3 ナイアルのお供え
その次の回、汚いなりにもウラはとりあえず宿題を提出していた。
ミオコ先生に頼み込んで、自分の年よりもずーっと小さい子向けのお手本を出してもらっている。
女の子の出生届の三枚目を書き上げたナイアルに、そうっと耳打ちしてきた。
「これ、書いてくれる?」
「何でだよッ」
「頼むからー」
ずばずばっと書いてやった半布を先生の手本の脇に置くと、ウラはぎりっとした横顔で写字を始めた。
その日、ナイアルは“メリナちゃんの出生届”を三十四枚仕上げた。
机の片側では、ウラの書いたどうにか正イリー語とわかる“おてあらい五カ条”が四枚、乾くのを待って並べられている。
ミオコ先生がそれを見て、うんうんと顔をほころばせていた。
・ ・ ・ ・ ・
「おいウラ。あの、ミルーさんて人は一体、何なのだ?」
「何って……騎士だよ、俺の付き添いしてくれる人」
「いや、そうではなくて……」
習字教室の後、“紅てがら”で遊んでいくのがすっかり習慣になった頃、ナイアルはウラに聞いてみる。
――ウラは、何とも感じねえのかなあ…?
「あ、おつとめのこと? だよね、騎士なら今は勤務中の時間だもんね。でもあの人は俺のこと、護衛するのが仕事なんだってさ」
「お前は、ほんとに良いとこの坊ちゃんなんだな? いいかげん素性教えろよ」
「だめなんだな、それが」
なはははは、とウラは笑う。
「とんでもない高貴族、執政官だのの息子だったら、俺っちはこんなに馴れ馴れしく口をきいて、不敬罪になっちまうぞ」
実際ナイアルは、ミルーさんの“あれ”の方が気になっていた。
いつでも柔らかい笑顔のおじさんではあるが、その背後につねに、もふもふ・ふわふわした何かの存在を感じるのである。
生まれつき、ナイアルは色々と“見える”方であった。
やはり見えていた祖母がそれに気づき、様々なおまじないを伝授してくれたおかげで、そういうものをうまくやり過ごす方法は知っている。
ただ、ミルーさんの“あれ”は、それまでかわしてきた精霊や亡霊の類とは、全く異なっていた。じんましん反応も出ない。
もふもふ、ふわふわした感じがわかるだけで、姿は全く見えない。けれど女のひとだとは、見当がついていた。
明るくて、悪意は感じない。むしろ自分に親しんでくれているような気配すらある。……しかしナイアルの本能はそれがとてつもなく強大な何か、畏れるべきものであることを感知していた。
だからいつも、ミルーさんのと同じ香湯・お湯受けをお供えとしてもう一人ぶん、用意してお出しするのだ。
それに何も言わないミルーさんは、やっぱり“かの女”のことをよく知っているのだとしか思えない。
くわばら、くわばら。
・ ・ ・ ・ ・
二人が遊ぶのは暇な午後の終わりだったから、店をあずかるマリエル姉ちゃんも全然迷惑とは思っていない。
どころかウラに新商品を食べさして、どっちの味が売れそうか、なんておやつ市場調査をしている。
“紅てがら”の客層は、地元北区の平市民ばかり、貴族さまなんてめったに訪れやしない。
それだけに、空の上の人たちみたいなミルー氏とウラ坊が何をこのんで食べるのか、マリエルはひそかに興味を抱いていた。
「家のものが、たいそう気に入ってしまいまして」
にこやかに赤い長財布を取り出して、ミルーさんは帰り際に干しくだものを買ってゆく。
干しあんず、干し林檎に干し苺、黒梅……。けっこう値の張るものだのに、騎士は頓着せずにどっさり買ってお土産にしている。
奥さん思いなのだろう、こどもや孫もいるのかもしれない。
「マリエルさん! そこにある黒いとげとげも、干しくだものなんですか?」
好奇心いっぱいの蒼い目を見ると、彼自身がちょっと子どものようだった。
「あ、こちらは干しなまこでござんすよ」