1 お習字教室
その子を見るのは二回目だった。
前の稽古の時、一度部屋を出て行った先生が彼を連れて入って来て、部屋の隅から自分達が硬筆をさらさらやっているのを見せていた。
“新入り”が来るのはしょっちゅうだ、ミオコ先生の習字教室は北区じゃけっこう評判である。
ところがナイアルはそいつの方をふっと見て、おやと思った。
――へえ、貴族の坊ちゃんかよ?
ぴかぴかの白金髪は短く切られ、頬っぺたには黒羽の幸運じるしが描かれている。
すぐ後ろには背の高いおじさんが立っていて、柔和な顔でミオコ先生が説明を囁くのに相槌を打っていた。
――ふーん……。
ナイアルはすぐに、手元の練習用半布に目を戻す。
少年はちょうど、自分と同じくらいの年頃だ、しかし……。
――つまんなさそうなやつ……。
瞬時に見て取った少年の瞳は虚ろで、どこでもないどこかに向けられているようにしか見えなかった。
ナイアルは全く興味を持たなかったのである。そして本日。
「こちら、今日から皆と一緒にお稽古をする、ウラ君です」
一般家庭用としてはちと長すぎ、大きすぎな食卓の前にミオコ先生と並んで立って、その子はのんびりと笑った。
「よろしくお願いします」
ウラと言う名の少年は、とくに緊張した様子もない。
「はい、じゃ皆、前回の宿題を出して。……ウラ君は、ナイアル君の横に座ろうか」
先生は少年を、ナイアルが座るもう一つの小さめ食卓へ導いた。
半布とお手本とが配られて、総勢八名の子ども達はさらさら、かりかり、いつも通りの書き取り稽古を始める。
本日のナイアルの課題は、“滞納家賃の催促状”である。
集中してのまず一枚目複写。
ふっと隣を見ると、ウラはまだ二行も写せていない。
その字量よりも、彼の筆致のおぞましさに、ナイアルはうっと息を詰まらせた。
すーいと背後に忍び寄るミオコ先生が、やはり息を飲んだらしい。
「初めての日だし、あんまり急がなくっていいからね。ゆっくりていねいに、はねをつけてね」
「はい」
ウラは悪びれもせずに、答えている。
ナイアルは何とか集中力を戻して、二枚目を仕上げた。
「うん、良いねナイアル君。次はここの所、“もう十ヶ月分になります”という文にこぶしを利かせて、迫る勢いをつけてみて?」
生徒間をまわる先生は、皆に色々と注文をつけて励ましてゆくが、ウラにはほとんど声をかけずに通り過ぎるだけだ。
約一刻の稽古が終わる。ナイアルは二十八枚の滞納家賃催促状を仕上げていたが、隣のウラは二枚目の真ん中あたりしか字が埋まっていなかった。
しかも、とてつもなく汚らしい字で、布が“汚れている”としか見えないていである。
硬筆をきれいにし、食卓を拭いて後片付けをする間も、ウラは何ともない表情で皆の真似をしているように見えた。
やがて濃紺の上質そうな外套を羽織ると、誰にも何も言わずに、そうっと出て行ってしまった。
・ ・ ・ ・ ・
その次の回も、だいたい同じだった。
宿題はやってこなかったらしい、それなのにやはり悪びれた風はない。
ナイアルは三十一枚の離婚届を書き上げたが、ウラは一枚をも仕上げずに、稽古時間が終わっていた。
「あのさ」
今日もやはり、誰にも何も言わず玄関に向かったウラに、ナイアルは声をかけた。
ミオコ先生は自宅地上階を教室としているのである。
「お前、ここで何か所め?」
「……」
ウラはナイアルを振り返ったが、何も言わない。
「他にも色々行ったんだろ? 習字教室」
玄関にいるのは二人だけだ。他の子達はミオコ先生がこの後出してくれるおやつのことを知っているから、ずっと教室でだべっている。
少年はのんびりと答えた。
「よくわかったねえ。四つめだよ」
「お父ちゃんは、五つめを探してんじゃねえの」
ぎっ、とウラの表情が硬くなった。
つるっと端正な顔のなかで、大きな目を見開いて構えている。
「いくら先生かえたって、お前が下手くそなまんまでいたいんなら、意味なくね?」
ウラはじいいっとナイアルを見た。
これまでののんびりした態度はどこへ、凄まじい圧の眼力だった。
別にこのくらいのがん飛ばし、ナイアルはへっちゃらだ。
しかし、いい加減じれったくなるほど長くねめつけられて、帰りてえんだよなーと思ったところで、ウラはゆっくり口を開いたのである。
「……下手なのか、僕!?」
「はあ?」
ウラはうすく口を開けたまま、すううと青ざめていった。
「た……たしかにさ、書くのは速くないけれど……」
「どころじゃねえよ、読めねえよ? 正イリー語かどうかも判読できねえ、反則級のきったなさだ」
がしいっ、いきなりウラはナイアルの右腕を掴む。
「何すん……」
「ありがとう、……教えてくれて」
ぐらぐらする頭を押さえるようにして、ウラはもう片方の手を額にあてる。
――何じゃあ、こいつはぁ???