を笑顔に出来る事なの。」

「そのためのテクニックがイメージの具現化って事。難しく言っちゃったけど、平たく言えば、その人が一番その人らしい表情をした時の顔を捕まえて絵にする、という事です。」

「でね、ここからが難しくなるんだけど、一番その人らしい表情って、その人本人が生まれて一度も見せた事の無い顔だったりするの。難しいでしょ。あたしの説明が下手なのね。言い方換えます。デフォルメをする事。強調・消去・簡略・誇大、色々な方法のデフォルメでその人に一番相応しい表情を創り出して下さい。言ってる事わかるかな、前島さん。」

「はい。分かります。」

「当てる人、間違えた。吉田くん、だっけ、ごめんね、分かる?」

「む、難しいです。」

「平川くん、どう。」

「何となくですね。」

「うーん、じゃ、もっとものすごく乱暴に、簡単に言うわよ。よく熊に似てるとか猫みたいとか、動物に例えられちゃう人がいるでしょ。そういう人は熊のイメージ、猫のイメージが普段から染み付いちゃってるの。友達とか家族にね。だったら熊や猫の顔にして似顔絵描いちゃえって事ね。動物じゃなくてもいいわ。大仏とか下駄とか。逆擬人化というデフォルメ。どう?増田さん。」

「分かりました。すごく。」

「で、ここまでの説明で一番肝心な事言ってないよね。どうやってその人のイメージを掴むかって事。実はあたしもまだ一○○%の自信が無いの。だからお客さんを前にしたら、会話をするの。会話をして色んな表情をさせる。笑わせる、困らせる、考えさせる、驚かせる。失礼のない範囲でね。」

「あたしたちが緊張している以上にお客さんは緊張しています。この緊張を解いてあげて下さい。緊張した顔はその人の本当の表情とはかけ離れているから。一番描いちゃだめな表情なんだよね。」

「あたしたちはお客さんとは初対面だけど、お客さんの周りの人たちは普段から色んな表情を見てる訳でしょ。やっかいなのはそこなの。お客さんの友達はお客さんの本当のイメージ、正解のイメージを知っている。あたしたちはその正解のイメージを当てなくちゃいけない。正解出来なかったら、似てないね、という事になっちゃう。」

「でもね、みんなもう何10人、何100人の正解のイメージを持ってるのよ。実験してみましょうか。みんな目を瞑ってみて。」

「いい?じゃ、あたしの顔を思い浮かべてみて。目を開けちゃダメよ。綾ちゃん、今あたし綾ちゃんの頭の中でどんな顔してる?」

「ハナさんは、今、・・笑ってます。」

「そう、福島さんは?」

「私も笑ってます。」

「佐藤くん、どう?」

「僕の場合は、泣いてますね。」

「最近は泣いてないんだけどね。もう少し聞いてみます。大石くん。」

「ハナさん、慌ててますよ。」

「・・まあ、そういう時もあるかな。根木くんは。」

「何かミスって落ち込んでます。」

「いつそんなとこ見てたの。じゃ、最後北川くん。」

「ハナさん、笑ってます。」

「やっぱり笑ってるイメージが多いのかな。」

「でも、泣いてます。」

「え?」

「慌てて、怒ってて、それから落ち込んでます。」

「ひとつにしてよ。」

「無理です。ハナさんだから。でも、いつも本気です。本気で笑って、本気で泣いて、本気で怒ってる。」

「北川くん。」

「それから、どんな時も全力で頑張っている。何にでも全力でブチ当たってる。全部がハナさんです。もし一言で表現するとしたら、一生懸命です。それ以外思い付きません。」

「ずるいぜ北川。俺だってそう言いたかったんだよ。」

「言った者勝ちだ、平川。」

「私がハナさんの似顔絵描くとしたら、ハナさんの周りに大勢の人を描きます。松田さん、川西さん、岸田さん、中山さん、山本さん、漫研の先輩や後輩、私の知らないハナさんの友達、お母さん、描き切れない大勢の中心にハナさんがいます。それが私が持ってるハナさんのイメージだから。」

「前島さん・・」

「ハナさん、僕、いつまで経っても似顔絵上手くなりません。だから何回も何回も、研修やって下さい。今日が最後なんて言わないで下さい。」

「・・・」

「ハナさん、先輩の責任がありますよ。ここにいる全員が似顔絵上達するまで面倒見て下さい。」

「・・・ありがと、佐藤くん、大石くん・・・」

「ハナさん、卒業したら、東京で就職するんですか。」

「・・・北川くん、嘘言ったらみんなを裏切る事になるわね。卒業したら、あたしは田舎に帰ります。」

「えー!」

「この夏、決心しました。みんなとはあと五ヶ月。まだまだ時間はあるわ。」

「うぇーん!ハナさーん!」

「あらあら、綾ちゃん。」

「ハナさーん、寂しいよー!」

「泣かないの、綾ちゃん。後輩が見てるわよ。」

「いいもん。ハナさんは私の先輩だもん。」

「ね、泣かないで。卒業はまだ先だから。」

「ずっとずっと、ずっと離れたくない!」

「あたしも、そうだから、綾ちゃん。あたしもみんなと、漫研と別れるのは辛いわ。諦める覚悟、それをこれからの半年の間にしようと思ってるの。もう少し時間を信じましょう。時間を味方にするの。きっと優しく見守ってくれるわ。」

佐々木が泣いてくれたお陰で花菜は泣かずに済んだ。佐々木の肩を抱く花菜を囲んで、大勢の小さなすすり泣きの声だけ、暫く続いた。



 松田に早々と内定が出た。9月15日の事だ。三島にある広告会社に決まった。一番に花菜に電話を掛けてきた。

「おめでとう。良かったね。由紀ちゃんも結局田舎に帰るんだ。」

「少し迷ったんだけどね。長女だし、東京は疲れるところもあるし。」

「あたし、どうしようかな。資料は取り寄せてあるけど、何かその気が起こらなくて。」

「私の決まった会社、浜松にも支店があるよ。受けてみたら。」

 この頃になって思いついた事がある。松田は女性らしい性格をしている。優しさ、奥ゆかしさの中に芯がしっかり通った、日本女性らしいという意味の。極端に言えば、家を守るためには命を賭す事も厭わないような強さを感じる。女系家族の、長女という役割を全うしようと、覚悟しているのではないか。彼女の東京は最初から4年間限定だった。恋愛体質じゃないと本人は言うけれど、家を離れた東京で、想いは常に秘める事が彼女の信義だったのかと。


 9月19日、花菜は掛川に帰った。母は花菜が地元に帰って来る事に何も反応しなかった。東京で就職しても同じだろうと思う。それでも母は日曜日で家におり、夕食は花菜の好物で励ましてくれた。

 1982年9月20日、月曜日。この日が実質花菜の就職活動の開幕日になった。

 とにかく現実を直視しようと、目ぼしい会社に片っ端から会社訪問のアポイントを入れ、朝から晩まで休み無く動き回った。

9月28日までの正味七日間、合計30社に迫る会社訪問を経験したが、どこも納得出来る内容ではなかった。早々と内定を出してくる会社も少なくなかった。女性がクリエイティブな職に最初から就くのは難しい。まして花菜は専門教育を受けている訳ではない。それは分かっている。だからせめて3年先、5年先に夢が持てる会社を見つけたい。SOスタジオが静岡県にあったら、銀座のクラブで貰った名刺の会社が浜松にあったら、いっそのこと漫画家を本気で目指そうか。現実味の無い考えが頭に浮かぶ。焦り始めていた。


「花菜、電話よ。山並先生。」

「はいっ。」

 夜9時を回って恩師から電話があるなんて何事だろう、不吉な事しか思い付かない。

「はい、花菜です。先生、お久し振りです。」

「おう、掛井、こっち帰ってくるんだって?お母さん喜んでるだろう。また学校にも遊びに来いよ。寂しいじゃないか。」

「はい、ご無沙汰してしまって申し訳ありません。」

「うちの息子も大きくなったぞ。それで、成長して顔つきも変わっちゃってな。また似顔絵描いてくれないか。」

そういう用事か。花菜は2年になる春休み、山並の自宅を訪問して子供の似顔絵を描いていた。その子ももう来年小学校入学のはずだ。

「はい、伺います。今、就職活動で忙しくてすみません。」

「そうそう、その就職の件だ。もうどこか決まったのか。」

「いえ、まだ。」

「そうか。じゃ、良ければ紹介したいところがあるんだよ。」


 9月30日。明日10月1日は就職試験解禁日だ。

 大きなバッグとポートフォーリオ。地味なスーツを着ていても、左右の腕が塞がって重たそうに歩いている女の子を、就職活動中だとは誰も思わないだろう。バッグには似顔絵道具一式、同人誌のすうりいる6冊、パネル、その他仕事のボツ原稿数10点が入っている。ポートフォーリオは書き溜めたイラスト、スケッチブックが詰め込まれ、いまにも破裂しそうな形をしている。

 午前10時25分、花菜は掛川市の北部、市街地から10キロ程離れた住宅街の一角に建つ、アーリーアメリカン調の一軒家の前に立っていた。掛川駅からタクシーを使い、帰りはこんな所でタクシーが拾えるのか不安になりながらその玄関を叩いた。


「先生の高校の同級生が会社やってるんだよ。少し事業を拡大したいから人材を探しているそうだ。よかったら行ってみないか。」

 山形から紹介されたその会社の名前は『JOスタジオ』。偶然に違いないが他人事と思えなかった。出来るだけ作品や実績を持って来て欲しいという事と、似顔絵の用意もして欲しいという要望を電話連絡の時に指示され、今日を迎えた。


「ご免下さい。」

 玄関を中に入ると、室内はポーチと面一のフローリングだった。土足のままその先に進んでいいものか迷う。まるでペンションのリビングのようだ。アップルスタジオを思い出す。会社の事務所とは思えない。パウワウの内装とも似ている。壁際には暖炉もある。

「あの、ご免下さい!お早うございます!」

午前10時半くらい迄は『お早うございます』でよかったっけ。

「はーい。」

背の高い、ストレートの髪を無造作に束ねた女性が、パーテーションの奥から現れた。一瞬『クラブG』の志津子ママとダブった。ラフでシンプルな服装はこのあたりでは見かけない、むしろ青山あたりを散歩するのが似合いそうだ。

「初めまして。私、H大学4年、掛井花菜と申します。今日お約束いただいて会社訪問に伺いました。お忙しいところ恐縮ですが宜しくお願い致します。」

「あ、はい。掛井さんですね。聞いております。どうぞ、こちらへ。」

「あ・・。」

「そのまま、そのまま。靴のままでいいですよ。」

そう言ってもらったものの、フローリングに傷をつけてしまいそうで、ぎこちない歩き方になっている。20畳ほどの、ロビーというよりリビングと呼んだ方がぴったりのスペースを進み、アンティークのソファを勧められた。座るのが躊躇われる位の素敵なソファだ。荷物は慎重に床に置き、スローモーションのように静かに座った。

「コーヒーと紅茶、どちらがいいですか?それとも、お茶?」

「あ、ありがとうございます。でも、大丈夫です。」

「あー、お待たせ。ごめんなさい。電話が長引いちゃって。」

口髭を蓄えた長身の男性が小走りにやって来た。

「掛井さん?篤志に聞いてた通りの人だ。どうぞどうぞ、座って。」

「はい。掛井花菜と申します。宜しくお願い致します。」

「僕は一応社長やってます由井です。うちの会社、ちょっと変わってるけど、面白いと思うよ。」

 会社説明をする由井の勢いに圧倒された。設立時の苦労、エピソード、クライアント、仕事内容、展望、どの話も由井の、そして会社全体の真剣さが伝わってきた。夢を語る大胆さ、それを裏付ける緻密さ、成し遂げようとする執念、それらは花菜が希望して止まない会社像そのものだった。由井の話が長くなるにつれ、聞き飽きるどころか素晴らしい小説を読んでいるような高揚を感じ、その内容に引き込まれていった。

「あ、ごめんごめん。僕ばかり話しちゃって。掛井さんは聞き上手ですね。質問あったら言って下さい。」

45分間聞きっ放しだった。

「いえ、素敵なお話、感動しています。ありがとうございます。」

「ちょっと休憩しましょう。お茶が冷めてしまいましたね。桜井さーん、お代わりくれる?」

桜井という、最初に応対してくれた女性が出してくれた紅茶には、結局一度も口を付けず、すっかり冷めてしまっていた。

「あ、いえ結構です。これいただきます。もったいないです。」

「いいよいいよ。僕も欲しいから。」

桜井が次はコーヒーを運んできた。花菜は残った紅茶を飲み干した。

「掛井さん、作品見せてもらえますか。拝見している間、ゆっくりコーヒー飲んでいて下さい。」

言われるまま、コーヒーをブラックで一口飲んだ。びっくりする程美味しい。由井は花菜が差し出したイラスト、カット、同人誌をゆっくりと時間を掛けて見た。表情は変わらない。大学の入試結果を待つ日々のような、不安と期待感を覚えた。

「うん。僕はこのイラストが一番好きだな。」

由井が指したのは大学1年のパネル展で描いた、父と母のイラストだった。

「技術的にはこっちの方が全然上手だけどね。これが一番温かい。きっと一番自由に、思ったままを絵にしたんだね。一生懸命さが伝わってきますよ。」

最近描いたイラストと比較して、丁寧に批評してくれたのが嬉しい。

「ありがとうございます。」

「桜井さん、ちょっと来てくれる。」

「はい。」

「どう?掛井さんの作品。」

由井と同じように、桜井も丁寧に花菜の作品を扱った。

「人柄ですね。どれも手を抜いていない。それと、他の人には真似出来ないオリジナリティがあります。何処かで習ったのですか?」

「いえ、特に習っていません。」

「そうですか。じゃ、専門的な指導を受けたら技術的にはもっと上手くなる。伸びしろがあるという事ですね。」

「桜井はうちのデザイナーなんです。彼女も美大は出ていません。でもそこいらの美大出が足元にも及ばない作品を創る。何故なら彼女は思いを込めて作品を創るから。その姿勢はずっと変わりません。真剣に人の話を聞き、真剣に考え、真剣に取り組む。その積み重ねが今の彼女の実力になっているんです。僕もそう。僕の武器は人より真剣さが違う、という事だけかも知れない。うちはそういう人に来て欲しいと思っています。」

「はい。おっしゃる事、すごく分かります。」

「ありがとう。聞きたい事、出て来ましたか?」

「はい。社長は東京で広告のお仕事をされていたとお聞きしましたが、御社はどうして東京で立ち上げられなかったのでしょう。」

「それはですね、根っ子が欲しかったからです。」

「根っ子、ですか。」

「これだけじゃ分からないね。僕は東京で十七年仕事をしていて、いつも不安を抱えていました。どんなにいい仕事を成し遂げても、どんなに成績を上げても、いつも心から達成感を味わったことが無かった。だから次の仕事を頑張る、もっと大きな仕事に挑戦する、部下もでき、大きなポジションを任され、それでもどこかで渇望が収まらない。悩みました。だって考え方によっては、そんな気持ちで仕事をしていたら、仕事に嘘をついている事になるでしょう。

 そんな時高校の同窓会があって、篤志、あ、山並の事ですけどね、あいつに言われたんです。『お前、つまらなくなったな』って。高校の時はあいつと色んな事やってました。いつもこの上ない達成感があった。よし、じゃ次はこれをやろうって次への夢も膨らんだ。そういう話を篤志としました。それで気がつきました。単純な事だった。僕はここが好きだったんだって。東京が嫌いな訳じゃありません。地に足が着いた仕事って言葉がありますが、東京の地が僕に合ってなかった訳じゃない。でももっと豊かな土を知っていたから、もの足りなかったんです。それで決めました。こっちに帰ってきて、もっといい仕事をしてやろうと。こっちに大きな根っ子を広げようと。5年前の話です。」

「すごい決断ですね。」

「仕事の不安は無かったんですよ。むしろ期待にわくわくしました。リスクは時間と距離だけ。そんなもの比較にならないメリットの方が大きかった。」

きっと緻密な計画の上で勝算を立てたのに違いない。

「例えばコンピューター。これからは個人で簡単にデザインを起こせるコンピューターソフトが生まれます。通信だって画像をそのまま電話のように送れる。東京どころか、海外だってもっと近くなる。情報も膨大な量を一度に、リアルタイムに得られる時代がすぐやって来る。時間と距離のハンデは無くなります。」

花菜はコンピューターに触れた事がなかった。でもいつか習得したいと考えていた。

「ただ、変わらないものがあります。分かりますか。」

「人です。」

「そう!その通り。コンピューターが絵の具や筆の代わりをしてくれても、題材を決めるのは人です。完璧な資料が揃えられても、それで競合に勝ち残るためには伝える人の熱意が必要です。大昔から、この原則は変わっていない。これから先も変わらない。」

「はい。」

「ありがとう。他に何か質問ありますか。」

「いえ、充分ご説明いただきました。ありがとうございました。」

「じゃ、僕の方から質問です。掛井さん、大学では何を得ましたか。」

「はい。一言で言えば、居場所です。」

「ほう、どういう事?」

「4年間、私は本当に多くの人に助けてもらいました。今の私が出来上がったのは、周りの力が大きいと思っています。私を支えてくれる人たち、私を導いてくれる人たち、そんな人たちの中に私がいます。私の周りの人たちは、いつも私を試しています。間違っていないか、怠けていないか。私はいつも一生懸命答えを探しています。逆の場合もそう。私は周りの友人に寄り添うだけ。私の友人が本人の努力で前に進む事をずっと待っています。お互いが本当の意味でお互いを思い遣れる場所。この四年間で、厳しくて優しい、そんな素敵な居場所を見つける事が出来ました。」

「大学を卒業したら、その居場所は終焉を迎えますよね。」

「大丈夫。私の居場所は、ここにありますから。」

両方の掌を、自分の胸に優しく押し当てた。

「なるほど、よく解りました。じゃ、会社説明はここまで。ここからは僕からお願いがあります。」

「はい。何でしょうか。」

「似顔絵、描いて下さい。」

 プロのデザイナーとデザイン会社の社長を描くのには勇気が必要だった。それでも花菜のために忙しい時間を割いてくれたお礼と思い、心を込めて描いた。描き上げた時には、恥ずかしさより満足感の方が大きくなった。

「桜井さん、どう?この出来栄え。」

「驚いた。似顔絵は即戦力ですね。私より全然上手。社長、そう思って聞いたでしょ。」

「掛井さん、この似顔絵、いくら払えばいいですか。」

「えっ?そんな、いただけません。」

「だめだよ。こちらが依頼した仕事です。それに君はプロとして応えた。しっかり請求しなくちゃいけない。」

「は、はい。・・じゃ、1枚100円で。」

「えっ?」

「うちの漫研の学祭価格で。特別サービスさせていただきます。」


 こんな会社があった事を知って、花菜は嬉しくなった。自分が入社できるかどうかは二の次だった。

 根っ子の話。花菜はあの夏の日、廃工場が解体された平地で、全く同じ思いに到った。足元に見つけた黄色い花。季節ではないので、きっと菜の花によく似た別の花だったのだろう。でも花菜にはそれが菜の花に見えた。3輪の花。父と母と花菜だ。

自分はこの場所に帰ってくるべきだ。東京が好き、大学が好き、漫研が好き、その思いはこの地に戻って来ても変わらない。でもこの場所への思いは東京には持って行けない。ここに根を張っているからこそ、何処へも迷い無く飛び出して行ける。そう思った。その決断を、由井社長は確信に変えてくれた。

この場所で自分に出来る事、打ち込める事がきっと見付かる。夢と自信をくれたこの会社と、今日という日に出会えたのだから。

「お母さん、あたし就職出来ないかも知れない。」

「いいよ、じっくり考えても。でも自分の生活費くらいはアルバイトでもして稼いでね。」

久し振りに夕食時に笑いが起こった。

「花菜、顔つきが変わったね。前に進めた?」

「うん。400メートル全力疾走した感じ。」

「よくわかんない。」


 10月1日。花菜は朝5時に起きて父の墓参りに行った。歩いて5分位の所に菩提寺がある。ゆっくり時間を掛け、お墓の周りを掃除し、それから話した。大学の4年間を話した。


「お母さん、あたしのあれ、知らない?あれ、あれ。」

「あれじゃ分かんないでしょう。何?」

 朝10時に浜松で入社試験を控えていた。のんびりし過ぎていた。

「あれだよ。もう、分かんない?」

「わ・か・り・ま・せん。」

電話が鳴った。洗濯機の前から母が怒鳴った。

「花菜、出てよ。お母さん、手が離せない。」

「んもう、こんな時に。」

ひとまず『あれ』を探すのを中断し、受話器を取った。

「はい、掛井です。」

「もしもし、こちら掛川市のJOスタジオと申します。花菜様いらっしゃいますか。」

「あ、あ、はい。あたしです。昨日は、ありがとうございました。」

「あ、掛井さん?桜井です。こちらこそ、昨日はどうも。朝早くにごめんなさい。今お時間、いいかしら。」

「は、はい、大丈夫です。」

「掛井さん、うちの会社にいらしていただくこと、出来ます?」

「いつですか?」

「あ、そうじゃなくて、言い直します。うちの会社に入社していただきたいのですが、可能でしょうか。」

「え。」

「本来は由井からご連絡差し上げるべきなんですけど、今日朝一番に東京へ出張してしまいまして、くれぐれも宜しくという事でした。で、いかがでしょう。」

「はい?」

「入社の件ですけれど。」

「あ、はい。はい。すみません、夢みたいで。」

「という事は、ご承知いただけた?」

「はい!喜んで。あたしなんかでいいんでしょうか。」

「あたしなんか、じゃないですよ。本当は昨日お会いしていた時にお伝えしても良かったんです。ただあの場所に居なかった役員の確認が取れたのが夜10時を過ぎてしまいまして、さすがにそれ以降のご連絡は控えました。うちも何人か面接をしたのですが、由井の目に適った人材は掛井さんだけでした。自信を持っていらして下さい。私もすごく楽しみ。」

「はい。」

「それでは採用通知や関係書類を改めてお送りしますから、宜しくお願いしますね。何かあったらいつでもお電話下さい。」

「はい。宜しくお願いします!」

 受話器を置いても五分以上その姿勢で動けなかった。

「何?花菜、誰からだったの?」

洗濯を終えた母から話し掛けられて、ようやく動けるようになった。

「お母さん。あたし、バイトしなくてもよくなった。」

『あれ』を探す事など、すっかり忘れてしまっていた。


 10月4日、東京に戻ったその足で、花菜はパウワウに顔を出した。就職活動のため休止していたアルバイトの再開をお願いするためだ。カウンターの扉を開き、その旨を宮下に告げたところ、

「就職決まったの?」

という質問が返ってきた。

「じゃ、お祝いだね。何でも好きなもの飲んでいいよ。」

という事で、こんな時にしか頼めないブルーマウンテンを飲んだ。


 恵比寿には10月6日に出向いた。SOスタジオからのアルバイトは終わりにしようと考えていた。今までお世話になったお礼をしっかり言わなくてはいけない。形式にこだわったつもりはないが、そのために大量の『うなぎパイ』を買って用意した。

「そうですか。寂しいな。本当にお終いですか?」

柴田が繰り返し聞いてきた。その声を聞きつけ、第二制作部のメンバーが集まってきた。花菜は名前を知っている人、顔だけ記憶している人、誰にも変わりなく丁寧にお礼を言った。5階から茅野まで降りて来た。その顔を見た途端、目の奥が熱くなった。

「掛井さん、今日までご苦労さま。」

「茅野さん、お世話になりました。」

いけない。涙がこぼれそうになる。

「茅野さんが大好物だって聞いてたので。はい、『夜のお菓子』。」

「えぇっ!誰がそんな事言ったのよ!」

うなぎパイを振り上げて茅野が怒鳴った。笑いが起こり、花菜は助かった。笑顔で終わりにしたい。梶原に対しても、そう思った。

「こんな時梶原は出張なのよ。梶原が一番助けてもらったのにね。」

「いえ、じゃ、宜しくお伝え下さい。」


 夜に電話が鳴った。誰からかは予想がついた。

「はい。」

「掛井さん、せっかく来て頂いたのに、留守にしていて申し訳ありませんでした。今までありがとうございました。本当に残念です。」

「梶原さん、こちらこそ。お仕事楽しかった。ご迷惑掛けてしまった方が多かったかも知れません。」

「そんな事ありません。掛井さんの仕事には、いつも感心していました。」

「梶原さん、初めて会った時、誘ってくれた事、覚えてますか。」

何故口から出たのか分からない。覚えてなければ、それでよかった。

「初めて。確か代官山の『R』でしたね。」

「はい。」

「覚えてますよ。『R』のディナー。」

「あ・・」

「掛井さん、お時間空いてる日、ありますか。会って、僕からもお礼がしたい。」


 最初で最後のデート。そんな呼び方はしない方がいい。就職祝い、これまでの取引の礼、東京を離れる花菜への餞別。そんな小さなイベントに梶原は付き合ってくれる。それだけの事。諦める覚悟は、とっくの昔にしたはずだった。

 相変わらず言う事を聞かない髪の毛にはイラ立つ。それでもブローの仕方は上手になったはず。特別な事はしないと決めた。服も目立たないワンピースで、黒のジャケットで。

 10月9日土曜日、3日前から続いた雨は午前中で止んだ。傘を持って行こうか少し迷った。

 恵比寿駅の西口を出て、行き交う人を眺めていても飽く事はない。萩原はこんな時、今でもメモ帳を持っているのだろう。萩原は雑誌社に就職し、ライターになっている。河合はフリーのイラストレーターとなり、就職はしていない。意外だったのは倉本で、長男なのに東京で就職し、大手金属メーカーの人事部で頑張っている。中島は実家に帰り、四国の大きな新聞社に勤めている。増井は大学に残り、修士課程に進んだ。

 他にも懐かしい顔が浮かんで、心がほっと温かくなった。みんなそれぞれの道を選んだ。その道を、いつかまた一緒に歩く事があるだろうか。花菜の前にも花菜だけの新しい道が出来た。道はどこかで繋がっている。寂しくなったら少し遠回りして会いに行けばいい。

 大学生らしい3人組が声を掛けてきた。ここに立ってからもう3組目だ。そういえば初めてナンパされたのも恵比寿だった。あれから何回街で声を掛けられたか、覚えていない。付き合った男の数で女の価値は決まるものじゃない。松田と川西に見栄を張った時のセリフだ。今でもそれを虚勢と言われたら否定は出来ない。だけどあの時よりも花菜は大人に、少女から女性になった。もうすぐ22歳の誕生日がやって来る。

「掛井さん。」

「はい。」

やっぱり傘は必要なかった。

 『R』は土曜の夜、満席だった。中でも梶原と花菜が通されたテーブルは、特等席と言ってもいい。『RESERVED』のカードが置かれたシミひとつ無いテーブルクロスには、王冠型の飾りナプキンがふたつ、2人の着席を待っていた。

「嫌いなもの、ありますか。」

メニューを開いて花菜に渡しながら梶原が聞いてきた。

「あたし、貝類と生タマネギがちょっと。すみません。

「謝らなくても。僕も未だにニンジンが苦手です。」

「意外。」

「ワインは?」

「少しだけ。」

 花菜は全て梶原に任せた。迷って決めたとしても、こういった店の正解が分からない。だったら迷う時間分この雰囲気を楽しもう、梶原のチョイスを楽しもうと思った。

「このお酒、何ですか。」

「ベルモット。白ワインベースのアペリティフです。」

「食前酒ですか。」

「乾杯しましょう。」

「はい。」

初めて名前を知ったその液体は、舌の上に甘い香りを残し、喉の奥に消えていった。

「掛井さん、お願いがあります。」

「はい、何でしょうか。」

「今日は最後まで、いつもの元気な掛井さんでいて欲しい。悲しい別れの食事にしたくないんです。笑って掛井さんの門出をお祝いしたい。いつまでも楽しい思い出として、今日を覚えておきたい。ダメですか。」

「いえ、喜んで。」

梶原に返した今日一番の笑顔は、演技でも、ベルモットのせいでもない。梶原の言う通り、花菜も自分の大切な思い出を作るため、ここに居る。

 梶原が選んだ料理は、どれも大正解だった。花菜の味覚は新しい知識を吸収し、一気に贅沢になりそうだ。美味しいを連発する花菜の表情を眺め、梶原はその度に嬉しそうな顔をする。そして梶原は花菜にしゃべらせた。

「掛井さんが就職した会社って、どんな業種なんですか。」

「デザイン会社です。あ、SOスタジオのライバルかも。名前も似ているし。」

「何ていう名前?」

「JOスタジオっていうんです。一文字しか変わらない。」

「はは、ほんと、似てますね。でも静岡県ならライバル会社にならないかな。」

「でも社長はよく東京に来るんですよ。取引は東京が一番多いみたいです。東京の広告会社にずっといて、独立して静岡で3年前に立ち上げた会社ですから。」

「3年前?東京の広告会社で働いてから、ですか。社長のお名前は、何という方ですか?」

「由井社長です。」

「由井!?下のお名前は?」

「あれ、パンフレットに書いてあったんですけど、何だっけ、しん、しゅん、しゅん?」

「由井俊太郎さん。」

「あ、そうそう、そうでした。あれ、何で?」

「有名な方です。同姓同名でなければ。5年前までDPエージェンシーにいらっしゃった。退職して地方に行ったって聞いてたけど、そうか静岡だったのか。」

「すごい偶然!梶原さん、DPエージェンシーご存じなんですか。」

「ご存じも何も、取引ありますよ、結構。」

「じゃ、制作企画室の福田室長って方も、分かりますか。」

「どうして掛井さん、そんな人まで知ってるんですか。DPエージェンシーの福田、由井コンビは伝説ですよ。福田さんが上司、由井さんはその部下でした。」

「そんな偉い方だったんですか。あたし銀座のクラブで福田さんの似顔絵を描いて、名刺戴きました。」

「掛井さんてほんと、予想がつかない行動しますね。いい意味で。僕はお2人にお会いした事はありません。ただずっと僕の目標だった。今もいつか追い付きたいと思っている人たちです。福田さんと由井さんに気に入られた掛井さんに、少し嫉妬しちゃいそうです。」

「由井さんはともかく、福田さんは似顔絵を描いて差し上げただけです。」

「でも名刺を渡されたんでしょう。公私をしっかり分ける人だから、掛井さんに対してはビジネスマンの目で見ていた筈です。」

「あたしにはそこまで分かりません。でも、何て偶然。こんな事ってあるんですね。」

「掛井さんが思う程、僕は偶然とは思わない。経過を追ってしまえば偶然に見えるけど、こうして結果を眺めると、必然のような気がします。掛井さんはそういう場所にいるべき人なんですよ。最初から決まっていた事なんです。」

 土曜の夜は街に繰り出そう、と『おれたちひょうきん族』で流れる歌を聞く度に、花菜はウキウキした心になる。早々と街に繰り出したらひょうきん族見られないのに。代官山は夜9時を過ぎても、過ぎたからこそ繰り出した人たちで賑やかい。

 2時間はあっという間だった。ディナーに向かう前沈んでいた心は、もう何処にも無い。

「梶原さん、ご馳走様でした。あたし、ここから1人で帰ります。」

「大丈夫ですか?送らなくて。」

「はい。すごく美味しかったし、楽しかった。とてもいい思い出が出来ました。」

「僕も、掛井さんの事は忘れる事は出来ないと思います。」

「もうひとつ、お願いがあります。」

「何でも。今日の財布の中身で足りるなら。」

「握手してもらえますか。」

「そんな事でいいんですか。」

「初めて会った日、梶原さんに握手していただきました。」

その時と同じように梶原の手は大きく、花菜の手を優しく包み込んだ。見上げると梶原の柔和な顔がそこにある。こんなに近くで見る事はなかった。逆に花菜の顔も近くに見られている。その事に気が付いて少し恥ずかしくなった時、右手を急に強く握り直された。梶原の顔から目を放し、その手に視線を落としたと同時に、花菜は前に引き寄せられた。

「あっ・・・」

大きくて温かい男性の胸に突き当たった。さっきまで花菜の手を握っていた梶原の手は花菜の背中を抱いている。

「梶原さん、ずるい。」

「そう。僕はずるい男ですね。自分の気持ちを騙してた。ずっと。」

花菜の髪に頬をつけ、梶原が呟く。

「いえ、それはあたしも同じです。」

楽しい思い出で終わらせられたのに、梶原のせいで、最後はやっぱり涙で終わってしまう。



 一足先に就職活動を終えた松田は、最後の『すうりいる』に、切ないラブストーリーを描いた。花菜はうっかり締め切り日を間違え、間に合わなかった。締め切りの後になって、ものすごく悔しくなった。だから前島からページ数合せの話を聞いた時、前島が女神のように思えた。

「3ページだけで申し訳ないんですけど。」

「ありがとう。3ページで充分。」

同期の部員全員がキャラクターとして登場するストーリー。同期全員の似顔絵を描く、花奈が漫研でやり残した最後の仕事だった。流したBGMは『YaYa(あの時代を忘れない)』。大学生活を終える寂しさを歌ったこの曲を聴いて、花菜はその心情が痛いほど分かったが、不思議と哀しくはなかった。むしろみんな同じ経験をしているんだと気が付き、癒された。

 同期も徐々に就職先が決まっていった。川西は東京に残り、コンサルタント会社に勤務する。岸田も一応就職するが、愛知県の地元に戻った塚原との結婚の約束を既にしている。中山は倉本の引きで同じ金属製造会社に。中学校の教員試験に受かった勝沢、地銀に内定の出た柴田はそれぞれ山梨県と三重県に帰る。伊澤は実家が経営する漬物会社の跡を継ぐため、入学頭初から経営の勉強を頑張っていた。山本が信用金庫に就職を決めたと聞いた時は同期全員が驚いた。キャラクターに似合わないと誰もが思った。唯一就職を決めなかったのが加藤だ。漫画家を目指すためだが、東京で生活を続けるとお金が掛かるという理由で、卒業したら新潟に戻る。


 最後の学祭、花菜は最終日の午後だけ似顔絵当番を入れられた。

「4年生は毎年当番に入れないのが通例なのに、人使いが荒いよね、北川くん。」

「ハナさん、総監督として見届ける義務があるでしょう。それと、今年も打ち上げで張り切っちゃうんだろうなと思って、その日にしたんです。」

「しないから。誰に何て言われても、あんな事もうしないから。」

「はいはい、分かりました。」


 東京で4年近く生活していて、浅草を訪ずれることが一度もなかった。浅草に限らず、東京名所と言われる場所で行っていない所が多く残っていて、松田とこの際回ってみようか、という事になった。東京に残る川西も誘った。

「私たちと入れ替わりにオープンなんて、ひどい。」

「由紀ちゃん三島なら東京に近いから割と簡単に行けるでしょ。あたしの所からは遠いわ。」

「東京ディズニーランドって言ったって、千葉だから結構時間掛かるのよ。一番乗りは麗ちゃんね、きっと。」

「あたしはいつでも行けるけど。でも初ディズニーは3人で行こうよ。来年。」

 1983年4月に幕張でオープンするディズニーランドの話題は、漫研の中でも盛り上がっている。花菜たちの年代は大学共通一次試験も第一期受験生だった。理系を高校1年の時に諦めた花菜には不運だった。もっとも花菜はジェットコースターが苦手だったので、それ程ディズニーランドに魅力を感じている訳ではなかった。


「ハナさん、真ん中の席、空けときました。」

「いいよー。引退間近のおばさんは端っこで。」

「まあまあ、そう言わないで。」

 1982年学祭最終日の午後。佐藤が賓客をもてなすように花菜を先導した。親しみを込めて、からかってみたくなる。

「なーんだ。特等席って思ったのに、コーヒー用意されてないのね。」

「失礼しました!お待ち下さい。」

2年前と同じように佐藤が勢いよくロビーの外に走って行った。


 その客が現れたのは午後4時に近かった。

「うちの似顔絵、初めてですか。」

ニコニコ花菜の顔を眺めている2人の目線が妙に気になる。

「いえ、初めてじゃないんです。僕たちは。」

「あ、そうなんですか。ありがとうございます。」

「実は、これ・・・」

女性がバッグから取り出した紙を見て記憶が一気に蘇った。

「これ!あたしが描いた・・・」

「そうです。2年前、私たちがこの大学の4年生だった時、ハナさんに描いてもらいました。」

 その似顔絵には彩色がされていなかった。だから特別覚えている。花菜が色を付けていない似顔絵を客に渡したのは、最初の日本複写化学でのキャリアウーマン、それとこのカップル、たった2組だけ。

「失礼しました。お2人とも変わっていらっしゃったので。」

「そうですね。2年ですから、いろんな事がありました、私たちにも。ハナさんも大人の女性になっちゃってびっくりしました。」

「でも懐かしい。あの時は本当にご迷惑を掛けてしまいました。」

 花菜にクレームを付けたカップルが発端で、似顔絵会場が騒然となった事があった。2年前の学祭での出来事だ。その場が収まり、再開した直後の客が今目の前に座っている2人。花菜は似顔絵を描いている途中泣き出し、福山に言われて退席した。その時途中で投げ出した似顔絵がこうしてここにあるという事は、2人が大切に持っていてくれたという事だ。ちゃっかり『Hana』のサインだけは彩色前にしてあった。

「この似顔絵は私たちの宝物になりました。この似顔絵がなかったら、私たち、今こうして一緒にいられなかったかも知れない。」

「たかが似顔絵ですよ。」

「ハナさんにとっては、されど似顔絵、のはずだわ。私たち、社会人になって、すれ違いも多くなって、価値観もお互い変わってしまって、別れようっていう事になりました。」

「え、そんな。」

「本当にだめだった。一緒に住んでた部屋を、口もきかないで2人で片付けていた時、この似顔絵が出てきました。見つけた途端に私、泣いちゃって。散々泣いて暮らしていたのに。でもその時の涙の意味は違っていた。気が付いたんです。自分の間違いに。その時の私の涙は、ハナさんがあの学祭の時流した涙と同じものだった。」

「あたしの涙?」

「あなたがあの時泣いたのは、自分のためじゃなかったわ。」

「はい。」

「自分のせいで迷惑を掛けてしまったと、周りの人たちのためにあなたは泣いた。あなたの涙の意味に私たちは感動したのよ。」

「そんな、褒められた事じゃありません。」

「それはあなたが気が付いていないだけ。あなたが起こした行動が、勇気が、涙を流した思いやりが、周りにどれだけ影響を与えたか。私たちはお互い愛し合っていたくせに、お互いのために何も出来なくなっていた。この似顔絵は、そんな私を叱ってくれた。彼も私も、自分が不幸なのは相手が変わってしまったからだと思い込んでいたの。本当はその逆。私が変わったから、彼を傷つけてしまっていたのね。彼も同じ気持に気付いた事、彼に確かめなくても分かりました。だって彼は、私以上にあなたのファンでしたから。」

「それ、言わなくていいよ。」

「いいの。ハナさんだったら認めるから。ごめんなさい、ハナさんには迷惑ですよね。楽しかった大学を思い出させてくれたことも大きかったわね。あの頃の健太郎、もっと優しかったから。」

「今も優しいでしょ。」

「そうね。優しい上に、強くなってもらえました。だから、一生ついて行こうと思えたの。」

「ハナさん、僕たち結婚する事になりました。その前にハナさんにお礼を言いたくて。それと、もう一度似顔絵を描いてもらいたくて、今日来たんです。」

「わぁ、おめでとうございます。何か、感動しちゃいます。」

「今日描いてもらった似顔絵を、来週の結婚式で飾りたくて。」

「え、来週、ですか。」

「はい、来週横浜で式を挙げます。」

「わかりました。精一杯描かせてただきます。」

2人、幸せを嚙み締めるような優しい笑顔をしている。結婚式で飾るなら、サインは入れない方がいい。文字も目立たない方がいい。

「2年前はお名前もお聞き出来ませんでした。」

「はい。私は律子、彼は健太郎です。杉浦健太郎。」

花菜は似顔絵の左上に『Kentarou&Ritsuko』右下に『Love Forever』とだけ書き、2人に渡した。

「ハナさん、サイン入れて下さい。」

「あの、そう思ったんですけど、結婚式に飾られるならあたしのサインは入れない方がいいです。」、

「いえ、ハナさんのサインは絶対入れて下さい。ね、律子。」

「うん。ハナさんが描いてくれた似顔絵を、みんなに自慢したいの。」

「ありがとうございます。」

「ありがとう。今日の似顔絵も、宝物になります。」

立ち上がった2人に、花菜はもう一度話し掛けた。

「あの!未完成の方の似顔絵、お借り出来ませんか?必ずお返しします。宜しければご住所、教えて下さい。」

「いいですけど、これを完成させるため、ですか?」

「いえ、それはお2人の大切な宝物、これ以上手は入れません。」

「いいですよ。お渡しします。理由は聞きません。」

 自分の描いた似顔絵が、自分の知らないところで人と関わっている。大学4年間で描いた何百枚の似顔絵が、少しでも誰かの人生の小道具になってくれるなら、素敵な事だと思う。

 次の日、花菜はB3パネルに2人の似顔絵を描き、借りた未完成の似顔絵と一緒に律子の自宅へ送った。結婚式に飾られるなら、派手な方がいい。描き上げたパネルは、一年のパネル展で描いた父と母のイラストに似ていた。



 1983年2月13日、花菜は朝5時に目覚めた。4年前、この部屋で生活を始めた当初、目覚まし時計は欠かせなかった。特別なスケジュールを組んだ日を除いて、いつしか時計より早く目覚め、1日の生活を始める癖がついていた。それでも日頃は6時半に起き、朝食の支度を始めるのだが、この日は別だった。まだ真冬の寒さが続く朝に、花菜は外へ出た。

 今日、東京を離れる。だから少し散歩でもしてみよう。そんな軽い気持ちだった。

 東京は、夜と朝の狭間がとても短い。そんな印象が4年間ずっと心にあった。いつか平松が、東京の時間は田舎に比べて何割増しかの密度で動いている、と言っていた事を覚えている。その密度を経験し、その密度に慣れた。

 田舎と同じ密度で時間が流れるのは、夜と朝の狭間、このほんの短い時間だけ。ゆっくりと歩く花菜に、同じ速度で流れる時間が寄り添っている。最後の最後、優しい時間を東京は花菜に与えてくれた。その猶予と、4年の月日に感謝しよう。いつかまた訪れる時に、笑って再会を祝えるように。


 隣の部屋の西村は、もう春休みに入っているのに、岐阜に帰らず、花菜のために東京に残ってくれた。最後の朝食を一緒に食べるために。豆腐と油揚げと葱の味噌汁。納豆。卵焼きと佃煮。シンプルな朝食に心がこもっていた。

「ハナちゃん、東京に来た時は、連絡下さいね。」

「もちろん。かすみちゃん、岐阜に帰省する時、静岡に寄りなよ。うちに遊びに来て。」

「そうします。絶対。」

「かすみちゃん、今日まで、ありがとうね。」

「言わないで。これからだって、時間はたっぷりあるんだから。」

「そうだね。」

花菜の部屋はもうがらんとして、空き部屋のようになっている。ふとん一組を今日宅配便で送れば塵ひとつ残らない。朝食は西村の部屋で、西村の作ったものを食べている。

「ごめんなさい。ちょっと味付け濃かったみたい。」

「そんな事ないよ、丁度いい。」

少し前からかすみは下を向いたまま、花菜はその俯いた顔の睫が濡れている事に気が付いて、言い直した。

「うん、ちょっとしょっぱいかな。でも大丈夫、今度また作ってね。」

それ以上しゃべれば、花菜の味噌汁も塩味が濃くなってしまう。そうならないうちに、飲み干した。


 さよなら、笹塚。


 パウワウのアルバイトは1982年中に終了した。都合2年半、中断する事もあったが、時間にしたら花菜の部屋、BOX、それに次いで東京で過ごしていたのがこの店だった。

 花菜の一番のお気に入りはこの店で覚えたブラジルだ。この先の人生、きっとこの好みは変わらないと思う。

 もう一度、今日ブラジルを飲もう。お世話になったお礼の挨拶とブラジル、このふたつがパウワウに立ち寄る理由だ。

 カウンター席に続くドアを開けて中に入った。マスターの優しい目と、視線が合った。

「ハナちゃん、いらっしゃい。今日はこっちのドアじゃないよ。あっち側。」

「あ、ごめんなさい。」

マスターが何を言っているのかよく分からなかったが、予約席になっているのかと深く考えず、テーブル席側のドアから入り直した。

「ハナちゃん、お疲れ様。」

「ハナちゃん、卒業おめでとう。」

「ハナちゃん。」

フロアから2段上がった一番奥の席、昨日と変わらない調子で花菜の名前を呼ぶ顔が並んでいた。

「みんな。」

「遅かったじゃないかよ。」

萩原のしゃべり方は早口だ。

「ここ、特等席取っておいたから。」

中山の隣は暑苦しくて、実はいつも遠慮していた。

「今日は倉本さんのおごりだから。好きなの頼んでいいよ。」

「まあ、今日くらいはいいよ、それでも。」

山本と倉本は、バンドではドラムとベースをそれぞれ担当していた。息は合っているはずだ。

「ハナちゃん、早くこっち来て座ったら。みんな待ってたんだよ。」

川西と松田はいつもの通り、いつもの顔付きで手招きをしている。松田も東京を離れる。妹と一緒に住んでいる事で、花菜のように下宿を引き払う必要が無く、もう少し東京に残る事は聞いていた。

「みんな、今日日曜日なのに。」

「日曜日だから来れたんだよ。社会人は忙しいんだ。」

河合は会社員じゃないから、平日も日曜日も関係無いはずだ。

「ウッチーは今ハワイだって。いいなぁ芸能界は。」

海原も芸能プロダクションでタレントのマネージャーをしていたが、早々に退職し、小さな出版社に転職した。

 花菜は午後3時台の新幹線に乗る予定だ。あと3時間したら、もう向かわなければいけない。秒読みに入った。だけどこのメンバーには関係ない。4年前、緊張の極みにいた花菜に話し掛けてくれた、その口調と変わらない。きっと5年先、10年先に再会したとしても、それは変わらないだろう。

「はい、ブラジル。やっぱりハナちゃん、最後はこれだと思った。」

西田がコーヒーを持って来てくれた。

「ありがとうございます。西田さん。」

「また、東京に来たら、寄ってよ。」

「はい、必ず。」

 1時間、他愛もない話が続いた。そろそろ最後にさよならする場所に向かいたい時間だ。

「あたし、そろそろ。」

「あれ、まだ時間あんじゃないの?」

「ごめんなさい、山本くん。最後、BOXに行っておきたくて。」

「ああ、そうか。そうだよね。」

 パウワウも暫く見納めだ。マスター、西田、宮下、奥さんの美智子さんが手を振って見送ってくれた。交差点から神楽坂を登って左手に現れる木製のドア。遠くからその前に灯るランプを目指して、2年半アルバイトに通った。脚が痛くて、オーダーテイクに緊張して、何度落ち込んだか分からない。だけど、見守ってくれた。花菜を必要としてくれた。少し厳しくて、とても温かい場所。今日そのドアを背にしたら、アルバイトの花菜は過去の人になる。


 さよなら、パウワウ。

 さよなら、神楽坂。


「みんな一緒に行ってくれるのかな。」

 1人で大学に向かうつもりでいたのに、花菜を先頭に全員が外堀通りを歩いている。松田に耳打ちをして聞いてみた。

「だと思うよ。みんな少しでもハナちゃんと一緒に居たいんだよ。」

「そんな事無いよ。でも賑やかで、嬉しいな。」

 大学はとっくに春休みに入っていた。目につく学生の姿は数える位だ。だからBOXへは鍵を借りていかなくてはいけないと思っていた。管理室には鍵が無く、貸し出されていた。

「誰かいるんだね。」

BOXのドアを開けると、前島と佐々木がいた。

「ああ、前島さん、彩ちゃん、春休みなのに大変ね。」

「綾ちゃんに、どうしても今日編集のやり方教えて欲しいって、呼び出されたんです。」

「まだ時間あるのに。新学期になってからでもいいのに。綾ちゃん。」

「・・・」

いつも賑やかな佐々木が口を横に結んで何も話さない。

「どうしたの、彩ちゃん。」

「寂しいんですよ。ハナさんが東京を離れるのが。ね、彩ちゃん。」

「あー、前島さん・・・」

「今日の新幹線で帰る事知ってたから、私に連絡してきたんだと思います。家にじっとしていられなくて。」

「前島さん!」

「私も、ここにいれば、ハナさん最後に来てくれると思ってました。もし来てくれなくても、東京駅に行けばまだ間に合いますから。」

「ありがとう、前島さん。綾ちゃん。」

「・・・」

「・・・ハナさん・・・」

去年の9月、部員全員の前で泣き出した佐々木が、今日は泣かないと決めているのか、涙を必死で堪えている。花菜が東京で学んだのは、先輩や教授、アルバイト先などの年長者からだけではない。西村、前島や佐々木、後輩からも多くの事を教えてもらった。後輩からも慕ってもらえたのは、花菜の誇りでもある。

 相変わらずきついタバコと僅かなコーヒーの匂い。少し傷の増えたフォークギターは、部屋の片隅に置かれたままだ。この景色を目に焼き付けておこう。ここに足を踏み入れる事が出来るのは、今日が最後。緊張で自分では開ける事が出来ず、偶然会った内田に開けてもらったドアが、今こんなに愛おしいものになっている。このドアから外に出たら、もう後戻りは出来ない。それを諦める覚悟をするために、最後の最後、ここに来た。


 さよなら、BOX.

 さよなら、漫研。

 さよなら、みんな。


 東京駅、新幹線のホームで、花菜は見送りに来てくれた人、一人一人の名前を呼んで挨拶をした。湿っぽくなる事は承知で、でもそれがけじめだと思った。

「みんな、ハナちゃんの事が、好きだったんだよ。」

「だから抜け駆けが出来なかった。ハナちゃんは特別だった。」

中山と山本が珍しく神妙な顔で呟いた。

「何だ。もっと早く言ってくれれば良かったのに。」

「誰が言っても、フラれてただろ。」

「そんな事無いかもよ。」

川西も松田も恋をした。結局四年経っても、恋愛だけは花菜はまだ同級生の何歩も後ろを歩いている。それでいい。それ以上に素敵な経験は思う存分出来た。アップルスタジオの弥生のように、花菜にも出会いはきっとある。それを待つ事に不安は無い。


 そろそろ時間だ。もう一度一人一人の顔を見つめ、こだま号に乗り込む。

「ハナちゃん、それじゃ。また。」

川西と松田がドアのすぐそばに来た。ベルが鳴り始める。

「うん。またね。」

「東京に来る時は連絡しろよ!」

河合が似合わない大声で叫ぶ。

「はい!」

「いつでも!待ってるぞ!」

「はい!」

倉本も叫ぶ。ベルが止む。

「あっ、すみません。」

駆け込んできた中年のサラリーマンと肩がぶつかる。一瞬見送るみんなから目を逸らしてしまう。ドアが閉まる。

「ありがとう!みんな!」

ドア越しに聞こえるだろうか。川西と松田がわかったよ、と大きく頷いている。佐々木と、前島までハンカチで目を押さえている。

「彩ちゃん、前島さん、泣かないで。」

さっきぶつかったサラリーマンが、花菜の声を聞く度に後ろで舌打ちをしている。ホームで全員が手を振っている。花菜も負けないくらい手を振る。

「近頃の若いもんは。」

サラリーマンの嫌味。

 こだま号がゆっくり動き始める。諦める覚悟は出来ている。

みんなの顔が小さくなる。

 川西と松田が追い駆けて来る。走っている。2人が手を振って花菜を追い駆けて来る。

「やめて!由紀ちゃん、麗ちゃん、恥ずかしいよ!」

 またサラリーマンの舌打ちが聞こえる。

2人が走り続けている。笑顔を絶やさずに、必死で走り続けてくれている。花菜より2人の方が恥ずかしいはずなのに。

「やめてってば。危ないよ!」

恥ずかしくなんかない!周りなんか関係無い!あたしたちは、あたしたち3人なんだから!


「やめてよ、もう。」

 ホームに立つ人を避けながら、追いかけて来る。引き離される。


「やめて・・・。」

 行かないで。


 ドアのガラスに顔をくっつけて2人の姿を追う。松田が誰かとぶつかりそうになる。川西が松田を庇うように手を引き、また走り始める。引き離される。


「やめて・・・」

 忘れないで。


 こだま号はホームを離れた。いくらガラスに顔をつけても、2人は見えなくなった。涙はとっくに溢れ出していた。

 涙は花菜の全身から力まで奪った。膝が折れた。床にしゃがみ込んだ。両手で顔を覆い、肩を震わせた。

 デッキにいる数人が、花菜を見ていた。

 

「ごめんなさい。」

 ごめんなさい、みんな。

 諦められるはずがなかった。


「ごめんなさい。」

 ごめんなさい、あたし。


 分かっていた。心の声に蓋をしていた。輝き続けた4年間を失う事。2度と戻らない。今日見送ってくれた人たち、卒業していった先輩、後に残った後輩。止め処ない涙が目の前を滲ませた。だけどみんなの顔がはっきり浮かんだ。


「もしもし、大丈夫ですか。どうかなさいましたか。」

 車掌が花菜の肩を叩いた。

「大丈夫ですから。そのままにしておいて上げて下さい。」

舌打ちをしていたサラリーマンが車掌に告げた。ありがとう。声に出さずに礼を言った。


 東京が離れていく。花菜の4年間が遠ざかる。

 流れる涙の分だけ、自分の弱さを思い知った。


「由紀ちゃん、麗ちゃん。」

 もう、2人に話し掛けるには遠すぎた。


 さよなら、東京。











2013年 あたし


「百花、ごはん出来たから、食べて。」

「うん。」

 携帯依存症ってあるのかしら。うちの娘の百花はまだましな方か。ごはんを食べる時にはしっかり携帯を置いて、ごはんに集中する。外食なんかした時、デート中らしきカップルが携帯ばかり見て、一言もしゃべらず食事をしていたりする。デートなんだよ、もっとしゃべりなよって言いたくなる。言ったこと無いけど。

「ママ、明日は6時に起こしてね。」

「はいはい。百花、4月から大学生なんだから、ママはやめたら。」

「ママとパパがそう呼び合ってるからねー。子供にだけ直せって言っても無理だと思うよ。」

そうなんだよね。あたしとパパがお互い、呼び方、もう直らないんだよね。失敗した。

「パパは今日も遅いのかな。」

「今日、帰ってこないかもよ。百花が明日東京行っちゃうのが寂しいのに、会うと何か照れくさいみたい。寂しがってるの知られたくないみたい。」

「あは。いい大人なのにね。」

本当はあたしも、少し寂しいのよ、百花。だから今日は、あなたの好物で夕飯の献立を考えた。あたしが東京の大学に行く前の夜、おばあちゃんがあたしにしてくれたみたいにね。


 最後の夜だから、百花ともう少し話がしたかったけど、片付けやお風呂や仕事の残りをしてたら11時過ぎちゃった。だからメールを送ることにしたわ。いつものママとちょっと違うけど、戸惑わないでね。


『百花へ。


大学合格、そして入学おめでとう。

あなたがどれだけ頑張って、目標に向かって一生懸命だったのか、

ママは知っています。

ひとりで気張って、周りに明るさを振りまいて、

気遣いも出来る、ママの自慢の娘です。

そんなところは、ママのお母さん、

あなたのおばあちゃんにそっくり。

ママよりもね。

おばあちゃんが生きていたら、

きっと、とても仲のいい友達になれたことでしょう。


これからの4年間は、

あなたの長い人生の中で、

最も大切な時間になるかも知れません。

高校までは、親や学校があなたを見守ってきました。

社会に出れば会社のルールがあなたに課せられます。

大学の四年間だけ、あなたはあなたのルールで、

あなたが思い描く通りの生き方が出来ます。

子供から大人へ、人生が大きく転換する途中の、

とても大切な時間です。

だから、その時間に出会う人は、

あなたにとってとても大切な人になるはず。

その時間に経験する事は、

あなたにとってとても大事は宝物になるはず。

選択肢は無限にあります。

どれを選ぶのかも、あなたの自由。

同時に責任も負わなければいけない。

どんな道を選んだとしても、あなたが責任を取るの。

悩んで、失敗して、泣いて、それでも自分の足で前に進むのよ。

失敗を恐れないで。

涙を隠さないで。

一生懸命に生きて。

あなたの一生懸命は、誰かが見ています。

そして伝わります。

その誰かが、きっとあなたの生涯の友になる。


だけどね、努力する事だけが一生懸命じゃだめなの。

一生懸命に笑って、一生懸命に遊んで、一生懸命に楽しんでね。

そんなあなたの生き方が、出会う人全てに、あなたの友に、

愛されますように。


あなたの人生に、沢山の花を咲かせて。

ママの名前に花は一輪しか無かったけれど、

あなたの名前には、そんなママの願いが込められています。

                                                    花菜より。』


 やっぱり送信しない事にする。百花は百花の人生を歩き始めたのだわ。百花1人で生き方を探すべきだから。


 きっとウッチーは、今再会してもあたしの首を絞めるわ。萩原さんにはからかわれる。勝沢くんの早口は、半分しか聞き取れないけど、あたしは分かったふりをするの。

 みんな偉くなっちゃって、立場も全然違うけど、あたしたちの関係はあの頃のままね。一生懸命に生きたのは、あたしだけじゃないから。みんな一生懸命だったから。

 生き方は簡単に変えられない。あたしの生き方は、あの頃見つけたわ。これからも。


 あ、由紀ちゃんからのメール受信。


『ハナちゃん。

この間はどうも。百花ちゃん、大学入学おめでとう。

でね、今度漫研の同期会をする事になりました。

東京でだけど、細かな場所と日時は未定。

伊澤くんが青森から出て来るそうです。

全員が一度に集まるのは実に30年振りね。

私も今から楽しみ。

東京までは一緒の電車で行きましょう。

時間と場所が決まったら、またメールするね。


それじゃ、おやすみなさい。』


 1979年に見つけた私の居場所は、今もまだ心にある。

 携帯電話なんか想像も付かなかったあの時代から、私たちのラインは延々と繋がる。

 こうして。


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