せかいのネイロ
世界は音に満ちている。
それは震動であり、そして全ての物質は波動により存在を証明する。
音も、光も
ありとあらゆる動きは旋律を奏で、それを崩さずに纏め上げること。
それがあたしの世界との触れ方。
「おい、猫っ、そっち握ってろ!」
ゲン爺の名で知られるガン・コイッテツが地響きを起こしそうなずんとした声で怒鳴る。
「はいなっ」
赤に輝く鋼。
工房の中は凄まじい熱気に包まれており、慣れない者が長時間居れば間違いなく熱中症でぶっ倒れるだろう。
頭に頭巾を巻いて髪を纏めた猫耳娘が棒状のそれを素手で握る。
「いいよー」
「おう!」
がんっ、と一発でも耳が馬鹿になりそうな音。
火花が激しく散り、びりびりとした震動を周囲に撒き散らすが少女の手だけはびくともしない。
がんっ、がんっ
正確に振り下ろされる鎚が鋼に力を注ぎ込む。
耳を塞ぎたくなるような騒音のはずだ。
しかし誰もが息を飲みその旋律を聞く。
力強くそして乱れぬ打ち込み。
その音が響く度に鋼に潜む不協和音が消えていく。
不意に静寂。続くじゅぅという蒸発音で誰もが目の覚めたような顔をして己の仕事を思い出す。
「にゃぁ、腕に響くにゃね、相変わらず」
水気をふき取り、炉に再び差し込む。
職人が片手で吊り上げられそうな小娘だが、その手にやけどらしき痕はかけらもない。
「びくともしねぇ癖になにを言ってやがる。
ほれ、出せ」
「にゃ」
再び炉から取り出し、金床の上に置く。
響く音がどんどん澄んでいく。
鋼を清める行為の果てに剣という一つの形が生まれようとしている。
誰もがそれを目の当たりにしたかのように確信できていた。
「つーか、アル猫。
おめぇ、なんで師匠のアレを平然と受けられるんだ?」
年配の職人が不思議そうに問うのも無理はあるまい。
包丁などならまだしもバスタードソードやグレートソードを鍛えるのは数人掛かりの仕事である。
ゲン爺の打つ刃が暴れぬように押さえつけるのはいつも二人掛かりだ。
「てか、素手だし」
薬缶を手にした男がじろじろとアルルムの手を見るが白くて綺麗なものである。
「おめぇ、魔法つかってるのか?」
「違うにゃよ。これは操気法のほうにゃ」
「そうきほう?」
聞きなれぬ言葉に首を傾げる一同。
「震動を全部気脈に流して地面に捨ててるにゃよ。
だからずれないにゃ」
理解の外です。
と言う顔の面々。
「素手なのは?」
「熱いのは得意にゃよ」
そう言う理由で一千度を越す灼熱した鋼を握られても困る。
「まぁ、それは冗談として。
ここに住んでるサラマンダー君と契約してるだけにゃよ。
この子が熱を食べてるだけにゃ」
言うなり頭巾の上にめらめらと燃えるトカゲが現れる。
おおう、と驚くも奇異の目はない。
鍛治打ちにとって火の精霊は守り神のようなものなのである。
「その『そうきほう』ってのは俺たちにも出来るものなのかい?」
「いきなりは無理にゃよ」
アルルムは苦笑して茶を飲む。
「まぁ、二年くらい修行すればこれくらいはできるけど」
二年かーと考え込む声。
「てめぇら、馬鹿言ってる暇があったらさっさと仕事場にもどらねぇかっ!」
『へいっ!』
いつの間にか休憩時間が終わっていたらしい。
慌ててばたばたと駆け戻る一同を見てアルルムはくすくすと笑った。
アルルム・カドケウ
本当の名前は存在しない。
それはあたしのものでないから。
この体に滲む記憶は8年以上も冒険者生活をして、同時に鍛治打ちの修行をしていた事。
もちろんいろんな人との記憶があるけど、それはみんなあたしのものじゃない。
あたしという体も、あたしという記憶も。
全部あたしからのギフト。
そしてギアス。
ま、暗いこと考えるつもりはないし、ナイーブとかナーバスとかになるのはまっぴらごめん。
あたしはあたしとして面白おかしく生きること。
それがあたしの根源。心の力なのだから。
「す、すみませんっ!」
夕暮れ時。仕事終いと片付ける面々が振り返ると一人の青年が立っていた。
「あのっ、ここにガン・コイッテツさんがいらっしゃると聞いたのですが!」
垢抜けぬ青年が見て取れる緊張の面持ちで叫ぶ。
「ああ、親方なら居るが、何の用だい?」
「じ、実はっ、御館様が剣を打ってもらいたいとおっしゃっておりまして!」
その言葉に顔を見合わせる職人たち。
それからやれやれという顔をして
「帰んな」
代表して一番兄貴分である男が言い放つ。
「えっ? お、お金なら……」
「そういう問題じゃねえんだ。
120%親方はアンタの依頼を受けねぇ」
「ですがっ!」
なおも引き下がらない青年を哀れむように、言葉を遮り、
「どこの誰だか知らんが、そんな話親方に聞かれたら機嫌が悪くなっちまう。
やめてくれ」
周囲を見れば満場一致という顔が並ぶ。
「ですが!」
「手前の事情なんかしらねえ。
だが、おめぇの雇い主のためには絶対に剣を打つことはない。
わかったら返れ」
「どうしてですか!」
「君は今から敵と戦います」
濁声の中から歌うように響く少女の声。
「君は勝てるにゃ?」
エプロン姿のアルルムがすいすいと前に出てきて、下から見上げる。
「勝てる? 勝てない?」
意外すぎる存在の登場に呆気に取られ、意味の理解できぬ問いに困惑。
「敵って何ですか……?」
「剣を持つ人はだーれ?」
甘えるような響きにからかうようなアクセント。
はっとして、口篭もる。
「分かったら帰る事にゃね。
みんなー。そろそろご飯できるよー」
「やった」
「今日はなんだ?」
「うまいもんなー、アル猫の飯」
ぞろぞろと工房を後にする職人を呆然と見送り、最後の一人が「アル猫の言わんとした意味、わかったろ?」と言葉を残し去る。
「どっちにしてもゲン爺ちゃんはお遣いをさせるような人に剣は打たないにゃよ。
じゃーね」
とんとんと踊るようなステップで奥に消える少女を、青年はやはり呆然と見送るしかできなかった。
「何やら工房が騒がしかったな」
食後。後片付けくらいしやがれという一喝の元、職人たちがわいわい台所で洗い物をしている。
アルルムが来てから食生活が改善したらしく、週の半分はこうして職人一同が台を囲むことになっている。
「うん。爺ちゃんが絶対受けない仕事にゃよ」
「けっ」
少しだけ不機嫌になって茶をぐいっと飲み干す。
「親方、終わりましたぜ」
「じゃあ、あっしらはこれで」
「今日一日ありがとうございましたっ」
並び礼をした後に
「また明日な」
「飯上手かったぜぃ」
とアルルムに気楽に声をかけて職人たちが出て行く。
「お疲れさーん」
にこにこと手を振って見送った後、アルルムはゲン爺の湯飲みに茶を注ぐ。
「ああいうのって面倒なのよねぇ。
断られたら首を飛ばされます!とか言うんだもん」
「おめぇも工房を持ってたのか?」
「記憶上ではねー。
確かその時はナイトメアを召喚して封入してねー。
夜な夜なその剣で殺され続ける悪夢をご主人様とやらに提供してあげたにゃ」
けらけらと笑うも、かなり洒落にならないものである。
「使えないくせにいいものばっかり欲しがるから困ったものにゃよ」
「おめぇの判断基準はどこだ?」
ん?と小首を傾げる。
「爺ちゃんと変わらないにゃよ」
「わしと、か?」
僅かに眉根が上がる。
「うん。気に入るーとか気に入らないーとか言うけど。
性能をちゃんと引き出せる人ってことだし」
こぽこぽと茶を注ぐ音が静かな居間に満ちていく。
その合間を縫うような静かな声。
「必要な人の所に必要なものを提供するってことにゃよ」
ふん、と鼻息荒く。
茶を再び飲み干すとゲン爺は立ち上がる。
「寝る」
「おやすみなさーい」
立去る老人を見送ってアルルムも立ち上がる。
ぼんと音がして衣服が落ちるとそれは首輪の中にしゅるりと収納されてしまった。
「にゃぁ」
行って来ますと一声鳴いて、赤い猫が夜の町へと身を躍らせる。
いろいろやったことは覚えている。
最初は魔法使いの弟子だった。
お師匠様が死んだ時、彼女は旅に出た。
いろんな人とパーティを組んで、いろんな場所を巡った。
そうして得た技術を教える仕事をした事だってある。
歌が好きで、旋律を聞いて。
その旋律が世界を満たすように、思いを武器に染み込ませる。
共鳴する音色が遠く遠く響くように。
そのあたしから分かれてあたしはここに居る。
本来一つしかないはずの時間律を打ち破って、もう一つのあたしはここに居る。
本当のあたしは今ごろ何をしているのだろう?
ま、大方ヤバイ兵器をノリで造って同居人に泣きながらやめてくださいって言われてるに違いない。
だってそれがあたしだもん。
わからないわけがないじゃない。
猫という生物は縄張りを持っている。
あたしの場合猫としてのテリトリーはゲン爺ちゃんの家の回りくらい。
どうせ猫として食事しない以上テリトリーを他の猫から奪うのは忍びないし。
まぁ、猫っていう動物は人間よりもよっぽど敏感で繊細で、なおかつ魔法技術に優れている。
なにしろ魔女の御供の筆頭候補なのである。
「あれ? 姐さんじゃないっすか」
黒猫が屋根の上から声をかけてくる。
「今から例のところに行くんすか?」
「うん。あそこは旋律が面白いからねー」
まるで広場に集まった別々の楽隊が思い思いに演奏しているような旋律。
それがあの店には満ちている。
「せんりつ?
姐さんの言う事はよくわからねーっすけど。
ああ、そうだ。
北通りのが子供産みました」
「へー。あのブチ?」
「ええ。
でも、今あっしらは人間に嫌われてますからね。
よかったら世話みたってくれませんか?」
なんでも少し前、どこかの国の兵隊が動物の体内に爆弾を仕込んでこの町を襲撃したらしい。
おかげで動物たちに大きな被害が出ているとか。
「わかった。明日見に行ってみる」
「悪いっすね。
みんな姐さんみたいに俺らと話せればいいのに」
「そうにゃね」
でも、そうしたところで人間はどこまで彼らを理解できるのか。
甚だ疑問だと思う。
ふと見上げれば焦げた窓が見えた。
それは思うことさえ生きることさえ奪われ兵器として散った命の痕だった。
例えば50年後。あたしが渡したものはきっと誰か別の人の手に渡っている事だろう。
例えば100年後。銘も入れないあたしの武器は作り手さえも分からずにどこかにあるんだろう。
例えばその剣が大事な人を守るために造られたとしても、百年後の誰かが人を苦しめるために使うことをあたしは咎められない。
だからあたしは至高を目指さない。
そこにある享楽と、そして強い思いのためにハンマーを握る。
それはまるで釣りざおのように。
それにしか使えないようなものをあたしは好んで作る。
でも、人間ってほんと、愚かで頭がいい。
釣りざおでさえ武器にしてしまうんだから。
あたしは創る者として、どこまでの責任を持たないといけないのか?
強いものを創れると言う事実があるから、あたしは本気で至高を目指さない。
それは自分自身に課せた絶対の法則なのだから。
「お邪魔するにゃよ」
ここはアイリン軍敷地内。国家機密満載とあって一般人の立ち入りなどまずできない。
「ん? 猫娘じゃないか。
どうした?」
「どうしたもこうしたも、依頼の品取りに来ないから届けに来たにゃよ」
どうやって、とは聞かない。
他国のスパイに侵入されないように魔法での監視も行っている。
それに引っかからないのは本物の猫になって入ってきたと予測がついていた。
「それはわざわざすまないな。
どれ」
「カイトス将軍、この娘は?」
アルルムの姿に気付いた将官が警戒も露に駆け寄る。
「ゲン爺の遣いと思っておけばいい」
「おけばいいって、……わかりました」
「アバウトな組織にゃね」
思わず言葉が漏れる。
「で、剣は?」
「ほいほい」
指輪をさするとすっと引っ張る。
影絵のようなそれが瞬時に色を取り戻し質量を得る。
すぐさま一振りの剣となり少女の手に収まる。
「便利だな。
その指輪をくれ」
「嫌にゃよ。
大切なものなんだから」
「造れないのか?」
カイトスの問いに僅かに逡巡。
「んー。
むりっぽい」
「曖昧な答えだな」
「原理はわかるんだけど、材料とか時間とか滅茶苦茶必要と思ってくれたらいいにゃ」
「そうか」
あっさり引いたカイトスは改めて剣を見る。
「ふむ。良い剣だな」
「払った額の仕事はしてるにゃよ」
「ふむ」
まず目を引くのは翠の刀身。
そしてそこに刻まれる複雑な彫金。
手にとって再び「ほう」と吐息。
重心が良い。
「私の体に完全に合わせたようだな」
「当然にゃよ。
オーダーメイドだもん」
「あの素振りでか?」
「うん。
早いから癖見るの結構しんどかったにゃ」
握り、確かめるようにゆっくりと動かす。
ミリの手ぶれもなく宙を泳ぎぴたりと静止。
「なるほど。いい剣だ」
「形状記憶させておいたからついでに刃をつけておいたにゃ」
普通の剣に刃はない。
というのもプレートメイルやカイトシールドなどの金属防具が発達したこの地で斬るという行為に余り意味が無いためである。
どうせ切れないなら殴り飛ばした方が早い。
だから傭兵の中にはメイスなどの打撃武器を好む者は決して少なくない。
シミターなどの曲刀も確かに存在するが、主に鎧を着けられない海軍や、そんなものを付ければやけどしかねない砂漠の民が使う武器である。
そもそも3人も切れば刃に油がついて極端に切れ味は悪くなる。
本来は無用の長物なのである。
某異世界のお侍さん達も刀が命と言っているが、実際は馬上での戦闘は槍が基本だし、いっぱい戦う足軽の基本兵装は矛であった。
「どうせおじちゃんなら速度で切れるだろーし」
「おじちゃんと言うな」
シリアスに突っ込みを入れて立ち上がると二度ほど軽く素振りをする。
「例の能力は?」
「計算だと有効射程距離は10mほどにゃね」
「ふむ」
つかつかと外へと出たカイトスは柵に目をやると神速の一閃を放つ。
ひゅと吸い込まれるような音。
次の瞬間、柵の一部がパンと散った。
「ふっつーサイバーでもなけりゃ出せないのにねー」
ぱちぱちぱちと気の無い拍手をしてよく分からないことを言う。
「強い、な」
そのあたりをさらりと流し、しげしげと剣を眺めるカイトス。
「にゅ?」
「剣だ。
再生すると言ったが、その必要はないように見える」
「あったりまえじゃん」
アルルムは腰に手を当てて微笑。
「あたしと爺ちゃんが打ったんだもん」
「なるほど。
これは鋼か」
「玉鋼にゃよ。
刀と同じ手法で鍛えたにゃ。
その翠の色は焼きいれの時になんか出てきちゃったにゃ」
「空気抵抗を計算してその余分な刀身への負担を溝に流し込み、放つ。
昔計算した事があったから掘り込みだけ時間がかかったにゃよ」
「手作業でか?」
意外そうに聞くと
「自動で出来たらいいんだけどねー。
耐久度の問題もあるし、安易にできないにゃよ」
と苦笑する。
「とりあえず契約だけ済ませちゃって」
言いながら取り出したのはエメラルドらしき宝石。
「望め そは虚空よりの因果 求めよ そは果てしなき邂逅」
周囲に居た人間が何事かと少女を見る。
小さな体から放たれているとは思えぬ声量。
そして全ての風を味方にしたような響き。
「はるけき天空よりその姿あり はるけき疾風の姿あり
その名はシュトゥルムウィンド 契約者よ汝が名をこに告げよ」
いつの間にかそこにあるのは剣と同じ色のナイフ。
「こに赤き契約を」
言わんとしたことに気付き、カイトスはナイフを手にすると迷わずにそれで己の手を浅く切った。
滴る血を見てアルルムは微笑。
手の中の緑の宝石を渡す。
「緑風の暴君 覇天の旋風 こに刻まれし因果の法を 永久の誓いとこに謳う」
宝石が砕ける。
赤と緑の光が左手の剣に纏うように踊り消えていく。
「契約終了っと。
これで呼べば来るにゃよ」
差し出した軟膏を傷口に塗る。
「呼べば?」
「うん♪」
先ほどまでの厳かな雰囲気を一気に消し去り無駄に楽しそうに頷くアルルム。
「何と?」
「シュトゥルムウィンド。
暴風の銘を持つ剣を」
「ふむ。ここにあるというのに呼ぶと言うのは変だな」
「ま、そういわずにー。
あとでやって手遅れになるのも問題にゃしね」
そそくさと距離を取るアルルム。
先ほどの歌に集められた人々が何事かとカイトスを見守る。
「……来い、シュトゥルムウィンド」
パンと閃光が走る。
途端にどこからかごろろろと雷鳴が響き
ピシャッ───────── ドーーーーーーーーーーーーン!!
カイトスの目前に降り注ぐ雷光。
驚きと悲鳴が交錯する中でカイトスは己と契約したらしい剣が焦げた大地に突き刺さっているのを見た。
「よしっ、成功っ!」
嬉しそうにガッツポーズする猫娘。
「これ、は?」
「あ、屋根があるところだと思いっきり火事になるから気をつけてね♪」
どうやら、この演出が彼女がもっとも拘ったところらしい。
何と言うべきか、悩んでいる間に少女はにこやかにこう言った。
「まいどありー♪」
先の悲しき一件で住人を失った家。
「お邪魔するにゃよ」
扉を失ったそこに足を踏み入れたアルルムは隅でこちらを見る気配に気付く。
「にゃあ」
その声に影から出てきたのはぶちの猫。
「あちしにゃよ。あちし。はい、出産祝い」
きょとんとするブチ猫だが、何か納得したようにアルルムの前に出ると「なー」と一声鳴く。
その前に袋の煮干を置くとぶちはもう一度「なー」と鳴いた。
「みぃぃ」「みーーー」
「赤ちゃん起きちゃったにゃね」
苦笑しているとブチが物陰に戻る。
ミルクの時間らしい。
「んー、あまり壊れてないところだから人、戻ってくるかもしれないよ」
『それでもここが一番安心できるところでした』
頭の中で人の言葉に訳して苦笑。
「まあ、ね。でもその子達が鳴くのは厄介かもね」
『はい。でも、まだこの子達は何も分かっていませんから』
悲しそうな響き。よく見れば彼女の左前足に血の痕がある。
「やられたの?」
『はい。でも運が良かった方です』
「あとで見せて。治療ぐらいはしたげるよ」
『ありがとう』
いえいえ、と微笑み一心不乱に乳を飲む目も開いていない子猫を見る。
「ここだぜ」
不意に、声。
「ほんとにか?」
「ああ、猫が居座ってる」
言葉だけ見れば猫に興味を持っているだけのようだが、そこに含まれる響きは真逆のものだ。
「くそぉ。犬とか猫が居るからこんな事になったんだ!」
「そうだ。殺しちまおうぜ」
子猫が鳴く。
それは怯えを含んだ切なげな響き。
満ち溢れる悪意を感じ取っている。
「んあ? 何だこのガキ」
「煮干……おいおい、嬢ちゃん、いけないぜぇ?
こいつらは危険なんだよ。
それに餌をあげるだなんて」
ずいと、アルルムの横を一際大柄な男が素通りし、その手を猫に伸ばそうとする。
「なんだ、子供産んでやがる。
ふざけやがって」
「ふざけてるのはお前らにゃよ」
「んあ?」
振り返ろうとした大男がくるりと反転。
慌てて突こうとした手があっさり掃われ、そのまま頭から床に激突する。
突然の轟音に子猫が泣き喚く声を聞きながらアルルムは剣呑な瞳を向ける。
「このガキが何をしやがる!」
大義名分を背に小動物を笑いながら虐殺しようとする男も人の子とあっては躊躇うらしい。
「猫の耳と尻尾だと? ふざけたもん着けやがって!」
「喚起せよ」
それはすでに声というより波動。
「我が声は天を呼び 我が歌は亡者と踊る
千の涙 千の嘆き その儚き声に今請おう
万の血 万の怒り その叫び声に今請おう」
地が揺れた。
ブチが事を察して子供を守るように身を丸める。
「な、なんだ!?」
「っく!?」
「我普く伝えたもう 汝が手にある血の復讐
我普く伝えたもう 汝が心にある死の旋律」
世界が変わる。
声が世界を変える。
全ては波動で出来ている。
全ては震動で出来ている。
ならば波動から世界は導かれ、世界は声にて喚起される。
「我は汝を呼びたもう」
遠くから声がする。
幾千、幾万、幾億の声が。
「今こそ我は呼びたもう」
怨嗟の嘆き。
力なき者の嘆き。
痛み
苦しみ
「ひぃぃいいい!?」
「た、助けてくれぇ!?」
いつもの陽気な笑顔はそこに無い。
静かに見詰める瞳はまるでガラス球のように無為。
死の声
死の声
死の声
死の声
死の声
招く─────────────声
「ふん」
ブチとその子供を抱き上げてアルルムは小さく鼻を鳴らした。
その背後には白目を剥いてなお泣き叫び己の体を掻き毟り、狂ったように這いずり回る男が三人。
「己の身で成した所業を繰り返すだけにゃ。
別に苦痛でもなんでもないはずにゃよ」
このままこの子達をここに置いておくわけにはいかない。
アルルムは静かにその廃屋を去る。
「あんたたちがやった事が正しいって言うならね」
叩き潰され、引きちぎられ。腕を一本ずつもがれ、首をしめられ、尻尾から千切られ、アイスピックで突き刺され、泣き叫んでも、喚いても、その声は決して届かない。
「反葬送曲 Retribution─────」
悲鳴の狂想曲が響く中、アルルムは静かに呟く。
「己の罪で、己を裁け」
「と、いうわけでー」
数件の依頼をこなしたアルルムは正直裕福だった。
しかしもともと贅沢をするタチでない。
余ったお金をどうしようかと悩んでいたのだ。
アイリンの隅に建てられたその施設は行き場を無くしたペット達の住処として建てられた。
無論ただペットを捨てる人間から引き取るなんてまねはしない。
「ま、いずれ行政に許可をとってもいいかな」
アルルムが造ったのは簡単な翻訳機である。
やろうと思えば人間と変わらない会話も可能だが、そうすればいろいろと不都合も出る。
そう考えて簡単な通訳のマジックアイテムを作ってそこに配備したのだ。
もちろんその事は秘密と言う事にしている。もしこれを赤の軍などが知れば欲しがるだろう。
そうすれば道端でばったり遭遇した猫や犬が証人になる。
それは同時にそういう動物がより被害の対象になりえるということなのである。
『なー』
去ろうとしたアルルムの足元にブチと黒猫がやって来ていた。
「……ってアンタ。
君のお嫁さんっ!?」
『にゃぁおん』
黒猫が満足そうに鳴くのを見て失笑。
「はいはい。
ま、好きなだけいなさいな」
いずれ動物爆弾の記憶も薄れ、この子達にも貰い手が出るかもしれない。
「こんな設備がなくてよければいいんだけどね」
苦笑して工房に戻る。
さて、仕事仕事っと。
背中には子猫たちの謳う声が聞こえる。
風の音、大地の音。
世界はかならずやさしい旋律に包まれている。
アルルムはゆっくりと喧騒を聞きながら、大通りへと紛れて行った。