翼の話
―――俺は翼が欲しかった。
―――どこまでも飛んでいける自由な翼が。
少年はひどく痩せていた。
身につけているものといえば、ボロボロに擦り切れた服だけ。剥きだしの足は冷たさに赤く腫れている。貧しい外見とは別に、漆黒の髪と鋭い目つきが印象的だった。
周辺では一番立派な屋敷の中、広いだけに中の気温は外のそれと大して変化はない。
立派な暖炉があるにもかかわらず、屋敷の主人はそれを使っていない。
少年は慎重に飲み物を盆に載せ、ゆっくりと運ぶ。それでも、寒さのために指先は震え
グラスはカタカタと小刻みに震えた。
盛大にガラスが割れる音がなり、ほぼ同時に男の罵声が聞こえる。
「なにしてやがるこのぐず!」
まるで、待ってましたと言わんばかりに少年に歩み寄り、使い慣れたムチを振り上げる。
冷たい空気に甲高い音が響き、少年の腕に赤い筋が生まれる。
「さっさと片付けろ! それともずっとムチをくらいたいか!」
少年は無言で割れた破片を拾い上げる。拾っている間にもムチは振るわれ続ける。
―――俺は翼が欲しい。
―――こんな所から抜け出すための翼が
「くそ、あの変態親父! 善良な少年痛めつけてなにが楽しいんだ!」
「変態親父って……、一応ぼくの父親なんだけど」
屋敷の中庭で二人の少年が並んで座っている。
一人は黒髪の少年。もう一人は優雅な服に身を包んだ、いかにも位の高そうな、少し年上の少年。
少年は赤くなった部分に包帯を巻きながら愚痴る。
「いつか、絶対ここから抜け出す。あのくそ変態を見返してやる」
手入れの行き届いた庭には、たくさんの草木が植えられている。
今はほとんど葉が落ちてしまっているが、春になれば一面美しい光景が広がるだろう。
「ごめん、僕にはなにもできないから……」
黒髪の少年が振り向くと、沈んだ顔が目に入った。
「いいんだよ、こうやって毎日優しくしてくれるじゃないか」
本当にこの少年は変わっていた。金持ち特有の傲慢さのかけらもない。そして慈悲深くて、不器用だ。
以前、少年が父親にひどい事を止めるように言ったこともあったが、かえって虐待をエスカレートさせる結果となってしまっていた。
「うん、ありがとう――」
なにが、ありがとうなんだか。
それはこっちのセリフのはずなのに。
「いい作戦を思いついたんだ」
少年がそう言いだしたのは、何日か経った後。
言い出したのは黒い少年ではない。
「今日さ、屋敷に商人が来るんだ。頼んでいっしょに連れて行ってもらったらどうかな?」
願ってもないチャンスに、少年は即座に反応した。
「本当か? ばれたりしないのか?」
それに対して、もう一人の少年も力強く頷く。
「任せてよ。絶対君を自由にしてみせるから」
突然開けた自分の未来。
それを想像し笑う少年。
「商人か・・・、いつか、あの親父に偽物の骨とう品売りつけてやる」
「ははっ、いいねそれ」
「で、その金で二人で遊び倒す」
「うん、最高だ」
そう言って二人で笑いあった。
その夜、少年はまだ翼を手に入れていなかった。
寒々とした庭に、少年の押し殺した泣き声が響き渡る。
「ふっ、くっ、畜生っ――!」
少年の身体には、以前より数倍に増えた赤い傷が刻まれている。
肌の露出している部分では、傷のついていないところ探す方が難しい。
もう一人の少年は、膝を抱えて泣く少年の隣で、どうしていいかわからないといった様子で佇んでいる。
「ごめん、本当に、こんな事になるなんて……」
その一言で、泣いていた少年が顔をあげる。顔が赤く腫れているのは涙のせいばかりではない。
「いいんだ。悪いのは告げ口しやがった商人だ。お前は悪くない」
そう言って気丈にも笑って見せる少年。
その手がわずかに震えていたのを、少年は見ていた。
少年はその手を取り、強く握り締める。
「絶対に、君は僕が自由にしてみせる」
「見たか。あの屋敷の火事」
「ああ、すごい燃え方だったな」
「何でも、火をつけたのはあそこの息子らしいぞ」
「嘘だろ? 何のために?」
「さぁな、相当ひどい人だったらしいからな。あそこの主人」
「まったく、金持ちの考えることはわからんな」
「あれじゃ、住民はみんな焼けちまったんだろうな」
―――俺は翼を手に入れたんだ
―――それが友の血で血塗られた翼でも
一人の青年が、墓の前に佇んでいる。
その髪は漆黒の闇をたたえ、風になびいていた。
そっと花を添える青年に、隣にいた少女が声を掛ける。
「これは一体誰のお墓なんです?」
青年は立ち上がると、わずかに笑ってみせた。
あの時と同じように。気丈に。
「俺に自由をくれた人の墓だ」