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「戻りましょう」満は懇請する。トイチの待つ外のファストフードの店へ。撤退は今がその機会にほかならない。タブレットの電源が落ちたのはその時宜を予言してのことなのだ。
だが、ミューズは不満げに、「なんだい、これからだろうに」
「もういいです、充分です」
「退却希望かい? ん? ん?」
「はい」
「なら一人で帰って。わたしはまだデバガメるから」ミューズは満に背を向け、「ショコラ、音、拾える?」
ジャックを経由してクイーンから返答があった。「やってみる」
満はそっと壁の蔭から顔を出し、カフェに目を向けた。カオリの着いたテーブルの上、クイーンがランプシェードから身を乗り出すのが見えた。
次の瞬間、あッ、と満は自分が声を上げたと錯覚した。クイーンの頭に取り付けられていたミューズ謹製盗撮カメラがつるりと抜け落ち、それはひどく緩慢な地球の重力に掴まり、そのまま──カオリの対面に座る青年のカップの中に落ちた。
ぽちゃん、と水の跳ねる音さえ聞こえたようだった。向かい合った二人は談笑のまま固まった。琥珀色の液体が跳ね、学生のシャツに染みを作る。刹那、止まっていた時間が急激に質量を伴って世界を襲った。ぐわんぐわんと耳鳴りがする。行き交う人と人との足音が反響し、モール内に流れる音楽は太く重く鼓膜を圧迫し、空気の粘度はたっぷりとした泥のようだった。
カオリはポーチからハンカチを取り出し、跳ねたコーヒーの水滴のついたメガネをかけた学生に手渡しながら、ふと頭上を見上げた。
一瞬にして、彼女は悟ったような視線をギッと辺りに巡らせた。恐縮しながらハンカチを使う学生は気付かなかった。
「ショコラ、フォールバック!」
ミューズの声がしたように思ったが、気のせいだ。
「プラム、レモン、バックアップ!」
何故なら、自分は今、憤怒に駆られた少女の、視線の釘で壁に打ち付けられていたからだ。
「きゃッ」
「なに!?」
コーヒーショップの店内から驚きの声が上がった。ランプシェードから飛び降りたクイーンを、エースとジャックがジャンプしてキャッチ。身軽に、そして見事に着地した。
「ハリー、ハリー、ハリー!」云いながらミューズはすでに姿を消していた。三体のペーパーロボットたちもカフェを飛び出し、彼女の後を追った。床に縫い付けられたかのように満は動けなかった。
「ここで何してんの?」硬く、冷たい言葉が投げられた。
ゆっくり満に近づき、間合いを詰めて彼女は云った。「のぞき?」
「いや、その、」
まさにその通りでしかなく、さりとて素直に告白できることでもなく、満は云い淀んだ。
「答えられないの? 何のつもり?」
ぐっと顔を近づけ、その目に怒りと、何か別な物が混じっているのを満は感じた。
「いい加減にしてよ」サッとカオリが腕を振り上げた。「バカ!!」
咄嗟に満は首をすくめ、両腕を上げて顔を庇った。しかし、痛みはどれだけ待っても襲ってこなかった。代わりに、人波を掻き分けて走り去る少女の後ろ姿を認めた。既に何もかもが、後の祭りであることを思い知った。
*
モールを出ると、雨が降っていた。ぽつりぽつりとテラスのタイルを水玉模様に染め始めていた。
ペーパークラフト!
雨に濡れたらどうしようもない。クラフトは、ペーパーロボットたちはどこへ行った?
思考は空廻りするばかりだった。カオリの見せたあの目の中にあったものの正体も分からない。ペーパーロボットの行方も分からない。どうしたらいいのか──。
不意に大柄の友人の姿を思い出す。
そうだ。トイチが待っている。あのファストフード店の中に。
申し訳程度にぱらつく雨の中、ふらふらとテラスを横切りファストフード店に戻った。大きな背中の友人は依然そこにいてくれた。しかし満の姿を認めると、真っ直ぐ見つめて、口火を切った。「なにを呑気にしているの?」
どう返答していいのか分からなかった。
「クラフトたちなら戻ってきたよ、見たところ壊れているところや汚れはないみたい」
「そう、」
トイチは膝の上の工具箱を開けて中を見せた。四体のペーパーロボットたちは、動いていたのが嘘だったかのように白いキッチンペーパーに包まり、自主的スリープモードで、ただの紙細工にしか見えなかった。
「ミューズさんが」トイチはついと視線を店の出入り口に向け、「自動ドアを開けてやって、そのまま飛び込んできた」
「そう、」
「モンジ」工具箱の蓋を閉めると、ロックをかけながらトイチは続けた。「いますぐ追いかけなきゃダメだ。それで許されるかどうかは分からない。でも、今を逃したら次はない」
「あ、ああ、」
「きっと四方田さんはモンジを許さないと思う。それでも、モンジ、諦めるな。諦めたらモンジはただの覗き魔でしかない、これから先も、ずっとずっと、四方田さんとお隣同士である限り」
トイチは真っ直ぐ満を見て云った。
満は僅かに逡巡したあと、ギュッと拳を握り、絞るように云った。「分かった」
「罵倒されてきなよ」にっとトイチは口元に笑みを浮かべた。「どれだけ罵倒されても、絶対に諦めるな」イヤミのない、爽やかさな笑顔だった。
「トイチ、こいつらを……工具箱を頼んでいいか?」
黙って頷き、トイチは雨の中を駆け出す友人を見送った。
*
よっこらどっこいせっ。声に出しながら、新しく注文したLサイズのコーラを手にした女が対面に座った。「少年は?」
「追いかけて行きましたよ」
「作品を置いて?」
「雨ですから」
「信頼されてるね」ストローをカップに刺し、ざくざくと中の氷をかき混ぜた。
「少し話をしませんか、ミューズさん」メガネのレンズ、その奥ですう、と目が細くなる。「それとも、伊東研の魔女」
ミューズの片眉が、少しだけ上がる。




