この世界について
夜の部屋には、静けさが満ちていた。
揺らめくランプの灯りが天井にやわらかい影を踊らせ、淡い光が絨毯の上にまばらに落ちる。
その一室、揺り椅子の隣に置かれたゆりかごの中で、赤子のヒカルはくるまれていた。小さな手は胸の上でふにふにと動き、まどろみと覚醒のあいだを行き来していた。
足音ひとつ立てず、エルダが部屋に入ってくる。手には、一冊の古びた絵本。革の表紙は色あせていたが、大切に読み継がれてきたことを物語っていた。
エルダはそっとヒカルのそばに膝をつき、低く穏やかな声で語り始めた。
「むかしむかし、この世界には恐ろしい怨霊たちが彷徨っていました……」
ページがめくられ、イラストがランプの灯に照らされる。
描かれていたのは、黒い靄のような姿をした怨霊たち。彼らは人の心の闇から生まれ、夜な夜な村々を襲った。
「言葉を持たぬその存在は、ただ冷たい悲鳴のような風音をまとい、人々の恐怖と絶望を吸い上げては、さらなる怨嗟を産み落としていった。
けれど……その時、一人の勇者が現れたのです」
ページをめくる音が響くたび、ヒカルはかすかに目を動かす。エルダの声が心地よく、くく、と小さな喉が鳴った。
「勇者は、銀の剣と祈りを手に、怨霊たちと対峙した。
けれど彼もまた、愛する者を失った悲しみに囚われていた。
心は揺れ、剣は鈍り、戦う意味を見失いかけた。
それでも勇者は立ち上がりました。自分の痛みを乗り越え、誰かの未来を守るために……」
そして、物語はクライマックスへ。
エルダの指先が、ゆっくりと絵本の最後のページをめくる。
そこに描かれていたのは、巨大な黒竜。
怨霊たちはついに一つにまとまり、禍々しき姿へと変貌したのだった。
「怨霊たちは、その憎しみと悲しみを集め、一体の竜と化しました。
漆黒の鱗、燃えるような瞳、空を裂く咆哮。
その存在は世界を呑み込むほどに巨大で、勇者の剣など通じるはずもないと思われた。
それでも、勇者は怯まなかった。
崩れゆく大地の中、彼は剣を握り、竜の喉元へと駆け上がる。
ここで、勇者は最後の力を振り絞り——秘奥義、“輪廻乱舞”を放ちました
竜は、怒りとも悲鳴ともつかぬ咆哮を上げて天を裂き、そして——静かに消えた。
黒い雲は晴れ、空は青さを取り戻し、風が静かに大地を撫でた。」
一瞬の静寂の後、エルダはそっと絵本を閉じた。
「……世界には、平和が戻りました。そして勇者は誰にも告げず、そのまま姿を消したのです」
ゆりかごの中で、ヒカルはエルダの声に包まれるように、静かに目を閉じていた。
ランプの光だけがほのかに揺れ、絵本の余韻が部屋全体に漂っていた。
ゆりかごの中で、ヒカルはまあるい目をゆっくりと瞬かせていた。絵本の世界に、まだ半分だけ心を預けているようだった。
そのとき、コーシーがそっと口を開く。
(……ヒカル、この話、好きですね)
その声に、ヒカルの頬がふわりと赤く染まる。
わずかに唇をとがらせて、ぷいっと顔をそらすように答えた。
(べ、別に……ふつうだよ)
「また今度、別のお話も読みましょうね」
そう言って微笑むエルダの声に、ヒカルはうっすらと笑みを浮かべながら、小さな体をゆりかごの中で丸めた。
物語の余韻に包まれたまま、ヒカルの瞼は少しずつ重くなっていった——。
エルダの読み聞かせは、絵本の勇者譚にとどまらなかった。
夜ごと彼女は、ヒカルのために様々な本を開き、世界の姿を静かに語ってくれる。
どうやら、この世界には鬼族のほかにも人間やエルフ、獣人やドワーフなんかもいるらしい。
しかも不思議なことに、みんな同じ言葉で会話してるらしい。翻訳魔法なのか、世界そのものにそういうルールがあるのかはまだ分からないけど……まあ、会話に困らないのは助かる。
さらに言えば、精霊やドラゴン、神様まで存在してるそうだ。
昔の絵本で出てきたような存在が、わりと“マジでいる”らしい。
……この世界、ファンタジーがリアルすぎる。
それから、少しずつだけど、俺なりに観察して分かってきたこともある。
ここには、電気もガスも水道もない。スマホもなければ、冷蔵庫も洗濯機も、当然ない。
だけど、不便かって言われたら……案外そうでもないんだよな。
理由はひとつ。魔法だ。
鬼族は、生まれつき魔法が使える。誰もが当然のように、日常生活に魔法を使ってる。
料理は火の魔法でちゃちゃっと調理。掃除は風と塵払いの魔法で完了。洗濯は水と乾燥の魔法、ケガも回復魔法で一瞬。
いや、マジで便利すぎるだろ。
こっちの世界、科学技術のインフラがなくても、魔法というチートでバランス取れてる。
文明レベルは原始的なはずなのに、生活の快適さだけはやたらと高い。不思議な世界だ。
……というわけで、今日も揺りかごの中で“母”の声を聞きながら、世界の仕組みを学んでいる。
……といっても、うんうん頷くこともしゃべることもできないのがもどかしいんだけどね。
⸻
村の朝は穏やかだが、家の中はいつも賑やかだ。特にエルダが台所に立つ時の空気は格別だった。
彼女が手際よく料理を進める様子は一見すると普通の光景のようだが、そこには人間には到底理解できない「魔法」が絡んでいる。
俺は揺りかごの中からその光景をじっと見つめていた。科学者としての好奇心を掻き立てられずにはいられない。
エルダは鍋の前に立つと、手を軽く振り上げた。
すると、彼女の手のひらからふわりと小さな炎が現れた。
その火は何の燃料も使わず、その炎を意のままに操っていた。
肉がじわりと焼け、野菜が煮え、香ばしい香りが部屋に満ちる。
火は彼女の意志で温度を変え、鍋の中身を絶妙な状態に保っているようだった。
「……燃焼反応をどうやって調整しているんだ……?」
科学者としての本能が疼く。
火を起こすには、本来、燃料・酸素・温度が必要だ。
だが魔法の火には、そのどれも当てはまらない。
コーシーに問いかけると、答えは――
「現時点での観測データでは、この火のエネルギー源を特定することはできません。ただし、彼女の生体エネルギーまたは未知の魔力によるものと推測されます。」
魔力。
そんな非科学的な言葉を、今の俺は笑えない。
エルダは軽やかに歌を口ずさみながら、料理を進めていた。
その様子は職人技と言っていいほどだったが、彼女は全く気負いもなくリラックスしていた。
俺が科学的に理解しようと頭を抱えている間、彼女はただの日常として魔法を操っている。
だが、その瞬間――彼女の鼻歌と動作が少しばかり大きくなりすぎた。
「♪ 私は最強〜〜」
ホールで歌ってるかの様に、ビブラートを効かせて歌った瞬間。
鍋の下の火が爆発的に広がり、一気に火力が高まった。
鍋の中で肉が跳ね、野菜が消え、室内は一瞬にして立ち上がった煙で包まれた。
エルダは蒸気の中から顔を出し、笑顔で呟いた。
「まあまあ、ちょっとやりすぎちゃったわね。」
ガルドがその光景を見て大声で笑い出す。
「おいおい、せっかくの肉が台無しだな! 加減ってものを覚えろよ!」
「いいのよ。また作ればいいんだから!」
そう言うと彼女は新しい食材を取り出し、再び鍋に向かい始めた。彼女の楽天的な性格が、この村の日常を象徴しているようだった。
俺はその光景を見ながら、呆れると同時に感嘆していた。
彼らにとって魔法は、奇跡でも奇異でもない。ただの日常だ。
科学や自分を否定されている様で、俺は揺りかごの中でそっと拳を握った。
エルダの笑い声とガルドの冗談が飛び交う中、俺は科学者としてのプライドを砕かれた。
日々の観察を続ける中で、次に俺の興味を引いたのは「水を操る魔法」だった。
村人たちが当たり前のように使っているこの現象を、俺は科学者として、仮説を立て、観察を始めることにした。
その日、畑では数人の鬼族が水を散布していた。
一人の鬼族が水壺に手をかざすと、中の水がふわりと浮き上がった。
浮かび上がった水は小さな粒に分かれ、光を反射し煌めきながら空中を漂っている。
その水滴が分裂し、均等に広がり、畑全体に行き渡る様子は、地球のどんな技術でも再現できそうになかった。
俺は科学者として、この現象を地球の物理法則で説明できないか考えた。特に、①表面張力/②静電気/③重力操作によるものと考えたが、いずれも違った。
何度観察を重ねても、俺の仮説は現実に合致しなかった。
おかしい……これでは説明がつかない。表面張力や静電気、重力操作を利用しているなら、それを示す手がかりがあるはずだ。水滴が安定して浮いているのは、何か別の力が働いている……?
俺は頭を抱えた。科学者として、全ての現象には理屈があると信じている。だが、この世界ではその理屈が見つけられない。
この世界の物理法則が地球と異なる可能性を初めて認識した俺は、科学者としての限界を痛感した。
「コーシー……俺の知識では、この魔法を説明できないのか……?」
「その可能性は高いです。ただし、"この世界の法則"が"地球の法則"とは大きく異なることを前提とすべきです。」
俺はその言葉に心を乱された。この世界には、地球での常識が通用しない現象が溢れている。
魔法だけで無く、ガルドの筋肉の限界をはるかに超えた強さとか。
「もし、俺の知識がこの世界では何の役にも立たないのだとしたら……?」
思考が暗い迷路に迷い込みそうになる。その時、コーシーが微かな光を放った。
「ヒカル、あなたの心拍数が上昇しています。思考が過度に集中している可能性があります。」
機械的な声。それが、なぜか今は少しだけ優しく聞こえた。
「……コーシー。俺の仮説はことごとく崩れている。この世界には、俺が知っている知識は通用しないのかもしれない。」
しばらく沈黙が続いた後、コーシーが答えた。
「あなたの常識が、この世界では非常識なのかもしれません。」
その言葉は、刃のように鋭く俺の胸を突き刺した。
「……俺が、間違ってる……?」
「あなたが正しいと思い込んでいる物理法則そのものが、この世界では異なっている可能性があります。」
その言葉を聞いて、俺は言葉を失った。物理法則――科学の根幹とも言えるその前提を疑うことなど、これまで一度も考えたことがなかった。
しかし、コーシーの分析に誤りはない。
「……だが、それでも……この世界に何の法則性もないとは考えられない。」
「その通りです。どのような世界にも法則性が存在する可能性は高いと推測されます。それを見つけ出すのが科学者の役割です。」
コーシーの言葉は冷静だったが、俺の心に小さな火を灯した。
揺りかごの中で、自分の拳を握りしめる。これまで何度も挫折してきたが、科学者としての信念はまだ俺の中に残っている。
「諦めるわけにはいかない。」
コーシーの光がかすかに揺れ、まるで俺の決意に応えるように微かに明るさを増した。
俺は熱くなった胸を抱いたまま、眠りに落ちた。
ふと目を覚ますと、夜の村は息をひそめたように静かだった。
ゆりかごの中から窓の外に目を向けると、そこには輝く星空が広がっていた。
無数の星が、まるで凍った空気に散りばめられた宝石のように瞬いている。
高く昇った月は地球のそれに似ているが、周囲には淡いオーロラがゆっくりとたなびき、夜空を薄く染めていた。
静かで、冷たくて、それでも息をのむほど美しかった。
この世界は、俺が知っている理屈だけでは語れない。
そのことを、星も月も、淡い光も、黙って教えている気がした。
この世界は、俺の知る理屈では語れない。
それでも……だからこそ、知りたい。
まだ見ぬ法則を、この手で見つけたい。