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ある聖戦の裏側で  作者: 雨杜結依
英雄の作り方
13/17

第拾参話 「神殺しの輪郭」

夕方の雨は、夜になっても止まなかった。


排水溝に落ちる水の音が、軍用トラックの遠ざかるエンジン音みたいに、ずっと窓の外で唸っている。

俺は、泥の乾き切らないブーツを玄関に脱ぎ捨てたまま、六畳間の中央に座っていた。


部屋が狭いせいで、戦場の臭いがまだ逃げない。

硝煙。鉄。焼けた肉。消毒液。

その全部が、依里の使っていた柔軟剤の匂いを完全に押し潰していた。


机の上には、大学ノートが一冊だけ置かれている。白い表紙の角が少し折れていた。依里がよく爪で弄っていた場所だ。

俺は黙ったまま、そのノートを開いた。


ページの隅に、小さな文字。


『透』

『忘れない』

『カルボナーラ』

『次の休み』


何度も書き直した跡があった。文字が揺れている。筆圧が途中で乱れて、線が歪んで、上から何度もなぞられている。

忘れたくなかったのだ。忘れる自分が怖かったのだ。


俺は、泥で黒くなった指先で、その文字を静かとなぞった。

ページに薄い汚れが移る。白かった紙が、少しずつ灰色に濁っていく。


それを見ていると、妙に安心した。

もう、自分だけ綺麗な場所には戻れない。それだけは確かだった。


窓の外で、救急車のサイレンが遠く鳴った。

私はノートを閉じた。


机の端に置かれた端末が、小さく振動する。

『特命回収任務』

『地下廃棄区画B-12』

『処理対象:旧式戦闘素体』


短い文章だった。まるで壊れた家電の回収依頼みたいに、感情がなかった。

俺は無言で立ち上がった。



地下廃棄区画は、病院に似ていた。


白い。どこまでも白い。壁も、床も、天井も、蛍光灯の光も。

けれど静かではなかった。奥から、何かを引きずる音がしていた。


ぐちゃ、ぐちゃ、と。濡れた肉が床を擦る音。


「新人か」


防護服の男が、書類を見ながら言った。


「今回の処理対象は二体。同期率限界突破後の暴走素体だ。脳殻だけ回収しろ。その他は焼却」


俺は黙って頷いた。男は淡々と続ける。


「チップを傷つけるなよ。次世代素体の培養に使う」


次世代素体。その単語が、喉の奥に鉛みたいに沈んだ。

私は無言のまま、防護マスクを付ける。


扉が開いた。熱気が漏れてきた。

腐臭と、薬品臭と、血の匂い。その全部が混ざっていた。


部屋の中央で、何かが痙攣していた。少女だったものだ。

髪が半分焼け落ちている。皮膚の下を青い光が這っていた。四肢は拘束具に固定されているのに、それでも身体が跳ねる。


喉から漏れる声は、人間の悲鳴ではなかった。壊れた無線機のノイズみたいだった。


『──ガ……ア……』


俺は、一歩だけ近づいた。

少女の瞳は、もう何も映していない。青いHUDだけが、明滅していた。依里の目と同じ色だった。


「同期率150%到達後、人格崩壊」


背後で男が言う。


「こうなると戦闘システムだけが残る。だから再利用する」


再利用。俺は、その言葉を頭の中で繰り返した。

人間だったものを。約束して、笑って、誰かを好きだったものを、全部、砕いて、青い石にする。


「……始めろ」


俺はスコップではなく、解体用の器具を受け取った。金属が重かった。


少女の頭部へ近づく。青い光が、皮膚の下で脈打っていた。

依里も、いつか。七回目か、八回目か。その時には。


俺は、器具を握る指に力を込めた。刃先を差し込む。

骨が砕ける音がした。温かい液体が手袋を濡らす。


男たちは誰も止めない。ただ、作業を見るだけだ。まるで工場だった。

俺は奥歯を噛み締めながら、脳殻の奥へ指を入れた。


硬いものが触れる。冷たい、小さな結晶だった。

青い。硝子みたいに綺麗だった。


俺がそれを引き抜いた瞬間──ノイズが流れ込んできた。


『ねえ、帰りにコンビニ寄ろ』

『プリン買っていい?』

『カルボナーラ、ちゃんと作れるようになったんだよ』


知らない少女の声だった。

でも、それは確かに、「誰かの日常」だった。


俺は息を止めた。ノイズはすぐ消えた。部屋にはまた、蛍光灯の音だけが残る。


「回収しろ」


男が言う。


「それは貴重品だ」


俺は返事をしなかった。青い結晶を見つめる。

依里の瞳の奥で光っていた色。人間を削って、記憶を砕いて、感情を燃料にして、最後に残るもの。


俺はゆっくりと、それをポケットへ滑り込ませた。


「おい、何を──」


男が顔を上げる。

私は初めて、その目を真っ直ぐ見返した。戦場に来てから初めてだった。


「……回収物の確認です」


男は数秒だけ私を見ていた。それから興味を失ったように、端末へ視線を戻した。


俺は背を向ける。鼓動がうるさかった。

けれど不思議と、怖くなかった。アパートで嘘を吐いていた頃より、ずっと静かだった。


ポケットの中で、青い結晶が冷えている。俺はその感触を握りしめた。

思い出したように、爪の間から乾いた泥が落ちる。白い床に、小さな黒い汚れが残った。


俺はそれを見下したまま、小さく呟いた。


「……待ってろ」


誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。

依里か。結晶の中の誰かか。それとも、この世界そのものか。


地下通路の蛍光灯が、青白く明滅する。

俺は泥に汚れた手のまま、もう一度だけポケットを握った。


「俺が、お前らの神様を殺してやる」

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