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●プロローグ
竹尾美神が盛大なおくびを漏らした。大学院博士課程後期一年、ふわっとしたボブカットにクリアボルドーのセルフレームメガネをかけた女学生。その可愛らしい顔立ちからは想像もつかない、地獄の釜が吹きこぼれるような音だった。
「失礼」
気持ちのない謝罪に、対面に座る伊藤満寿弥教授は片手を軽く振っただけだった。竹尾のおくびはいつものことだ。ミドルティーンになった娘を持つ父としても、いまさら少女たちに期待するものはない。
ブラインドから差し込む夕日が、教授室を横縞模様に染めていた。書類と資料で溢れるデスクの上、学内ネットワークに繋がれた年代物のラップトップ、各種文献、試験片。スチールラックの棚板は書籍の重みでたわんでいる。JIS(日本工業規格)のハンドブックは行方不明になって久しい。キャンパスのどこかで誰かが奇声を上げるのを遠く聞く。大学が動物園になったのはいつの頃からだったろう。
「それで」竹尾は手の中の五〇〇ミリペットボトルコーラの蓋を閉めながら云った。「その話の出所はどこですか?」
「知らん」
竹尾から視線を反らし、伊藤は答えた。
「なら、それに従うのはわたしの胸三寸ってことであるとの理解でよろしいでしょーか」
竹尾はややもすると挑発的に胸を反らせて云った。細いネイビーボーダーのカットソーの上に、前ボタンを留めずに羽織った白衣が豊かな胸を強調する。学内に於てこのような白衣の着用は認められない。必修科目の実験から追い出される。実習も同様だ。白衣と作業着の着こなしは年度初めのガイダンスで厳しく指導されている。
「それで済むと思ってか」伊藤は不愉快に顔を歪めた。「君は仮にも私の下にあるんだ。大事にしたくなければ今すぐ片づけるんだ」
伊藤は権限を振りかざすのを好まない。これは緊急避難である。親心である。それで手を打て。
なのに竹尾は。「えー」鼻にかかった甘ったるい声で、「イヤですぅー」科を作り、ふと真顔になった。「と云ったら?」
伊藤は太い溜め息をつく。「捨てるか燃やすか、ふたつにひとつだ」
「それって実質、同じことですよねー?」
「ならば黙って資料をまとめ、供出できるようするんだ」
一瞬、竹尾は目は細め、鋭い一瞥を指導教授に向けたが、痛みの源がそこにあるかのように眉間を揉んでいた伊藤は気付かなかった。
供出、ね。竹尾はふ、と口の端を曲げる。提出じゃないんだ。
「それで済むんですかー?」
顔を上げた伊藤は憤然と竹尾を睨んだ。竹尾は他人事のようにニコッと笑った。
「じゃ、わたしはこれで」
立ち上がり、両手を白衣のポケットに突っ込んだ。ペットボトルの重みで、白衣の右肩がずり下がる。
「失礼します」殊勝に頭を下げた。
「良く考えるんだ」
「ご心配、どうもです」
「君の将来に関わるんだぞ」
「イヤだなぁ、そんな怖い顔しないでくださいよ。だいじょーぶですって」
「冗談じゃない」
教授室を出て行こうとする竹尾に言葉を投げると、閉めかけた扉の隙間から彼女は口元に三日月のような笑みを浮かべて見せた。「先生の顔は立てますよ?」
部屋に残された伊藤は憤懣やる方ないと云った風情で腕を組み、椅子に深く座り直した。
竹尾は優秀な学生である。人格的にはアレでナニだが、それは認めざるを得ない。それ故、面倒が降りかかったと云えよう。
竹尾の研究テーマは、伊藤の材料物性研究室に在籍しながらも、いつしか伊藤すら全容を把握できない領域へと突き進んでいた。配属された学部四年の頃は〈伊東研の妖精〉と呼ばれた彼女も、いまでは〈伊藤研の魔女〉と呼ばれている。実際、彼女は三号館の空き教室をどういう経緯で入手したか根城として占拠し、〈魔女の巣〉と呼ばれるそこに日がな一日篭っている。
伊藤は嘆息する。突き詰めるに竹尾が自分で蒔いた種なのだ。自業自得と云うものだ。必要なことは伝えた。問題は自分の手を離れた。これから先は彼女の問題だ。故に、自分に関係ない。
右のまぶたがピクピクする。チックだ。
あの魔女め。伊藤は右目の痙攣を押えて唸る。全て焼かれてしまうがいい。