防人の話
見渡す限りなにもない平原、その平原を一本の線が地平線まで伸びていた。正面から見ると、それは石作りの城壁であることがわかる。途切れることなく続く城壁の一ヶ所に、ちんまりとした関所が設けられていた。一人の男がボーっと突っ立っている。傍には小さな小屋まで建っていた。
男は何をするでもなくただ立っていた。遠くの空では鳶が気持ち良さそうに鳴いている。
何日も手入れしていないので、着ている鎧も、腰に刺した剣も錆びかけている。
もっとも、使うことなどありはしないのだが。
男は農家の出身だった。平凡な生活を送っていたが、凶作のあおりを受け、生活が傾き、妻と幼い娘を食べさせるために仕方なくこんな辺境の防人を引き受けた。
既に5年も村には帰っていない。関所を通る人間も月に数人なので、男は暇なときは故郷のことを思い出していた。
腹が減ってきた、妻の作った煮物がまた食べたい。そういえば、妻は残りものを料理するのが上手かった。ある時、ほとんどヘタだけの野菜とスジ肉で立派なシチューを作ったときは驚いた。娘は貧乏くさいと嫌がったが、今思えば、あれは野菜を食べたくないための嘘だったのかもしれない。ああ、娘はちゃんと野菜がたべられるようになっただろうか、
家族で花見に行った時も、お弁当に入っている人参が食べられないと駄々をこねていたっけ、妻がかわいく花形に切っていたんだが。結局、あの時はしっかり花見が出来なかった。
「あの〜」
すっかり考えに耽っていた男に声がかけられた。はっとして急いでそちらに向き直る。
錆つきかけた鎧が、ぎこぎことひどい音を出した。
見ると二人組の旅人が門の前に立っていた。一人は無愛想な黒髪の青年。声を掛けてきた方は金色の瞳をした元気そうな少女だった。
久しぶりの仕事につい緊張する。声が裏返らないように注意しながら口を開いた。
「通行所は持っているか?」
青年が小さな荷物入れの中から一枚のプレートを出した。それを無言でこちらに出す。
本物かどうか確認してから、それを返す。仕事だけはきっちりやっておく。村ではマメな男だとよく言われた。妻もそんな自分の誠実な所に惚れた、と言ったぐらいだ。
「よし、通っていいぞ」
門の開閉スイッチを押すと、しばらくぶりに門が開き、向こうの風景が見えた。反対側もこちらと同じで一面なにもない平原だった。
少女はにっこり笑ってこちらに軽く頭を下げた。
「ごくろうさまで〜す」
そういって、さっさと歩き出していた青年の後を追っていった。結局青年は一言も発さなかった。だが少女の方は礼儀正しい、いい子だったな。家の娘もあんな子に育ってほしいものだ。そうだ、五年も経てば随分と成長しているだろう。いつまでも自分の記憶の中の姿ではない。娘の成長がこの目で見れなかったのが心残りだ。帰ったらまた家族で花見に行きたいな。
そこまで考えて、男はふと顔をあげた。今まで思い出す事はあっても、次にすることを考えたことはなかった。帰ってからのことを考えるのも悪くないかもしれない。まず、5年分の家族の溝を埋めることから始めよう。
男は何をするでもなく立っていた。その心のうちに家族への思いをはせて。