Ⅸ.音の帰還
世界はまだ、静かだった。
中央ホールでも、
雪国の広場でも、
海上都市の桟橋でも、
人々は動かずに座っている。
誰も歌わない。
誰も声を上げない。
ただ胸の奥で、鼓動が続いている。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
その時だった。
ふっと、空気が動いた。
最初は誰も気づかないほどの小さな揺れ。
港町の丘で、風が吹いた。
乾いた草が、さらりと擦れ合う。
――サァ……
葉が揺れる音。
遠くの森で、枝が軽く鳴る。
海の上では、波が岸に触れた。
チャプン。
それは、どこにでもある音だった。
昔から、ずっと世界にあった音。
けれど今、人々は初めてそれを聞いた。
誰かが小さく呟く。
「……風?」
信じられないような声だった。
別の場所では、鳥が鳴いた。
ピィ――。
短く、澄んだ声。
その音が空を渡る。
人々は顔を上げる。
耳を澄ます。
音が、戻ってきていた。
長い沈黙の下で抑え込まれていた世界の振動が、ゆっくりと解放されていく。
木々のざわめき。
遠い川の流れ。
人の衣服が擦れる音。
息を吸う音。
吐く音。
どれも小さく、弱い。
だが確かだった。
それは、数十年ぶりに完全に自由になった音だった。
誰かが、思わず笑う。
くすり、と。
その笑い声はすぐに広がる。
隣の人が笑う。
後ろの人も笑う。
理由はない。
ただ、世界が再び鳴り始めたから。
中央ホール。
アリアは目を開いた。
風の音を聞く。
客席のざわめき。
遠くの街の響き。
彼女は何も言わない。
ただ、静かにその音を聞いていた。
そのとき。
会場の端で、小さな声がした。
子供だった。
まだ幼い、五歳くらいの少年。
彼は胸に手を当て、少し考える。
周りの大人を見て、また胸を見る。
そして、口を閉じたまま――
小さく鼻から息を震わせた。
「んー」
ほんの小さなハミング。
マイクにも乗らないほどの音。
けれど、近くにいた人が振り向く。
誰かが微笑む。
少年はもう一度やる。
「んー」
今度は少し長く。
その音は空気に溶ける。
誰にも命じられていない。
誰も止めない。
そして――
静域も、もうそれを止めない。
音は自由だった。
風も。
鳥も。
人の声も。
そして、その小さなハミングも。




