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7 別れ

 その日、ナイアルは槍道場の朝稽古から帰って来たところだった。


 習字に続けて、短槍初段をとったばかり。この二年で何度も落第を繰り返した後にとうとう勝ち取ったものだから、どちらの技量も身体にしみついている、これぞ一生ものと言うのだろう。


 もう十五だし、そろそろ家業に専心してみるかえ、と姉ちゃん母ちゃんに言われている。



「ただいまー。あ、いらっしゃいまし」


「ああ、ぼんちゃん! 聞いたかえッ」



 近所の常連おばさんが一人、玄関先に立っている。一緒にいるマリエルの顔が、心もち強張っていた。



「ついさっき! 王様と女王様が亡くなったって、区長からお知らせがあったんだよッ」


「えええっ」



 ナイアルは店先から飛び出した。北区を貫く大路の先、テルポシエ城の壁上に、黒い旗がなびいているのが見えた。



・ ・ ・ ・ ・



 ウラは午後の習字教室に来なかった。


 その前に来なかった時は、風邪でも引いたんかくらいにしか思わなかったけれど、いまナイアルは確信を持ってかなしかった。



「お帰り。今さっき、騎士さんが来てさ」



 ひとりで帰る裏玄関に、姉ちゃんが立っている。



「明日の朝、ここのお宅に配達をと頼まれたよ。……行っといで」



 不機嫌を隠しもせずに、ナイアルは黙って布切れを受け取る。


 南区、貴族邸宅の立ち並ぶ一画の住所が記してあった。



・ ・ ・ ・ ・



 騎士ミルーの発注した、干し果物満載の籠を亜麻布で幾重にもしっかりくるんで、翌朝ナイアルは南区を目指す。



「けっ、降りゃがって」



 あいにくの雨だった、……小雨が降って止んでまた照って、それを一日のうちに何度も繰り返すのがテルポシエの気候の常なのだから、べつに不思議なことはないのだけれど、それでもナイアルは機嫌が悪い。



 見つけ出した在所は南区の外れ、潮の香りがわずかに漂うような、あまりひと気のない寂しげな区域に建つふるい屋敷である。


 構えは立派だが、とにかく古びていた。玄関前の石の段々は苔むして、上階部分まで蔦がはびこっている。


 ひとの住む気配はなく、廃墟と言った方がしっくりくるようなうちだった。


 しかし厚い扉の取手だけはつやっと輝いている、そこをナイアルがががん、と打つと――



「はーい!!」



 華やかな女の声がした。


 ばっ、と勢いよく扉が開く。



「いらっしゃい、ナイアル君! どうぞ入って」



 自分の名をことも無げに呼んだ女を見て、ナイアルは肝をつぶした。



――何じゃあああああ!?



 とんでもない妙齢の美女が、自分の目の前でとびきりの笑顔になっている!


 乳白の肌に映える漆黒の髪と瞳、あきらかにイリー人ではない。


 はち切れそうに健康的な頬と唇があかく、そこだけでもう梅桃桜がどばあと狂い咲いているように、かわいらしいひとである。


 桜色の質素な亜麻布長衣に白い前掛けをきゅっとしめている、それで豊かなお胸とたおやかなくびれの差が鮮やかにあらわになっていて、もうナイアルは走って逃げたい衝動にかられた。


 嘘である、どっちかと言うとひれ伏したい衝動にかられていた。何をどうしたって思春期である。



「まいど、北区“紅てがら”でございます……」



 しかし、幼少時より叩き込まれた店言葉が、淀みなく口をついて出る。


 ナイアルは何とか切り抜けられるような気がした、ようしッ。



「知ってるわよ! さあ、こっちこっち」



 美女はがしっとナイアルの腕を掴むと、邸宅の中へ引っ張り込んだ。


 ちょっとだけ大丈夫そうだと思えた自信はどこへやら、ナイアルは美女のまき散らす良い匂いに巻き込まれて、頭の中が真っ白になる。


 女は不思議な形に黒髪を結っていて、大量の長いおくれ毛がもふもふ、ふわふわとナイアルの体にからまった。



――ぎぃやああああああ!!



 高い天井の室内はがらんどう、調度も何もなくて誰かが引っ越していった後のようだった。けれど女に引っ張られて廊下をつうっと突っ切るナイアルには、その辺なにも目に入って来ない。


 裏口からぱっと庭に出た。盛夏に向かう季節だったから花々が、――選ばれ育てられた花々ではない、たまたまそこへ生まれ自ら育った千草が、とりどりの色彩を小雨に濡らしていた。


 そこへ女はずんずん踏み入っていく、旧そうな林檎の樹の前に来た。



「……お足元、大丈夫ですか」



 実質的な話題を必死に探して、ナイアルは聞いた。



「えっ?」



 やっと腕を放して、女はナイアルを見上げた。こがらな人である。


 ナイアルは平気なのだ、革の長靴を履いているから。


 けれど女の長衣の裾は、色濃く草の水滴を含んでしまっていた。


 見下ろしてから、女はきょとんとナイアルを見る。


 その顔がみるみる柔らかく綻んでいく。



「本当に本当に、良い子。こんな細かいこと、心配してくれるなんて」



 ふっと小雨が止んだ。



「そうやって、わたしにずっとよくしてくれたから、ご褒美をあげるね。……ありゃ、もうずいぶん大っきくなったんだわ……。ちょっとね、かがんで。おつむを下げて?」


「??」



 言われた通りに頭を下げると、女は彼の額両側に手をかけて、髪の生え際あたりにぷちゅうと口づけした。


 視線めの前すぐに迫る神々しきお胸の双峰、もふもふ黒髪の先っちょ、何か知ってるようなお花の匂い、あまりに強烈な現象のたたみかけで、ナイアルは気絶悶絶寸前で息を止めていた。



「しあわせに、なってね」



 降って来たその一言で、ふあっと我に返る。


 顔を上げると女はにこにこ笑っていた、……目尻にきらきら涙を光らして。


 黒髪にいっぱいの美女桜を咲かして。


 挿してあるんじゃない、花々はそこに“咲いている”のだと、なぜかナイアルにはわかった。



――このひと、……え?



「さようなら。ありがとう」



 いつの間にか、右手に提げていた籠包みはかの女の手中へと渡っていた。


 すすす……と後ろにさがると、女はそこに立つ騎士の左腕の内側あたりに、ぴたりとはまりこんだ。


 この人も、一体いつ出て来たのだろう。



「ナイアル君、よく来たね」



 いつもと変わらない、のほほんと柔和な顔でミルーは言う。



「私の大切なひとに、おいしいものを持ってきてくれてありがとう」


「こちらこそ、ありがとうございました」 



 そう、店の者として来たんだ。ナイアルはさっと頭を下げる。



「……ウラ様は、お習字教室をやめることになりました」



 上げた目に、騎士の優しい眼差しが交わった。



「お別れの挨拶を、したいそうです」



 そう言ってうなづくと、黒髪のかわいい奥さん(多分)と一緒に騎士はすっと踵を返し、音もなく室内へと戻って行った。


 立ち尽くすナイアルの額に、髪に、陽光がさっと降る。


 眩しくって瞬時目を閉じる。……開けた時、目の前に友が立っていた。


 片頬にいつもの黒羽じるしが入っていない。そういう顔を、はじめて見た。



「……よう」


「よう……」



 二人とも、黙ってしまった。


 ウラは悲愴な面持ちで、ナイアルは再び盛り返した不機嫌丸出しで。溜息が流れる。


 ウラが口を開いた。



「さよならすることになったから。今までのお礼を言いたくてさ」


「わかってたことだろうがよ。ウルリヒ王」



 ぎゅるっ、と瞳を全開に丸くして、ウラはナイアルを見る。


 ウラの方が一歳年少なのだけど、ここの所ひょろひょろ背を伸ばしてナイアルは頭半個分、追い抜かれていた。



――けっ。てめえはそのままどんどん伸びて、長槍自由自在に使いこなせるようになりやがれ。



「いつわかった?」


「ほぼしょっぱなからだ。ただの習字のお稽古に、安全祈願の黒羽じるしつけて来るたぁ、どんだけ過保護な家庭だよっての。それに平市民が騎士名士目録を読んでねえと思うなよ? あの人はアリエ家のミルドレさんだろ。二人とも、偽名のつけ方がてんでいけてねえ」


「ぎょえー、やっぱナイアルにはばれてたぁ」


「姉ちゃんだってわかってるぞ。ばれてんのを気取らせなかった、俺ら姉弟のほうが何枚も上手だ」


「あっはっは……、ほんとだ、すげえ」



 束の間、素で笑ってからウラは……ウルリヒは真顔に戻る。



「で、ね。親があんな風になっちゃって、俺が即位することになったから。しばらく会えない」


「しばらくでなく、ほんとのさいならだろうがよ。ま、槍試合大会なら俺っちも毎年野次馬するからな、ちゃんと見ててやるよ、高ーい所にいるお前をよ」


「ナイアルに、来て欲しいんだ」


「?」


「将来、俺が呼んだら、来てくれる?」



 どこへ……と問いかけて、昨日のお習字稽古で五十一枚仕上げた、召集令状のことを思い出す。



「お前が呼ばなくっても、二十一になりゃ俺っち召集されるっつーの」



 テルポシエ市民男子は二十一歳以降、二年間の兵役義務がある。



「二級騎士としてじゃない、俺の参謀だよ。一緒に色々、考えて欲しい」


「……貴族さまでねえやつが、執政官になれるもんか」


「そこの所を俺が変える。本当にできる人に、皆にとって一番良い選択を考えてもらえるよう」



 この四年でウルリヒは変化した。


 自分がなりたいもの、こうありたいと目指すお手本を、はっきりと発見したから。



「俺はナイアルに支えてもらったら、善い存在になれる」


「……」


「いちばん信頼できる、唯一の友達だと思うから」



 ぎーんと見開いた大きな瞳。


 知らない人が見たら、がん・・を飛ばしているようにしか見えないウルリヒの挑戦的な視線を、こちらも威力満載のぎょろ目全開で受け止めて、ナイアルは鼻から息を抜いた。



「へっ、準備できたらいつでも呼べや。“紅てがら”のナイアル、ひとまず義兄ちゃんに仕事おっつけて、お前の脳みそ役やってやるよ」



 ウルリヒはにいっと笑った。


 首に巻いていた濃紺の筒をすぽんと脱いで、ナイアルに押し付ける。



「妹が作ってくれたんだ。気に入ってるやつだから、次会う時までなくさないで持ってて」



 そいつをすぽんとかぶって、ナイアルもにいっと笑う。



「またな。大親友」


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