村の食堂には子犬がいる
習作です。
その村は、地図の端にひっそりと置かれた忘れ物のような場所だった。人口はわずか百人。背後には険しい山々がそびえ、その麓にはただ「迷宮」とだけ呼ばれる小さなダンジョンが口を開けていた。そんな小さな村にある宿屋兼食堂、それが『銀の深鍋』だった。
『銀の深鍋』の朝は早い。
奥の厨房から香ばしい肉汁とハーブの香りが漂い始めると、看板犬アーサーは、定位置である暖炉の脇でゆっくりと目を開けた。彼の毛並みは一見するとどこにでもいる雑種犬のようだが、よく見ると青みがかった銀色で、このあたりでは見ない毛色をした子犬である。
「アーサー、おはよう。今日も一番乗りね」
店主の娘、リナが大きなボウルを手にやってくる。アーサーはわざとあくびを一つし、尻尾をパタパタと床に打ち付けた。見た目はどこにでもいる、少し毛並みの良い柴犬サイズの雑種犬だ。しかし、その瞳の奥には、知性の光と、雷光を思わせる琥珀色が潜んでいる。彼は幻獣『雷狼』の幼体だった。
もっとも、今の彼にとって最大の関心事は、世界の行く末でも他の幻獣との縄張り争いでもなく、目の前の深鍋の中身だった。
「はい、今日のご褒美。昨日の猪肉の残りと、特製ミルク粥よ」
アーサーは「クゥーン」と愛らしく鳴いてみせると、一心不乱に食事にかじりついた。
(これだ。この脂の乗った肉と、リナの魔法のような味付け。山の魔物を喰らうより、よほど満たされる)
彼は元々、遠く離れた高山を住処とする高貴な雷狼の群れの幼体だ。しかし、一年前、まだ未熟な力で住処を追われ、傷つき倒れていたところをこの村の人々に拾われた。以来、彼は「ちょっと賢い犬」として、この平和な日常を守ることを自らに課している。もちろん、正体がバレれば即座に大騒ぎになることは火を見るより明らかだ。だから、彼は徹底的に「犬」を演じていた。
平和な朝を破ったのは、宿の扉を荒々しく叩く音だった。入ってきたのは、迷宮探索を終えたばかりの顔色の悪い冒険者たちと、村長のトーマスだ。
「リナ、親父さんはいるか? 大変なことになった」
村長の震える声に、厨房から恰幅の良い店主・バートが顔を出した。
「どうした、村長。朝から景気の悪い顔して」
「『迷宮』の様子がおかしいんだ。入り口付近に、見たこともない黒い霧が立ち込めている。それに……」
冒険者の一人が、ガタガタと震えながら言葉を継いだ。
「……魔物たちが、怯えて逃げ出しているんです。深層にいるはずの強力な魔獣が、地上付近まで上がってきている。このままじゃ、村に溢れ出してきちまう」
アーサーは食事を止め、耳をピクリと立てた。
(黒い霧……。ただの魔力の暴走じゃないな。不穏な予感がする。このままだと、村全体に影響が及ぶかもかも知れない)
村は騒然となった。この村には、高度な魔法使いも騎士団もいない。いるのは、引退間際の老冒険者と、十数人の若手冒険者だけだ。
「ギルドに連絡しても、応援が来るまで三日はかかる。それまで村が持つかどうか……」
リナが不安そうにアーサーを抱き上げた。
「大丈夫よ、アーサー。私たちが守ってあげるからね」
アーサーは彼女の腕の中で、静かに目を細めた。
(逆だよ、リナ。僕が君たちを守るんだ。この美味しいシチューを明日も食べるためにね)
その夜、村全体が深い眠り、あるいは恐怖による沈黙に包まれる中、アーサーは宿の裏窓から音もなく外へ飛び出した。 村の境界線を越えた瞬間、彼の身体から溢れる魔力が、抑え込んでいた真の姿をわずかに解放する。
体躯は一回り大きくなり、青みがかった銀色の毛並みは、微かな雷光を纏って輝く。足元には電気が走るかのように、微かなスパークが散った。彼は、雷光を纏い、闇夜に溶け込む静かな雷狼となっていた。
迷宮の入り口に到着すると、そこには村長が言った通り、どろりとした負の感情を煮詰めたような黒い霧が渦巻いていた。その中心に鎮座していたのは、深層の主であるはずの『影熊』だった。しかし、その目は赤く充血し、自意識を失っている。
「グルルゥ……」
アーサーは低く唸った。
(何者かが、迷宮の核を汚染したな。魔物たちを暴走させて、村を壊滅させるつもりか。この黒い霧のせいで、空気中の魔力が乱れている……)
影の中から、数体の低級悪魔が姿を現した。彼らはこの混乱に乗じて、人間の魂を刈り取ろうと企んでいるようだ。
「ケケケッ、なんだこの子犬は?」
低級悪魔たちが槍を構えて襲いかかる。 アーサーは動かない。ただ、琥珀色の瞳を見開いただけだ。
次の瞬間、彼の体から一瞬、強い青い光が放たれた。それは咆哮ではなく、彼が権能として備える雷の一撃だった。
「ガァッ……!」
低級悪魔たちは悲鳴を上げる暇もなく、その存在を霧散させた。暴走していた影熊も、その圧倒的な格の違いに本能的な恐怖を思い出し、地べたに伏して震えている。
アーサーは迷宮の奥深くを見据えた。
(汚染の源は、さらに下か。手早く片付けないと、朝食の時間に間に合わない)
アーサーは迷宮を駆け抜けた。その足は雷光の残像を伴い、まるで瞬間移動しているかのようだ。罠も魔物も、彼の電撃的な速さの前では無意味だった。 最下層の大広間に辿り着くと、そこには一人の男が立っていた。禁忌の魔術に手を染めた、堕落した魔術師だ。
「誰だ……? いや、何だ、その獣は。ただの狼ではないな。貴様、何者だ!」
魔術師が杖を掲げ、大量の黒い雷を放つ。 アーサーはそれを、避けることさえしなかった。黒い雷は彼の青みがかった銀色の毛に触れた瞬間、パチリと音を立てて逆流し、魔術師へと跳ね返る。雷狼にとって、人界の魔術などそよ風に等しい。
(うるさい羽虫だ。僕の安眠と食卓を邪魔する罪は重いぞ)
アーサーが床を一蹴りすると、周囲の空気が一瞬で帯電し、青白い電撃の鎖が地面から伸びて魔術師の四肢を封じ込めた。
「バ、バカな……! 私の究極魔法が……ひ、光る牙……? まさか、お前は……」
魔術師がその名を口にする前に、アーサーの牙が空間そのものを噛みちぎった。それは単なる物理的な噛みつきではなく、牙から放たれる電磁波が、敵の存在そのものを分解する攻撃だった。迷宮を覆っていた黒い霧が、朝日を浴びた霧のように消えていく。汚染されていた魔力の核は、アーサーが放った浄化の雷気によって元の静謐さを取り戻した。
一仕事終えたアーサーは、ふんと鼻を鳴らすと、元来た道を全速力で引き返した。その速さは、雷が空を走るかのようだった。
(まずい。太陽が昇り始めている。リナが起きる前に戻らないと)
翌朝、村の人々は驚きと共に目を覚ました。 迷宮を覆っていた不穏な空気は一掃され、森には鳥のさえずりが戻っていた。村中の電灯が、いつもより明るく感じられるのは気のせいではないだろう。
「奇跡だ! 神様が助けてくださったんだ!」
村長たちは喜び、抱き合った。
一方、『銀の深鍋』では。
「アーサー! もう、どこに行ってたの? 窓が開いてたから心配したじゃない」
リナが腰を隠して怒っている。アーサーはわざとらしく泥のついた足を隠し、情けない声で「キャン」と鳴いて、彼女の足元に擦り寄った。
「もう、しょうがないわね。外で遊んでたの? 汚れた足を拭いたら、ご飯にするわよ」
リナに足を拭いてもらっている間、アーサーは満足げに目を閉じた。 昨夜の雷光を纏う魔獣の面影はどこにもない。そこにいるのは、少しお腹を空かせた、可愛い看板犬だ。
やがて、テーブルの上には湯気を立てる大きな皿が置かれた。 今日は村の危機が去ったお祝いに、バートが朝から腕を振るったらしい。厚切りのベーコン、とろとろの半熟卵、そして地元産の野菜がたっぷり入った琥珀色のコンソメスープ。
アーサーのボウルには、贅沢にもそのスープがかけられた特製のパンが盛られた。
(やはり、これだなぁ)
アーサーは尻尾を機嫌よく振りながら、夢中で食べ始めた。 外の世界では、伝説の幻獣がどうだとか、魔王の再臨がどうだとか、騒がしい話が絶えない。だが、この小さな村の、この小さな食堂の隅っこにこそ、彼が守るべき世界の全てがあった。
「美味しい? アーサー」
リナが優しく微笑み、彼の頭を撫でる。 アーサーは「ワン!」と元気に返事をすると、最後の一口を幸せそうに飲み込んだ。




