8-6
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夕日を浴びて、片手を上げたままピンク・コングはやや傾いだ姿で完全に停止していた。外装に追加で貼られていたマーメイド紙は、濡れて破けて、剥がれていた。
プールの中は、灰色の濁り水になっていた。ドロドロはコングの作った水流と、モップの柄で撹拌され、その繊維の結合をすっかりほぐされた。おそらくその姿をまた現すことはないだろう。
「へくちっ」
濡れ鼠の満の横で、やっぱり濡れそぼったカオリがかわいらしいくしゃみをした。沈むコングの操縦席に、咄嗟に飛び込み満を引き上げてくれたのだ。
「大丈夫?」
「たぶん」カオリは、ずずっと洟をすすった。「でもるーくんが無事で良かったよ」目元を拭って、はにかむように笑い、すんと鼻を鳴らし、「ほんと、良かったよ」
ちょいちょいと背中をつつかれ振り返ると、ミューズが脱いだ白衣を押し付けてきた。受け取った満は、白いそれでふわっとカオリを包んでやった。
*
翌日、カオリは風邪で学校を休んだ。昼休みに、満は一年の教室で妹を捕まえ、ケータイを借りた。メールで帰りにお見舞いに寄りたい旨を伝えた。
起きていたのか、メールで起こしてしまったか、返答は直ぐに来た。
──ミ缶とスポーツドリンク。
放課後、満は部活を休んで帰宅し、互いに預けてある隣家の合鍵を手にして、制服姿のまま、通学鞄ほか、荷物を抱えて幼なじみの家へ向かった。鍵を開けて中に入り、声をかけると、二階から鼻声が「どうぞ」と招き入れてくれた。
カオリはベッドの中で布団にくるまっていた。
部屋は、妹とのそれとは違ったベクトルで女の子らしいカラフルさを持ちながら、少し大人びたシックさを含んでいた。机の横に色褪せた連鶴が在るのを認めて、それが何かと思い当たり、しかし顔に出さぬようにした。何故なら懐かしい匂いの中に、病人らしい湿った空気を感じたから。「具合どう?」
「洟と声だけ」ティッシュをとってぶぶーっと洟をかんだ。淡いイエローグリーンのパジャマの袖が見えた。
サイドボードの上にご所望の品をおくと、「開けて」スポーツドリンクのペットボトルを開封して手渡してやった。起き上がると、カオリは咽喉を上下させて半分ほど一度に飲んだ。「ん」
戻されたそれに蓋をしてやると、カオリは小さくおくびを漏らし、慌てて口元を押えた。満が笑うと不貞腐れたように壁を向いて再び布団の中に潜り込んだ。
「もっとひどいゲップをするひとがいたよ」満はカオリの後頭部に向かって話し始めた。
学校のプールが綺麗に掃除されていたこと(水泳部が塩素を投げ入れてたよ)。モニュメントは解体され、第二美術室に保管されていたこと(綺麗に並んでたな)。工事が入って壊れた壁や窓が直ぐに修繕されること(ブルーシートで覆っていたけれど)。全校集会は開かれず(先生たちダンマリ)、生徒の間のウワサだけでしかないこと(尾ヒレがひどいのなんのって)。
カオリが満に向き直った。「ホントにそれだけ?」
「綺麗サッパリ、なかったことみたいだ。トイチが追加でした作業分も」
「なくなってたのね」
貼ったマーメイド紙は全て綺麗に剥されていた。もとが木工用ボンドで貼付されていたものだから、水に弱いのは確かだ。それにしても──すっかり作業前の姿にされていたのは、トイチの情熱を思えば、残念だった。
ところが、当の本人はしょうがないなぁ、とこぼしただけだった。「胡蝶の夢だね」
その声音に、落胆は含まれていなかった。それでいいのか、と問えば、いいんだよ、と答えた。達観とも違った。諦観とも違った。「いい夢みたと思うよ」友人はにっこり笑った。「こんなこと普通は経験できないよ。誰に云っても信じてもらえないよ」
そうだな。ヤツがそう云うならそうなのだ。満も、それでいいと思った。
「モンジはどう?」
訊かれて、ちょっと考え、「なんだかんだで、けっこう楽しかった、かな」
「そうだね」トイチは頷き、「楽しかった」
「非常識にも程があるよな」
「まったく普通じゃないね」
そして二人は肩を叩き合い、大笑いした。
「そうだ」カオリが云った。「白衣、返さないと、」
「それなら預っておくよ」
「あの人は?」
「さぁ」満は口元の笑みを隠しきれなかった。「榊先生も知らないってことになってる」
それでカオリは満足したわけでないけれども、納得したようだった。「なら、お願いね」
云いながら、チラチラと視線が座る満の横のそれに向けられるのが分かった。でも知らんぷりした。「ミカン、食べる? 開けようか」
「いい。後で貰う」
やはり気になるのだろう。あまり病人に意地悪をするものでもない。なにしろ彼女は自分を助け、風邪を悪化させたのだ。「ねぇ、リっちゃん」
「うん?」
「これ、工具箱」




