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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。

前夜

作者: れたす
掲載日:2026/05/02

 目と鼻の先よりは少し遠く。

 風を切る音が周期的な走行音にかき消された。

 そのリズミカルさが、心臓の不定期な拍を強調していた。

 背筋に冷たい感覚が走り、その後頭が熱くなる。

 電車が走り去るまでの十数秒ののち、膝から崩れ落ちた。

 やっぱりだめだ。どんなに気負っていても、その痛みを想像してしまうとあと一歩を踏み出せない。私の人生はいつだってそうだった。

 小学校の頃から、人と関わることを恐れて話しかけることも会話することすらままならず、義務教育9年間、一度だって学校を楽しいと思えなかった。

 高校だってそうだ。今日こそはと奮起すればするほど、悪い未来が頭の中を支配して、いつだってその一歩が踏み出せなかった。

 アスファルトを殴りつける。それで私自身が変わるとは思っていなかったが、何かに当たらないとこの焦燥と自責に耐えられそうになかった。

 何のために耐えようとしたのかはわからない。耐える必要なんてないはずなのに。

 ふらふらと力なく立ち上がり、うわごとを呟きながら家に帰った。


 朝日の眩しさが私を揺すり起こした。今日も目が覚めてしまった。

 夜に眠ったまま、目覚めなければいいのに。

 そう何度思ったかわからない。それを何度も考えてしまう自分が嫌い。

 朝日を見てもちっとも晴れない曇天の心は、いつだって私の精神を蝕み続けるくせに、肝心な時にはたった一滴の勇気さえも与えてくれない。

 そんなことを考えていると、腹の虫が喚きだした。

 …ああ、やけに腹が立つのは空腹の所為だったか。

 ベッドから起き上がり、朝食をとるためダイニングへ向かった。

 不思議なもので、死のうと覚悟をして、何度も失敗を繰り返してなお、朝の習慣的な行動が変化することはなく、今日も私は食パンを牛乳で流し込みながら、テレビで1チャンネルのニュースを眺めていた。

「先日未明、行方不明だった女子高生が遺体で発見されました」

 テレビから聞こえた音が異様に耳に入った。

 なにやら最近若年層の自殺が増えているらしい。先日自殺したというなんとかさんも、SNSを通じた知り合いと心中を謀ったそうだ。

 SNSか。

 もちろん知っているし、アカウントも持っている。

 誰かと一緒なら、あるいは…

 期待半分で検索してみると、ざっと見ただけで五十件は投稿がヒットした。

 中には実行方法や場所まで指定しているものもあったが、大半は同じような考えを持つ人と交流したい、という旨のものであった。

 その中で、私はとりあえず女性と思われる一人にダイレクトメッセージを送ってみた。

 正直不安でしかなかったが、なぜかこの時だけは、メッセージを入力する手が驚くほど軽く感じられて、誰かに向けてという意識よりかは、壁に向かって独り言をぶつけるような感覚だった。

 メッセージを書き込んでからしばらく、なんだか現実味のない、浮ついた感覚でモニターをぼーっと見ていた。すると、書き込んだ文章の下、既読を示すチェックマークがついた。

 気が付いてすぐ、相手からのメッセージが表示された。

「今から会えますか」

「え」

 画面越しの相手に対して困惑の声が漏れた。続けて書き込まれていく。

「私たちどうせ死ぬじゃないですか」

「それなら最期にやりたいことやってもいいと思うんです」

「今ここにいます。来れそうだったら教えてください」

 連続で書き込まれていく文字列がそう告げている。

 どこか自殺志願者然とした行動力の高さと思い切りの良さに、少し憧れに似た感情を抱いて、その感情のまま返信をしようとしたが、流れていった文章の中に気になるものが一つあって踏みとどまる。

 …やりたいこと?

 この人のやりたいことってなんだろう。聞いてみようか。

 いや、そんな勇気があったのなら、今頃こんな手段はとっていない。

 結局詳しくは聞けないまま、その憧れに突き動かされて、私は

「行けます」

と返信していた。


 伝えられた住所に向かう。

 ビルやマンションの立ち並ぶ住宅街の一角、その辺りでは頭抜けて大きな建物の、708号室が、指定された住所だった。

 インターホンを押す。緊張のあまり喉が渇いて仕方なかった。しばらく声を発していないのも原因だろう。

「はい」

「あ、す、すいません。あ、あの、メッセージ、送ったんですけど」

 ここまでひどいとむしろ笑えてくる。私のたどたどしい言葉でも理解ができたようで

「入って」

とだけ言った後、通話が終了した。

 とりあえずは怖い人ではなさそうで安心した。緊張やらなにやらで、自分の感情がわからなくなっていた。死にたいはずなのに出会いに怯える心の正体さえも。

 708号室の前につき、もう一度インターホンを押した。

「開いてるよ」

 突然聞こえた声に驚いたが、その声を信じてドアノブを引くと、少しの引っ掛かりもなく簡単に開いて、私に心の準備をする時間などは毛ほども与えてくれないようだ。

「おっ、お邪魔します」

「いらっしゃい」

 上擦った声は思ったよりも響いたらしく、扉の向こうから返事が飛んできた。

 その声に急かされるように扉を開いた。

「どうも」

と言って私に会釈したその人は、写真で見たイメージよりも小さくて、儚げな雰囲気を纏って美しく見えた。

 こんな美人でも自殺したいと思うんだな、と、それが第一印象だった。

「座って」

 緊張でずっと立ちっぱなしだった私を慮ってか、彼女は自分の隣を手で示してそう言った。

「あ、ありがとうございます」

 ソファーに座る。今まで味わったことのない柔らかさが落ち着かず、むしろ心臓を加速していく。ほんの少しの沈黙でさえ耐えられずに口を開いた。

「あの、今日は、その、何を?」

 俯いたまま聞いた。それに数瞬だけ迷うようなためらうような気色を漂わせたのち、彼女の笑い声が聞こえた。

「…ついてきて」

「え?」

 彼女が私の手を掴み、立ち上がって引いていく。先ほどは小さく見えたが、隣に並ぶと身長はさほど変わらず、むしろ私よりも大きいくらいだった。

 わけがわからないまま引っ張られた先は寝室だった。

 二人並んでベッドに座る。いったい何が始まるのだろうか。

「まずは自己紹介でもしようか」

「あ、はい」

 そういえばまだ名前を聞いていないことを思い出した。

「えっと、私の名前は…うん。まあ、そうだな。ヨウ、とでも呼んでよ」

 ヨウさん。苗字や漢字ではどう書くのだろうか。気になることもなくはなかったが、もとより親密になるつもりはない。

「私は、桜庭、美樹、です」

 自己紹介なんてしたのはいつぶりだろうか。とにかく、名前は忘れていなくて安心した。

 私がそんな取るに足らないことを考えていると、隣のヨウさんが深呼吸するのに合わせてベッドが上下して軋む音が響いた。それが私の心臓も揺らしていく。

「それじゃあ、美樹。あなたが、どうして死のうとしているのか、とか、そんなことは聞かないし、私も言わない」

 ヨウさんが改まってそう宣言する。それは私にとってはとてもありがたかった。

 死にたいと思う理由なんて、積み重ねでしかなくて、私自身、なにがきっかけかなんて知る由もない。思い出したくもない。

「それで、今日あなたを呼んだのは、メッセージでも言った、やりたいことをやろうと思ったから。あなたと」

「やりたい、こと」

 生唾を飲み込む音を発することさえもためらわれるほどの静寂。額に冷や汗が滲む。

「それって…」

 私が疑問を呈するより早く、ヨウさんは着ている服に手を掛ける。衣擦れの音がやけに耳に残る。ヨウさんの下着は彼女の慎ましい胸と白くすべらかな肢体を華やかに彩っていた。動揺で声が出ないし、それ以上に何が起こっているのかをいまいち理解できていなかった。

 動かし方を忘れた私の腕を、ヨウさんは掴んで胸に当てる。

「ん…」

 ヨウさんの口から甘い声が漏れる。今日出会ってからはずっと無愛想な声ばかり聞いていただけに、その嬌声はあまりにも扇情的に聞こえた。

 ヨウさんの頬はほんのり赤みを帯びているように見える。

「…これが、私のやりたいこと」

 恥じらうようにぽそりと呟く。

「こ、これ?」

「美樹も、脱いで」

 ヨウさんの細い手が服の隙間から私の内部に侵入してくるような、知らない感覚が脳内を支配していく。気が付いた時にはベッドに押し倒されていた。

「あなたから連絡がきて、あなたのプロフィールを見て、最後はこの人と一緒にいたいって、そう思った」

 ヨウさんが私の頬に触れる。少しだけ冷たい。

「…いい?」

 ヨウさんの声は震えている。何を求めているのか、私にはもう分かっている。それはきっと、私自身も求めていること。

 私はゆっくりと頷いた。それを待っていたかのように、ヨウさんの唇が私に触れる。ファーストキスだった。

 ヨウさんとのキスは少しだけアルコールが香っている。さっきまで飲んでいたのだろう。

 甘酸っぱいイチゴの味とは程遠い、少し大人びたキスの風味に酩酊感が高まる。ヨウさんが私の口を通して酸素を奪う度、脳が上気して思考力さえも奪われる。

 永遠に感じられるほどの長い口づけ。体験したことのない快感に戸惑いつつも、ヨウさんに奪われたものを取り返そうとがむしゃらに舌を這わせる。

「…っは」

 漸くキスが終わり、静謐な空間に目に見えるほどの濃厚な二人の吐息が広がった。

「ヨウ、さんの、やりたかったことって、やっぱり…」

「…そう。死ぬ前に一度は、やりたいでしょ?」

 ヨウさんが目を細める。赤らんだ顔色にはアルコールだけでは説明できないほどの熱が表象している。

「…どう?」

「ふふ、最高」

「でもさ、こんなことして、死ぬのが嫌になる、とか。そういう心配はしない?」

 本名も知らない相手の、死のうとしている理由なんて知らない相手の、まして今日出会っただけの、一緒に死ぬためだけに出会った相手の、その本心が気になって、思いを共有したくなって、そう口走った。そんな私の、自戒ともとれるような問いに、ヨウさんが笑う。

「意外と傲慢だね。それとも、死にたくなくなっちゃいそう?」

 驚くほど図星を突かれ、言い訳する気すら起きずに頷きを返す。

「大丈夫。私が殺してあげるから」

「え」

「私は今日死ぬ。あなたのために生きてあげようなんて気は毛頭ない。だけど、あなたがそう、死にたくないと思いそうになるのは私のせい。違う?」

「…それは、そう、だけど」

「なら、私に取れる責任はそれだけ」

 そうか。この人が、ヨウさんが死んでしまうのなら、確かにまた生きたいとは思えそうにない。それなら、最期くらいは、幸せなまま、ヨウさんの手で…

 私の沈黙の意味を読み取ってか、ヨウさんが私を再び押し倒す。そのまま、顔を私の胸元に近付けていく。無意識に身体が強張った。

「っ、ヨウ、さん」

 ヨウさんの唇が鎖骨に触れる。私の声には耳も傾けずに、そこから乳房に向かって這っていく。左手で私の腕を制しながら、右手で髪をかき上げる仕草が、私の興奮を煽り続ける。

 身体の収縮を繰り返し、自分でも聞いたことのないような甘い吐息を吐き出す私に、ヨウさんが呟いた。

「指、入れるよ」

 返事を待つ気はないらしく、私がその言葉を認識する直前、ヨウさんの長い人差し指が私の内側に、ためらうことなく入っていき、ヨウさんに全身を撫で回され、垂涎していたその入り口はその侵入者をいとも簡単に受け入れた。

「ヨウさん、待っ、て」

「無理」

 私の要請を即座に棄却し、内壁に指を伝わせる。少しの痛みと、それを補って余りある、いや、むしろそれと共鳴してさらに高まっていく快感が、近いうちに訪れる果てを報せる。

「…だめ、私、もう」

 首を横に振りながらうわごとのように言う私の頭を、ヨウさんは両側から包むようにして止めてから、耳元に顔を寄せて囁く。

「我慢しないで」

 虚ろで境界の消えかかった意識は、その言葉に呼応して堰を切ったように嬌声を漏らす。

 吐息未満のその声を、ヨウさんは唇で塞いだ。

 それと同時に、声を出せないまま、私は絶頂に至った。

「…ん、は」

 解放された口からは吐息交じりに呻くような声が溢れ、全身を脱力感が包んだ。

「どう?気持ち良かった?」

「…聞かなくても、わかってるくせに」

 恥ずかしさのあまり目を合わせられなかった。ヨウさんは笑った。

「…今、幸せ?」

 その質問の意図は、考える必要もない。

「うん。人生で一番、幸せ」

「そっか」

 ヨウさんの手が首を包む。親指が食い込む。呼吸がせき止められた。

 そのまま顔を近づけ、私の口を塞ぐ。

 肺に残っていた空気すらも奪い去られ、視界が外側から少しずつ狭まっていく。

 その視界の中心には、微笑むヨウさんが映っている。

 最期の景色にしては味気ないかもな。

 ヨウさんの化粧っ気のない顔を見ながら、安心感に似た温かさとともに、毛布のような柔らかさに包まれて眠りに落ちた。


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