5 私とチワワとの思い出
初夏。
「篠原さん、今日から優秀者披露演奏会の申込みを開始します。学生はこちら、一般はこちら。チケットはこれ。10時ぴったりに窓口を開けます。開始直後は人がたくさん来るけど、焦らないで落ち着いてね。終了は16時。時間厳守で。よろしくお願いします」
「はい、よろしくお願いします」
私は、大先輩からの指示を聞いて、チケットや手続きに必要なものを準備した。ここには二人しかいない。足手まといにならないようにしなくては。
大丈夫。少しは慣れた。
音楽大学声楽専攻を卒業して、大学の事務に就職した私が担当しているのは「演奏部」という部門。大学が主催する演奏会のあれこれで、学生の頃から馴染みの窓口。もっとも私は、大学演奏部から演奏を依頼されるような歌は歌えない。実技試験で最高点がついた人が優秀者披露演奏会に出演する。私はいつも聴くだけ。外部の人も聴けるから、音大入学前から必ず聴きに来ていた。
徹くんが出ていたから。
徹くんと初めて会ったのは、私が中学一年生の冬休みだった。
お父さんたら、犬を拾ってきたのかと思った。声楽家のお父さんは、いつも上機嫌で歌を歌って私に聴かせ、普段の会話すら台詞のように抑揚をつけ、動作の一つ一つまで演技をして生活している。
「知恵美、徹くんだよ〜。一緒に歌って遊ぼうと思って連れてきた!今日は泊まるから、お母さんと美味しいものをつくってくれ」
両手を広げてくるりとまわる。自分で一回転した後は、その、徹くんの手を取ってくるりとまわす。
びっくりした。まるで捨て犬みたいだったから。可愛い顔をした男の子なのにひどく痩せていて、怯えるようにぷるぷるしていたから。まるでチワワだった。全然食べていないのでは?
今日は唐揚げと茶碗蒸しの予定だった。
「唐揚げ好き?」
と聞いてみたら頷いた。うん、食欲はあるみたい。ちゃんと食べられそう。私ははりきってお母さんのお手伝いをした。心をこめて丁寧に下ごしらえをするお母さんのお料理は、すごく美味しい。絶対徹くんも美味しいって言うと思う。
「……美味しい。ありがとう」
徹くんは、確かに私に向かってそう言った。お母さんにもお父さんにも言った。
「ありがとうございます。突然すみません」
どんな悲しいことがあったのかはわからないけれど、元気はなかった。食べた後、お父さんは徹くんをピアノのある部屋に連れて行って、いろいろ歌っていた。私がもっとピアノが上手だったら伴奏できたのにな、と思った。もっと小さい頃からちゃんと練習しておけばよかった。ちょっと気づくのが遅かった。
部屋から出てきたお父さんは更にご機嫌になっていた。
「さあ!麻雀をやろう!今日は四人だ!チーでも三色でも何でもできるぞ!」
普段は家族三人でやるから、ルールが違う。そもそも正式には四人でするものなのに、私は四人でしたことがなかった。ちゃんとできるかな?
「徹くんは麻雀できるの?」
と聞いてみたら、
「兄が二人いるから、まぁ。……弱いけど」
という答えが帰ってきた。
「いつもサンマだから、すまないが慣れるまで手加減してやってくれるか」
お父さんもフォローしてくれた。徹くんも、最初はネタバレして教えてくれたり、すごく待っていてくれたりした。優しいお兄ちゃんだ。
私達は、私が寝る時間まで麻雀をして遊んだ。
徹くんが歌を勉強するために、このまま受験するまでここで暮らすと聞いた時、やったあ!と思った。学校は女子校だったから、徹くんと遊べるのが楽しみで楽しみでたまらなかった。部活があったから、毎日急いで帰ってお母さんとお夕飯をつくった。部活は合唱部。今日覚えた曲を歌いながらつくった。お母さんも合唱をしていたから「あ、それ懐かしいわ」と言って、別のパートを歌ってくれた。そんな風に、わが家は歌にあふれていた。
徹くんはリビングで勉強をしながらそれを聴いてくれて、いつも「美味しい」と言ってたくさん食べてくれた。
ある日、苺のクレープをつくって出した。ちょっと驚いたような表情をしたような気がした。キライだったかな?と思ったけど、そうじゃないみたいだった。何だろう、気のせいかな?と思うことにした。食べて少ししてから、徹くんが口許を押さえてトイレに行った。吐いていた。私は、無理させちゃったと思って「ごめんなさい、ごめんなさい」とすがりついて謝った。もう、苺のクレープをつくるのはやめた。徹くんの辛そうな姿…………。
あまり笑わなかった徹くんは、だんだん元気になり、たくさん食べるようになった。私にも優しく笑ってくれるようになった。音大の声楽を受験し、合格した。もう、おうちからいなくなっちゃうかなと思ったけど、このままこの家に住むと聞いた時、うれしくてうれしくてたまらなかった。
私は、勉強を教えてもらえるかな?と、宿題を持って徹くんのお部屋に行ってみた。徹くんは、ちゃんと解き方も教えてくれた。私は全部メモして、宿題を仕上げた。よし!
私が通う学校は、宿題が多かった。電車で三つ先という近さで、合唱部が有名な女子校だった。制服も可愛いし、特別お勉強が出来ないと入れない学校じゃなかったから、ずっとここに通って歌いたいと思っていた。ここから音大の声楽科に進む人がたくさんいる。なのに、入学してからたくさん勉強させられる学校だった。
お友達も、皆似たような感じだった。けれど宿題の大変だよねって皆の話に乗っていかなかったら、お友達に気づかれてしまった。
「知恵美、最近宿題完璧だよね。余裕そうだし。塾とか行き始めたの?家庭教師?」
「ううん、今、お父さんのお弟子さんが住んでて、教えてもらったの」
そうなの?え?男の人?カッコイイ?いくつ?と皆目の色を変えていろいろ聞いてきた。
「うん、大学生。優しくてカッコよくて大好き!」
「知恵美の大好きって、所詮そういうのだよね。おこちゃま!」
「そういうのじゃないもん、ちゃんと好きだもん!」
「好きだもん!だって。おこちゃまおこちゃま!」
そんなやりとりをしたから、もやもやして、その日は宿題が終わっても自分の部屋に帰らないでまったりしていた。徹くんの部屋には、余計なものなんてない。
「なぁ、俺のこと好きか?」
自信満々で聞いてきた。
「うん!」
私は即答した。ベッドに座っていた徹くんが手招きした。少しだけ緊張したけど、何されてもいい。お父さんのお気に入りの徹くんなら。私は徹くんの前に立った。
痩せていた徹くんは、いつの間にかがっしりしていて、私を膝に乗せた。イスじゃなく、ベッドでもなく、膝の上って…………落ち着かない。腕も、胸もたくましくなってて、すっごくドキドキした。キスしたことのあるお友達なんていなかった。もう、この雰囲気は、そうだよね……。
徹くんは期待通り、ううん、期待以上に優しいキスをしてくれた。嬉しかった。
「もう、部屋に帰れ。家族にバレないよう、いつもどおりにしろ。明日も勉強道具を持ってこい」
偉そうに言ってるけど、照れてるんだよね?
明日もこいって!可愛い!
私がつくったものを美味しいと言って食べる徹くん。
二人の時にはちょっと偉そうにする、そんな徹くんが可愛くて大好きだった。