無くした話
金色の瞳の少女は階段を下りていた。前日まで降っていた雨が晴れ、大学院の敷地内に出来た水溜りに、日の光が反射してキラキラと光っている。等間隔に植えられた花壇の花も宝石をちりばめたような輝きを放っていた。その中を少女はそれなりに上機嫌に歩いていた。よって、雨で足元が滑りやすくなっていたことに全く気が回らなかった。
ずるっ
「―――――あっ」
落ちる、と思ったときには既に遅く、足は石段から滑り落ちていた。狭い足場で体勢を立て直せるはずもなく、少女は顔から地面へと吸い込まれていった。
目を閉じて衝撃に待ち構えると、傾いて倒れる体を後ろから抱きとめられた。目をあけると、
自分の身体は、ほぼ地面と平行な形で止まっていた。三本の手が後ろから自分を支えているのが見えた。ゆっくりと起してもらってから振り返る。
「ありがと……う」
最初、少女は二人の人間に支えられているのだと思った。しかし振り返ってみると、そこには青年が一人だけ。四角い眼鏡をして、ひょろっと背の高い、優しそうな青年の顔。だが、ひときわ目を引いたのは青年の腕だった。通常の腕の他に、左手の下の辺りからやや短めの腕がもう一本延びていた。
「えっ…あっ、あの…」
「大丈夫でしたか?」
「えっと……はい」
少女はあらためて青年に頭を下げた。少女はチラッと青年の腕を見た。三本目の腕はほとんど違和感なく生えており、少し短いだけで他の二本の腕と全く変わりないように見えた。
「驚きましたか?」
突然、そうたずねられて少女はドキッとした。
「い、いえ、スイマセンでした!」
頭を下げる少女を見て青年はくすりと笑う。
「謝らないでいいですよ。それより、足、痛くないですか?」
少女が下を見ると、膝のあたりから血が出ていた。自分では気がつかなかったが、さっきこけたときに擦りむいたのだろう。自覚すると急に痛みが湧いてきた。
「治療しますよ。寮まで来てください」
青年に導かれるまま、学生達が生活する寮までついて行った。寮の部屋に着くと、青年は少女をイスに座らせ、小走りに薬箱をとりに行った。戻ってきて箱を開けると、消毒液と包帯を取り出して、三本の手で器用に治療していった。少女の普段の半分の時間で包帯を巻き終わる
「すごい」
治療が終わった足を眺めて少女がそう呟くと、青年はとても嬉しそうに笑った。
「コーヒーと紅茶。どちらが好きですか?」
「えっと、紅茶で」
青年はそれを聞くと、ポットを取り出し水を入れて火に掛ける。棚からカップと砂糖とミルクを準備する。三本の腕を見事に使いこなすその光景に少女は目を丸くした。
少女は出来上がった紅茶を受け取って、二人は並んで紅茶を飲んだ。
「本当にすごいんですね」
「ははっ、初めて会った人を驚かせるのが楽しみなんです」
青年の部屋はこざっぱりとしていた。壁に掛かった上着には青年の服と同じように三本目の腕を通す穴があけられていた。青年は二杯目の紅茶を入れながら少女に話し掛けた。
「今日はどうしてここに?」
「連れの人がここの教授に呼ばれたらしいんです」
青年は三本目の腕で砂糖を入れ、それをかき混ぜた。
「もしかして、全身真っ黒の人ですか?」
「あ、そうです」
「やっぱり、見かけない人がいると思ってたんです」
それきり二人はしばし沈黙した。そして少女おずおずと口を開いた。
「あの、今まで苦労したことってありませんか?」
青年はにっこり笑って答えた。
「子供のころは、よく気味悪がられましたよ。小さい子は自分と違うものに敏感ですからね。でも、いつだったか教授に誘われてここに来たんです。まあ、珍しい実験サンプルくらいの気持ちだったんでしょうね。でもそれからは、風当たりががらりと変わりましたよ」
青年は笑っていたが、少女には少しさびしそうに笑っている気がした。
「あいつに会ったのか?」
漆黒の髪の青年が教授との話を終えて戻ると、少女は早速三本腕の青年の話をした。驚かせようと思って話して、返ってきたのはそんな返事だった。
二人で校門を出て、揃って歩き出す。
「知ってるんですか?」
「ここでは有名な話さ。薄命の天才ってな」
「えっ?」
少女の足が止まる。青年との差が開く、少女は走って追いかけて再び並んだ。
「元々、無理な身体のつくりをしているんだ。明日倒れてもおかしくない」
「そう…ですか」
少女は足元に目を落とす。水溜りに反射した光が目にしみた。
うつむいたままでいると、横から軽く小突かれた。
「お前が落ち込む必要はない。できる限りのことはしてきた」
「……叩かないでもいいじゃないですか」
二人は並んで歩いた。
空は再び曇りだし、水溜りは輝きを失っていた。