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「兄様、文官を一人貸して頂けますか?」
翌朝、朝食前の5分ほどなら時間があるとのことで、レナルド兄様の部屋で直接相談である。
普段の貴族的対応ならばたった1日で予定を明けさせて対談するなど不可能であるが、交流がほとんどないとはいえ同じ屋敷に住む実の兄妹である。そのあたりは兄妹特権を生かし、急ぎの用事なら通しても良いとエマが言っていた。
レナルド兄様は朝風呂派らしく、乾かし終わっていない髪はしっとりと濡れ、そこはかとない色気を醸し出している。
攻略対象ほどじゃないかもしれないが、兄様も相当に美形である。というかお父様もお母様も美形なので、子供達が綺麗になるのも当然と言えば当然なのだが。
「ん? 何だ、レティシアも文官になりたいのか?」
「そういうわけではありませんが、個人的に調べて貰いたいことがありまして」
「構わんが……文官なら誰でも良いのか?」
「いえ、出来れば平民出身の者だと助かります。特に、税金や外貨について詳しい者だと尚、嬉しいのですが」
エマから確認し、その条件を満たすのは農民出身のジュールだけだと聞いている。
だから、実質ジュールの指名だ。兄様付きの文官は10名以上居るが、そのほとんどが下級貴族出の男子である。家督を継げない貴族家子息は専門教育を受け、このように貴族の下で働くことが多い。農民出身のジュールは特別なのだ。
「ふぅむ……それだと一人だけだな」
「1日程度お話を聞かせて貰えるだけで構いませんので、ご都合いかがでしょうか?」
必殺・妹による上目遣いアタック。瞳を潤ませるようなテクは使えないが、こういう時にお父様でなく兄様を頼るのには理由があると思ってくれれば、良いダメージが入る。
「う、ううむ。しかし……」
「半日、……いえ、数時間でも構いません。どうしても知りたいことがありまして……」
「それは、昨日のパーティで何かあったということか?」
「…………はい。ですが、これだけは言わせて下さい」
貸出期間が終われば私が何を調べてるか兄様の知るところになるが、それでも今説明して納得して貰える自信がない。たった数分しかない状況で、私の計画を話せるはずがないのだ。
「――マニュエル公爵家の、益になることです」
そう、断言する。嘘ではない。私のやろうとしていることは、間違いなくこの家に、ひいてはこの領地の利益になる。
これから私がやろうとしているのは、利益の先取りである。
混ヴをやり込んだことで、ゲーム作中の出来事はオリーブちゃんに関わらないことまで知識として蓄えられている。その知識を活かし、未来に他人が得る利益を奪い取る。それが今のレティシアに出来ることだ。
「分かった。すぐにでも向かわせる。レティシアの部屋で良いか?」
「えっと、出来れば過去の資料を閲覧出来る場所だと助かるのですが……」
「ならば資料室だな。他の文官も出入りすることになるが、構わないか?」
「はい、構いません。ありがとうございます、兄様」
頭を下げしばらく待つと、足音が近づいてくる。
瞼を開けると、お兄様の足が見えた。兄様は私の頭をポンと叩き、軽く撫で、「がんばれよ」と言ってくれた。
――あぁ、優しい人なんだ、この人は。
レティシアの中には、兄様と触れ合った記憶も、兄として威厳を見せられた記憶もない。
悪いのは誰なのか。兄様では断じてない。環境が悪かったのだ。私が生まれた時には成人し家督を継ぐことが決定していた兄様は、お父様が隠居する前に領主として全ての仕事を覚えなければならなかった。年の離れた妹に構っている余裕などなかったのだ。
ただ一度撫でられた、それだけで、兄様は別に私を嫌っていたわけでも、遠ざけていたわけでもないと知る。撫で慣れないその手が離れるのをじっと待ち、そうして、これまでに見せたことのな飛び切りの笑顔で返す。
「私は、兄様の妹として生まれて、幸せです」
日本人のOLとしての人格は、最早関係ない。
レティシアに刻まれた人格が、記憶が、本心でそう告げたのだ。
兄様は少しだけ照れたように頬を染めると、「時間だ」と言って顔を背ける。
――あぁ、勿体ない。年頃の女なら今の仕草で秒惚れだ。30過ぎの男性が見せて良い表情ではない。
ふふふと小さく笑い、部屋を出る。
兄様の先程の表情を頭の中で反芻し、ニコニコ笑顔で資料室へ向かうレティシアを、怪訝そうな表情で眺めるメイド達。
ご機嫌なレティシアは、彼女らの視線には一切気付かない。