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10Q――星を宿す瞳――

 無数の星が瞬き、暗闇に白い息が現れては消える。夜空の下、大小の影が三脚に固定されたカメラを覗き込んでいた。

 「由希(ゆき)。上も見てご覧。せっかくの双子座流星群だよ」

 柔らかな祖父の声に由希は夜空を見上げる。白く輝く星々の間を幾筋もの星が流れていた。

 「うわぁ」

 目を見開いた先で、また星が一筋流れる。

 幾千のきらめく星々と、次々に流れる光を由希は瞬きも忘れていつまでも見入っていた。


 銀杏並木の鮮やかな緑の葉が風に揺れる。

 新入生で溢れていた大学構内も、大型連休明けには落ち着きを取り戻していた。しかし、その空気は新たな熱を帯び始めていた。

 両脇に銀杏の木が植えられたメインストリートでは白いテントが立ち並び、忙しなく学生たちが行き交っている。

 学園祭前日のソワソワとした熱気の中、大学構内の一室では、二人の女性が大きく引き伸ばされた星空の写真を額縁に収める作業を進めていた。

 「そういえば、円香(まどか)ちゃんってなんでうちのサークルに入ろうと思ったの?」

 「ん~そうですね。あの、新歓の時期に由希さんにビラを渡された時に言われた、『最後に星空を見上げたのはいつですか?』っていう言葉が印象的で」

 はにかむ円香の言葉に由希の口元が緩む。

 それは天文サークル10Q(テンキュー)の伝統の勧誘文句であった。

 「ほら、あの街って田舎だから夜は真っ暗で。でもその分、星が綺麗じゃないですか」

 新歓の時に2人が同郷だとわかり、それをきっかけに打ち解けてから由希は円香に随分と懐かれていた。

 「入学直後は夜も明るいし都会だってはしゃいでたんですけど。その言葉を聞いたときに、そういえば、空を見てないなって思って。夜に窓の外を見たら、星がぜんっぜん見えなかったんですよ」

「わかる。夜なのに空が白っぽいよね」

 地元の街は星の美しさで有名で、その星空を守るために夜間の屋外照明等の制限を条例で設けるほどだった。

 幼い頃から星に親しみ、そのまま大学では天文学を専攻するために入学した由希にとって、夜空の違いは衝撃的であった。

 「あ、でも、あれはどうかと思います。質問に答えたらThank you(テンキュー)って」

 由希はその言葉をかけた時の円香の呆気に取られた顔を思い出して頬が熱くなった。

 サークル名である10Qの由来は天球(てんきゅう)――厳密ではないが、自分を中心に夜空に浮かぶ月や星を見上げた景色がイメージに近い――であるが、それにかこつけて様々な意味を持たせていた。新入生へ|10個の質問《10 questions》をしたり、回答のお礼にThank you(テンキュー)と言うのが伝統であった。

 「要は駄洒落ですよね~」

 呆れた様子で笑いながら、円香は次々と写真をパネルに留めていく。丁寧な円香の手つきに由希は小さく笑い、そっと額縁を撫でた。青白い星々が天の川を白く輝かせていた。


 高く急峻な山々は黒く夜空の端に沈み、ぽっかりと暗く空いた空間では星々がきらめく。

 太陽に熱せられた都会の喧騒から遠く離れ、ひんやりとした風が静けさの中を吹き抜けていく。地面にシートを敷いて寝転んだ由希と円香は空を仰いでいた。

 「うわ~……まさに満天の星ですね」

 「すごいよね。何度来てもこの星空は感動するよ。……あ、流れ星」

 「えっ。どこですか?」

 「いや、もう流れちゃったよ。一点を注視せずに、こう、空全体を眺めるイメージで」

 由希の指が大きく夜空をなぞる。

 ぽつぽつと時折流れる星にはしゃいだり、由希の話す星座のうんちくに相槌を打っていた円香の声がふと止まった。

 由希が横目で円香を見ると、まっすぐに新月の夜空を見上げる横顔が星明りでうっすらと白く浮かんでいた。

 「由希さんって、親戚とかに大学へ行くことに何か言われたことありますか?」

 夜のしじまに溶けるような声だった。

 あぁ、それは……、と由希はざらりとしたもので胸の奥を撫でられたような気がした。かすかに震える声に、いつかの自分の姿が重なる。

 由希の返答を恐れたのか、円香はすぐに続きを口にした。

 「お盆に帰省したら、親戚のおじさんが女の子は大学行くにしても家から通えるところに行けばよかったのにって……。その方の息子さんより“いい大学”に入ったことにも嫌味を言われたりして……。両親は全然そんなことなくて、好きな大学で勉強を楽しめばいいってスタンスなんですけど。でも……」

 二人の地元では、それを当然とする風潮がいまだに残っていた。

 「……わかるよ」

 囁きは涼風に紛れることなく円香へ届いたらしい。由希は隣で身じろぐ気配を感じながらも、夜空を見つめる。

 「理系ってだけでもさんざん言われたなぁ。それに天文学って、教授から学生まで男の人がほとんどなんだよね。おまけに、大抵の人は院に進学して博士号をとって、そこからが本番ってところもあるし。……親は、大学院って行くものなの? って感じでね」

 由希の脳裏に戸惑った様子の両親の顔が浮かんだ。同時に、それを嗜める祖父の丸く柔らかな声も蘇る。

 「でも、応援してくれる人もいるし、やっぱり勉強するの楽しいから。いつか、最先端の研究をしにアメリカへ留学したり研究者として行きたいんだ。そうやって、行けるところまで突っ走ろうかなって」

 伸ばした両手の先に数多の星が瞬いている。その指先の光を、肉眼では見えないさらにその奥までをも掴むようにぐっと握りしめた。

 「……私、まだ由希さんみたいにやりたいことって見つかってないです。でも、大学に来たからこそできることをやってみます。親はやらなくてもいいっていってくれてるんですけど、バイトとか……。あと、留学生の授業や生活のサポートとかを友達に誘われたので、それとか」

 弾んだ声で円香も星空へと手を伸ばす。由希が円香の顔を見れば、その目には星がきらめき、瞬くたびにその輝きは増すようだった。


 焼けつくような日差しの中を、時折、風が通り抜ける。絶え間なく響く蝉の声は病院の分厚い壁に遮られて微かになり、代わりに消毒液の匂いが漂っていた。

 病院独特の静かなざわめきが響く廊下を由希は足早に進む。病室の前で深呼吸をすると、そっと扉に手をかけた。

 白く無機質な部屋の中では細身の老人がベッドの上で体を起こしていた。

 その横には由希の両親が座っている。

 「……おじいちゃん?」

 父親が祖父に耳打ちをする。

 「こんにちは。やぁ、これは綺麗なお嬢さんだ。……由希、すっかり大きくなったねぇ」

 柔らかな口調で話す祖父の顔は、しかし戸惑った様子を隠せていなかった。

 軽度の脳梗塞によるここ十年程度の記憶の欠如。

 電話口で聞いても、いざそれを目の当たりにすると予想以上の衝撃を由希に与えた。

 それでも、ここ十年での出来事や、学んでいる天文学について話すうちに、ぎこちなかった空気もゆるんでいった。

 「そうそう、おじいちゃんの仕送りのおかげで、楽しく勉強にも集中できてるんだよ。ありがとうね」

 由希の感謝に祖父は笑みをこぼした。

 「それはよかった。……それで、大学では何を勉強してるんだい?」

 息を呑んだ。それは、つい数十分前に話したことだった。

 さっと両親に視線をやると、硬い表情で頷かれた。

 「……あ、天文の、星の勉強をしてるよ」

 「由希はいつも星を見ていたもんなぁ」

 先ほどと同じように満面の笑みを浮かべる祖父に、由希はただ微笑むしかなかった。

 祖父と共に見上げた星空が遠ざかっていく。

 入院のための服や身の回りのものを持った由希の祖母が病室に戻ったタイミングで、由希は両親と共にその場を後にした。


 「いま、話すべきじゃないのはわかってるんだけど」

 家に戻るや否や、両親は由希にリビングの机に座るように促した。

 「やっぱり、大学院って行かないとダメかしら? その、うちは奨学金もらえる条件じゃないし……」

 真正面の母親から気まずげに切り出された言葉は、由希が覚悟していたものであり、同時に絶望でもあった。

 両親は一定の世帯収入があるものの、弟や妹の進学も控える状況での仕送り額は、ある程度のアルバイトを前提としたものだった。

 そんな由希に、祖父は少なくない額の援助をしてくれるだけでなく、大学院進学についても、両親へ支援を申し出てくれていた。

 その祖父が倒れ、退院後の生活も不透明となった今、これまでと同様の援助が期待できるのか。現実的な話が必要であった。

 沈黙だけが横たわっていた。

 重苦しい空気が漂っていたリビングの扉が開くと、重そうなリュックを背負った青年が入ってきた。

 「あれ、姉ちゃんだ。おかえり」

 「あ、うん。ただいま、翔吾」

 翔吾の声に室内の空気が和らいだ。

 「そうだ、ちょっと物理教えてよ。解けない問題があってさ~」

 自室へ戻る翔吾を由希は追いかけた。

 途中、スマートフォンが震える。円香からのメッセージだった。留学生のサポートを始めた、と嬉しそうな絵文字付きの報告が続く。

 由希は無言で画面を消した。

 翔吾の部屋へ足を踏み入れると、翔吾は言いづらそうに口を開いた。

 「姉ちゃんさ、大学どうすんの? その、俺も今年受験だし、行きたい大学は県外だから下宿するだろうし。姉ちゃんが大学院まで行くんなら、その費用って……」

 「……どうかなぁ」

 由希にとっては切実で、すぐには解決できない難問であった。しかし、どこにでもありながら、一生悩まない人もいる問題であった。

 閉ざされつつある未来に喉の奥が締め付けられる気がした。

 一瞬、由希の脳裏に地元でも有数の資産家の娘である円香の顔が浮かんだ。

 羨ましさとも妬ましさともつかない黒い感情がじわりと滲んだ。

 その感情に恥ずかしさを覚えるも、それは由希の心に仄暗い影を落としていた。

 「……じいちゃんが倒れなかったら、俺にも仕送りもらえたのかな」

 ぽつりと翔吾が言葉をこぼす。

 不安そうな翔吾の声の奥には微かな不満が滲んでいた。

 はっと見上げた先の翔吾の表情に、由希は胸をつかれた。同時に、かっと頬が熱を持つ。

 両親は子ども三人に不平等や不公平とならないように授業料や仕送りの額は一定の基準を設けると約束していた。

 それをすっかり忘れて、祖父の援助を当然と思う甘えや、弟妹が抱くであろう不満に気づかなかった自身の浅はかさへの羞恥だった。

 結局、大学院へ行きたい自分が行動していなかったことが一番の問題なのだ。

 原因はわかった。あとは、どう解決するのかを考えるだけだ。

 翔吾の質問にいくつか答えた後、由希は自室に戻るとすぐにノートパソコンを立ち上げてキーボードに向かい合った。

 黄色に染まった銀杏の葉が大学構内の小道を一面に覆っていた。

 銀杏の実を踏まないように下を見ながら由希は慎重に歩く。その足取りは重かった。

 ベンチに腰掛けて、スマートフォンで幾度も見たウェブサイトを確認する。

 ――給付型奨学金の募集期間は例年六月までが多く、主なサイトは以下のURLで――。

 ――新入生向けの奨学金は多いですが、在学生に対する新規の奨学金は――。

 ――在学中に経済面での急激な変化が生じた際には……その場合の世帯収入は――。

 小さくため息をついて、画面を閉じる。

 在学生対象の給付型奨学金は非常に少なく、貸与型であっても由希の場合はその条件を満たしていなかった。

 大学院生向けの奨学金は条件が緩和されるものの、貸与型の場合は返済に不安が残り、給付型も狭き門であった。アルバイトも勉学との両立に懸念があり、いずれも確実な解決策には思えなかった。

 新しく就職サイトページへと移りスクロールとクリックを繰り返す。

 宇宙関連企業の研究職は修士が最低条件で、学部卒で就職する場合、研究者の道を諦めることになる。

 八方塞がりだった。

 当面の大学生活については、祖母が祖父に代わって援助をしてくれることとなった。しかし、それもいつまで――それを考えるたびに弟や妹の顔を思い出す――貰えるのか。そもそも、貰ってもいいのだろうか。

 専門的な授業も増え、ゼミでは同級生たちが院試へ向け――同じ学科の9割以上が大学院へ進学する――準備を進めている中で、由希は一人、進学か就職かすら決意できずがんじがらめになっていた。

 「……由希さん?」

 前方でかさりと銀杏の葉が音を立てる。

 顔を上げるとそこには驚いた表情で円香が立っていた。

 「わ、お久しぶりです! サークルで会わないので心配してたんです。最近は学園祭の準備一色なんですよ」

 「あ~……ごめんね」

 「いえ! 一、二年生が中心で先輩方は基本アドバイスだけだって聞いてますし」

 「そう。……そういえば、こっちのキャンパスに用でもあったの?」

 「そうなんです! 授業で漱石について今やってるんですけど、三四郎池は見たことなかったなと思って。ついでに、銀杏も見ようかなと。あと、留学生のチューターも始めてて、その人が講堂を見たいって言うので一石三鳥を狙ってって感じです」

 「あぁ、留学生の……。夏に言ってたね」

 「はい! 日本文化の説明をするのに色々と調べるのが楽しいです。それに、日本語が上手で私の英語力が恥ずかしくなって」

 どんどん世界が広がっていく円香と、足踏みをしている自分。照れ臭そうに笑う円香に、由希の胸の奥がざわりと揺れる。

 「由希さんは、最近どうされてますか?」

 明るい声音が、由希の張り詰めた心の奥底に触れた。

 「……春には、大学にいないかもね。経済的にちょっと厳しい状況になって」

 少し大袈裟に言っただけだ。実際は、当面の大学生活の目処はたっている。

 しかし、身じろぎすればするほど沼に沈み込んでいくような息苦さがあった。

 胸の奥にへばりついた泥のような思いを誰かに吐き出したかった。

 ちょとした由希の悪意に気づいているのかいないのか、円香は口をつぐんだ。

 視線を左右に揺らし、円香は言葉を選ぶように口を開いてはきゅっと閉じる。

 「……ごめん。八つ当たりだ」

 首を横に振る円香の顔は泣きそうであった。

 「マドカ! Ah……スミマセン?」

 陽気な声にパッと揃って顔を向ける。背の高い男性が戸惑った様子で立っていた。

 円香の言っていた留学生だろう。由希は咄嗟に笑みを浮かべて互いに自己紹介を始めた。

 彼はアメリカからの留学生で大学院では日本の伝統文化を研究していると流暢に話す。

 「日本で憧れの教授と最新の研究をしたくて」 

 好きなことや夢にむかって邁進する人はいつも眩しい笑顔を浮かべている。

 「由希の専門は天文学(astronomy)? いいね! いつかアメリカに来るの?」

 屈託のない笑顔でされた質問に、由希はただ口を濁した。

 別れ際に、こちらを窺う円香に無理やり口角を上げて小さく手を振った。

 留学生からはパチンと音がしそうなウィンクをもらって、由希は思わず笑う。

 その目は夏合宿で見た円香と同じ輝きをしていた。


 研究室の窓際に置かれた卓上の小さなクリスマスツリーの飾りが夜を背景にガラスへ反射し金銀に光っていた。

 可動式のホワイトボードにはびっしりと複雑な数式が書き込まれ、机には論文や資料が積み重なる。モニターの青白い光が周囲を照らし、キーボードの打鍵音が静かに響く。

 「そういえば、院試の準備は順調?」

 同じ研究室の院生からの質問に、キーボードを打つ由希の指が止まった。

 彼はTAティーチング・アシスタントとして実験の補助をしたり、演習問題を解く際にアドバイスをくれたりと由希にとって比較的身近な存在であった。

 「研究テーマはまだ焦らなくていいけど、物理学とかの基礎は今のうちから対策しとくといいよ。この調子なら大丈夫だろうけど」

 院生は由希が作成していた星の誕生過程についての数値シミュレーションの結果を見て頷いた。

 「さすが、TAいらずだな」

 「そ、そんなことは……」

 「給料分の仕事はさせて欲しいけど、まぁ楽なのは間違いないから助かる」

 「給料分、ですか……」

 「ん? あぁ、時給1400円くらいだけど、移動のロスもないし復習にもなるから院でバイトするならお勧めかな」

 大学院での勉強を妨げずに、ある程度の生活費を稼げる手段もあるのか。

 「あ、でもうちの大学院独自の支援制度なら月に15万もらえるし、まずはそっちを狙うほうがいいね」

 由希は目を見開いた。

 その制度に由希は聞き覚えがあった。

 「俺、落ちちゃったからさ。まぁ代わりにTAの仕事を紹介してもらえるけど。やっぱ勉強に集中できる方がいいし」

 祖父が倒れる前、大学院進学を相談した際に教授が院生向け経済的支援についても軽く触れていたこと思い出す。当時は祖父の援助があるものと思っていたし、具体的なことはまだ先のことだと気に留めていなかったのだ。

 その後は先に学外の奨学金制度ばかり調べていて、すっかり忘れていた。

 もっと、早く相談していればよかった。

 男所帯の研究室で、女性の自分がいることにどこか遠慮があったのかもしれない。また、経済的理由を周囲に相談することの躊躇いも。

 女性が男性の中で研究するということに気負いすぎて、周りが見えていなかったことを由希は自覚した。

 「そういえば、この記事読んだ?」

 体を由希へと向けた院生の手には科学学術雑誌があった。

 興奮気味に早口で最新のデータと数値シミュレーション結果の比較について語りはじめた院生の目もまた、いつかの夏の夜空と同じ輝きを宿していた。

 ここ最近、純粋に楽しんで天文学に触れていただろうか。

 研究に性別は関係なく、ただただ星や宇宙が好きで、知りたいという純粋な好奇心を共有するだけでよかったのだ。

 院生との充実した会話が一段落すると、由希は雑誌を閉じる。その表紙を宇宙望遠鏡で撮影された美しい星雲が鮮やかに飾っていた。

 

 落葉した銀杏の並木道には一枚の葉もなく、両脇の建物から黒く長い影が伸びていた。

 大学の敷地へ足を踏み入れた瞬間に吹いた冷たい風に由希は肩をすくめた。マフラーに顔を埋めると隙間から白い息が頬を撫でる。

 時計を確認すると、四年生の追い出し会までは数時間ほど余裕があった。久しぶりに部室で過ごそうかと由希はサークル棟のある方角へ足を向けた。

 数十メートル先の日向を求めて自然と早足になった。

 コートのポケットのスマートフォンの振動に由希は足を止めた。見れば、円香から一通のメッセージが届いていた。

 「由希さん! よかった、送別会にいらっしゃるんですね」

 由希が前を見ると、鼻の先を赤く染めた円香が光の中で立っていた。近寄れば、円香はどこか緊張している様子だった。

 「その、私、この春に短期の語学留学をするんです。三年次に交換留学へ行けるように英語力を鍛えたくて」

 「そうなんだ」

 急に自身のことを話し始めた円香に由希は面食らった。

 「留学生と話すうちに、自分や地元での普通が当たり前じゃないって気づいて。そうしたら、もっと色々な価値観に触れたくなったんです」

 話の先も目的もわからず、由希の眉間に軽く力が入った。

 「夏に話したやりたいこと、見つけましたってどうしても言いたくて。でも、今日会えなかったらもう直接話ができないかもって」

 必死な様子の円香に由希は首を傾げた。

 四年に上がればサークルに顔を出す頻度が今以上に減るのは確かだった。

 「あの……新学期もまた、会えますか?」

 合点がいった。

 秋に由希が言い放った春には大学にいないかもしれないとの発言を気にしていたらしい。

 直接聞くのも憚られたのだろう。もっとも、随分と遠回しすぎて伝わらなかったが。

 「あぁ。ごめんごめん。春からも普通に大学にいるよ」

 由希の答えに円香は目を細めた。

 正月の帰省で祖母も交えて両親と話し合い、少なくとも学部卒業までは今まで通りの学生生活を送れることとなった。

 大学院への進学については未定だった。しかし、出来事や会話をノートに取り始めた祖父が、見返しては由希が星を勉強していることを嬉しそうに笑うのだ。その声の柔らかさに胸の奥から込み上げてくるものがあった。

 援助について弟妹に正直に伝えたところ、二人とも気にした風もなく由希は拍子抜けした。実は、由希と同じくらいの成績を取れば同程度の額の援助を祖母から得られると説明されたとのことだった。

 弟の翔吾は受験も終えてないのに逆に変なプレッシャーがかかるとぼやいていた。どうやらサークル活動やバイト中心の大学生活を夢見ていたらしい。文句さえ言われたので由希は軽くデコピンをしておいたのだった。

 当面の学生生活の保証と祖父の笑顔は勉強への集中をもたらし、先日の試験の手応えは十分すぎるほどだった。

 しかし、大学院への進学にあたって必須となった支援制度に応募して採用されるかの自信はなく、二の足を踏んでいた。かといって、今更就職活動を始めるには遅すぎるうえに、研究者の夢を諦めきれなかった。

 気がつけば視線は下がり、ため息が出た。日向にいるせいか、白い息は漏れなかった。

 「由希さん」

 正面を見ると円香のまっすぐな視線とぶつかった。

 「……最後に星空を見上げたのはいつですか?」

 由希は息が詰まった。

 ここ数ヶ月、下ばかりを見ていた気がした。

 その質問に答えることなく、由希はゆっくりと空を見上げる。

 冬特有の澄んだ空気が晴れた空をどこまでも遠く青く見せていた。当然、星は見えない。

 それでも、雲一つないその背後には真っ暗な宇宙空間に無数の星々が輝いていることを知っていた。

 「……あ」

 青が滲んだ。頬を温かいものが伝っていく。

 咄嗟に顔を伏せた先で、瞬きする度にポツポツと水滴が地面に円を描いた。

 「ごめん。気にしないで」

 手の甲で拭うも、次から次へと瞼から熱が溢れ出てくる。

 「……て、てんきゅうですね!」

 唐突な10Q(サークル名)に由希の涙が止まった。

 「あの、天空の天に泣くって書いて、天泣(てんきゅう)って言葉があって」

 わたわたと円香は手を上下に動かす。

 「雲がないのに降る雨で、だから、えっと」

 目線を彷徨わせては、チラチラと由希を心配そうにうかがってくる。

 雨か。これはずっと漂っていた心の(もや)が雨となってこぼれ落ちたのかもしれない。

 柄にもなくそう思いながら由希は再び空を仰いだ。深く息を吸い込んで澄んだ空気で肺を満たせば、意識がさっと晴れていく。

 「……決めた」

 星を見に行こう。祖父と見上げた故郷の星を。夏合宿で掴んだ星を。日本だけではなく、アメリカの夜空も。肉眼では見えない遠くの星々は望遠鏡で。どこまでも遥か彼方まで。

 「私、星を見にいくよ」

 顔が火照り、大声で笑い出したくなる。晴れやかな気分だった。

 「ありがとう。円香ちゃん」

 その言葉に、円香は口元を緩ませた。

 「……由希さん。雨が上がったらどうなりますか?」

 「? 晴れるんじゃない?」

 円香はどこか残念そうな目で由希を見つめてきた。

 「……あと、雨粒に大気中のチリや埃が吸収されるから、空気が澄むね。そのまま晴れてくれたら星も綺麗に見えるよ」

 「違います。いえ、それもあってるんでしょうけど」

 ちっちっと指を振って円香は満面の笑みを浮かべる。

 「虹が出るんですよ!」

 雪が溶けると水になると答えるタイプの由希には辿り着かない答えであった。

 「ちなみに~。虹の別名は、天の弓って書いて天弓(てんきゅう)ともいいます」

 得意げな顔の円香を由希はまじまじと見た。

 天泣から天弓へ。

 雨上がりの空に虹がかかるように、心の中でも何かが輝きはじめていた。

 幼い頃から数学や物理、化学が好きで、読書も科学に関するものばかりだった。

 それで十分だと思っていたが、円香から聞かなければ一生知らずにいたであろうそれらの言葉は、思いのほか美しく由希に響いた。

 同時に、なんとなく悔しさも覚える。

 「……前は、10Q(テンキュー)を駄洒落だって言ってたのに」

 ちょっとした意趣返しだった。しかし、それ以上に円香の中にある10Qの大きさに嬉しさが優った。

 だから、由希は魔がさしてしまったのだ。

 「円香ちゃん」

 しっかりと視線を合わせる。

 「……テ、Thank you(テンキュー)

 「……いや、そこは照れずに最後まで頑張ってください」

 一瞬で首から顔全体まで熱を帯びた。

 それでも、胸の奥が柔らかで温かいもので満たされていくのを感じる。

 自然とこぼれ落ちた笑みに、円香も釣られたように笑った。


 居ても立っても居られずに円香とすぐに別れると由希は研究室へ走った。そのまま、夢中になって研究計画書の素案を書き上げる。

 まだまだ荒削りだ。しかし、星が誕生する直前の高エネルギー状態のように、今にも何かが生まれそうな、そんな予感があった。

 ふと窓の外を見ると空は琥珀色から薄紫、藍色から濃紺へと移り始めていた。窓ガラスに映る由希の顔は晴れやかだった。

 薄闇が夜へと向かう中、瞬きはじめた星が由希の瞳に重なり美しく輝いていた。

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