父の部屋への冒険
最近少しだけ世界が違って見えるようになった。
理由は単純だった。「歩けるようになった」のだ。
自分の足で床を踏みしめ、好きな場所へ移動できる。それだけのことが、こんなにも楽しいとは思わなかった。
観察の枠を超え、世界に“関われる”ようになったことが、俺の中に小さな変化を生んでいた。
なにより――リラの存在が大きい。
俺の妹。血のつながりはないが、そんなことは関係ないと自然に思える存在。
俺の日課は決まっていた。朝、目覚めたら真っ先にリラのもとへ向かう。
よちよちと不安定な足取りでベッドの縁にたどり着き、彼女の小さな手に、自分の人差し指を差し出す。それをリラがきゅっと握り返してくれるだけで、不思議と胸の奥があたたかくなった。
そして俺は、お決まりの“変顔”をする。目をむき、舌を出し、眉を寄せて大げさにひねる。
科学者としては到底やらなかったような行動だが、リラのくすくす笑いが、それを報いて余りあるものにしてくれる。
それを何度も繰り返す。ひとしきり笑いあったあと、俺はリラの頭をそっと撫でた。
「また、後でね」とリラに手を振り、俺は家の探検に向かった。
陽の光が静かに差し込む廊下を、小さな足で一歩ずつ確かめるように進む。
その先で、今日も変わらず――魔法のほうきが無言で床を掃いていた。
黙々と、淡々と、いつも通りの動きで。
「サーッサーッ」と音を立て、無感情に、部屋の隅々まで正確に。
――それがヒカルには、ずっと不思議だった。
(魔法って自動でこんなにも持続する?)
この世界の魔法は基本的に“魔力を込めて”発動するもの。
使えば消える、放てば終わる。それが常識のはず。
なのにこのほうきは、誰の魔力も受けずに一日中、黙々と掃除をしている。
しかも疲れ知らずで、やたらと精密だ。
「エルダ、このほうきってどう動いてるの?」
「掃除用だからよ。……それより絶対に触っちゃダメよ?」
エルダの返答は、あまりにも雑だった。
(それ、“触れ”って言ってるのと同じだぞ)
元 科学者として、ヒカルの探究心は燃え上がった。
――数日後。 はいさぎょう
(……秘密作戦D。今日こそ、目的を果たす時。)
ヒカルは心の中で、勝手に命名した作戦名を唱えた。
廊下の隅で息を潜め、慎重に状況を確認する。
エルダは台所で、鍋の蓋から立ちのぼる香りに鼻歌まじりのご機嫌な様子。
ガルドは書斎にこもり、難しい顔をして書類を読み込んでいる。
つまり――監視の目はすべて逸れている。
「チャンス……今しかない!」
そのつぶやきに、脳内の静寂を破るように応答があった。
《秘密作戦D、再起動を確認。状況:監視ゼロ。行動ウィンドウ、およそ12分と推定》
コーシー。脳内に響くこの人工知能サポートは、かつて科学者時代の研究支援AIだった。今では完全に“心の相棒”だ。
「ターゲット:自動掃除ほうき。目的:魔法機構の構造解析および制御アルゴリズムの推定。」
《補足:前回の接近試行、逃走パターンB“スピンターンによる障害物回避”により失敗》
「いちいち記録に残すな……!」
小さな体に全神経を集中させ、ヒカルは忍び足で廊下へ進み出る。
目前に迫るターゲット。だが、掃除ほうきはまるで察知していたかのように、ふいっと方向転換して離れていく。
《予測通り。自律回避機能。前回の行動記録より、一定距離を保とうとする性質あり》
一定の距離を保ち、障害物をうまく避けている。
しかも、こちらが行く手を塞ぐと……
ビュッ! 上に飛ぶ!?
ヒカルは頭脳をフル回転させた。
「でも今日は違うぞ……策はある!」
ヒカルは階段下の物置の構造を利用し、ほうきを回り込みながら少しずつ追い詰める。
角を塞ぎ、死角をつくり、脱出ルートを封じる。まるでチェスのような駒運び。
やがて――。
(……入った!)
「ふっふっふ……お前の逃げ道は、もう無い!」
狭い天井。壁に囲まれた物置。
ほうきは軽く浮き上がるように跳ねるが、低い天井に阻まれて飛べない。
「勝った……!」
ヒカルがほうきに抱きついた、その瞬間に声が聞こえた。
「警告。侵入者接触。自律操縦、起動」
次の瞬間、物置の扉が木っ端微塵に吹き飛び――
暴走モードのほうきが床や天井にぶつかりながら廊下を突き進む。
ヒカルが柄にしがみついた状態で、リビングへ一直線。
その勢いのまま、豪快にテーブルに激突。料理が宙を舞った。
鍋、スープ、皿、ケーキ、果物、そして粉チーズの嵐――
「うわあああああ!?止まれぇぇぇ!」
⸻
「おいおい、何の騒ぎだヒカル!……って、なにしてんだ!?ほうきに乗ってんのか!」
ガルドが笑いながら突っ込んできた。
暴れるほうきからヒカルをひょいと抱き上げると、粉まみれの頭を笑顔でワシャワシャ。
「まったく、俺に似て冒険好きになっちまったな!はっはっは!」
だが、その背後から――静かに足音が響いた。
ギィ……バタン。
ゆっくりと扉を閉めるエルダ。
足元には吹き飛んだ夕食。壁には穴。ヒカルはチーズまみれ。
「……ガルドォ」
「……え、いや、これ、たぶん俺じゃ――」
「魔法装備のロック解除したわね?」
「ち、違う、あれはちょっとだけ動作確認で――」
「確認したいなら、せめて動かすな。ヒカルに触らさせるな。」
ヒカルがそっとガルドの後ろに隠れる。
エルダはほうきに近づくと、冷ややかに呟いた。
「この“ポンコツ”のせいで、夕飯が台無し……」
ズバァン!
一閃。手刀一発で、ほうきは真っ二つになった。
⸻
静まり返った部屋に、ガルドの乾いた笑い声だけが響く。
「へ、へへ……今夜は、俺がご飯作るか……」
「三日分ね。もちろん掃除付きで。」
「へぇぇぇい……」
ヒカルは笑いを堪えながら、チーズまみれの頭を撫でられていた。
この家での日常は、今日もまたにぎやかだった。
数日後、歩くのにも慣れてきた。
今日もリラを笑わせてから、冒険開始だ!
すると――家の奥、いつもは静かに閉ざされている、重厚な木の扉が目に入った。
ガルドの部屋。普段は決して開かないその場所が、今日はわずかに隙間をあけていた。
(開いてる……?)
体が自然と引き寄せられる。床板がきしむ音すら慎重に消すように、俺はその扉の隙間に手をかけ、音を立てぬように押し開けた。
中に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。木と革と古い紙の匂いが混ざった、濃密で静かな気配。俺はそれを「知の空間」と名付けたくなる衝動に駆られた。
本棚――壁一面を覆う分厚い書物たちが、静かに並んでいた。魔法理論、魔力構造、自然魔力変換、自動制御……
その背表紙の並びに目を走らせるたび、ヒカルの胸に熱がこみ上げてくる。
(体系がある……これは、再現性がある学問だ)
前世、科学者として未知を追っていた頃の熱が、赤子の小さな胸の中でゆっくりと再燃していく。
けれど――目当ての本は高い位置にあった。
「くっ……届かない……」
ヒカルは歯ぎしりするように、じっと棚の上段を見上げた。そして静かに踵を返し、部屋の隅――いつもガルドが腰かけている椅子の方へと歩み寄る。
(仕方ない。あの椅子を運べば……)
椅子の傍に立った瞬間、ふと頭に思い浮かんだのは、あのガルドの姿だった。
普段は陽気で豪快で、くだらない冗談を飛ばしてはエルダに小突かれているあの男が――この椅子に座るときだけは、まるで別人のような顔をしていた。
(……眉間に皺を寄せて、唸りながら何かを……)
机の上をそっと覗き込む。
そこには、ページが開かれたままの書類の束。その中央に載せられた一枚の表紙が、ヒカルの視線を釘付けにする。
「漆黒の輪廻」
ごくり、と喉が鳴った気がした。
言葉の意味はまだ分からない。けれど、その響きと、ガルドが見せていた“難しい顔”――そのふたつが、胸の奥で妙に結びついていく。
(ガルド……この資料を見て、あんな顔をしてたのか?)
陽気なあの男が、笑わずに何度もページを読み返していた理由。それを、ヒカルはまだ知らない。
だが、確かにこの机の上には、「笑っていられない何か」が存在していた。
指が震える。本能が警告を発していた。けれど、ページをめくりたいという気持ちは止まらなかった。
――だが、次の瞬間。
「……おい、ヒカル。そんなとこまで入るとは思わなかったぜ。」
その声に、俺の体が硬直する。振り返ると、ガルドが腕を組んで立っていた。表情は驚きと、そして、どこか苦笑いの入り混じったものだった。
俺が手にしていた資料に目を落とすと、彼はため息をひとつついて、紙束をそっと取り上げる。
「そいつは……お前にはまだ早いなぁ。」
そう言って資料を机に戻す手つきは、どこか丁寧だった。
だが、ガルドは怒鳴り声を上げるでもなく、ため息ひとつついたあとで、そっと俺の目を見た。
「……まぁ、叱るほどのことでもねぇな。知りたくなる気持ちは、俺にも覚えがある」
その声には、呆れ半分、どこか嬉しそうな響きも混じっていた。
「世界ってのは広い。深くて、時々……怖い。でも、だからこそ面白いんだよ」
その何気ないひと言が、胸の奥に静かに染み込んでくる。
まるで、誰かがそっと芯に火を灯したような感覚だった。
俺が前世で求めた“核心”が、ここにもある。この世界の魔法にも“理論”が存在し、手繰り寄せる手段がある。
《魔法と理論》それがあれば前世で失敗した"あれ"を今度こそ実現できるかもしれない。
(この世界の魔法を解き明かしたい。そして、俺の手で――再び“ルミナスコア”を完成させる)
それが、この異世界に転生した俺の“生きる意味”になった。