8 立派になった私のチワワ
「プロポーズされました」
大学事務職員の先輩に、一番に報告してしまった。だって信じられなくて。
「え?いつ?」
「さ、さっき……」
そう、今というか、さっきというか、少し前というか。
大学事務は16時に窓口を閉める。その後内側の処理をして、17時に勤務時間が終わる。そんな16時ギリギリに人が来た。何の用事がある人なの?と顔を上げると。
「これ」
CD?
先輩が「松本氏」と呼んだその人だった。同じ家に暮らしていながら、微妙な関係だった私達。そう思っているのは私だけ?そんな不安もあった。ずっと待ってたのに。
CDが窓口に置かれた。
私がそれを手にした途端、彼は行ってしまった。もう、『徹くん』とは呼べなかった。だってあの頃は捨てられチワワみたいだったから。今は違う。今の彼を知る人に、捨てチワワの話をしても、想像できないだろう。堂々とした風貌、身のこなし、立ち居振る舞いの一つ一つが違っていた。
で、何これ?誰のCD?
最近はCDなんて流行らない。でも私はお父さんやお母さんの影響で、たくさんのCDを持っているし、移動中にもお気に入りのCDを聴けるよう、いつでもCDプレイヤーを持っている。
男の人がこちらに赤いバラを渡す写真。
モノトーンなのに、バラだけが赤い写真。
目を閉じて、まるで私に差し出すような……。
え、これ。もしかして徹くん?
カーテンを閉めた事務室内は静かだ。この部屋には私一人だけ。私は鞄の中からCDプレイヤーを出して、それを再生した。
『献呈』だった。
それから『詩人の恋』。
どちらも愛の歌だ。
徹くんの声だった。家で聴くのと全然違う。うっとりするほど美しい音色のピアノ伴奏に、心のこもった発音。語りかけるようなメロディー、長いフレーズ。イヤフォンで聴いているからか、すぐ耳許で歌ってくれているみたい。
二つ折りになったカードが挟んであった。
この言葉、文字、歌…………。
最後まで聴いていないけど、これは、もう……。
「大塚さん、どうしよう、私……」
「やったじゃない!本当に?松本氏は?」
「わかんない……」
大塚さんは、私のスマホを指して、すぐに返事しなよとまくしたてている。そっか。そうしよう。私はお返事しなきゃ。彼が望む返事を。大塚さんに頭を下げて、もう一度事務室に戻って電話をした。
徹くん…………。
「もしもし?知恵美?」
ぞくっとするほどの美声が聞こえてきた。電話だと、こんな風に聞こえるんだ。声楽を専門に学んだ大人の男性の声。どうしよう。どうしたらいい?
「どこに、いるの?」
おそるおそる聞いてみた。
「正門にいるよ」
「17時に、行きます」
私はスマホを鞄に入れた。
もう、仕事はほとんどなかった。ゆっくり後片付けをした。
化粧室に行った。鏡に映る私は、今までの私じゃないみたいだった。髪を整え、メイクを直した。お友達に教えてもらったメイク……少しでも綺麗にして会いたい。リップグロスを塗る、汗ばんだ手が震えた。
正門にいると言った彼は、本当にそこにいた。ちょっと俯き、ステージ袖で呼吸を整えているような。ほんの少し、尻尾の垂れた、チワワの面影…………。
私に気づくと、真っ直ぐにこちらを見た。
「知恵美、待たせたな」
おそるおそる目の前に立つと、彼は私を見て、ゆっくり口を開いた。
「俺と、結婚してくれ」
あのカードに書かれた言葉だった。
聞いた瞬間、あの文字を思い出した。
そしてあの文字を見る度、私は今の声を思い出すだろう。
「はい」
私はそれだけ言って涙が溢れて、もう顔をあげられなかった。待ってた。待ってたよ。大きな腕に抱きしめられた。ヒョロヒョロだった、痩せたチワワがこんなに立派になって……。抱きしめてくれるの、待ってた。
「知恵美のおかげで、頑張れた」
私は、いい声の人を抱きしめ返した。
今夜、久しぶりに部屋に行っちゃおうかな。
「今夜、待ってるから、来いよ」
何でバレてるの?
バレててもいい、愛してる。
きっと彼の目には、ちぎれるくらい尻尾を振っているような私が見えるのだろう。
「小さくて可愛いな。チワワみたいだ」
え、何?私がチワワ?もう、何でもいい。早く、お父さんとお母さんにありがとうと言いたい。私達を心配してくれたお友達にも。
留学したお父さんをずっと待っていたというお母さん。お母さんのお料理が大好きで、そのおかげで大きくなったというお父さん。オペラが好きで、歌って笑ってお芝居して、仲良く遊ぶ二人が大好き。
私も、そんな二人みたいになりたい。
そうだ、あのセーターを渡そう。
もう夏だけど。
完
松本徹と伴奏者の物語。
完結済「オペラ」
https://ncode.syosetu.com/n1547ha/
松本徹とちえみの遠距離恋愛物語。
新連載「Variation」
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