エルダの異変と家族の絆
転生してようやく歩けるようになった。
今日も朝の村は静けさに包まれていた。柔らかな朝陽が家々を照らし、木々の間を風が抜けていく。
鳥のさえずりがどこからともなく聞こえるる。
だが突然、エルダの苦しげな声が家の中に響き渡った。
「ガルド……、来て……!」
顔を歪めた彼女はお腹を押さえ、体をかがめて椅子に手をついている。
声には微かな震えが混じり、普段の穏やかな彼女とは別人のようだった。
——そうか、彼女は今日……。
目の前の彼女は、必死に痛みに耐えている。
外で木を運んでいたガルドが、その声に驚いて飛び込んでくる。
「エルダ、大丈夫か!?」
普段の豪胆な彼からは想像もつかないほど、慌てふためいていた。
彼は大柄な体をかがめてエルダを支え、彼女の顔を覗き込むようにして様子をうかがった。
「もう…ダメだわ……」
ガルドは咄嗟に家の外へ出て、叫び声を上げた。その声には焦りと必死さが滲み出ていた。
すぐに村の女性数人が家へと駆けつけた。慌ただしく助けを求める彼の動きに、家全体が一瞬で緊張感に包まれた。
エルダは椅子に寄りかかりながら、息を荒げて何とか言葉を紡ぐ。
「大丈夫……ガルド。でも、早く準備を……」
その声には苦しさがにじんでいたが、同時に安心感を求めているようにも聞こえた。
揺りかごの中に立ち、俺はその光景を見つめていた。
エルダの体に起きているこの現象……。
これは、出産!!
だが、鬼族の出産が人間と同じ仕組みだという保証はない。何が起きるのか、興味が尽きない。」
この世界の鬼族という種は、どのようにして新たな命を生み出すのだろうか。
生物学的なプロセスがどこまで地球のものと一致しているのか、それとも完全に異なる仕組みで進むのか。
その違いを確認することは、科学者としての俺にとって大きな興味の対象だった。
「鬼族の体は魔法と密接に結びついている。この出産に魔法的な現象が関与している可能性もある……」
だが、科学的な興味とは裏腹に、どこかでエルダの無事を願う自分がいることに気づいた。
この家族との時間が、確実に俺の中で何かを変えつつある。
村の女性たちがエルダのそばに寄り添い、手早く必要な準備を整えていく。経験に裏打ちされた自信と、生命の誕生を支える使命感が感じられた。
「エルダ、深呼吸して。そう、そうやってリズムを整えるのよ。」
一人の女性がエルダの手を握り、優しく語りかける。
「布は? 水は十分か?」
もう一人の女性が他の村人に指示を出しながら、必要な道具を揃えていく。
家の外からはガルドの焦った声が聞こえてくる。
「水は持ってきたか!? あと何が必要だ!?」
村人たちが「落ち着け、ガルド」と笑いながらも手伝いに加わっている様子が見えた。だが、彼の落ち着かない様子は変わらなかった。
エルダは汗を浮かべながら、大きく息を吐いて波をこらえている。
その表情には苦痛が滲んでいるものの、それ以上に強い決意が感じられた。彼女の顔は母親としての覚悟を示しているようだった。
「もう……少し……!」
鬼族としての強靭な体を持つ彼女でも、この瞬間だけは弱さを見せていた。
しかし、女性たちの励ましと、ガルドの不器用ながらも懸命な愛情が、彼女を支えていた。
彼女が痛みに耐えていた時、俺の中に不思議な感覚が芽生えた。
それは単なる観察者としての感覚ではなかった。この家族の一員として、俺も新たな命の誕生を迎え入れる準備をしているような気がした。
そして、家の中に満ちる緊張感は次第に高まっていった。
「おぎゃーー!!!」
その瞬間は突然訪れた。
エルダが最後の力を振り絞った次の瞬間、家の中に響き渡る小さな産声――それは、生命そのものの叫びのように聞こえた。
赤ん坊の声が空気を震わせた瞬間、家の中に満ちていた緊張が一気に解ける。
「元気な女の子だ!」
村の女性のひとりが声を上げると、家の中が歓声に包まれた。外にいたガルドがその声を聞きつけ、勢いよく家の中へ飛び込んでくる。
「エルダ! 大丈夫か!? 子供は……!」
ガルドは慌ててエルダのそばに駆け寄ると、彼女の腕の中で静かに泣いている赤ん坊を見つけた。
その瞬間、ガルドの顔にはこれまで見たことのない表情が浮かぶ。喜びと感動が入り混じり、目には涙が光っていた。
「ありがとう、エルダ……。そして――ようこそ、リラ。」
ガルドはそっと赤ん坊の頭に手を触れ、優しく微笑む。
その光景を見つめる俺は、自分の中で複雑な感情が渦巻いているのを感じていた。科学者として、生命の誕生を観察できた感動。
だが、それ以上に、この瞬間の「命の力」が俺の心を打った。
リラと名付けられたその赤ん坊は、小さくて可愛らしい女の子だった。
肌は白く、角も牙もまだ見えない。けれど、しっかりと握られた手、精一杯に上げた泣き声――
そのすべてが、生きることを宣言しているようだった。
「リラ……これからは俺たちと一緒だぞ。」
ガルドの低く、温かな声に応えるように、リラが小さく鳴く。
その声を合図にしたかのように、家の中には静かな、満ち足りた空気が流れた。
揺りかごの中で見ていた俺の胸に、じんわりと温かい何かが広がった。
まるで心そのものに火が灯ったかのような感覚だった。
エルダは疲れた顔に微笑みを浮かべ、リラを優しく抱きしめていた。
その姿は、言葉よりも雄弁に「母親とは何か」を語っていた。
「リラ……あなたの名前はリラよ。」
そっと、包み込むような声でエルダが囁く。
まるで、リラの存在そのものを祝福するかのように。
リラは、ふにゃりと手を伸ばし、エルダの指をぎゅっと握った。
それは、か細いけれど確かな意志だった。
――生きる。ここで、生きる。
リラの泣き声が、もう一度響く。
そっと寄り添ったガルドの目には、涙が光っていた。
大きな手がリラの小さな頭を撫でると、リラは安心したように静かになった。
「ようこそ、リラ。お前は、俺たちの宝だ。」
その一言に、エルダもまた静かに微笑んだ。
家の中は、たった今生まれた命を中心に、静かに、しかし確かに、新しい家族として結びついていく。
俺はその光景を、目を離せずに見つめていた。
ガルドがそんな俺に気づき、にかっと笑って手を差し伸べてきた。
思わずその大きな腕に抱き上げられると、彼は何も言わず俺を彼女たちのもとへと連れて行った。
リラはまだ小さくて、頼りないくらいの手だった。
だけど——俺がそっと手を伸ばすと、リラは指先を掴んでくれた。
その瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
あたたかい。切なくて、でも確かに満ち足りた感情。
科学者としての興味なんて、とうに霞んでいた。
今の俺には、ただ——この世界の優しさに、胸を焦がすことしかできなかった。
(俺は、この家族の一員になりたい。)
静かな誓いが、胸の奥で小さく灯った。
それはきっと、リラの小さな命が、俺に与えてくれたものだった。
リラの誕生は、村全体に喜びをもたらした。
鬼族にとって新しい命の誕生は、村全体で祝うべき特別な出来事であり、この日を待ち望んでいた村人たちが、次々とガルドとエルダの家を訪れた。
家には祝いの品々が持ち込まれた。果物、手作りの装飾品、特別な日にしか出されない上等な酒など、贈り物は次々とテーブルを埋め尽くし、家全体が鮮やかな色彩に包まれた。
子どもたちは走り回り、大人たちは笑顔を浮かべて語り合いながら、リラという新たな命の誕生を心から祝福していた。
家の中心で、ガルドは誇らしげに笑みを浮かべながら声を張り上げた。その姿は、村人たちの視線を集めていた。
「リラは俺たちの宝だ!」
彼の声は堂々とし、家全体に響き渡った。村人たちは一斉に拍手を送り、「おめでとう、ガルド!」「元気な子に育つだろう!」と祝福の声をかけた。
彼は満面の笑みを浮かべながら、祝いの酒を手に取ると、大きな声で続けた。
「今日はリラの誕生を祝う日だ! 飲め! 食え! 楽しめ!」
その豪快な姿に村人たちはさらに笑い声を上げ、家の中は祭りのような雰囲気に包まれていった。
⸻
そして、家の戸口に、ひときわ重い気配が立った。
ギィ、と軋む音と共に、漆黒のコートを羽織った男が現れる。
その左腕は無く、代わりに無言の存在感を放つ逞しい右腕だけが、彼の過去を語っていた。
「……ふん、お前が子守りとはな」
場の空気が一瞬で張り詰める。
男は無遠慮に、「鬼ゴロシ」と書かれた酒の瓶をテーブルにドンと置き、ガルドへと視線を向ける。
「ガルド、お前のその拳……赤子に握らせるために鍛えたのか?ずいぶんと使い方を変えたもんだな」
「ははっ、握らせてみるもんだぞ? こいつ、なかなか良い握りするんだ」
ガルドは豪快に笑いながら、リラを腕に抱えたまま肩をすくめてみせた。
村人の一人が顔をしかめて声を上げる。
「いまはやめろ、クレイヴン!」
だが、クレイヴンは止まらない。
「笑わせてくれるな、ガルド……
“命を守る”側? お前が? 冗談だろ」
ガルドは笑いながら、リラの小さな手を自分の指に絡める。
そのままふっと顔を上げると、傍に立つヒカルの方へと視線を向けた。
「クレイヴン。命ってのはな……守ってみると、案外悪くない」
笑っていた目が、ほんの一瞬だけ、静かに強く光った。
クレイヴンは何も言わず、ただフンッと鼻を鳴らした。
そのまま無言で踵を返し、軋む戸口の向こうへと歩き出す。
ガルドは肩をすくめるように笑い、クレイヴンの背に向かって声を投げた。
「……酒、ありがとな」
一瞬、クレイヴンの足が止まる。
だが、振り返ることはなく、そのまま外へと溶けるように去っていった。
エルダもまた、村人たちからの感謝と祝福を受けていた。近くにいた女性がエルダの手をそっと握りながら、優しい声で語りかけた。
「エルダ、本当にお疲れさま。リラは素晴らしい子になるよ。」
エルダは少し疲れた表情を浮かべながらも、その言葉に微笑んで応えた。
「ありがとうございます。皆さんのおかげで、こうして元気な子を産むことができました。」
その目には母親としての誇りが宿り、静かに喜びを噛みしめているようだった。リラを腕に抱えながら、エルダは時折、愛おしそうに彼女を覗き込んで微笑んだ。
俺は、冷静な観察を続けながらも、鬼族の文化や家族の絆が醸し出す温かさに触れるたびに、自分の中に新しい感覚が生まれているのを感じていた。
これが鬼族の絆か……。彼らにとって、家族という存在がどれだけ特別で尊いものかが分かる。だが、人間である俺もこの絆の中にいるのだろうか?
その問いが頭の中を巡るたび、俺は自分がこの家族の一員として受け入れられていることを理解しつつも、どこか異質な存在である自分を意識せざるを得なかった。




